第11話 海の果てで何を語る〈1〉

 無事に中間試験も終わり、平穏な日常が戻る。

 蒸し暑い季節が徐々に迫ってくるのを感じながら、和真はいつも通り学校へ行く支度を済ませてリビングに向かう。もう少しで衣替えの時期だ。


『——の山中で小学校中学年と思われる遺体が発見されました。遺体には腹部から背部にかけての裂傷があり、殺人事件として捜査しています』

「……怖いわね」


 片付けを済ませた母がテレビを見ながらそう呟く。テーブルに頬杖をついている千晃が無造作にリモコンを取って、少し不機嫌そうな表情でチャンネルを変えた。

 和真は出かける前に一度携帯電話を確認する。テストが終わったので拓海が意気揚々と連絡をしてくると思っていたのだが、特に音沙汰もなく数日過ぎている。メッセージを送ってみたのだが既読もつかない。今日の帰りがけに様子だけでも見に行こうかと思いながら、和真はリュックを手にした。


「行ってきます」

「行ってらっしゃい」


 緩やかに始まる変わらない日常。学校も平穏そのもので授業を終えた和真は慣れたように隣駅へと向かった。喫茶店に入ると変わりない様子で店主が迎えてくれる。


「いらっしゃい」

「こんにちは」


 挨拶を交わしてすぐさま和真は店内を見渡す。別のアルバイトが接客の対応をしていて拓海の姿はない。


「拓海は大丈夫ですか?」

「え?」

「拓海に連絡入れたんですけど、既読がつかないから少し気になって」


 和真の言葉に義明の表情が微かに曇る。どうしたのかと問うより先に義明が問いに答えた。


「……少し調子が悪いみたいでね」

「そうですか」

「わざわざ来てくれたのに悪いね。お詫びに何か好きなものを頼んでくれて構わないよ」


 義明は本当にすまなさそうな笑みを浮かべた。大した用もないのに押しかけてしまったなと思いつつ、気を遣ってくれる義明に対して和真もまた苦笑いをする。


「いえ、今日はバイトがあるので帰らないとなんです」

「そうなんだね。じゃあ、今度来た時にでも」

「お気遣いありがとうございます」


 和真は会釈をすると喫茶店を後にする。ただ、ぎこちなく笑う義明の様子がどこか頭の奥に引っかかっていた。

 その後、喫茶店を後にして和真はバイトへ向かった。バイトも特に何事もなく終わり、一通り仕事が片付いた和真は帰宅の準備をする。時計を見ると二十時を十五分ほど過ぎたところだった。


「一ノ瀬君、お疲れ様」

「お疲れ様です」


 他の従業員に声をかけて和真は本屋を後にする。街灯が暗くなった道を照らしていた。

 ちなみに本屋をバイト先に選んだのは飲食業の接客が自分には合っていないだろうなという理由からだ。そこで不意に人当たりよく接客できる拓海の姿を思い出し、羨ましく思ってしまう。

 ぼんやりと考え事をしながら夜道を歩いていた時だった。駅のロータリーを過ぎて並木通りに差し掛かるところで緊迫した声が耳に届いた。


「大丈夫ですか⁉︎」


 無意識のうちに和真は早足で向かう。

 向かった先にはすでに数人の人が集まっていて、その中央には女性が倒れていた。中年のサラリーマンと思われる男性が電話をかけている。恐らく救急車を呼んでいるのだろう。何処かに向かって駆け出す壮年男性がいた。


 倒れた女性を中心に人が集まる中、和真は見慣れてしまったものを見つけて背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 それはここしばらく目にしていなかった透明な魚だ。以前触れた時に見た現実と相容れない世界が鮮明に蘇り、嫌な感覚が背筋を這う。


「AED持ってきました!」


 救護活動で辺りが騒然となると共に野次馬も集まっていた。

 何もできないまま嫌に心臓が早鐘を打つ。透明な魚が我関せずと言ったようにその場から遠ざかっていくのが、やけにゆっくりとして見えた。


 何故だろう、このまま見逃してはいけないような気がした。

 和真は人の波を逆方向に進む。軽く肩をぶつけながら歩みを進め、無意識のまま魚に手を伸ばす。透明な魚に触れた途端、波に押されるような感覚が再び襲う。


 波が引いた後、和真はゆっくりと目を開ける。そこには前と同じように白と青の濃淡で構成されている世界が広がっていた。ただ、一度見たことのある光景だからか、以前よりは恐怖感は薄れているような気がする。 

 和真は周囲を見渡す。魚はすぐ近くには見当たらない。辺りの様子を見るために和真は歩き出した。

 駅から続く並木通りを少し歩くと交差点の真ん中に透明な魚が浮遊しているのが見えた。特に何かをしてくるわけでもなく、けれど何かを目指すかのようにゆっくりと宙を進んでいく。


 和真はもう一度、透明な魚に手を伸ばす。

 魚に触れると風がふわりと巻き起こる。透明な体が切り裂かれ、光の粒子が煌めいて宙に溶けていった。温かい感覚がして触れた手を見つめる。


「一ノ瀬君!」


 聞き覚えのある声に和真は視線を上げる。強張った表情で駆け寄ってくるのは黒髪の女性——朱音だ。

 朱音は和真の目の前に立ち止まると確認するように全身を見る。和真を一通り見渡すと彼女は軽く息をついた。


「何事もなさそうで良かった」


 その一言で自分を気にかけていることが分かって、和真は居た堪れない気持ちになった。忘れた方がいいと言われながらも今、ここにいる。


「……どうしてここに?」


 咎めるでもない責めるでもない、穏やかな口調でそう朱音が尋ねた。和真は事実をありのままに答える。


「帰りがけに倒れている人がいて、その人の近くにいた透明な魚を追って触れました」


 和真の返答を聞いて朱音は納得したような、それでいてどこか残念そうな表情を浮かべる。


「……やっぱり、あっちでも見えるんですね」


 それに対して肯定も否定もなかった。ただ、朱音が視線を落として軽く目を伏せたのが答えと同義だった。

 しばらく沈黙が続いた後、朱音が意を決したように視線を上げる。


「一ノ瀬君、こっちに来てから魚は見かけた?」

「はい、さっき触れたら消えました。消えたというか、切り裂かれて光になって消えたみたいな感じでしたけど……」

「良かったら一緒に来てくれるかしら。まだ残りの魚がいると思うの」

「はい」


 和真の返事を聞くと朱音は頷いてから歩き出した。

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