第21話 汚泥に沈む〈3〉
意識が朦朧とする中、ふわりと額に何か温かいものが当たった気がする。
それは深い記憶の海から意識を引いてくれた手だ。再び落ちそうになっていた意識を戻してくれる。それに気がついてこのまま元の場所に戻されるんだな、と自然に感じた。もう一度助けてもらったのに最後に礼も言えないのかと思うと残念でならなかった。
「一ノ瀬君」
声をかけられて和真は目を覚ます。ぼんやりとしてた視線の先には朱音の姿があった。視線が合うと朱音はほっと安堵したような息を漏らす。和真ははっきりしない頭のまま体を起こした。
「……戻ってきた、のか?」
「ええ」
朱音は相槌を打つと、すぐ側に横たわる拓海の頬を撫でて涙の跡を拭う。顔色はまだ完全にいいとは言えないが、拓海の表情はだいぶ和らいでいた。拓海を見て和真はようやく元の世界に戻ってきたのだと実感した。
「朱音! 和真君!」
少し遠くから名前を呼ぶ声がしてきて和真たちは視線を上げた。向けた視線の先にいたのは義明だ。義明は息を切らして二人の元に辿り着くと、朱音をぎゅっと抱きしめた。
「よかった。何処を探してもいないからどうしたかと……」
存在を確かめるような抱擁に朱音が申し訳なさそうな表情をする。義明はすぐに離れると横たわっている拓海に手を伸ばして頭に手を置く。
「拓海も一緒でよかった」
「心配をかけてごめんなさい」
朱音が心苦しそうに謝る。義明はそれに対して笑みを浮かべて首を振った。朱音は少し迷っていたようだったが、やがて静かに切り出した。
「……改めて拓海のこと、詳しく聞いてもいい?」
「……ああ、そうだね。まずは戻ろう」
言われることを察していたのだろうか、義明は朱音の問いに対してそう応えた。
義明が目を覚まさない拓海を背負い、三人は喫茶店に戻る。歩き出す前に改めて時間を確認すると二十時半を回っていた。二時間近く経っていたのかと今更認識し、和真は慌てて母に連絡を入れた。今日は少し帰りが遅くなりそうだということも付け加えて。
拓海を自宅で休ませ、喫茶店に戻ると客のいない店はひっそりとしていた。和真たちを探すために常連さんたちに詫びを入れ、十九時前には店を閉めたらしい。整わない客席や片付かない食器類などがオープンキッチンに残っていて、急いで義明が店を閉めたのを肌で感じた。
義明はそのままのキッチンで湯を沸かし始めた。手早くポットに茶葉を入れ、三つカップを用意する。しばらくすると湯が沸いてポットに湯を注いだ。
しばらくの間、無言だった。透明なポットの中で茶葉が開き始め、湯の色が徐々に濃厚な琥珀色に染まっていく。
きっと、そこにいる皆が少しだけ時間が欲しかったのだと思う。
何も語らなくていい時間が。何も聞かなくていい時間が。
紅茶が十分に蒸れたところで義明は茶を注ぐ。琥珀色の湯が注がれ、香ばしい香りが辺りに漂った。手元に渡されるとその芳しさが引き攣っていた気持ちを和らげてくれる。
「……ありがとうございます」
和真は今更ながら喉が渇いていることを自覚する。普段入れない砂糖を入れて飲むと、香ばしい紅茶の香りと優しい甘さが喉と心を潤していった。
「拓海のことについてだけど。私が知っている限りのことになるけどいいかい?」
話を聞いて問題ないかという再確認だろう。二人は言葉なく頷いた。
「父親と母親は大学時代に出会って付き合い始めた普通の恋人だった。父親の方が結構妄執的なところがあって、あれこれ口出ししていたみたいだけど、母親の方が従順な性格だったみたいでね。結婚当初は特に何事もなく暮らしていたらしい。ただ、子供……拓海が生まれて三年ぐらいしてから徐々におかしくなっていった」
義明は視線を手元のカップに落とし、一つ呼吸を置くと続けた。
「仕事の不調や親族との不和が重なって、父親が拓海に躾と称して暴力を振るい始めたんだ。徐々にエスカレートして母親にも暴力を振るうようになって、我に返って泣いては謝り関係を続ける……なんて生活だったそうだ。母親は元々優しい人だったみたいだけど、精神的に堪える環境が続いて追い詰められていたんだろう。彼女も段々と拓海に対して態度が厳しくなっていった」
記憶の中で見た、拓海の母親の強張った表情が和真の脳裏に蘇る。きっともっと穏やかな表情をしていたのだろうけれど、先ほど見た光景が染み付いて今となっては想像ができない。
「加えて、父親はどうも愛情が息子に向かうのが気に食わなかったみたいで、わざと拓海の仕業にして母親の怒りを向けさせるようにもしたらしい。……生まれたのが女の子だったら少し違っていたかもしれないね」
「……そんな……」
消え入りそうな声で朱音が呟く。理不尽だと言わんばかりだったが、どうしようもない事実に彼女は口を噤んだ。
「……警察も近隣住人から虐待の相談を受けていたみたいだけど、事が動いたのは拓海が病院に運ばれた時だった。救急車が到着した時には意識不明の重体だったそうだ。辛うじて容体が回復したあと、拓海は児童相談所に預けられてね」
「……そこで伯父さんと伯母さんが引き取った……」
目を伏せて無言のまま義明が頷く。
昨今のニュースを鑑みれば父親と母親がどうなったかはなんとなく察することができる。そして、納得できるわけではないが、朱音の兄の態度の理由も理解できた。
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