第68話 凶兆の影〈1〉

 あの事件の数日後に桃香と記憶の海で顔を合わせたが、彼女はいつも通りに振る舞っていた。


 桃香に翻弄される朱音と彼女の発言につっこむ拓海。呆れたような様子の修司は一見するといつものようなのだが、違和感は拭えなかった。きっと気がつかなかっただけで、今までも同じようなことがあったのかもしれない。そんなことを思いながら事件後の一週間は上の空で過ぎていってしまった。



 朝から燦々と輝く太陽が今は真夏だと誇示している。普段ならこれでもかと暑くなる世界に文句の一つも言いたくなるのだが、今はそれが現実に引き止めてくれていた。

 制服に着替えて向かうのは工芸室。作業を進めて昼休憩を挟み、少し経った頃だった。


「ふんふん。進みはなかなかいい感じじゃない? これなら予定より早く仕上がるかも」


 並ぶ衣装の図面と材料を眺めながら、由香はご機嫌な様子でそう言った。

 前に桃香から相談されていた小物作りの話が大きくなり、文化祭での工芸部と服飾部で共同制作をするという形になったのだ。二年はその取り纏めと一年の数名と制作に携わることになっている。制作を進めるために和真たち三人は午後も工芸室で過ごす予定だった。


「頑張らないとね。せっかく和真が取り持ってくれた話だし。っていうか、こういう繋がりがあったのがほんと意外だよ」


「まあなぁ」


 由香の言葉に和真は困ったような苦笑いを浮かべた。

 由香たちには幼馴染みが服飾部と縁があり、そこから桃香と会うことになって話が持ち上がったと説明している。嘘ではないが、桃香との噂の件もあってモヤモヤとした気持ちが募る。



 作業状況を確認した後、三人はそれぞれ手を動かし始めた。五月の大型連休の後から由香も革製品を制作するようになって、今は楽しそうに作業を進めている。些細な日常が形を留めていて、安堵から和真は詰めていた息を吐き出した。


 一時間ほど経ったころだった。由香が手を組んで凝った体を伸ばしながら話し始めた。


「そういえばこの間、五十嵐さんと一緒にお祖父さんの喫茶店に行ったんだけど、あそこいい雰囲気だよね。不思議とずっといたくなっちゃうっていうか」


 何気なく出てきた話題に和真は驚いてしまった。朱音からそんな話は全く聞いていなかったので、まさに寝耳に水だった。


「っていうか、いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」

「うーん? サッカーの試合の後から?」


 せっかく知り合ったのだからと連絡を取って、喫茶店で再会したのがきっかけだったという。数は多くないものの、そこで学校をはじめとして色々と話をしたらしい。聞けば和真も知らなかった好きな小説まで知っていて、彼女のコミュニケーション能力の高さに舌を巻いてしまう。どうやら本を勧めあうまでしているらしい。


「っていうか、親しそうな割に何も知らないお前はなんなの?」


 話の間にこそっと裕介からつっこみを入れられ、和真は何も言い返せずに押し黙る。記憶の海に関連したことで精一杯で、あまり普通の会話をする余裕がなかったのだ。するような雰囲気でもないしと反論したかったが、それは心の中で押しとどめる。


「拓海君とは従弟なのに仲良いよね。本当の姉弟みたい。まあ、あんなお姉さんいたら自慢したくなるよね〜」


 うちの弟なんか姉のことぞんざいだよ、と言って由香は不服そうにしつつも笑う。そんな様子を見てふっと自然と笑みが零れた。


 話に花が咲いている最中、裕介が手元のペットボトルの中身がなくなっていることに気がついて、和真たちに声をかける。


「ちょっと買い出しに行ってくるけど、ついでに何かいるか?」


 近場のコンビニまで出かけるつもりなのだろう。由香はオレンジのゼリーと梅味の飴、和真は麦茶を頼む。了解と言って裕介は財布を持って工芸室を後にした。

 賑やかだった空間が静かになり、少しだけもの寂しくなる。由香は窓辺に近づいて外を眺めていたが、ふと振り返った。


「あのさ、和真、大丈夫? なんか、疲れてる?」


 唐突に投げかけられた質問に驚いて、和真はすぐさま返事をすることができなかった。心許ない表情をしている由香を見て、和真は苦笑いを浮かべる。


「そうか? そんなことないと思うけど」


 そう言って途切れる会話。降り積もる沈黙が耐えきれなくて、和真は広がったままの道具に手を伸ばした。現状から逃れるように何かをするのは良くないよな、と思いつつも簡単な革の端の処理だけ進める。


「そういえばさ……四宮さんとは付き合ってるの?」


 何気なく出された問いは思ったより感情を揺さぶった。けれどそれを押し殺して和真は答えを返す。


「付き合ってないよ。ただの噂」

「……そっか」


 あのさと静かに由香が問う。和真は穏やかに何と応えた。


「去年の今頃のことさ、覚えてる?」

「ん? ああ、あのことか。あれは忘れて欲しいんだけどなぁ」


 問われて思い出した記憶を反芻して和真は苦笑いする。問いに対する答えは間違っていなかったようで、由香はうんと相槌を打った。



 去年の初夏頃から由香の友人が兄の知人からストーカーに遭っていた。ストーカー行為は日を追うごとに執拗になって、夏休み前頃は学校の近くまで来るようになっていたらしい。それを見かねた由香が共に帰宅していたのだが、ある時、校門でその男に出くわしてしまったのだ。腹を立てた由香が男に金輪際関わらないで欲しい、などと言ったらしく口論になってしまったのだ。


 由香の言葉にカッとなった男が手を挙げ、和真が割って入ったのだ。とは言ってもそれは格好良く言ったに過ぎず、友人の彼氏と解釈されて揉めた上に殴られたところ、サッカー部の顧問に助けられたという結末である。由香の友人が隙を見て連れてきてくれたのだ。顧問の姿を見た途端に男は逃げ出したのだが、身元が分かっていたので警察に通報され、その後はぴたりとストーカー行為が止んだ。


「色々突っ走っちゃってさ、迷惑かけちゃったよね」


 由香からいつもの快活さが消えていた。まだ気にかけていたのかと意外に思う。

 話を聞いて気になっていたところ、騒動に出くわして自ら首を突っ込んだのだ。そんなに気に病むことはないのにと思って和真は笑みを浮かべる。


「ああやって割って入ったら誤解もされるって。だから別に朝木のせいじゃないよ」


 おどけてそう言ってみせたが、由香は真剣な表情を崩さなかった。自然と口を噤んで言葉を待つと彼女はぽつりと呟いた。


「……あの時さ、何でやり返さなかったの?」


 確かにやり返そうと思えばやり返せたのだろう。けれど、端からする気などなかった。


「力で解決するのは得意じゃないからさ。それに、やったらやり返される。自分がやられて嫌なことは人にしない、っていうのがばあちゃんの口癖でさ。それが一番の理由かな。……って、あの有様じゃ格好もつかないけど」


 言っていて少しだけ気恥ずかしくなって、和真は誤魔化すように手を動かす。そう言えば由香と二人きりでゆっくり話すのも久し振りだと今更ながらに思った。少しだけいつもと違う雰囲気で落ち着かない。


「そんなことない。格好良かったよ」


 少し上擦って聞こえた声が穏やかに空気に解けて消え、和真は不意に手を止める。

 きっと先日の出来事がなかったら気がつけなかったそれは、もしかしたらずっと前からあったものなのかもしれない。長い間を経て、ようやくの思いで和真は視線を由香に向けた。


「朝木」


 しかし、視線を向けた先に少女の姿はなかった。


 一瞬何が起こったのか理解できなかった。窓辺にとある影を見て、ざっと血の気が引く。

 そこにいるのは数匹の透明な魚。魚はふわりと尾鰭を振るうと、ふっと宙に溶けて消えた。

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