第15話 崩れゆく均衡〈1〉

 土曜日、和真はバイトを終えて自宅での用事を済ませると喫茶店に向かう。着いたのは待ち合わせの十八時には少し早い頃だった。

 中で待っていようと店内に入ると、店の中は既に客で賑わっていた。前と同じように空いていたのがカウンターだけで、和真は一番奥の席に着く。朱音が訪れたのは待ち合わせの十分前になった頃で、彼女は慌てたように空いていたカウンター席に向かってきてすまなそうに口を開いた。


「ごめんなさい。待たせてしまって」

「いえ、俺が早く来すぎただけなので」


 和真は気を使わせてしまったなと苦笑いを浮かべる。朱音が席に着くと義明よしあきが待っていたというようにカウンターにやってきた。


「二人とも好きなものを頼んでいいからね。和真くんはこの間の約束、朱音はいつも拓海が世話になっているから」

「ありがとうございます」


 せっかくの厚意を無駄にするのも気が引けて、和真は甘んじることにする。

 和真は季節の野菜カレー、朱音はミックスサンドを頼んだ。注文を済ませると朱音が手帳を出し、本題を切り出す。


「これはニュースで取り上げられている行方不明になっている人のリストなんだけれど」

「……若いっていうか、高校生前後が多いですね」


「ええ。このくらいの年齢だから、色々な事情があって家を離れている——家出だと言えなくはないけど。少し件数が多いから、あの魚が関わっているものもあると思うの。魚に干渉された人は、意識だけ記憶の海に囚われている人もいれば、体ごと飲み込まれている人もいるのよ」


 朱音は手帳の別のページを開く。そこには氏名や学校名、年齢などが書かれていて、一番右には確認済みの文字が記載されていた。


「海を初めて渡ってからしばらくして、記憶の海で倒れている人を見つけたの。その人の身元が分かる物を記録して魚を消滅した後にこちらに戻ったら、しばらくしてからその子が見つかったとニュースで報道されていたわ。それから身元が分かる人は調べて戻ってくるようにして、これはその記録といったところなんだけど」


「そういえば、向こうで目を覚ましている人と会ったのは俺が初めてだって言っていましたよね? あそこのことを覚えていたっていうのも」


「ええ。一ノ瀬君が初めてよ。ニュースで調べられる範囲だけだけど、みんな自分に何が起こったのか覚えていなかったみたい」


「……記憶の海にいた人は基本的に、自分にあった出来事を覚えてないということですか」


「そうみたい。その後、魚を見つけては海を散策しているのだけれど」


「根本的な解決策は見つかっていない?」


 和真の問いに言葉なく朱音が頷く。


「魚に干渉された人たちを元に戻すのはもちろん大切なんだけど。あの魚がどう生まれているのか、目的が何かとか。根本を突き止めない限り解決しないのよね」


 難しい話だなと改めて和真は実感する。魚をただ闇雲に追い回しているのでは埒は明かない。かと言って、手がかりになるものはあの魚ぐらいしかないのだ。この件に巻き込まれた人が何かしら覚えていれば何か掴めるかもしれないと思ったが、それも望みがほぼないと分かって八方塞がりだ。


「……随分難しい顔をしているね」


 そう声をかけられて、和真は思考の海から浮上する。目の前に色鮮やかな野菜が載せられたカレーとサラダが置かれ、急激に空腹感が増してきた。朱音の前にも同じようにミックスサンドとスープが置かれる。


「あんまり気を張りすぎると疲れてしまうよ」


 ほどほどにね、と言って義明は新たな注文の準備に取り掛かるために離れていった。朱音は苦笑いを浮かべて和真に視線を向けた。


「まだ時間もあるし、今はいただきましょう」


 今ある情報も少ないのだから致し方ないよなと思いつつ、和真は食事を摂ることにする。

 グリルされたナスや蓮根などの野菜が載せられたカレーは見た目も綺麗だ。一口食べるとスパイスの辛味と共に奥にあるほのかな甘味がじわりと口に広がる。辛味はあるけれどそれ以上に旨味が深い。しっかりと野菜も取れる、食べ応え十分な一皿だ。


「……本当に美味しい」

「そう言ってくれると嬉しいわ」


 朱音は自分のことのように嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、朱音も拓海も祖父とこの店のことが好きなのだなと和真は改めて感じた。食事を終えて一息つくと、改めて和真は思っている疑問を口にする。


「……あの魚の目的ってなんですかね」


「そうね……。確かに命を捕食しているけど、動きに統一性も攻撃性もないし。見た感じだと目的を持って動いているようにはあまり感じないのよね」


「はい。ずっと見てきましたけど、少なくとも俺には目的を持って動いているようには見えなくて。今までは特に害することもなかったし」


「でもそれが最近になって〈喰べる〉という行動を見せ始めている」


 朱音の呟きに和真はハッとして言葉を溢す。


「……もしかして、今は目的を持って動き始めたところ?」


 そうは思ったものの、それも憶測にしかすぎない。今これ以上は話し合っても先が見えないだろうなと和真は感じた。恐らく朱音もそう感じたのだろう。難しい表情を崩してため息をついた。


「他にもあの魚を認識できる人がいたら、私たちの共通点とか分かることも増えてきそうなんだけど……」


 賑やかな店内の中、遠くからカランと鐘が鳴る音がする。いらっしゃいませと言った義明の言葉は一度途切れ、わずかに目を見張って入ってきた人物を見る。


朝春ともはる


 義明が呼んだ名前を聞いて朱音の動きがピタリと止まる。出入り口の方に視線を持っていくと長身の男性がこちらに向かって歩いてくるところだった。


「兄さん」


 男性のことをそう呼んだ朱音の声は聞いたことがないぐらい強張っていた。

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