第20話 汚泥に沈む〈2〉

 和真は確認をするために目の前にいる少年に目を向けた。

 拓海は目をきつく閉じ、額にじっとりと汗を浮かべていた。譫言のようにいやだと、声が溢れている。

 出そうとする声が震えそうになる。それでも、今声をかけなければいけない。息を整え、出来る限り穏やかな声で和真は拓海に声をかける。


「拓海」


 名前を呼ばれて拓海はハッと目を開ける。

 瞬間、彼は自分を掴んでいる腕を引き剥がそうともがいた。和真は暴れ、逃げようとする拓海の両腕を掴んで向かい合う。


「——い、いやだ! 嫌だ! 放してッ‼︎」

「拓海‼︎」


 まずい、と思った時には遅かった。

 拓海が一切の動きを止めた。その顔は見たこともないほどに血の気が引いていた。

 止めるためとはいえ、大声を上げたのは間違い無く早計だった。大人の大声が彼にとって恐怖以外の何物でもないと分かっていたはずなのに。自分の軽率な行動に嫌気が差し、和真はぐっと歯を食いしばる。

 渦巻く感情を無理やり押し込めて、息を整える。


「……戻ろう」


 続いた言葉は実に呆気ないものだった。和真の言葉を聞いて、拓海は視線を落として問いかける。


「……戻るって、どこに……?」


 自嘲のこもった声が冷たい空間に響く。


「俺の居場所は……どこにもないのに……」

「拓海——」

「もう放っておいてよ‼︎」


 拓海が声を荒らげ、朱音の手が行き先を失って止まる。苦しそうな表情で彼女は胸元に手を戻した。拓海は俯いたまま、先ほどとは打って変わって静かに問う。


「二人とも見たんじゃないの……さっきの」


 二人は何も返せない。無言が問いに対する答えと分かっているのだろう。拓海は返事を待たずに言葉を続ける。


「俺の本当の父親、本当に……本ッ当に最低な人だったみたいでさ。外面ばっかり良くて。自分は好き勝手するくせに、母親のことは縛り付けておきたかったみたいで。それで、生まれたのが……俺なんだ……」


「……」

「本当に……気持ち悪い……。俺なんか……生まれなければ……」


 言葉とともに雫がぽたりぽたりと水面に落ちた。

 コップから水が零れるように、抱えきれなくなった思いが流れ落ちていく。


「もう、いやなんだ……いろいろなことが……」


 微かな嗚咽が辺りに響く。和真はただ俯く拓海を見守ることしかできない。

 似た境遇なんておこがましいにも程がある、と思った。

 かける言葉が何一つ見つからない。情けないほどに。


 慰めも励ましも共感も、何一つ彼が望んでいるものではないと感じた。ただ、彼が何よりも自分の存在を疎ましく思っていることだけは伝わってきた。苦しそうな吐息と感情が震える体を通して感じる。

 付き合いの短い自分が何を言っても上辺だけにしか聞こえないだろう。説得力がないのも分かっている。


 けれど。

 目の前にある事実だけは目を逸らして欲しくなくて、和真は静かに告げる。


「……拓海、俺の言葉は信用しなくていい。聞いていて不愉快だとも思う。だけど、五十嵐がここにいることを、否定しないでほしいんだ」


 拓海が微かに息を呑む気配がした。しばらくの沈黙の後、拓海はゆるゆると頭を横に振る。


「……戻れないよ」

「……拓海、どうして——」


「じいちゃんと朱姉のことは……好きだよ。こんな俺にはもったいないぐらい、優しくてさ。……だからダメなんだ。俺がいたら迷惑を掛ける」


 朱音の問いに言葉をかぶせた拓海は、本当に苦しそうに思いを零す。


「好きな人たちが悪く言われるのは、もう、嫌なんだ……」


 微かな呟きが消えるとともに朱音が歩み寄ってきて、和真は掴んでいた拓海の手を放す。

 瞬間、朱音が拓海を抱き締めた。突然のことで驚いているのだろう、拓海は戸惑った様子で朱音を見る。

 抱きしめた朱音の体は拓海と同じように微かに震えていた。声もまた、それと同じ。


「ごめんなさい」

「……なんで朱姉が謝るの」


 ふっと表情を緩めて拓海は笑う。困ったような、泣きそうな顔だった。


「無力すぎて、私は何も……してあげられない」

「今までで……十分すぎるぐらいだよ。だから……」


 もういいんだ、と拓海は言った。


「俺は、いないほうがいい。その方がみんな幸せになれる」

「そんな言い方しないで」


 朱音が顔を上げ、拓海の両肩を掴んで向き合う。彼女の頬にも涙が伝っていた。

 強くはない、けれどはっきりした口調で朱音は続ける。


「貴方と一緒に暮らしていた時、伯父さんと伯母さんは幸せそうだった。私にはそう見えた。いい子が家に来てくれたって、伯母さん嬉しそうだったもの……」

「……そんなの……」


 拓海は言いかけた言葉を飲み込み、ばつが悪そうに俯いた。

 嘘だ、と言おうとしていたのが和真にも分かった。朱音も同じように感じたのだろう。少しだけ寂しそうな表情をしながら、それでも彼女は言葉を紡ぐ。


「お願い、拓海。私の言葉が信じられなくても、伯父さんたちのことまで……貴方自身が見てきたものまで、否定しないで」


 事実を忘れないで欲しいがために。

 共に、元の場所に帰るために。

 くしゃりと、強張っていた拓海の表情が崩れる。


「——う、あ」


 涙が堰を切ったように流れて、堪えようとする声が嗚咽となって海の中に響いていた。

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