第90話 啓示〈1〉

 目がよく見えるということを、今ほど恨んだことがあっただろうか。 

 本当に一瞬だった。それでも朱音の目は見逃さなかった。

 和真が自ら手を振り払ったのを。

 何が起きたのか理解できなかった。理解したくもなかった。


 強く振り払われた反動で後方に倒れている最中、闇が視界を覆う。瞬時に飲み込まれるのだと理解した。

 その瞬間、唐突に光の波が押し寄せて朱音は咄嗟に目を瞑る。それと同時に全てを弾き飛ばすような圧が全身を襲って、ぶつりと意識が途絶えた。






 うっすらと開けた目に入ってきたのは真っ白な地面。倒れていることに気がついて、朱音はゆっくりと体を起こす。辺りを見渡すと他の四人も同じように目が覚めたばかりのようだった。


「目が覚めたかな?」


 声がしてきた方向を見て、朱音は言葉を失う。

 小船の縁に腰をかけるのは藍色の外套を羽織る少年。少し幼い顔立ちではあるが、フードから覗く鳶色の髪と穏やかな瞳はすぐにある人を連想させた。何の反応もないことを不思議に思ったのか、少年は片手を胸に当てて話し始めた。


「僕はこの海の案内人。この姿の方が君たちには馴染みがあっていいと思ったんだけど。ダメだったかな」


「それ、俺たちの世界で俗に言う、悪趣味ってやつだよ?」


 立ち上がった玖島は不機嫌さを隠そうともせずそう返した。少年は困ったように苦笑する。


「そう。それはごめん。じゃあちょっと失礼」


 そう言って彼は深くフードを被ると俯いた。再び彼が顔を上げた時には髪は白磁となり、瞳は青に様変わりしていた。顔立ちも中性的で、自分たちとは全く異なる存在なのだと知らしめられる。


 朱音はハッとして改めて辺りに視線を向ける。

 先ほどの藍墨色の世界とは打って変わった真っ白な空間。そこに少年を含めて六人が存在しているだけだった。


「ここは一体……」


「ここは記憶の海の中枢。すべての世界の知識と記憶と感情が蓄積されている空間だ。弾かれてこんなところに飛ばされてくるなんてびっくりしたよ」


 朱音の疑問に対して少年はにこりと笑う。彼の言葉で朱音の脳裏に先ほどの光景がまざまざと蘇った。息が詰まるような苦しさが競り上がってきて、握った手を胸に当てる。


「何もないけど……?」


 少年の言葉に疑問を口にしたのは拓海だ。彼はよく見てごらんと言って両手を広げる。


 よく見ると真っ白だと思っていた空間には光が煌めいていた。明るすぎて光っていることに気がつかなかったのだ。それも、数え切れないほどの光がこの空間に存在していた。更によく観察していると光の明滅の仕方が個々で違う。ほのかに纏う色も異なっていた。


「ここでは光にすべての記憶が記録されている。君たちの世界でも光の点滅を使って情報をやりとりしているでしょう。それと似たようなものだと思って欲しい」


「じゃあ、ここは本当に……アカシックレコード?」


 桃香の言葉に少年はそうだねと言って笑った。

 美しい光の集合にぞくりと心が震える。あの大樹に感じた以上の畏怖だった。圧倒的な情報量ゆえの圧迫感と恐怖を覚えて、息が詰まる。


「それで、ここからさっきの場所には戻れるの?」


 殺伐とした玖島の問いに少年は困ったように眉根を下げる。


「それは難しいかな。あそこは記憶の海の中でも異質な場所だから。そもそも、僕は転生する命を海に導くのが本来の役割だから、ここにいるのはイレギュラーなんだ」


「そんな。どうしてもあそこに行きたいんだ!」


 拓海が切羽詰まった声を上げる。

 何も答えが返ってこず、不穏な空気が流れる。それを変えるように修司が静かに尋ねた。


「……君が海の案内人なら、世界のおりについて教えてくれないか? 俺たちの世界では知る術がないから、情報が少なすぎる」


 少しでも解決のための糸口が欲しいと思ったのだろう。確かに世界の澱の存在は知っていたとしても、本質を理解しているとは言えない。


「ああ、うん。そうだよね。世界の澱は禍罪まがつみの屍体から生まれた。これは知っているよね。そして、その大元である禍罪は数多の世界の負の記憶や感情が集積して生まれたものだ」


「え?」


 桃香の戸惑いの声をよそに少年は言の葉を連ねる。


「個に返りきらず集積しすぎた負の記憶や感情は、溢れかえって各々の世界に現象化するんだ。ある世界に現象化したそれは〈魔物〉と恐れられ、君たちの世界では主に〈災害〉や〈悪意の増強〉として発現し、君たちが渡った世界では〈禍罪〉と〈世界の澱〉を生んだ。もっとも、今回君たちの世界に現象化したものはかなり特殊なんだけどね」


「ああ……。それなら、正しく彼は〈世界が生み出した澱み〉なのか」


 少年の言葉に玖島は納得したように嘆息した。最も本質を捉えた名称だよねと少年は微笑む。

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