第92話 彷徨うこころ〈1〉
右腕が焼けるように痛い。体が熱い。
意識が戻るたびに感じたのはそれだった。うっすらと目を開けるものの頭は回らず、焦点も合わない。ただ、この感覚はよく覚えがある。そう感じながら意識が落ちるということを何度も何度も繰り返した。
それから長い眠りを経て、不意に目が覚めた。今までと違ってだいぶ頭はすっきりとしていた。
視線の先にあるのは見慣れない白い天井。しかし、以前によく似た風景を見ていた朱音は自分がどこにいるかをすぐに理解した。
「朱音」
ベッドの脇から少し上擦った声が聞こえてきた。朱音はゆっくりと視線を向ける。
「……にいさん……」
そこにいるのは兄だった。
「ああ、よかった……。本当に……」
兄の不安と安堵に満ちた声を聞いて胸が締め付けられた。交通事故で目を覚ました時と同じ光景に息苦しさが伴う。それから現状を把握するためにゆるりと周囲を見渡した。
予想と相違なく、朱音がいるのは病院の個室だった。倒れたことは思い出せるものの、その後どうなったのか分からず不安が押し寄せる。
「ここは……。それに今、何日……?」
「そんなことはいい。今はとにかく安静にしていてくれ」
朝春はそれだけ言うとすぐさまナースコールを押した。
心配をかけているという自覚はあったが、それ以上に現状がどうなっているのか知りたかった。しかし、この状態では兄から話を聞き出すことも難しいと察して開きかけた口を閉じる。
その日、夕方になって母が面会に訪れた。まだままならない体を起こして迎えると、少し苦しいと思うほど母に強く抱きしめられた。
「本当に……心配したのよ」
「ごめんなさい……」
震える母の声に罪悪感が募る。
仲がよかった兄夫婦を亡くし、朱音が生死を彷徨った交通事故から母は不眠症などを患ってしまった。できるだけ心配をかけないようにしていたのだが、今回は相当に不安を抱かせてしまったようだ。詫びる朱音に対して、母は咎めることもなくただ泣きそうな笑みを浮かべただけだった。
それから甲斐甲斐しく世話を焼かれる。母から話を聞いて分かったことは、記憶の海から戻ってきた日が海を渡った翌日の深夜だったということ。それを含めて心配したんだと兄に釘を刺された。それから病院に運ばれ、高熱に見舞われて一日半ほど経って今に至る。熱にうなされていた時の腕の痛みはもうなかった。高熱と腕の痛みはあの少年の影に触れたせいかもしれない。そう自然に思えるほど、彼が纏っていた影は異質だったのだ。
気がかりなことはたくさんあった。拓海たちは無事だろうか。それぞれ念のために理由をつけて家を出てきたが、皆がどうしているかと不安が尽きない。
連絡手段がないため、せめて異能の目で様子を確認しようと思ったのだが何も視えなかった。更に拓海へ意識を向けても一向に反応がない。一時的に異能が使えなくなっているだけならいいのだが、もしかしたらという不安が膨れていく。目が覚めてから二日経っても病室を訪れたのは家族と親戚だけだった。
目が覚めて携帯電話がないと分かった時から察していた。父が今回の件で関わった者たちと面会させないようにしていることに。
父は面会終了時刻である二十時近くに毎日来ていたが、端的にやり取りするだけで終わっている。面会に来ているだけだと思っても、監視されているような気がしてしまって仕方がなかったのだ。
明くる日、朱音は意を決して面会に来た朝春に向き直った。
「兄さん、お願いがあるの」
発した言葉はそれだけだったけれど、すべてを察したのだろう。朝春は先んじて牽制の言葉を投げかけてきた。
「朱音。今回、俺や母さんがどれだけ心配したか分かっているのか?」
連絡がつかないと思った挙句に原因不明の高熱に見舞われて病院に運ばれた。兄からすれば心配という言葉では済まされないだろう。朝春は眉を顰めて続ける。
「何も話してくれない。その上で好きにさせてくれと言うのは、さすがに我儘だと思わないか?」
兄が言っていることは正論だ。朱音は軽く俯いて組んだ手を握りしめる。
「それなら、今までのことを話したらお願いを聞いてもらえる?」
二人の間に息苦しいほどの沈黙が流れる。
話しても信じてもらえないだろう。けれど、今は皆と会うことの方が肝要だ。奇異の目で見られたとしても、この閉ざされた環境から一歩でも状況を変えたい。長い沈黙の後、朝春は無言のまま椅子に腰を下ろした。
「……まずは話を聞かせてもらう」
話を聞いてもらえることに安堵しつつ、朱音は簡略化して事の成り行きを話す。
交通事故の後から見えるようになった透明な魚のこと。記憶の海のこと。魚に命が喰われ、原因不明の意識不明者や行方不明者が出ていること。透明な魚にまつわる謎と真実を知りたくて行動していたが、今度は友人が命を喰われてしまったこと。改めて反芻すると現実味を帯びない話だと思った。
兄は口を挟むことなく話を聞いてくれた。聞き終えた後、朝春は深いため息をついた。
「とりあえず、話は分かった」
深いため息は受け入れがたいと言っているようだった。思わず朱音は俯いてしまう。期待はしていなかったはずだが、やはり話を受け入れてもらえないという事実を目の当たりにして鉛が胸に詰まったように重くなった。
「朱音、もういいんじゃないか。もう十分やったよ。だからもうこれ以上、その件に関わるのはやめてくれないか?」
朝春の発言に驚いて朱音は顔を上げる。言い返そうとした言葉はすぐに詰まって、それ以上出ることはなかった。俯いて両手を組む兄の口から、吐息と共に言葉が零れる。
「危険なことはしてほしくない。もうあんな光景は……お前や母さんが苦しんでいる姿は、見たくないんだ」
朱音は今になって自分の傲慢さを思い知る。
交通事故の後、朱音と心を病んだ母を支えてくれたのは兄だった。兄自身も身の振り方を決める時期だった頃だ。それでも母の病院に付き添い、朱音のもとにも時間を見ては面会に来てくれた。家族だからといって当然のことではない。喫茶店に来た時も、心配なるが故の言動だったと今になって理解する。
それでも。
「兄さん、ごめんなさい……。せめて友達に会わせて欲しいの。どうしているか、心配で……」
拓海にも会いたいが、兄が許しても父の手前難しいだろう。できるなら桃香と修司だけにでも早めに面会できないかと考えて、朱音はそれだけを伝えた。深く、頭を下げる。
「お願いします。兄さんにしか、頼めないの」
再び室内が静寂に包まれる。
どのくらい経っただろう。かたんという音がして、朱音は下げていた頭を上げた。朝春が席を立って荷物を手にするところだった。
「面会したい人の連絡先は携帯以外に確認できるものがあるのか?」
その言葉に胸が跳ねた。朱音は高揚を抑えながら慌てて答える。
「机の一番上の引き出しに入っている手帳に控えが書いてあるの。四宮さんと二見君に連絡を取ってもらえたら……」
「分かった。明日には面会できるようにしておく」
それだけ告げると、朝春は振り返ることなく病室を後にした。
一歩進んだ現状に安堵の息が自然と零れる。それ以上に兄ときちんと話ができたこと、要望を聞き入れてもらえたことで緊張が緩んだ。
けれど、これすらも決められた出来事なのかと思うと息苦しさに襲われる。朱音は疲労を感じて一人ベッドに横たわった。
あの一日で様々なことが起こりすぎた。正直に言って現実も感情も抱えられる許容量を超えていた。緊張が緩んだせいだろうか、じわりと涙が滲む。
けれど今は泣くべき時ではない。感情に蓋を閉めて朱音は少しだけ眠ろうと目を閉じる。
様々な不安を抱えたまま、翌日を迎えた。
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