第12話 海の果てで何を語る〈2〉

 朱音は注意深く辺りを見渡しながら歩く。空を見渡していると遠く何処かで何かが鳴くような声が聞こえた。恐らく、以前来た時に見たあの透明なクジラだろうと和真は思った。


 少し探索した後、街中で浮遊する数匹の魚を見つける。それに歩み寄って朱音が手を伸ばした。

 指先が触れた途端、青い炎がゆらめいて魚体を包み込む。すぐさま透明な魚は形を崩して光の粒子を纏って消えていった。自分とは少し違う消え方だな、と和真は先ほどのことを一人反芻する。


「……一ノ瀬君が現実世界でこの魚を見かけるようになったのはいつ頃だった?」

「初めに見たのは……祖母が亡くなる前だったと思います」


 朱音は魚が消えた宙を見ながら、そうなのねと相槌を打った。ふわりとどこからともなく風が流れて彼女の長い黒髪を揺らす。


「貴方はだいぶ昔から見えているのね。私は交通事故で重傷を負って、その後から見えるようになったの」


 交通事故という言葉を聞いて和真は少しだけ息を潜めた。


「そう。拓海のご両親——私の伯父と伯母の三人で出かけていた時に事故にあったの。出血量が多くて一時的に危なかったらしいのだけど、私は助かった」

「……」

「その後、いつからだったか、唐突に透明な魚が浮かんでいるのが見えるようになった。初めは事故の後で頭に何か障害でもあるのかと思っていたのだけど、検査では特に異常はなかったわ。それからずっと見えてる」


 朱音は苦笑を浮かべて和真に視線を向ける。


「まさか同じようにあの魚が見える人がいるとは思わなかったわ。しかもここで初めて会った時、貴方は普通に目を覚ましているし話もできるし。とても驚いたわ」

「……そういう人はいなかったんですか?」

「ええ、貴方が初めてだった。しかも戻ってきたらここでの記憶が普通にあるでしょう? 本当に驚いて、どうしようかと焦っていて。……あの時は貴方には本当に不躾なことをしてしまった」


 そう言うと朱音は視線を下げた。ようやく経緯を知ることができて納得するが、それに伴ってここにいることの居た堪れなさも募る。


「……五十嵐さんにはここが何か分かるんですか?」


 和真の問いに朱音が不意に背を向けた。返答はすぐには来なくて沈黙が流れる。しばらくしてから、しんとした空気を破るように朱音が天を見上げた。


「ここは記憶の海。生命が流れ着く漂着点であり、生と死の狭間。日本的にいうのであれば三途の川というのが近いのかしら。死に縁を持つ人が訪れる場所よ」


 朱音が纏う雰囲気が先ほどとは打って変わって和真は自然と息を呑んだ。それと共に、今語られたことが揺らぎない事実であると言わんばかりの雰囲気に少しだけ畏怖を感じる。

 朱音が向き直って笑みを浮かべる。それはとても形容し難い、様々な感情が入り混じった笑みだった。


「今の自分ではない誰かの記憶あると言ったら——貴方は笑う?」


 今になって、彼女がこの件を忘れて欲しいと言った意味が分かった。

 誰にも理解されない現実。それを誰かに理解してもらいたいけれど可能性は限りなく低い。自分以外認識できないことを他人に理解してもらいたいという欲求とその無益さは、誰よりも知っているつもりだった。


 けれど、本当は理解していなかったのだと思い知る。確かに幼馴染みは透明な魚を見ることはできなかったけれど、彼は自分が見ているものを理解しようとしてくれていた。あるものとして受け止めてくれた。それはそう簡単にできるものではないことだと、今になって痛感する。

 自分は一度、前世の記憶をもつ友人がいるという夏海の話をいぶかしがってしまった。その事実は覆らない。 

 けれど、理解されないことの苦しさは少なくとも知っている。だから和真は朱音を見据えてただ一言だけ口にした。


「笑いません」


 朱音は和真の答えに少し驚いたような表情をしてから、泣きそうな笑みを浮かべる。


「……貴方は優しいのね」


 朱音がついた息にはどこか安堵が含まれているように感じた。ただ、それに素直に応えることができずに和真は曖昧に笑う。少し苦みが混ざった笑みを浮かべたまま朱音は続けた。


「元々、誰かの記憶なんて覚えていなかった。事故で生死を彷徨った時に少しだけ思い出したの。そこは記憶の海のことが当たり前のように語られていた世界だった。記憶の海は数えきれない世界と繋がっていて、すべての生命が海へと還ってくる。海に還った後、時を経てまた新たな生を得るのだそうよ」


 正直信じ難い話だったが、転生が現実にあると言うことなのだろう。不可視の魚を見てきた自分でも受け入れ難い話だった。ただ、一番困惑しているのは恐らく朱音自身だとも思う。

 そうすると、朱音がなぜここにいるのだろうかと和真は思った。記憶が集まる海と魚が関係があるということだろうか。そう言えば、目を覚まして出会ったのは自分だけだと話していたことを思い出す。


「……五十嵐さんはどうしてここに来ているんですか? 聞いた話からすると度々ここに来ているみたいですけど。もしかして、あの魚が人の記憶に何か影響があるとか」


 二人の間に再び沈黙が訪れる。和真には朱音が話をすべきか迷っているように見えた。忘れて欲しいと言っていた朱音の思いを知りつつも、その一歩先を踏み込む。


「教えてもらえませんか? 正直、俺に何ができるとも言えないんですけど、このまま何も知らないのはもっと嫌です」


 和真の言葉を聞くと朱音は一度目を伏せる。考えを馳せるような沈黙の後、彼女は意を決したように口を開いた。


「私はここに囚われてしまった人を現実世界に戻れるようにしているの。魚に干渉されるとこちらの世界に来るみたいで、さっきのように人に干渉した魚をすべて消滅させると元の世界に戻る」


 そう言いながら朱音は浮遊している魚にもう一度触れる。その魚も先ほど朱音が触れた時のように、青い炎に身を包まれて消えていった。


「と言っても、初めに迷い込んだ時に成り行きで始めたことなの。ここ最近、意識不明で搬送される人や行方不明のニュースを多く見かけないかしら?」

「……そう言えば、そうですね」


 日常に溶け込んで見えなかった現実が今になって形を結ぶ。それがどのように関係しているのだろうか。

 行方不明の人と原因不明の意識不明の人々。

 透明な魚に干渉された人がこの世界に導かれる。

 海は人の記憶と生命が還る場所であり、新たに生まれる場所。

 そして、死に縁を持つ命が訪れる場所。


「まさか——」

「あの透明な魚は人の命を喰らっているのよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る