第18話 記憶の海の渡り人〈2〉
歩みを進めると暗く沈んでいた藍の世界が徐々に明るくなってくる。仄かに光る何かが宙に浮いていて辺りを照らしているのだ。夜のような群青の世界が明るい縹色に変わっていき、遠くに何かを感じると思った時だった。
一陣の風が吹いて、髪や裾を乱して通り過ぎる。そうして、目の前に現れた光景に和真と朱音は息を呑んだ。
目の前にそびえ立つのは、光を宿す透明な大樹。
その大きさは計り知れないほどで見る者を圧倒する。大樹はエメラルドグリーンの海に根を下ろしていて、そこから離れるにつれ水底の色は藍へと変化していた。その光景は沖縄の遠浅の海を彷彿させる。水晶のような葉がきらきらと光を反射し、鮮やかな水面に光が落ちて煌めいていた。浮かぶ光が樹の周りを照らしていて、その風景はえも言われぬ美しい光景だった。
「……綺麗」
思わずと言ったように朱音が言の葉を漏らす。確かに綺麗であるが、それ以上に畏怖を感じる場所だと和真は思った。
「それ以上近付くと戻れなくなるぞ」
かけられた声にハッとして和真は我に返る。
男が左の二の腕を掴んで和真を引き留めていた。いつの間にか波打ち際にかなり近づいている。
「すみません」
咄嗟に謝ると男は嘆息してから手を離した。男は一呼吸置くと波打ち際へと視線を向ける。
その視線の先には一人の女性が立っていた。裾の長い薄紫の上着と白いワンピースが風に揺れる。柔らかく波打つ褐色の髪がわずかに風に流された時、穏やかな
「良かった。二人とも目が覚めたのね」
今更ながら曖昧だったものが形を結ぶ。海の底のような闇に浮かんだ光の中にいたのは、確かに目の前にいる女性だった。和真は先ほど腕を引いてくれたのが彼女なのだと理解する。
「……助けてくれてありがとうございます」
和真が礼を言うと再び女性はふわりと笑った。春のような暖かい笑みが生きている心地を感じさせてくれる。そこでかねてからの疑問を和真が尋ねた。
「あの、貴方たちは?」
「私たちは貴方たちと同じ記憶の海の渡り人。厳密にはちょっと違うんだけど。貴方たちを助けて欲しいと頼まれたの」
「それは、どういう……」
朱音が質問を重ねた時、女性が彼女の元へと近づく。柔らかい笑みを湛えたまま、女性は朱音の手を両手で包んだ。
その瞬間、ふわりと心地の良い風が舞った。それは束の間の春の風のようで、すぐにその場から立ち去っていく。
「貴方をここに導いた一柱に頼まれたの。今の私だとあまり役に立てなくて申し訳ないと言っていたわ。でも、本当に困った時は力を貸すって」
わずかに憂いを乗せて女性は笑う。何が起こったのかと思った時、朱音の瞳から涙が溢れた。
「だ、大丈夫か?」
「ごめんなさい、大丈夫。これは多分……私の感情じゃないの」
そう言って朱音は袖で涙を拭う。私の感情ではないということは、過去の記憶の琴線に触れたのだろうか。朱音は胸の前で右手を握り、感情を押し込めるように堪える。
こちらのことも知っている様子であるし、助けて欲しいと頼まれたというのもどういうことなのだろう。疑問が和真の口から溢れかける。
「一体……」
「その詮索は無用だ。先に解決しなければならないことがあるだろう」
「……拓海のことですね」
先ほどの感情は落ち着いたのか、朱音は男をしっかりと見据える。男が頷き、それに続いて女性が言葉を続けた。
「あの子は記憶の深くに沈んでしまって。私でも入り込めないわけではないんだけど、きちんとした〈縁〉を持つ貴方たちが行った方がいいと思うの」
「どうすれば拓海を助けられますか?」
「私が彼の心を通じて記憶の深部まで案内するから、そこで彼のことを見つけてあげて」
記憶の深部というのは先ほどいたような場所なのだろうか。海底のように暗く、自分さえ見えない空間が和真の脳裏に蘇る。もう一度行って戻って来られるだろうかという不安がよぎった。
それに全く別の世界線の人同士が干渉し合うのは、本来ではなし得ないことではないだろうかと和真は思う。そうなると自分たちを助けてくれるという女性への影響も気になる。
「……貴女は一緒に来ても大丈夫なんですか?」
和真の問いに女性は少しだけ目を見張ると、胸元に右手を当ててふわりと笑う。
「あの子がここで得た力は私と近いみたいなの。だから、大丈夫。それに私も〈縁〉で引き上げてもらうから」
女性は両腕を後ろに回して男に笑みを向ける。その満面の笑みは全幅の信頼を置いていると言わんばかりだ。男は諦めているのか目を伏せて嘆息した。
「無茶なことは勘弁して欲しいんだが」
「そう言いながら、いつも助けてくれるじゃないですか」
長い付き合いなんだろうなと、その会話だけで和真は思った。多くの言葉を必要としない関係はそう簡単な年月では培えず、何よりも堅い信頼を形成する。
だからきっと、手を貸してもらっても大丈夫だと。
手を貸してもらうことが最善だと思った。
「お願いします」
和真の言葉に女性は返事の代わりに微笑む。彼女は和真と朱音の手を片方ずつ取って重ね、自分の手で包み込んだ。女性が目を伏せると纏っていた柔らかい空気が身を潜めた。
そうして祈るように、言の葉を溢す。
「其処〈底〉で何を見たとしても、見つけてあげて」
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