第22話 汚泥に沈む〈4〉

「……朱音も和真君も、今日は本当にありがとう。何もできない不甲斐ない祖父で申し訳ない」


 義明が深く頭を下げ、慌てて和真は応える。


「そんな、俺こそ何も……」

「……何もできなかったのは私の方だわ。お祖父ちゃんがいなかったら、拓海は……」


 そう話す朱音は両の掌で抱えるカップをきゅっと握った。溢れそうになる感情を堪えるように。


「朱音、今日は泊まっていきなさい。家には私の方から電話をしておくから」

「……何から何まで、本当にありがとう」


 義明は朱音に対して微笑んで見せると、和真に向き直った。


「和真君は遅くまで巻き込んでしまって申し訳ないね。駅まで送らせてもらえないかな?」

「……ありがとうございます。ただ、少しだけ時間をもらえませんか?」


 義明の申し出を断る理由はないが、少し気持ちを整理したくて和真はそう尋ねた。

 もちろんだよ、と言って微笑む義明は新しくカップに紅茶を注ぐ。温かな湯気が立ち、香り高い紅茶の香りが広がった。二人にカップを渡してから義明は手早くメモを記す。


「私は自宅のほうにいるから、落ち着いたら電話をかけてくれないかな」


 気を使ってくれたのだろう。義明はそれだけ言うと早々に席を外し、併設の自宅へと向かった。

 急激に店内がしんと静まり返る。紅茶が注がれたカップから微かに湯気が立ち昇るのを眺めながら、和真は横に座る朱音に尋ねた。


「……五十嵐は拓海のこと、どこまで知ってたんだ?」

「……拓海が養子として三浦家に来たのは初めから。伯父さん夫婦がそのことは教えてくれたの。伯父さん夫婦は子供に恵まれなくて、養子として来た拓海のことを本当に可愛がっていた。……事故で伯父さん夫婦が亡くなった時、虐待を受けて児童相談所に入っていたことを私の父親から知らされたわ。まさか、あんなにひどかったなんて……」


 最後の言葉は途切れて消えていく。和真も何も言えず、ただ朱音の消え入る言葉を聞き届けることしかできない。

 記憶の海の中で見た拓海の過去はあまりにも凄惨で、今の自分でも恐怖でしかなかった。共感も理解もしてやれない出来事を目の当たりにして、安易な言葉は紡げなかった。


「伯父さん夫婦が亡くなったのは私のせいなの」


 唐突な告白に驚いて和真は思わず朱音に視線を向ける。

 彼女は俯いていて両手を膝の上で組んで握りしめていた。長い黒髪が顔を隠していて表情は窺えない。


「伯父さんは写真が好きだった。その影響で私も好きになって、都合が合う時に写真の撮影に一緒に連れていってもらったの。その日は朝日を見に行こうって約束していて、昼は拓海の用事があるから三人で深夜に出かけたんだけど」


 一気に話したせいか、最後に言葉が喉に詰まったかのように止まる。少し間を空けてから、朱音は苦しそうに残りの言葉を吐き出した。


「帰りがけの高速道路で煽り運転にあって、無理な運転を強いられた挙句に追突事故に巻き込まれて……」

「……」 

「……拓海は悪くない。私があの日……あんな約束をしなかったら……」


 それは結果論だ。それは朱音も分かっているだろう。

 彼女にとって、事故は拓海が養子になるまでの経緯を知るきっかけとなり、伯父夫婦を失う事件となった。


 拓海の立場を悪くてしまったのは自分のせいだと、朱音が自身を責めているように感じた。きっと真面目な彼女はそう思わずにはいられないのだろう。

 自分ではどうすることもできないことが世の中にはある。それでも、朱音は自分がしてきたことが正しいのか、拓海は自分の存在があるべきなのか自身に問い、悩む。

 そんな二人に返せる言葉なんて何もない。ただ、正直な思いは伝えておこうと和真は静かに口を開く。


「……五十嵐も拓海も、お互いのこと考えてきたんじゃないのか? だから、自分を責めることないと思う。俺なんかじゃあんまり説得力ないかもしれないけど、そう思うよ」


 朱音と拓海。血の繋がりはないけれど、互いに自分を責めてしまうところが似ているなと思った。相手のことを思う気遣いも。

 それはきっと、今まで彼らが共有してきた時間と関係が作り上げてきた繋がり。


「……だからさ、落ち着いたら思っていること、話したらいいんじゃないかな」


 それだけ告げると和真は紅茶を口にする。二杯目でようやく渇いていた喉と体が潤ってきた気がした。

 微かに動く気配を感じて和真は朱音に視線を向ける。彼女は指先で目元を拭ったようで、少し間を空けてから呟いた。


「……そうね。きちんと話さないと、分からないものね」


 朱音の声はだいぶ落ち着いていた。彼女もまた紅茶を飲んで一息つく。和真も改めて紅茶を飲んで息をつくと、重いものが外に吐き出されるような感覚がした。 

 そうしてふと我に返る。これまでのことが一気に思い起こされて和真は動きを止めた。その様子を見た朱音が戸惑った様子で声をかけてきた。


「……どうしたの?」

「……いや、すみません」

「え?」

「……俺、今日色々やらかしている気がしていまして……」


 和真はカウンターに腕をついて額を押さえる。

 義明に止められたのにもかかわらず首を突っ込んで朱音たちの後を追う。朱音を連れ戻そうとする朝春に対しては無遠慮な態度を取った挙句に無視。取り乱す拓海に対しては大声出してしまうという有様である。感情も状況も切羽詰まっていたとはいえ、話し方が素になっていたのに今更気がついて頭を抱えたくなる。


「ふふっ」


 唐突に笑い声が聞こえてきて和真は驚いて朱音の方を見る。彼女は口元に手を当て、おかしそうに笑っていた。泣きそうな笑みが少しずつ自然な笑みに変わる。


「気にすることなんて何一つないのに。私は今の貴方の方が自然で好きよ」


 思いがけない言葉に和真は何と言っていいのか分からず固まる。それから朱音は改めて和真に向き直った。


「拓海を追いかけてくれて本当にありがとう。これからも今までみたいに接してくれると嬉しいわ。それに、私に対しても敬語じゃなくていいから」


 その方が嬉しいわ、と言って朱音が微笑む。

 確かに素の対応をしておきながら、今更敬語というのも違和感があるかもしれない。朱音が了承してくれるのならばそれに甘んじてもいいだろうか。そう思いつつ、まだ慣れずにぎこちなく返す。


「あ、ああ。えっと……じゃあ、五十嵐。俺はそろそろ帰るから、拓海のこと頼むよ」

「ええ」


 涙が止まった朱音はしっかりとした口調でそう返した。お互い気持ちの整理がつくのは少しかかるだろうけれど、きっと大丈夫だろうと和真は思った。

 和真は荷物を持つと義明がくれたメモを確認しながら電話をかける。程なくして義明が店にやってきてくれて、和真は家路についた。

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