第48話 記憶が映すもの〈2〉

 その刹那、霧に潜んでいたものが一斉に飛び出す。


 飛び出してきたのは透明な肢体の狐。和真は咄嗟に体を捻って歯牙をかわし、狐を風で断つ。左脇から差し迫った爪を避けた時、後方から気配を感じて振り返った。瞬間、爪が両肩に食い込んで勢いよく地面に叩きつけられる。


「……ッ!」


 叩きつけられた反動でわずかに息が詰まる。

 滲む血と肩の痛みを無視し、手を耳元に置いて全身と風を使って跳ね起きる。跳ね起きるのと合わせて噛み付こうとした狐を蹴り上げ、勢いで上手く立ち上がった。

 蹴り上げた狐が宙で体を捻ったのを視界に捉えた時、その肢体が青い炎で包まれた。炎に包まれた狐はあの魚のように光を伴いながら消失する。


「一ノ瀬君!」


 霧の中から朱音の声が聞こえ、再び炎が数匹の狐を包み込み焼き払う。和真は少女から距離を取って地面にかがみ込むと手元に集中した。


 和真を中心にぶわりと風が放射状に吹き抜け、霧に覆われていた視界が一気に広がる。霧が晴れた森の中に朱音の姿を認めるのと同時に、後方から彼女めがけて巨体の狐が飛びかかった。それに気がついた朱音は躱そうとするが、間に合わず目を瞑る。


「五十嵐‼︎」


 和真が叫んだ瞬間、巨体の狐は何かに阻まれるように宙に弾き飛ばされた。何が起こったのかと目を凝らすと、朱音の目の前に四角い透明な空間が見えた気がした。


 一瞬の怯みがあったが、巨体の狐は姿勢を整えて着地し、行動を阻んだ者を睨めつける。その視線の先にいる人影に気がついて和真は咄嗟に駆け出していた。

 桃香の目の前に立ち、差し迫った爪ごと体を風で切り裂く。体勢が崩れた隙を見て、和真は桃香の腕を取ると素早く距離を取る。


 狐が再び二人に飛びかかろうとした時、結晶体が地面から隆起して透明な肢体を喰らった。断末魔の咆哮が耳をつんざく。それも程なくして終わり、先ほどまでとは打って変わった静けさが辺りを包んだ。


『来ないでよ』


 狐が消失した跡から虹色に輝く光が宙に舞う。その中で少女はある一点に顔を向けた。その声は先ほどとは違って微かに震えている。


 少女の元に歩み寄ってくるのは癖毛の少年——拓海だ。しかし、いつもと雰囲気が違う。何かを探るように目を凝らしていた。

 それは静かで全てを見透かすような目。無言で歩み寄る拓海を見て少女は絶叫した。 


『見ないでよ‼︎』


 その刹那、ぶわりと足元の影がうねりを上げて拓海に襲い掛かる。けれど、彼は微動だにしなかった。


「もうやめようよ」


 その一言で全身を飲み込もうとした影がピタリと動きを止めた。喉元寸前に迫った影に拓海は手を添える。


「どんなに思っても、君の望みはここでは叶わない」


 触れた影が光を伴って、溶けていくように薄らいでいた。少女が詰まらせながら言葉を紡ぐ。


『どうして』

「……君は残された記憶だから。他の命を喰らって命を得ても歪になるだけだ」


 くしゃりと少女の顔が歪んだ。小さな口から紡がれる言葉がとても悲しそうに、悔しそうに響く。


『ただ私は、本当のことを言ってただけなのに……』


 拓海は少女に歩み寄るとかがみ込む。それからゆっくりと手を伸ばして目元を隠している布を外した。現れた漆黒の瞳には大粒の涙が浮かんでいた。せきを切ったかのようにポロポロと涙が落ちる。


「何もしてあげられなくて、ごめん」


そう言って拓海は少女の頬に触れた。触れた箇所から少女は結晶化していく。全身が光を纏う結晶に変わった時、全体に亀裂が走った。少女は虹色の光を伴いながら砂塵となって消えていく。

 しばらく皆無言だった。宙に消えていく煌めきをただ言葉なく見送る。


「一ノ瀬君、大丈夫?」


 声をかけられて視線を向けると、いつの間にか朱音がそばに歩み寄ってきていた。和真はそこでようやく自分に注意を向ける。


 先ほど負った左腕と肩の傷がなかった。服に滲む血だけが怪我を負ったのだと告げている。ここが記憶の海だからだろうか。しかし、心配をかけるし怪我はするものではないなと思う。とにかく今は大事がないことが分かって朱音に応えた。


「ああ、俺は大丈夫。五十嵐こそ大丈夫か?」

「ええ、大丈夫。さっきのは……」


 和真と朱音は桃香に視線を向ける。二人の意図を汲んだ彼女は慌てて口を開いた。


「えっと、空間作ったら結界みたいに物理的なもの防げるかなぁって思っていて試したんですけど……。上手くコントロール出来なくて小さいものしかできなくて、すみません!」


 両手を合わせて勢いよく頭を下げる桃香に朱音は面食らったような表情をした。それからふわりと笑う。


「そんなことないわ。助けてくれて、本当にありがとう」


 朱音の言葉に桃香は勢いよく顔を上げた。驚きに満ちた表情はパッと明るくなり、桃香はえへへと照れくさそうに笑う。和真にはそれが安堵したような笑顔に見えた。

 桃香に礼を言うと、朱音は膝を抱えてかがみ込んでいる拓海の元に歩み寄る。和真と桃香は目を合わせるとそれに続いた。


 光が消えていった先を眺める拓海は心ここに在らずと行った様子だ。そんな彼に朱音が静かに声をかける。


「あの子はどんな子だったの?」


 ただ一言、朱音はそう尋ねた。

 全てを見透かすような視線。和真も拓海が残った記憶から少女の心を読んでいたのだろうと思っていた。必要以上の争いをしないで彼が少女に歩み寄ったのも、きっとそれが理由。


 ずっと昔のことなんだけどね、と前置きをして拓海は話し始めた。


「あの子は狐持ちって言われてたんだって。他の人には見えないものが見えて、周りとはちょっと違う行動をするから目立っちゃって。作物の収穫が悪くなったり悪いことがあったりした時に、村に呪いをかけてるんだって疎まれたみたい。周りには忌み嫌われて、親には自分の子供じゃないって突き放されて……」


 そこで言葉が途切れる。朱音は苦しそうな表情できゅっと右手を胸元で握り締めると、拓海のそばにかがみ込んだ。


「拓海。……あまり心を寄せると辛くなるわ」

「……うん」


 相槌の後にしばらく沈黙が続く。拓海は一度膝の上で組んだ腕に顔を埋めると立ち上がった。改めて周囲を確認するように見渡す。


「まだ……いつもの海に戻らないね」

「……そうだな」


少女と取り込んでいた魚を消失させたにもかかわらず、周囲は鬱蒼とした木々が生える森のままだ。朱音が更に注意深く周囲に視線を走らせる。


「もしかしたら、まだあの子が取り込んでいた魚がここにいるのかもしれない。探しましょう」


 朱音の意見に異議はなく、四人で森の中を歩く。二手に別れた方が効率はいいのだが、今回は得策ではないと皆が思ったのだろう。自然と互いに注意を向けながら命を食らった魚を探した。


 宙を漂っていた魚を数匹消失させたところだった。和真が新たに見つけた魚に触れて消失させると周りの景色が変わった。


「元に戻った?」


 桃香が当たりをキョロキョロと見渡す。鬱蒼とした森が一瞬のうちに白と青に彩られた景色に変わっていた。映された場所はここに来る前にいた駅のロータリーだ。

 そこに一際目立つ姿を見つけて四人は身構える。人気を察した赤紫の髪の男は笑みを浮かべて振り返った。

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