第19話 汚泥に沈む〈1〉
ぽつんと二つ、水面に雫が落ちる。
導かれたのは仄暗い世界。気が付くと不思議と体が浮いていて、和真と朱音はふわりと水面に降り立つ。水面に足先が触れると波紋が広がって、一瞬にして周囲に色がついた。
目の前に現れたのはごく普通の家のリビングだ。まだ弱い朝の陽の光が窓から差し込む。
リビングにあるテーブルで三歳ぐらいの少年が一人で食事を食べていた。幼いけれど見覚えのある少年の姿に和真と朱音は息を詰める。
和真は周囲に視線を向けた。家の中はあまり生活感がないような雰囲気でこざっぱりしていた。小さな子供がいるにしては家の中が綺麗すぎる。
辺りを窺っていた時、若い女が少年のもとにやってきた。綺麗な顔立ちであるがその表情はとても厳しい。女はテーブルに手をつき、覗き込むように少年の顔を見た。少年は顔を強張らせて動きを止める。
『ねぇ、まだ食べ終わってないの? 早くしてよ。ねえお願いだから……!』
『ご、ごめ——』
『おい』
その一言で女と少年の動きがピタリと止まった。
女が恐る恐る視線を上げる。女の視線を追うとそこには若い男が立っていた。傍から見たら優男に見える男は柔和な笑みを浮かべながら口を開いた。
『まだ食べてるのかよ。俺が来る前に食べ終わらせてくれって言ってるだろ』
『ご、ごめんなさい……』
『……まあいいや』
男は冷めた目線で少年を一瞥するとふんと鼻を鳴らした。
テーブルの前に立った瞬間、男は椅子ごと少年を床へと叩き落とした。激しい音に和真と朱音は身を強張らせる。
『さっさとしろよ』
男は倒れた少年の腹を容赦なく蹴る。呻き声が漏れたと同時に、ばしゃんと何かが床に撒き散って少年の体の一部を濡らした。床に撒き散ったのは残っていた朝食だ。
男は身を丸めて腹を押さえる少年を冷たい目線で見つめる。そこに情の一欠片もない。熱のない平坦な声が部屋に響く。
『あ、飯は最後まできちんと食えよ。残したら許さないからな?』
目の前の光景に和真と朱音は絶句する。恐怖という簡単な言葉では済まされない感覚が体を走っていった。
和真は目の前の光景が視界に入らないように朱音の前に立つ。
それだけで精一杯だった。
怖気で身が竦む。
『返事はないのか!』
『あ、い……や!!』
男は少年の髪を乱暴に掴み、引き摺ってベランダへ向かった。泣き叫ぶ声にも手を緩める気配はない。
『しばらくそこで反省してろ』
問答無用で叩き出された少年は必死にガラス戸を叩く。
『ご、ごめんなさい……! ごめんなさい!』
必死の言葉は誰にも届くことなく虚しく響く。少年はごめんなさいとひたすら繰り返していたが、当然戸が開くことはない。
しばらくして少年は戸を叩くのを止め、身を丸くして体を両手で抱える。吐息がわずかに白く染まり、小さな体がぶるりと震えた。戸が開いたのは深夜を回った頃だった。
夜が明け、少年が起きると与えられている玩具箱が倒れて物が散乱していた。少年が呆然と立ち尽くしていると、背後に男がやってきて酷薄な笑みを浮かべる。
『これ片付け終わらなかったら飯なしだからな? それに、これ見られたらお母さんに嫌われちゃうかもなぁ』
そう言いながら男は少年のそばに屈んで頭を掴む。
『まあ、はなっからお前のことなんか好きでもなんでもないと思うけど』
少年の頭を後方に引っ張り、男は笑みを浮かべる。その時、もう一つの声が聞こえてきて少年は僅かな動きさえも止めた。
『……なに、これ』
『朝起きて来てみたらもうこうなっててさぁ』
男は素知らぬ顔で女に向かってそう言い、少年の顔から血の気が引く。少年は弁明のために口を動かそうとするも上手く言葉が紡げない。その間に絶対零度の視線が少年に向く。
瞬間、パンという冷たい音と共にヒステリックな声が響いた。
『どうしてこんなことしたの!』
頬を叩かれた少年を見ながら男はニヤニヤと笑う。少年はただ何も言えずそこに立ち尽くしていた。
『ちょっとお仕置きしないとダメみたいだな』
男は酷薄な笑みを浮かべたまま少年の頭を蹴った。小さな体が勢いよく床に転がり、少年は痛みに呻く。
それから先のことは見るに耐えなくて、和真は視線を逸らして目を閉じた。ただ、耳に届く物音と声が全てを物語っていた。
唐突に喧騒が止み、しんと静まり返る。
『おい、返事しろ。おい——』
慌てたような男の声が聞こえてきて和真はゆっくりと目を開ける。少年は床に倒れてぐったりとしていた。
そこでぽつんと一雫の水が落ちたように足元の水面が揺れ、和真は倒れる少年の向こう側にもう一人の姿を見た。
本来の姿の拓海が少年と鏡合わせになるように倒れていた。それを見て、和真は咄嗟に水面に手を伸ばす。
「拓海!」
水が跳ね、水飛沫が舞う。拓海の腕を掴んだ瞬間、倒れている少年は花びらに変わって霧散した。舞う花びらが目の前に迫り、和真は思わず目を閉じる。掴んだ腕を離さないようにしっかりと握った。
目を再び開けた時には薄暗い世界へと戻っていた。後ろを確認すると朱音の姿があって和真は安堵の息を漏らす。ただ、彼女は蒼白な顔で両手を胸の前できつく握りしめていた。
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