第88話 奪還〈1〉

 拓海が先導して歩みを進める。

 進むにつれ、白と青の世界が徐々に滲んでくる。朧げになる景色と共に段々と辺りが藍色に侵食されてきた。しまいには完全に藍色が辺りを包み、ぽつりぽつりと心許なげに光が浮かぶだけになる。足元にいくつもの波紋が生まれては消えていった。


 暗いはずなのに姿が見えるという不思議な空間。朱音は以前クジラに飲まれてたどり着いた、曼珠沙華が咲く空間を思い出していた。桃香が落ち着かなそうに視線をあちらこちらに巡らせている。


「なんか変な感じ」

「問題はないと思う。一ノ瀬がクジラに呼び寄せられた時も今と同じだった」


 それを聞くと、拓海の少し後ろを歩く玖島が顔だけを向けて修司を見た。


「というか、よくあの時にあそこに来られたね。俺としては君まで喰ってもらえる可能性はないと思っていたんだけど」


 玖島はどうして深海に来られたのかと視線で問う。


「一ノ瀬が初めてクジラを見た時、透明な魚を追っていたって言っていたんで。魚を餌にすれば一緒に喰ってもらえるかと」

「……つまり、君に魚をけしかけるよう俺を誘導したってこと?」


 目を見張り、神妙な声音で答えを求める玖島に対して修司は平然と返した。


「まあ、一か八かでしたけど」

「なにそれ、怖すぎるんだけど」

「散々人を振り回してきた人が何言ってるんだよ」


 呆れ返った顔で拓海が割って入るが、玖島は意に介さず笑みを浮かべた。


「いや、よくそこまでできるなって。これでも感心しているんだよ?」

「なんか嘘くさい」

「ちょっと黙っていようか、拓海くん?」


 にこやかな笑みを浮かべる玖島に負けて不承不承ながらも拓海は黙る。桃香を中心に皆を見遣ると玖島の笑みに酷薄さが混じった。


「真面目な話さ、会ってそんなに経ってないでしょ、君たち。特に修司くんなんか和真くんと会ったのはついこの間だ。それなのにこんなところまで来られるんだから、すごいと思ってさ。まあそれだけ」


 そう言うや否や何事もなかったかのように玖島は歩き出す。その後ろ姿を見ながら拓海が不満を漏らした。


「何が言いたいんだよ、あいつ」

「気にしないで行きましょう。桃香も、二見君もね」

「あ、はい……」

「俺は大丈夫です」


 戸惑う桃香に反して、修司は気を害した様子もなくそう返した。当たり前のようにしているが、簡単にできるものではないと思う。そして、玖島の言わんとしていることも分からなくはなかった。


 綺麗すぎる水に魚は棲めない。


 少しだけれど、彼の根底には普通とは違う境遇の中で生きざるを得なかった者の諦観が見えるのだ。それ故に和真や桃香のような実直さが微かな苛立ちになるというのも理解はできる。


 伯父夫婦を亡くした事故と怪我。術後のリハビリに加えて誰にも話せない秘密ができた。

 そのため、どうしても人と距離を置きがちになってしまった。付き合いから遠ざかると取り澄ましているなどと言われ、いい感情を抱かなかった者もいる。秘密を明かせないままどう接するのが正しいのか悩み、人と深く関わるのが怖くなった。


 ——五十嵐って何も話してくれないというか。俺のこと、信用してくれてないよね。


 いつか見た冷めた視線が脳裏に蘇った。引き摺り出された記憶をもう一度しまい込んで、朱音は一人心の中でため息をつく。変な感傷に浸っている場合ではないのだ。


 玖島にどう言われようと和真を放っておくことなどできない。誰にも見えない魚が彼も見えると知り、一度突き放したにもかかわらずに協力を願い出てくれた時はやはり嬉しかったのだ。


 先に歩いて行った玖島の後を追う。再び拓海が先頭に立って少し歩いた時、何かに当たって弾かれた。


「わ」

「あれ、これって」


 目の前に見える波紋を見て、桃香が目を見張る。記憶を渡った時に現れる境界と同じような水の壁がいつの間にか目の前に立ちはだかっていた。


「そう。水の境界。これがあって進めないんだよねぇ。たまに俺だけでも通れる時があるんだけど、それ以降は進めなくなる」


 ポケットに手を入れたまま、玖島は少し気怠そうに呟く。

 拓海は改めて水の壁に触れる。すると先ほどとは打って変わってスッと腕が通った。


「あれ、入れる」


 そのまま何事もなく全身通り抜ける。しかし、続こうとした朱音が手を添えても水の壁は何も反応しなかった。拓海に手を取ってもらうと不思議と向こう側に行くことができた。


「つまりこの境界は拓海の素養の影響で通れるってことかしら」

「同じようにすれば、みんなここを抜けられるってことですね」


 水の壁を触っていた桃香が朱音の後を引き取る。それを聞くと拓海は実に嫌そうな顔をした。


「えー……」

「俺がいないといずれ入れない時が来ると思うけど?」

「分かってまーす」


 呆れ返る玖島に対して拓海は雑に返した。

 拓海が腕を取って皆何事もなく通り過ぎる。歩く度に現れる壁を同じようにして超えていった。いつの間にか藍の世界は墨の色が混じって暗さを増していた。



 そうして現れたのは深く沈む世界。しんと静まり返る世界はひんやりと冷たい。

 藍墨色の世界の中、横たわる和真の前に少年がかがみ込んでいる。倒れている和真は精神体のようなものなのだろうか。置いてきた姿と相違ない姿がやけに鮮明で、肉体を持った本人のように見える。少年は気配を察したのか、ゆっくりと立ち上がって振り返った。


 少年は朱音が想像していた以上に幼かった。見た目は小学校に上がるぐらいの背格好ぐらいだろうか。ただ、表情はそれと相反して大人びて見える。

 少年の冴えた目を見て玖島は微苦笑を浮かべた。


「おおよそ元に戻ったんだと思うんだけど、これはこれで話ができなさそうかな」

「話をする気がないのはそっちじゃないの? 魚もたくさん消されたみたいだし。用意周到だよね、がくは」


 おかげで力が落ちたよと言って、少年は玖島に冷えきった視線を向ける。


「お褒めに預かり光栄だね」


 睨みつけられた玖島は笑ってみせた。次いでその瞳が剣呑な光を帯びる。


「で、こっちの要件は聞いてくれないってわけ? ご要望通り和真くんをここまで連れてきてあげたのに、話も聞かないっていうのは理不尽じゃないかな。それなら彼を返してほしいんだけど」


「和真は返さないよ」


 対する少年も全く動じることがない。


「恨みに嫉妬。憎悪と限度を知らない貪欲さ。他を否定して排斥する自分本位の言動ばかりだ。そんな世界で和真は存在を否定された。戻るだけの理由はあるの?」


 少年の言葉に心臓が嫌に跳ねた。朱音はやっとの思いで口を開きかけたが、先に少年に言葉を奪われる。


「君たちが和真を返して欲しいと望んでいるんでしょ。どうなの? 特にそこの君」


 拓海は体をびくりと強張らせた。何か言おうとして口を噤む。すかさず遮るように玖島が拓海と少年の間に立った。


「はいはい、相手のペースに飲まれない。あの子に同調して本質を見失ったら駄目でしょ」


 場にそぐわない声音がわずかに張り詰めた空気を壊す。少年は玖島を邪魔そうに見つめた。


「それこそ和真くんの本意を聞いていないんじゃないの。真実だとしても、知らない方が幸せな事だってあるんだよ」


 少年が纏う空気がすっと冷える。それはまるで、すべてを拒絶するかのような極寒の空気。藍墨色の空間から透明なクジラが滲むように姿を現す。

 クジラは少年が伸ばした手に触れるとふわりと風を伴って消えた。少年の姿が高校生ぐらいの年頃に様変わりし、一気に緊張感が高まる。


「……もう話すこともないよ。出て行ってもらえないかな」

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