第9話 変わりゆく関係〈1〉

「で、それで?」

「それで?」


 裕介から問われ、なんのことだと言わんばかりに和真はおうむ返しする。

 連休明け早々に祐介から連絡があり、昼食の約束を取り付けられた。今日はその約束の日で、和真は祐介と共に学食にやってきていた。


 滅多にやってこない学食。当たり前だが昼時はとても混んでいる。裕介から主題もなくそう問われたのは、席と昼食の争奪戦を終えて食べ始めて少し経ったところだった。

 裕介にも正門での騒動を噂で知られ、連休に入る前の部活で会った時は憐みが含まれた複雑な視線を向けられた。彼は奢りのカツカレーを口に運んで咀嚼すると、眉根を寄せながらもう一度和真に問う。


「由香にこの間のこと、許してもらえたんかって聞いてんの」

「許してもらうっていうか、そこまで険悪な感じじゃなかったけどなぁ」


 連休明けの部活で由香はいつも通りに接してくれた。大型連休や中間試験のおかげでだいぶあの出来事から興味が薄れたようで、和真としてはありがたかった。

 緊迫感なく丼の唐揚げを口にする和真を見ながら、裕介は呆れたような視線を向ける。


「……まあそれならいいけど。で、どうやって許してもらえたわけ?」


 そう言われて和真はその日のことを反芻する。特にこれと言って特別なことをした覚えはない。


「買い物付き合って欲しいって言われたから一緒に出かけて。で、飯食ったりゲーセン行ってきたんだけど」


 事実をそのまま告げると裕介は目を見張って口に運びかけたスプーンを止め、ぽつりと呟く。


「……その後、何もないわけ?」

「ん? 何もないけど?」


 和真の返答に裕介は額に手を当てたが、すぐさま顔を上げた。


「いや、分かった。それならそれでいい」


 何がいいのか分からなかったが、それ以上は余計なものを掘り起こす気がして和真は訊くのを止めた。

 それからしばらくは今までが嘘だったかのように穏やかな日々が続いた。気がつけば中間試験の時期が間近に迫っていた。


「あーだるいなぁ……」


 授業終了のチャイムが鳴った途端、前の席の安藤は両手を組んで体を伸ばしながらぼやく。試験前のために部活がなく、悶々としている様子だ。かくいう和真も部活がないテスト前の期間は少し苦手だった。


「なあ、一ノ瀬ー」

「だから、前に話したこと以外何も知らないって」


 安藤の意図を汲み取って和真は先に牽制の言葉を投げる。

 意外にも安藤はしぶとく、思い出したかのように朱音のことを聞き出そうとしていた。噂の情報源である友人があの現場の写真をこっそり撮っていて、見せてもらったところ朱音に興味を惹かれたらしい。


 隠し撮りはどうなんだと思うのだが、余計なことを言ったら薮蛇になる気がして和真は知らないの一点張りを決めている。そもそも、和真も朱音のことをほぼ知らなくて、話せることがないというのが実際のところだ。


「ちぇー、ケチだなぁ。そんなんだと女子にモテないぞー」

「はいはい」


 大いに結構と思いながら和真は荷物を整理する。噂話の格好の餌食えじきになるのは二度と御免である。

 それぞれが帰路につく中、和真は思い立って一駅隣まで足を運ぶことにした。


 今夜は母は夜勤で姉も用事があるらしい。携帯電話を確認すると『作り置きのものがあるから食べてね』と母からメッセージが入っていた。夕食の心配はないが早々に帰宅してもやることは同じだと思って、気分転換を兼ねてあの喫茶店に行こうと思い立ったのだ。扉を開けると小気味良い鐘の音が鳴る。 


「いらっしゃい」


 拓海の祖父である義明よしあきがにこやかに迎え入れてくれる。まだそれほど足を運んだわけではないが、穏やかで心地いい雰囲気に惹かれて自然とまた来たいと思うようになっていた。

 テーブル席が埋まっていて和真はカウンター席に座る。義明はすまなそうに苦笑いを浮かべた。


「席がカウンターしかなくて申し訳ないね」

「いえ、大丈夫です」


 何にしようかとメニューを手に取る。動けばすぐに汗ばむ季節だ。冷たいものがいいなと思い、和真は前に拓海から勧められたレモネードを頼むことにした。注文を済ませてから和真は周囲を見渡す。

 この喫茶店を訪れる客はみな穏やかな雰囲気だ。親しげに談笑し、店主とも気さくに声を掛け合っている。この店が皆に親しまれているということでもあり、それがなんだか嬉しかった。そこでふと足りないものに気がついて和真は義明に視線を戻す。


「拓海は……いないんですね」


 いつも勉強という名目で喫茶店に居座っている拓海の姿がないのだ。テスト前なのでバイトはさせてもらえないと聞いているし、いつものように店にいるのだと思っていたのだが姿が見えない。


「はは、もう少ししたら根を上げて来ると思うよ」


 そう言いながら義明はレモネードを和真の手元より少し上に置く。それから義明は少し寂しそうな、憂いを帯びた笑みを浮かべて口を開いた。


「和真君。改めて言うのもおかしいかもしれないけれど、拓海と仲良くしてもらえたら嬉しいよ」

「は、はい……?」


 投げかけられた言葉に疑問符を浮べるものの、それに対する答えが返ってくることはなかった。別の客からの注文が入り、すまないねと言って義明がその場を離れてしまったからだ。


 どことなく取り残された感覚のまま、和真は飲み物を脇に勉強を始める。あまりなかったやる気も少しずつ出てきて、それなりに捗り始めた時だった。聞き馴染みのある声が聞こえてきて和真は視線を上げる。


和兄かずにい


 拓海が喫茶店に入ってきたところだった。脛丈のパンツにゆったりとしたパーカーを着ていて、エナメルバッグを肩にかけている。今にも運動しそうな格好だ。拓海は空いている和真の隣の席に腰をかける。


「来てたんだ」


 連絡先を交換して何度かやりとりをした後、堅苦しいので敬語はやめようということになった。拓海のようなタイプに敬語を使われるとなんとなく距離を感じるというのが理由だ。初めのうちは拓海も少し戸惑っていた様子だったが、今は砕けたやりとりをしてくれるようになっていた。

 嬉々として隣に座った拓海に和真は呆れたような視線を向ける。


「拓海、テスト勉強は?」

「飽きた」


 拓海の即答に和真は閉口する。それから改めて隣に座る拓海を見た。

 動きやすそうな格好と荷物。いいことを思いついたと言わんばかりの笑みを浮かべる拓海を見て、嫌な予感がした和真は恐る恐る口を開いた。


「……いや、拓海、ちょっと待てよ?」

「和兄、知ってる? 運動すると勉強捗るんだってさ。近場に運動場あって、そこでちょっとだけみんなとサッカーやるんだ。せっかくだから体動かしに行ってみない? 座ってばっかだと鈍っちゃうよ」

「ええ……」


 行ってみないかという問いの形ではあるものの、拓海の言葉は有無を言わせない雰囲気だ。戸惑っているうちに和真は腕を引かれて席を立たされた。拓海は祖父に声をかける。


「ちょっと運動してくる。和兄の夕飯用意しておいて」

「すまないね、和真君。荷物はこちらできちんと預かっておくよ」


 申し訳なさそうに言う義明を見て、これは逃げられないなと悟った和真は半ば強制的に外へと連行された。

 近隣の運動場に向かってみると既に何人か集まっていた。テスト前にこんなにすんなり集まっていいものかと思うが、類は友を呼ぶというやつなのだろう。拓海の中学からの友人や高校のクラスメイトらしい。


 集まったのは和真と拓海を合わせて全員で六人。三対三で組分けしてゲームをすることになった。三十分のゲーム内で単純にゴール数が多い方が勝ちというものだ。


 拓海とチームが分かれた和真は大いに弄ばれることになった。そもそも運動靴とはいえ、制服のままサッカーというのは不利だと思う。いや、運動着でも結果はさほど変わらないとも思うのだが、それは置いておく。勝敗は言うまでもなく拓海チームの圧勝だった。

 四十五分ほどみっちり動いた後は疲労困憊だった。和真はすぐさま近場にあるベンチに腰をかける。夕食を食べたらそのまま眠れそうだ。その隣に拓海が腰をかける。


 拓海からタオルを渡され、和真はありがとうと言って受け取った。涼しくなる夕方とはいえ汗だくだ。拓海の友人たちもそれぞれ話に花を咲かせている。拓海は水を飲んでから口を開いた。


「和兄はもうちょっと運動したほうがいいと思う」

「俺もそう思う……」


 けろっとしている拓海を羨ましそうに見ながら和真は自動販売機で買ったスポーツドリンクを飲む。渇いた喉が潤い、穏やかに吹く風が心地いい。 


「サッカー上手いんだな」 

「そうかな。うん、まあ中学校はサッカー部だったから」


 だから自分の高校のサッカー部のことを知っていたのかと和真は今更ながら思い返す。少し小柄ではあるが拓海の体の使い方はしなやかで、周りにもよく注意を向けて柔軟な動きをしていた。


「……高校はやらないのか?」

「俺、あんま体格良くないしさー」

「高一だろ? まだ伸びると思うけど」


 拓海は苦笑してからもう一口水を飲むと、わずかに視線を下げた。


「……高校のサッカーとなると、学校によっては大会とかかなり本気で取り組んでるからさ。遠征費とかそういうのも結構かかるし、中途半端にはできないっていうか」


 拓海の快活な雰囲気が身を潜める。それは朱音について話を切り出された時の、年下には似つかわしくない落ち着いた空気とよく似ていた。それに伴って和真は自然と口を噤んでいた。


「バイトもしたいし、自分にはこんな感じに気楽に集まって遊ぶぐらいがちょうどいいなあって思って」

「……そうか」


 それから視線を上げた拓海は先ほどと打って変わって屈託ない笑顔を浮かべていた。


「俺、じいちゃんの店継ぎたいんだ。今はうちの店で手伝いみたいなもんだけど、他でバイトしてちょっとでもお金貯めておきたくてさ」


 どういう経緯かは知らないけれど、拓海は祖父と二人暮らしだという。両親が不在というのはそれだけでも様々な苦労があるだろう。祖父に気を遣う拓海の気持ちが少しだけ分かる気がした。


 一見すると拓海の行動は自由奔放に見える。けれど話を聞く限りとても堅実的だ。時折、年下に似つかわしくない空気を纏うのはそのせいだろうかと和真は思った。ただ、その雰囲気には戻したくなくて、和真は少しふざけた調子で指摘する。


「それじゃ、勉強の方も頑張んないとだな」

「分かってるってば」


 そう言って苦笑すると、拓海はベンチから立ち上がり解すように体を動かし始めた。和真に対して悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。


「和兄もクールダウンしておかないと、明日筋肉痛になるかもよ?」

「そうだな……」


 筋肉痛にならなければいいなと思いつつ、半分諦めながら和真も倣うようにストレッチを始めた。汗をしっかりかく運動というのが久しぶりで、疲労感はあるもののどこか心地いい。

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