第69話 凶兆の影〈2〉

 瞬間、和真は廊下に飛び出る。魚がいないか周りを確認しながら廊下を駆けた。向かった先にビニール袋を持った裕介がいて、和真を見た彼は面食らった顔をする。


「ど、どうした? 血相変えて」


 そんな裕介の近くにふわりと影がよぎり、言い知れぬ感覚が全身を走った。


 間に合ってくれ。

 その一心で足を動かし、手を伸ばす。

 後のことは何も考えていなかった。思いに反して、もどかしいほどにゆっくりとしか体が動かない。


 魚が裕介の首筋に触れたのと、和真の風が透明な体を捕らえたのは同時だった。


 倒れ込んできた裕介を咄嗟に抱える。一瞬のうちに波に押されるような感覚に襲われ、すぐさま周囲の景色が変わった。力の入っていない体は想像より重く、和真は裕介を抱えたまま崩れ落ちる。


「裕介」


 無意識のうちに名前を呼ぶ。しかし、それに対する応答はない。それが現実を知らしめ、悪寒が背筋を這っていった。

 唐突に何かが記憶の底から迫り上がってくる。


 恐らく似たことがあったような気がする。いつのことだろうか。汗ばむような季節だったと思う。

 倒れてきたのは誰だろうか。思い出しかけて何かが胸につかえたように苦しい。さまざまな音が頭の中で木霊する。

 絡まって縺れる感情と記憶。

 深みに嵌れば、それらが見えてくる気がする。



「……にい……——和兄‼︎」


 声をかけられていることに気がついて、和真は我に返った。

 目の前に拓海が立っていた。肩に置かれている手の感覚で和真はようやく現実に引き戻された。


 気がつけばじっとりと汗をかいていた。頭痛に襲われ、眩む頭に手を当てる。かろうじて支えている裕介からは一切動きが感じられない。

 認めたくないけれど認めなければならない現実を口にする。


「……裕介と朝木が、魚に喰われた」


 和真の一言に拓海は苦しそうな表情をした。しかし、それも一瞬のことですぐさま拓海は行動に移る。


「みんなに声をかけるから、待ってて」


 肩から手を話すと集中するために拓海は目を閉じる。一瞬、それがどうしてか他人事に見えてしまい、和真は否定するように軽く頭を振った。いま呆けているわけにはいかない。


「みんな来てくれるって」

「……ごめん」


 何に対して謝っているのかも分からなかった。けれど、そんな言葉に対して拓海は大丈夫と笑う。それを見て改めて拓海がここにいるのだと認識できた。恐らく、心の変動から異変を感じて駆けつけてきてくれたのだろう。


 裕介を一人その場に残すのは気が引けたが、命を喰らった魚を消失させなければならない。和真はシャツの首元を緩め、邪魔になるネクタイを外す。 


「行こう」


 整理しきれない感情を押し込み、拓海と共に変貌した世界へと足を向ける。




 今回の世界もまた特殊な場所だった。瑞々しい草原が広がり、所々に白石でできた遺跡の残骸のようなものが見て取れる。浮島のような場所なのだろうか。少し歩いた先は地面が削れていて、遥か下に大地、頭上に見渡す限りの空が広がっていた。


 広い浮島の中を魚を探して消失していく。今回、魚は形を変えず、以前のように宙を漂っていた。魚の形態であるならば攻撃性がほぼないので消失させやすい。不幸中の幸いだった。湖のほとりで桃香と合流したところで頭の中に朱音の声が響く。


『拓海、こっちは二見君と合流したわ。このまま二手に分かれて魚を探しましょう』

『分かった』


 わずかな間の後、心配そうな朱音の声が聞こえてきた。


『……一ノ瀬君、無理はしないで』

『ああ、ありがとう』


 和真はできるだけ明るい調子で返す。あまり心配をかけたくなかった。

 探索を再開して魚を消失させていく。順調に数が減っているものの、ある一点に魚が偏って集まっていることに気がついて、和真は二人に声をかけるとその方向へと急いだ。焦燥感だけが募っていく。



 そうしてたどり着いた神殿の跡地で、無数の魚を従えた男の姿を視界に捉えた。瞬間、言い表せない感情が噴き上がる。



 向かい来る暴風に気がついた玖島は後退しながら魚を壁にし、差し迫った無数の刃を凌ぐ。


 魚が光を伴って消えていくと共に、わずかに切れた赤紫の髪が風に流される。明らかな敵意を向けられても玖島は笑みを崩さなかった。


「普段怒らない人が怒ると、なかなか迫力があるねぇ」


 そう呟くと同時に、玖島は残っていた魚すべてを和真に向かって差し向けた。俊敏さはあるが脅威はなく、三人はそれをあっさりと消失させる。


 その間に三人から距離を取った玖島は意味ありげに微笑んだ。逃すまいと拓海が声を荒らげる。


「待て!」

「魚は全部消えた。今は俺を追うよりも、もっとやるべきことがあるんじゃないかな?」


 そう言って玖島はちらりと神殿の跡地を見た。何かを指し示すような行動に警戒して和真は身構える。

 しかし、玖島はそれ以上のことはせず、風を纏ってその場から立ち去った。桃香は不安そうな表情のまま、和真のそばに駆け寄る。


「和真君」


 和真は額に手を当て、渦巻く感情を押し込める。

 命を喰った魚を集めるということは喰われた人が元の状態に戻れないということだ。頭では理解していたつもりだったが、当事者になってしか危機感を認識できなかった自分に嫌気がさす。どこにも吐き出せない思いの代わりに息をついた。


「……行こう。今は魚をどうにかしないと」

「……うん」


 何か言いたそうだったが、桃香はただ静かに相槌を打った。


 三人は玖島が去り際に向けた神殿の跡地に足を向ける。崩れ落ちた柱と建物の土台が所々残っているだけで神殿の面影はほぼない。しかし、その残骸と開けた土地の間には草が茂り、様々な種類の花が咲いている。その中で色鮮やかな蝶が舞っている光景は、今この時でなければ幻想的で美しかったに違いない。


 そんな中で倒れている少女を見つけた。その周りには数匹の魚が浮遊していた。和真は咄嗟に走り寄って魚を消失させると由香の様子を確認する。

 倒れている由香は穏やかな表情で目を瞑っていた。外傷などは見られず、和真は安堵から肩の力を抜く。しかし、それも一瞬。すぐに立ち上がって周囲の気配を探る。


「残りの魚は——」


 急激に悪寒を感じて総毛立つ。和真はすぐさま辺りを見渡した。以前に出会った、魚を喰らった少女よりもなお濃い生命力が間近に迫っている。拓海と桃香も異様な気配を察したのだろう、強張った表情で目を見合わせている。


「行こう」 


 鼓舞するように二人に声をかけ、和真は神殿の外に向かって駆け出した。

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