第23話 汚泥に沈む〈5〉

 さすがに今日は疲れたなと思いながら、和真は玄関の鍵を開ける。

 玄関先で迎えてくれたのは母だった。いずみは心配そうな面持ちで和真を迎えた。


「お帰りなさい。友達、大丈夫だった?」

「ああ、うん。ちょっと色々あったけど……どうにか」

「そう、ならよかった」


 ほっとしたように母は顔を緩ませる。それを見て少し心配させてしまったかなと和真は思った。

 すぐに寝るためにも風呂に早めに入りたいところだったが、一つ用事を済ませておきたいことがあって和真は自室に戻る。少し迷ったが、携帯電話を出してベッドに腰掛けると朱音に電話をかけた。


『一ノ瀬君? どうしたの?』

「ごめん。聞きたいことがあったんだけど、ちょっと聞くタイミング逃して……。今、大丈夫か?」

『ええ。大丈夫。何?』

「クジラに喰われた時、五十嵐も記憶に呑まれてたんだよな? 話せる内容だったらでいいんだけど、どんな感じだったのかなって」

『私は……伯父さんと伯母さんが生きていた時のことだったわ。拓海も一緒にいて、楽しそうな頃の様子だったんだけど』


 朱音の答えの後、静かな沈黙が辺りを包む。少し間を置いて心配そうな朱音の声が聞こえてきた。


『一ノ瀬君?』

「あ、ああ。そうだったんだ」

『……一ノ瀬君はどうだった?』

「俺も似たような感じ。家族との思い出……っていうのかな、そういうの」

『……そう』

「ごめん、変なこと聞いて」

『いいえ。何かあったら、また連絡して』


 和真はありがとうと言って電話を切った。和真は天を仰いで大きく息をつく。

 ちょうどその時、ドアがノックされて和真がそれに応える。ドアが開くと母がカップを乗せたトレーを持って部屋に入ってきた。いずみは柔らかな笑みを浮かべて勉強用の机にカップを置く。


「疲れたでしょう。気休めかもしれないけど、寝る前にどうかと思って」


 カップからほのかに湯気が立ち、柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。母が好んで買っているハーブティーだろう。漂ってきた香りが強張った体を緩ませる。そこで和真は自分が思っていた以上に緊張していたことにようやく気が付いた。

 いずみはベッドに腰掛ける和真の前に立つと不安げな表情を浮かべた。


「顔色が悪いわ」

「え?」

「無理はしないで早く休んで。私に協力できることがあったら、言ってちょうだいね」


 それだけ言うと母は微笑んで部屋を出て行ってしまった。和真は取り残されたような気分になりながらその姿を見送る。

 少し間を空けて立ち上がると机にあるカップ手に取り、再びベッドの端に座った。両手で包み込むようにして持つと熱すぎない、優しい熱が伝わってくる。


 カップの中で淡い蜂蜜色の飲み物がゆらりと揺れた。マーマレードだろうか、底には柑橘の皮が沈んでいた。一口飲むと爽やかな柑橘系の香りと甘味が広がる。自然と吐息が漏れた。


 そうして、和真は止めてしまっていた思考を再び動かす。

 クジラに喰われ、拓海は自分の最も忌み嫌う記憶の底に吞まれた。朱音は恐らく幸せだった過去の記憶を夢見ていた。どちらも呑まれていたのは〈過去に実際にあった記憶〉だ。


 だとしたら。


 あの時、自分が体験した何も見えない泥の底のような世界は。

 暗く沈んだ思いは。


 ——自分のものなのだろうか?

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