第86話 晒される秘匿〈3〉

 朱音は少し離れた場所で和真の手を取る拓海の様子を窺う。すぐに打開するのは難しいだろうと感じた朱音は玖島に向き直った。


「どうして玖島さんは一ノ瀬君の過去を知っていたんですか?」


 声をかけられることを意外に思ったのだろうか、わずかに玖島は目を見張った。彼は両手を上着のポケットに入れると答えた。


「俺の耳は意識的に聴こうと思えば結構なところまで聴こえてね。極限的に使えばこの海に蓄積されている記憶の声を聞ける。そこから少しずつ情報をかき集めたってところかな。だから知っていることも断片的だし、推測に過ぎなかった。それに、あの少年の声も断続的にだけど聞こえていた」


「もともと……彼の存在を知っていたんですね」


 訝しげな声色に気づいたのだろう。玖島は皮肉めいた笑みを浮かべる。


「俺はあっちの世界でクジラに喰われたんだよ。そのせいで繋がりができたんだろうね。喰われた先で姿も見たし、そう不思議なことじゃないと思うけど」


 さらりと提示された事実に言葉もなかった。

 どれだけ不甲斐なさを感じれば済むのだろうと心の中で自嘲してしまう。次いで出たのは恨みにも似た言葉だった。


「だったら、話してくれれば……」


 もしという仮定の話をしても意味がないと分かっている。しかし、和真が言ったように互いに協力していれば何か変わっていたかもしれないと思うと、やり切れなかった。


「俺は知人が助かればそれでよかった。君たちと違って物事の根本的なことも、他人のことも気にしていなかったからね」


 玖島は皮肉そうな笑みを濃くして続ける。


「他人と知人、大衆と親しい者の命。どちらか一方しか取れない状況なら俺は後者を取る。君たちはどちらも諦められずに両方を取るタイプだ。相容れないんだよ、はじめから。だから和真くんに聞いたでしょ?」


 ——もし俺が君の命を欲しいと言っても、そう言えるの?


「綺麗すぎる水に魚は棲めないんだよ」


 玖島は様々な感情がない混ぜになった視線を向けた。褪めた目と相反するそれは、もしかしたらずっと底にあったのかもしれない。


「それなら、どうして力を貸してくれるんですか?」

「それは利害が一致したからでしょ」


 玖島は一転していつもの読めない笑みを浮かべる。口にした理由以外に何かありそうだと感じたものの、これ以上聞き出せないだろうと思って朱音は口を閉ざした。

 わずかに沈黙を保った後、朱音は背を向けて拓海と桃香の元へと足を向ける。両膝を抱えて座る桃香は朱音を見ると不安そうな声で呟いた。


「朱音さん……」


 それに対して微笑んでみせると、朱音は拓海の横に並んで和真の首筋に手を伸ばす。 肌は温かいのに呼吸も脈もない。それなのに顔色は至って良好で、はたから見たら眠っているだけのように見える。


 本来ならば不可逆の死が目の前にある。それでも彼の命と意識を取り戻せば元に戻るのだと感じるのは、ここが生と死の狭間だからだろうか。


 それでも早急に動かなければならない。それを直感的に感じているのだろう。拓海はずっと目を伏せて和真の手を握っている。ただ、汗が滲むほど集中を続けても、事態は一向に進展しなかった。玖島は焦燥が滲む拓海を見て、軽くため息をつく。


「君が要なんだから、少しは冷静になりなよ」

「そもそも、あんたがこんな状況にしたんだろッ!」


 拓海が反射的に声を荒らげた。玖島は全く意に介さず滔々と言葉を連ねる。


「そうだよ。だから協力すると言っているんじゃないか。ただ言わせてもらうけど、平静でなければ物事を客観的に見られないし行動に支障をきたす。その状態じゃ、いつまで経っても和真くんを見つけられないよ」


 言われたことは紛れもない事実だ。悔しそうに拓海は歯噛みする。強くはないけれどはっきりとした声は独特な威圧感となって場を圧迫した。

 沈黙する三人に反して玖島は努めて軽い口調で続けた。


「安心しなよ。全部終わったら、目の前から綺麗さっぱりいなくなってあげるからさ」


 玖島は背を向けると、すぐ戻るよと一言添えて足に力を込める。ふわりと風が舞い上がって、その後ろ姿はすぐに遠くへ行ってしまった。少ししてから拓海も立ち上がる。


「……ごめん、頭冷やしてくる」


 それだけ言うと彼はその場を後にした。やり切れない気持ちと不安感が一気に肥大して、苦しさが胸に支える。朱音は拓海の代わりに和真の手を取った。

 何も視えない。たとえ異能の目で千里を見通せたとしても、近くにいなければ手は届かない。

 立てた両膝に腕を組み、桃香は顔を埋める。


「……中途半端に未来が見えても、何もできない。役に立てない」


 ぽつりと呟かれた言葉は普段の彼女からは想像できないものだった。居た堪れなくなった朱音は桃香の横に座る。


「そんなことないわ。桃香は十分にやってくれてた」


 解決策を持たない者の気休めの言葉。それは自分の首を真綿で絞めただけに過ぎなかった。苦しくて仕方がない。


「だって、夢を見ていたら……その前に何か変えられたかもしれないのに……」


 朱音は静かに涙を流す桃香にそっと身を寄せる。

 彼が繋いでくれたものが否応なしに離れて。

 いとも容易く崩れていく。




 一体、誰が空いた虚を埋められるというのだろうか。




 しばらく桃香と並んで過ごすうちに玖島が戻ってきた。話を聞くと魚やクジラがいないか偵察に行っていたらしい。クジラはもちろん、魚も一匹も見つけられずに帰ってきたということだった。


「まあ、魚は君たちが大半消したからね。きっともう数は多くないから、深海にいるのかもしれない」


 魚を集めていたのもすべてこの時のためだったのかと、朱音は一人納得する。もう驚きはなく、淡々と事実だけが染み込んでくる。話をしているうちに拓海が戻ってきた。先ほどよりは落ち着いたようだったが、朱音には意気消沈しているように見えた。


 拓海が再び和真の手を取って意識を集中する。しばらく沈黙が続き、やがて目を開けた。


「大丈夫。和兄の居場所、分かるよ」

「本当!?」


 待っていられないと言わんばかりに桃香が拓海に詰め寄る。戸惑いがちであるが拓海が相槌を打つのを見て、朱音は安堵の息を漏らした。


「待ってて。二見君に声をかけてくるわ」


 すぐさま目を周囲に向ける。程なくして修司の姿を見つけると、朱音は一人歩き出した。

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