第89話 奪還〈2〉

「厄介だねぇ」


 玖島は苦笑しながら肩を竦めた。それから声を抑えて少し後ろに立っている朱音に問う。


「五十嵐さん、彼を視て特別なところはありそう?」


 朱音は少年を改めて異能の目で見つめた。底が計り知れない彼の中で、胸だけに柔らかい光が灯っている。


「胸のところが……やけに明るく見えます」

「なるほど。それじゃあ——力ずくで行きますか」


 刹那、玖島は少年の懐に潜り込む。胴を狙って放たれた蹴りを少年は後退するというわずかな動作で躱した。少年は後退しつつ、影を操り玖島の胸を狙う。


 朱音は異能で援護しようと試みるが、以前対峙した影以上の速さに頭が眩んで思わず目を瞑る。そもそも玖島に合わせるのが初めてで感覚が分からない。目を閉じたまま意識を集中すると目の前に誰かが立つ気配がした。


「周りのことは任せてください!」


 桃香の声が届くと共に周囲が騒がしくなる。残る魚が現れたのか、拓海と修司が玖島を援護するためか。早めに調子を合わせたいと朱音は意識を元に戻した。過ぎ行く時間に焦りを覚え、じわりと汗が滲む。


「ああ、これは便利だ」


 その声が耳に届いたのと朱音が目を開けたのが同時。

 玖島は差し迫った影を無駄のない所作で躱し、一気に駆け抜ける。影が次々と穿たれる場所に黒焔が上がるのを見てヒヤリとするが、少年を止めるように結晶の波が立ち上がり、青い一閃が迸った。


 少年に肉薄した玖島は跳躍すると頭を目掛けて回し蹴りを見舞う。少年は両腕で防いで影を放つが、何も捉えることなく地面を穿っただけだった。上方に逃れた玖島はそのまま前転し、風の力を乗せた足を少年に向かって叩きつける。


 しかし、少年もそれを紙一重で躱し、立て続けに襲ってきた玖島の蹴りを腕で受け流す。互いに大きく弾かれた隙に少年が玖島の腹を狙って横蹴りを見舞うも、その足を掴まれて地面に叩きつけられた。


「さっきのお返しだ」


 その瞬間、少年の周りから水が収束して咄嗟に玖島は後方に退避する。水が少年を拘束し、玖島が後方に連続して跳躍した時には地と水の力が混ざりあった極寒の結晶体が一帯を飲み込んでいた。玖島は拓海と修司を半眼で見据える。


「君たち、俺ごと閉じ込めようとしたでしょ」

「避けられるでしょ」

「避けられるかと」

「そんな信頼いらないんだけど」


 二人の返答に玖島はこの上なく嫌そうに眉根を寄せた。

 疲労を感じて朱音は一時的に玖島から目を外す。慣れない視界に酔っていた。玖島は朱音の方をちらりと見ると、すぐに結晶体の檻に視線を戻す。


「和真くんのところ行って来なよ。早くしないと壊れるよ」


 惑う朱音に対して桃香が頷く。桃香は結晶体を囲うように更に空間を組み上げた。藍墨色の世界には魚の姿はなく、朱音は足早に和真の元へと向かった。


「一ノ瀬君!」


 肩に触れて声をかけてみるも応答はない。先ほどの光を思い出す。少年自身に命が捕われているのかと考えるとじわりと嫌な汗が滲んだ。

 瞬間、ガラスが砕けるような音が辺りに響く。玖島は突っ込んできた少年をすんでのところで躱し、悪態をついた。


「その執念、別のところに使った方がいいんじゃないの!」


 もう一歩踏み込もうとした少年の足を水が絡め取る。体勢を崩しつつも少年は玖島に向かって駆け抜けた。結晶の壁を容易く砕き、二重に展開された空間さえも引き裂いて、少年と玖島の距離はゼロとなる。


 その刹那、少年が突き出した手が展開された空間障壁を穿つ。しかし、それは先ほどの妨害によって威力が減退し、消失するまでわずかな時間を有した。


 目を再び貸し与えられた玖島にとっては、それで十分だった。

 深く屈んだ玖島が少年の胸に手刀を突き立てる。ふわりと風が双方の髪を揺らした。


がく! お前ッ……‼︎」

「名前で呼ばないで欲しいんだけどね!」


 玖島は声を張り上げ、胸から手を勢いよく引き出す。

 彼の手には光が灯る雫型の硝子の容器のようなものが握られていた。それは虹色の光になって瞬く間に消え去ってしまう。


 途端に玖島は右側に跳躍する。先ほどまで彼がいたところに黒焔の波が押し寄せていた。玖島を追う炎を水が飲み込んで消失させる。

 ゆらりと揺らめくように少年は立ち上がった。その瞳は深い憤りで燃えている。玖島と少年が牽制し合う中、第三者が動く気配を感じて朱音は自身のそばに視線を戻した。


「一ノ瀬君!」


 両膝をついた姿勢で和真が起き上がっていた。朱音の声に一斉に皆の視線が向く。安堵の息が漏れそうになったところで、あっけなくそれは止まった。

 和真は額に手を当て、深く俯いたまま顔を上げない。次いで彼が発した声は聞いた事のない、ひどく淀んだものだった。


「……俺、は……」


 零れ落ちた言葉はそれだけ。しかし、それで彼が忌まわしい記憶を思い出したのだと理解した。何かを言いたかったけれど、言葉は一つとして出てこない。

 玖島は軽く息をついて、再び少年を視線で牽制する。


「用は済んだでしょ。さっさと行きなよ」

「え? 玖島さんは?」

「忘れたの? 俺はまだ用事があるんだよ」


 玖島は呆れ返ったような声で桃香に応じた。朱音はハッとし、すぐに少年に意識を戻す。少年はいつの間にか小学校高学年ほどの姿になっていた。威圧感は今まで以上だが、目は逸らせない。

 目視するのは少年の胸。そこにまだ光がある。


「玖島さん、まだ胸に光が——」


 そこまで言いかけた時、玖島に注がれていた絶対零度の視線が朱音に向けられた。瞬く間に思考が停止し、体が凍りつく。


「朱姉‼︎」


 拓海の声が聞こえたと思った途端、強い痛みが襲う。わずかに間を置いて、地面に叩きつけられたのだと気がついた。

 突き飛ばされた。誰に?

 朱音は痛みを堪えて体を持ち上げる。視線の先には和真が背を向けて立っていた。


 目の前に立つ少年の手刀を腹部に受けて。

 言いようのない感覚が体を走っていった。和真は俯き、少年の肩に両手を添えたまま言の葉を零す。


れい


 静かに。穏やかに。まるで諭すかのようにその声は響いた。

 少年がびくりと体を震わせる。

 和真と呼ぶ少年の声がやけに遠くに聞こえた。続いた和真の言葉も現実味を帯びなかった。


「俺はここにいても、いいから……。だから、みんなには、何も…………」


 駄目だ。受け入れてしまっては。


「一ノ瀬君」


 少年の足元からどぷりと影が隆起する。

 瞬時に朱音は立ち上がって和真に向かって腕を伸ばす。湧き上がる影が全身を包み込もうとして、ありったけの力を込めて叫んだ。


「和真君!」


 辛うじて捉えた腕を離さないようしっかりと掴む。影が触れた部分に異常な痛みが走ったが無視した。ここで離してしまったら、もう二度と手を取れないような気がして。

 そう感じた瞬間。




 掴んだ手は、いとも容易く振り払われた。

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