第17話 記憶の海の渡り人〈1〉
ぽつんと一つ、水面に雫が落ちる。
波に揺られてゆっくりと目を開ける。
周囲は真っ暗だ。深海にいるかのように暗く沈んでいて自分の姿さえ見えない。体を動かす意志があるのに、まるで水の中を漂っているかのように上手く動くことができない。
水の中にいる、そう思った瞬間にごぽりと空気が自分の中から逃げていった。無意識のうちにもがいた時、吐き気が出てくると共に底知れぬ思いが込み上げてくる。
生きる人は全て自分の欲のために生きている。
他の何かを踏みにじりながら笑っているのは、なんなのだろう。
不快感が込み上げてくる。理解できないのに、どす黒い思考に感情が侵食されていく。
嫌だ。怖い。苦しい。痛い。
いなくならないで。
君が——なら僕は……だってする——。
込み上げてきた思いには怨嗟という言葉でも到底収まりきれない感情がこもっていた。体が恐怖で強張る中、逃げ出すかのように手を伸ばす。それに伴ってノイズが耳に届いた。
いや、違う。聞こえる音はノイズではなく、何かしらの意味を持っている。
誰かが呼ぶ声。屈託のない子供の笑い声。救急車の音。無機質な機械音——。
音が重なり、がんがんと頭が割れるように痛い。思わず両手を頭に当てて抱える。目眩と共に頭がぐらりと揺れて意識が遠のきかけた時だった。
ふわりと温かいものが腕に触れる。その途端に頭を蝕んでいた痛みは波が引くかのようにさっと消えた。触れているものが手であると認識した時、強く腕を引かれて遠のきかけていた意識が浮上する。
「——……!」
目を開けると今までないほど胸が早鐘を打っていた。全身がじっとりと嫌な汗をかいている。
何が起こったのか分からないまま和真は一人天を仰ぐ。そこでようやく自分が倒れていることに気が付いた。心臓が少しずつ落ち着いてきたところで自分の状況を反芻する。
倒れていた拓海の様子を見ようとしたところ、透明なクジラが背後に迫っていた。あの状況から考えて、恐らく自分だけではなく朱音や拓海も一緒に喰われたと思った方がいいだろう。
ということは、今いる場所は記憶の海だろうか。しかし、いつもと様子が違う。そもそも、現実世界で透明なクジラを見るのも初めてだった。
色々と考えなければならないものはあるものの、まずは現状を知りたくて和真は体を起こす。ずきりと頭に再び痛みが走って、無意識のうちに頭に手を伸ばした。
それと同時に二人を庇おうとした時のことが一瞬脳裏を掠める。何か引っかかるような気がしたけれど、具体的には分からない。違和感を探ろうとしたその時だった。
「目が覚めたか」
よく通る、冴えた声が辺りに響いた。その声に惹かれるように和真は視線を向ける。
視線の先にいたのは眼鏡をかけた黒髪の男だ。黒いロングコートを着ていて、歳は三十代半ばぐらいだろうか。深い
自分とは違う世界の人だと、そう思った。
根拠があるわけではない。言ってしまえばただの直感だ。けれど、それはきっと外れていないと思わせるほど、その人が纏っている雰囲気は自分たちとは違っていた。
「動けるか?」
「……あ、多分……」
立ち上がろうとした時に一瞬目眩がしたが、堪えて和真は立ち上がる。
「こっちだ」
和真が立ち上がったのを確認して男は歩き出す。信じる信じないなど考える時間すらないまま、和真は男の背を見失わないように後を追った。
青く薄暗い空間を歩く。足元は薄く水が張っているかのように、動く度に波紋を生んだ。しかし、水に濡れたような感覚は一切ない。それが徐々に変わってきたのは少し歩いた頃だった。
薄い水面に曼珠沙華の花が浮かんでいた。それは水晶のように綺麗に透き通っていて少ない光を反射している。
ぽつぽつと曼珠沙華が増えてきて、水面から茎を伸ばして花を咲かせるものが現れ始める。そうして、曼珠沙華の花が咲き誇る場所で倒れている女性を見つけた。
和真は倒れている朱音に駆け寄る。気を失っているが呼吸や脈に異常はなく、和真は安堵から自然と息をついていた。
「五十嵐」
肩を揺らしながら声をかける。何度か繰り返して朱音はゆっくりと目を覚ました。横になったまま、ぼんやりとした様子で和真に視線を向ける。
「……一ノ瀬君」
「大丈夫か?」
「……ちょっと頭がくらくらして……」
朱音はちょっと待って、と言って再び目を閉じる。しばらくして落ち着いたのか、彼女は額に手を当ててゆっくりと体を起こした。
「ここは……」
「今までとは違うけど、多分ここも記憶の海だと思う。俺たち、あの透明なクジラに喰われたみたいなんだ」
「そう……。ありがとう、庇ってくれたのよね」
「いや……」
あんまり意味がなかったよなと思い、和真は歯切れの悪い返事をする。そこで朱音が男の存在に気がついて驚きに目を見張る。
「……貴方は」
「大丈夫そうならもう一つ案内したいところがある」
そう言って背を向ける男に和真は慌てて声をかける。
「……あの、すみません。もう一人俺と同じぐらいの歳の男を見ませんでしたか?」
そう、拓海の姿がないのだ。いつもと違う記憶の海の中、彼がどうなっているか気がかりだった。現実世界で見つけた時にはもう倒れていたのだ。既に魚に命を喰われていた可能性が頭を掠める。
「それについて話すことがある。ついてこい」
男は和真が言うことなど分かりきっていると言った様子でそう言った。その反応に和真は戸惑ってしまう。裾を引かれて視線を向けると、まだ顔色の冴えない朱音が目配せをした。
「行きましょう」
行先が何処かも分からないまま、二人は男の背を追う。
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