第51話 家族の和〈2〉

 リビングに入ってきたのはオフショルダーの白のレースブラウスにふわりとした水色のスカートを纏った少女。綺麗に髪をまとめて化粧をしていると大人っぽく見える。帰ってきた理沙を和真はいつものように出迎えた。


「おかえり」

「あー……。和兄、お兄ちゃんに頼まれたの?」


作業現場を見て早々状況を察したらしい理沙は眉根を寄せながらそう言った。否定することでもないので和真は正直に答える。


「まあ、そうだけど」

「律儀だねぇ。断ってもいいのに」

「このままにしておけないだろ?」


 そう返すと理沙は少し離れたソファーに腰かけ、背もたれに頬杖をついて和真の方を覗く。一見さとしや夏海とは似ていないと感じるが、ぱっちりした目元などは似ているのでなんだかんだ言って兄弟なんだなと思う。


「それにしても器用だねぇ。普通だったら面倒臭くて、頼まれてもやんないよ」

「俺は物作るの好きだからそんなに苦じゃないけどなぁ」


 あと少し乾かした方がいいかなと思いながら時間を確認する。いつの間にか十七時近くになっていた。意外と俊の帰りが遅いなと思う。もしかしたら姉に捕まって話し込んでいるのかもしれない。


「ねぇ」


 唐突に理沙に声をかけられる。理沙の声はいつもよりも落ち着いていて、様々な感情が含まれていた。


「何?」

「……何も言わないの?」

「言わないよ」


 しばらく二人の間に沈黙が流れる。周りの片付けをしつつ張り替える障子紙の準備でもしようとした時、再び理沙が尋ねてきた。


「あのさ、和兄って彼女いる?」

「……いるように見えるか?」

「全然。まったく」


 重ねて否定語を使うほどかと思い、和真は眉間に皺を寄せる。対して理沙は先ほどの神妙な雰囲気を消して妖艶な笑みを浮かべた。


「いや、高校卒業するまでにいないんだったら私がもらってあげようかなって」

「俺もらわれる側なのかよ。っていうか、理沙にもらわれたら家事全般押し付けられそうなんだけど」

「あはは、よく分かってるじゃん」


 理沙は面白そうに笑う。好みや性格は違うが、こうして弄ってくるところは夏海とそっくりだ。自分の周りの女性陣は逞しいよなと和真は改めて思った。


 片や単身赴任の夫を持つ妻と姉妹、片や母子家庭という環境であれば逞しくもなるだろうか。それだけに興味あるなし以前に安藤のように夢は見られないんだよなあと心の中でため息をつく。


 その時だった。かちゃんとリビングの扉が開き、顔を合わせた三者が揃って声を上げる。


「あ」


 帰ってきたのは沙織だった。髪を一本にして高く結い、シャツとラインが綺麗なパンツを履いている。時間的に俊だと思っていた和真は完全に油断していた。三人の間で微妙な沈黙が流れる。


 そんな中で先に動いたのは沙織だった。キッチンの方へ歩きながら軽い口調で問う。


「理沙、今日は夕飯どうするのー?」

「食べる」


 さらりと返された言葉に沙織が目を見張る。理沙はそのままリビングの扉まで歩みを進めると和真に視線を向けた。


「和兄、これ出世払いにしておいて」


 そう言い残して理沙はリビングを後にした。沙織はにまにまと笑って和真の方に視線を向ける。


「これはこれは。素直じゃない〜。また何かあった時は和真に家に来てもらおうかな」

「それは勘弁して……」


 いくら家族ぐるみの付き合いといえども、喧嘩の仲裁だけは勘弁してほしい。

 冗談よ冗談と笑いながら沙織がキッチンに荷物を置いた。ただ、冗談を言えるぐらいの空気感になったのはよかったと思う。沙織は買い出しの荷物を整理しながら機嫌良さそうに笑みを浮かべていた。


 それは昔、昼から夕方まで入り浸っていた頃よく見ていた風景だ。和真はしばらくキッチンで夕食の支度を始める沙織の様子を眺めていた。懐かしさと共にどこか息苦しくなる。


 小気味良い野菜を切る音が続く。和真は直し途中の障子戸に視線を戻すとぽつりと呟いた。


「沙織さん」

「ん?」

「……俺の父さんってどういう人だった?」


 なんの脈絡もない質問。それにもかかわらず沙織は手を止め、穏やかな口調で返す。


「いずみには聞きにくい?」

「じいちゃんの介護で父さんとは離れて暮らしてた時期もあったし、死んだ時は泣いてばっかりだったから……。父さんのことも、なんで死んだのかもよく覚えてなくて。申し訳ないなって」

「そんなことないと思うけどなぁ」


 沙織は苦笑しながら再び手を動かし始めた。そうねぇと零すと言葉を続ける。


「私は機械関係ダメだからよく分からないけど、そっち系の仕事してたって言ってたかな。俊が機械関係に興味持ったの、ゆずるさんの影響だと思うなぁ。あ、凝ると止まらない性格はうちの旦那似ね」


 そう言ってふふっと沙織は笑う。

 父と離れて暮らさなければならなかったのは仕事関係のためだったということは覚えている。それでも週末に時間を見つけては母の実家まで来るというまめさだった。それを証明するかのように沙織が続けた。


「とってもね、優しい人だと思うよ。まめで正直すぎて損するタイプだったけど、そんなことすら気にしない人だった。二人とも紅茶とかハーブティーが好きで、それがきっかけで知り合ったって言ってたかなぁ」


 懐かしむように目を伏せながら沙織は語る。優しい声音に惹かれるように和真は落としていた視線を沙織に向けた。


「……父さんがどうして死んだかは知ってる?」

「そこはいずみに聞いたほうが早いよ。本職なんだから。……って、だから余計に聞きにくいか」


 母は看護師だ。医師ではないといえ、医療従事者なのだからその手の話には理解があるだろう。

 だからこそ聞きにくいということもあって、ずっと口に出せなかった問い。それにもかかわらず誰かに聞きたいと思ったのはきっと今日見た夢のせいだ。


「私も詳しくは聞いてないの。ただ朝起きてこないからどうしたのかと思ったら、ベッドで眠るように亡くなってたって。あんまりも唐突で色々やらなきゃいけないこともあったし、あんたちのこともあったから。聞けないままここまできちゃったな」


 眠るように亡くなっていたという事実を聞いて、あの魚が父の命を喰ったのではないかという推測が浮かぶ。死ぬ間際に魚に囲まれていた祖母など、命を喰われたのだと言ってほぼ等しいのではないか。こちらは以前から考えていたことだが、改めて事実を突きつけられると言いようのない焦燥に駆られる。


「はいはい、湿気た顔しないの」

「うわっ」


 思考に浸っていたところでわしゃわしゃと両手で乱暴に頭を撫で回される。慌てて避けると笑みを浮かべた沙織がいつの間にか背後に立っていた。


「とっておきの夕飯作るから食べていきなよ。腕によりをかけてあげる」

「え、でも」

「俊が考えてることなんてお見通し。どうせあんたに頼むと思ってたのよ。いずみにも話つけてあるから。楽しみにしておきなさいよ、久し振りの私の料理」


 沙織は得意げな様子で笑みを浮かべる。ここまで言われているのだ。断る理由はない。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 沙織は湿り気のない笑顔を浮かべて腕を捲る。やっぱり敵わないなと思いながら、和真は障子紙を張り替えるために立ち上がった。

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