第16話 崩れゆく均衡〈2〉
「やっぱりここに来ていたのか」
朝春は和真の方を見ることなく、朱音だけに視線を向けて淡々とそう言った。それは蚊帳の外というよりも認識すらしていないといったような様子で、さすがの和真も戸惑うことしかできない。
「すみません。朱音は帰らせます」
朝春は義明に向かってそう言うと、会釈をしてから朱音の腕を掴んだ。強制的に席から立たせられた朱音が強張った表情をしていて、和真は咄嗟に制止をかける。
「待ってください」
和真の一言で朝春がピタリと動きを止め、そこでようやく視線が合った。熱も冷たさもない淡々とした視線が却って不安を煽る。わずかに時間を置いてから朝春が口を開いた。
「君は?」
「私の友達よ」
和真が答えるより先に朱音がそう返した。朝春は和真を値踏みするような視線で見渡し、静かに問う。
「年は?」
「……十七です」
問いに対して戸惑いながら和真が返すと、高校生かと朝春が独り言のように呟いた。何か考えているのか、少し間を空けてから朝春は和真に告げる。
「まだ遅くはないが君も早めに帰った方がいい。こんなところで遊んでいないで時間は有意義に使うべきだ」
「私が誘ったのよ。彼が私に付き合ってくれただけだわ」
朝春の発言に朱音が眦を釣り上げて反論し、二人の間の空気が徐々に険悪な雰囲気を帯びていく。割って入れる雰囲気ではなかった。わずかに眉根を寄せて朝春が諭すように言葉を続ける。
「……父さんも母さんもお前のことを心配しているんだぞ」
「父さんが言っているやるべきことはやっているつもりよ。それなら後は私が何処へ行こうといいでしょう? それに父さんが心配しているのは世間体じゃない」
取りつく島もない朱音の発言に朝春が深くため息をつく。
「お前がバイアスをかけた状態でみればそうにしか見えないだろう?」
「それならそっくりそのまま返すわ。拓海のことをバイアスかけて見ているのは父さんや兄さんよ」
朱音の発言で空気が張り詰める。二人の険悪な雰囲気は拓海と何か関係があるらしいが、和真には全く見当がつかない。ただ、拓海と連絡が取れなくなったことが頭によぎって、嫌な焦燥感に苛まれる。
「とにかくもう今日は帰るんだ」
「兄さん!」
朝春は有無を言わさずに朱音の腕を引いて喫茶店の外へと向かう。強制的に歩かせられる朱音の後ろの姿を追おうとした時、肩を掴まれて和真は動きを止めた。
和真を引き留めたのは義明だった。普段温和な表情が硬く強張っている。それを見てこの件は拓海が関わっていることなのだと改めて認識する。
「和真君、少し時間を置いたら君も帰った方がいい」
「でも」
義明が強張った表情のまま首を横に振る。
きっと踏み込んでもらいたくない事情があるのだというのは和真でも分かる。けれど、このまま見過ごせと言うにはあまりにも穏やかではない雰囲気だ。会えていない拓海の様子も気になる。見過ごせば見過ごすだけもやもやとした感情が広がっていく。
「すみません」
「和真君!」
和真は義明の制止を振り切って朱音と朝春の後を追う。あの状態ならそこまで離れていないと踏んだ。そう思って辺りを探していると、小さいコインパーキングの少し手前で人影を見つけて和真は足を止める。
見覚えのある少年——拓海がそこに立っていた。
何でここに、と和真は思った。彼の視線の先には朱音と背を向ける朝春の姿があり、どくりと心臓が跳ねる。
きっと拓海はここにいてはいけない。二人が気付いていないうちに早くここから引き離したほうがいいと思いながら、和真は無意識のうちに拓海に向かって手を伸ばす。
「お前はあれにもう関わるな」
その一言で伸ばした手は止まった。あまりにも冷え切った声が心を切り崩すような感覚がして。
「そんな言い方しないで!」
「あいつが来てからおかしくなったんだ! 引き取った伯父さんたちもあいつに関わらなければ――」
朱音の顔からさっと血の気が引き、朝春が振り返った。その場にいる四人の視線が交錯し、時が止まったかのように凍りつく。
朱音たちと視線が合った瞬間、拓海がその場から逃げ出すように駆け出した。
「待って拓海! あっ……!」
朝春は拓海を追いかけようとする朱音の腕を強く引く。微かに朱音が悲鳴を上げるのを見て和真は早足で歩み寄り、朝春の手を掴んだ。
力を入れるでもない、無理矢理引き剥がそうとするでもない。ただ、朱音の腕を掴む手に添えて、和真は朝春に静かに問う。
「手、放してもらえませんか」
それは静かだけれど、湧き上がるような憤りがこもった声。
先ほどとは打って変わった和真の様子に朝春が動きを止めた。それに伴って手の力が緩む。和真は朱音を朝春から引き離して腕を掴むと、そのまま歩き出した。
「い、一ノ瀬君……」
朱音の呼びかけにも応えず、和真はしばらく無言のまま歩き続ける。コインパーキングから少し離れた後、和真は口を開いた。
「五十嵐、拓海が何処にいるか見えるか?」
「え、あ……ちょっと待って……」
和真の問いに朱音は戸惑いがちにそう言った。和真はすぐに足を止め、朱音に向き直る。
朱音は軽く息をつくと辺りを見渡し始める。しばらくすると和真に視線を向けて呟いた。
「……こっち」
朱音の案内のもと、二人は再び歩き始める。向かった先はそれほど遠くない、和真も一度訪れたことのある運動場だ。併設されている公園に朱音は足を向ける。
そこに倒れている少年の姿を見つけて、朱音は顔色を変えて駆け寄った。
「拓海!」
和真も拓海に駆け寄る。朱音がうつ伏せ気味に倒れている拓海の肩を揺らすが反応はない。
その様子が先日倒れていた人と重なって嫌な感覚が背筋を這う。まさか同じ状況なのかと思った時、和真は自分に向けられる何かを感じて動きを止めた。
それはまるで、何もかも喰らい尽くそうとするような意志。それと同時に感じたことのない悪寒が背筋を走った。
そうして振り返った先に。
透明なクジラがその場にいる全員を飲み込まんと、口を開いてそこにいた。
二人の上に覆いかぶさる形になった瞬間、鈍器で殴られるような頭痛に襲われて和真の意識はぶつりと途絶えた。
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