第8話 ささやかな日々〈2〉
翌々日の五月五日は申し分のないほどの五月晴れだった。
とはいえ、最近は暑すぎるよなと和真は一人心の中で思う。少しでも体を動かせば汗をかくぐらいの気候だ。
大型連休の半ば、和真は出かけるために準備をする。日中暑いぐらいとはいえ朝晩は少し冷えるので、半袖の上に上着を羽織ることにした。リビングに行くと背景音としてつけられているテレビが朝のニュースを流していた。
『——日、二十時二十九分の電車に乗った後、行方不明となっている高校一年生の男子生徒と女子生徒の情報を公開し、情報提供を求めています』
日常に溶け込んでしまっている音は多くの情報を残すことなくそのまま耳を通り過ぎていく。出かけることは先に伝えてあるので和真はそのまま出かけようとしたが、直前に玄関で姉に呼び止められた。
「ほら、これ」
そう言って千晃が白い包紙を差し出してきた。和真が既視感を感じているうちにもう一度差し出される。とりあえず受け取って確認すると、中には〈健康祈願〉と書かれた白いお守りが入っていた。和真が問うより早く千晃が口を開く。
「誕生日プレゼント」
そう、今日は和真の誕生日だ。
プレゼントを用意する律儀さは見習うべきだよなと思うものの、お守りを誕生日プレゼントにしていいのかは甚だ疑問である。一般的な信仰心しかない自分でもこの扱いは神様に失礼な気がする。しかもお守りは〈健康祈願〉だ。
「……誕生日プレゼントにお守りって発想はどうかと思う。っていうか高校生に〈健康祈願〉ってどうかと思う」
「一言どころか二言ぐらい多くない? というか〈無病息災〉の方が良かったかな。昔、四日ぐらい行方不明になったうえに怪我して発見された人がいたよねぇ」
「それ今蒸し返すのかよ!」
「あんたが忘れないようにずーっと言ってあげるわよ?」
すっぱりと言い切った姉に、反論の余地もなく和真はぐっと言葉を詰まらせる。
昔、和真の行方が分からなくなって騒ぎになったことがあった。幼かった故に詳細を覚えていないのだが、迷惑をかけた引け目はあるので話を持ち出されるとぐうの音も出ない。
何も言い返すことのできない和真を見て、千晃は腰に手を当てると軽くため息をついた。
「……とにかく受け取んなさい。何もなく健康が一番」
反論できない和真は不服そうなままお守りをリュックの中にしまう。それを見届けてから千晃が口を開いた。
「今日は普通に帰ってきなさいよ。夕飯みんなで食べるんだから」
いつまでも姉が自分に対して子供扱いするところもやや不服であるのだが、この関係はそうそう覆らないだろうなと和真は思う。
父が他界して一家の柱となった母。そして、家事を中心に担って家を支えていた姉には頭が上がらない。それに互いに時間が噛み合いにくい今の生活スタイルで、家族揃って過ごすという時間の貴重さは少なくとも分かっているつもりだ。だから和真は精一杯の反抗心を込めてぶっきら棒に返す。
「分かってるよ」
そう言って玄関を開けると、五月晴れの空と湿り気のない風が迎え出てくれた。連休の中日であり、まだまだ休み気分の日常は賑やかだ。都内の電車は人で溢れていた。
約束していた時間の五分前。待ち合わせの駅にたどり着き、改札口で待ち人の姿を見つけて和真は手を上げる。
「朝木」
辺りを見渡していた由香は和真に気がつくとパッと表情を明るくする。和真は人の波を躱しながら近づき、由香は手に持っていた携帯電話を慌てて鞄の中にしまった。
「ごめん、待たせたか?」
「ううん、そんなことない! 私も丁度来たところだし」
そう言って由香は笑った。制服姿が見慣れているせいだろうか、雰囲気が違うなと和真は思う。
黒のショートパンツにスニーカー。白いシャツの上に薄萌色の少し大きめの上着を羽織っている。カジュアルな服装で快活な彼女に似合っているように思えた。思わずじっと見てしまっていたようで、由香が居心地悪そうに問う。
「な、何?」
「ああ、ごめん。なんかいつもと感じが違うなぁって」
「そう? 似合わない、かな?」
「いや、似合ってると思うけど」
和真の言葉に由香は微かに頬に朱を注ぎ、気恥ずかしそうにありがとうと呟いた。
「それじゃ、今日はよろしくね」
詫びをしたいという連絡に対してもらった由香からの返答は、買い物に付き合って欲しいという内容だった。思ってもみなかったことだったのでそんなことでいいのかと和真は思ったが、彼女がそれでいいのならと二つ返事で承諾したのだ。ただ、その日はあまり遅くなれないことを伝えると、分かったという返事がすぐに返ってきた。
そうして始まった一日。由香がまず行きたいと場所へと案内する。和真はたどり着いた先で陳列される商品を真剣に見つめる由香をなんとも言えない表情で見た。
「……朝木」
「うーん。……どうしようかな」
今二人がいる場所。そこは一般的な事務用品から様々な美術用品が揃う画材店だ。辺りを見渡せば、目的の品を探す客で狭めの通路は所々塞がっていた。
思い描いていた買い物と違うことに内心戸惑いながら、和真はもう一度由香に声をかける。
「朝木、本当にこれでいいのか?」
「え、うん。だって改めてちゃんと来たかったし。和真は楽しくない?」
中腰になって商品を見ていた由香は体を戻して和真に問う。
和真ももちろん見ていて面白いと思う。専門的なものが揃っている店というのはやはり興味が惹かれるし、色々見て回りたくなる。けれど、なんとなく違うような気がして和真は困ったように頭を掻く。
「いや、面白いけど。もっとこう……服とか雑貨とか見に行くのかなぁって思ってたから」
「……そういうの退屈じゃない?」
嫌いというわけでもないが、退屈じゃないかと問われて正直にはいと返すこともできない。しかし、せっかくの時間だし由香自身が楽しい方がいいのではないかと思う。
「俺は朝木の好きなようにしてもらっていいんだけど」
「そっか。……うん、ありがと。でもここもちゃんと来たかったから、ちゃんと付き合ってね?」
由香はそう言って笑うともう一度商品に視線を向ける。
それからしばらく悩んでいたものの、由香は文房具やクロッキー帳と共に革関連の商品を買っていた。和真が意外な買い物に内心驚いていると、それを察知したかのように由香は照れ笑した。
「この間のパスケースいい感じだったから、ちょっとお父さんに名刺入れとか作ってみてもいいかなぁって。レザーも面白そうだし」
「そっか」
そんなふうに画材店を見て回っているうちに昼になって、駅にあるショッピングセンターのカフェで昼食を取る。苺のパフェを美味しそうに頬張る由香を見て女の子だなあと思ったりもした。
その後は赴くままにショッピングセンターの洋服や雑貨の店を回って歩き、最後は駅近くのゲームセンターに立ち寄る。音楽ゲームで由香が高得点を叩き出したり、和真がクレーンゲームで景品を一回で取ってみせたりするなど大いに盛り上がった。外に出るといつの間にか日が傾いていて、空が淡い藍から橙色のグラデーションを作っていた。
そのまま二人は駅の改札口に足を向ける。由香のバッグには景品の豆柴のぬいぐるみがつけられていた。
「誕生日おめでと」
改札口で別れる直前、そう言いながら由香が手提げの紙袋を差し出してきた。
由香が誕生日を覚えていると思っていなかった和真は目を見張る。彼女は目を逸らしながらもごもごと呟いた。
「……あんまりもらっても嬉しくないかもしれないから、中身は期待しないで欲しいんだけど……。その、役に立てばいいかなって思って」
「いや、ありがとう。嬉しいよ。それに今日は楽しかったし」
自然と笑みが浮かぶ。ここ最近、思いがけない出来事が続いて気が塞ぐこともあったが、今日は楽しかったと純粋に思えたのだ。和真は差し出された紙袋を受け取り、由香がほっとしたように笑う。
「そっか、よかった。私も楽しかったし」
今日はありがと、と言って由香は手を振ると早足で歩き出し改札口を通って行った。その後ろ姿を見送ってから和真も自宅へと足を向ける。不規則に揺れる電車が心地よく感じた。
自宅に戻るとあまり広くないリビングのテーブルには様々な料理が並んでいた。帰ってきて呆気に取られる和真を見て、口元に手を当てながらいずみがくすくすと笑う。
「千晃が張り切っちゃったから、私はあんまり活躍できなかったわ」
「……こっちが本命だから。育ち盛り、ちゃんと食べなさいよ?」
そう言って千晃は取り皿などを用意するために背を向ける。嬉しくないなんてことはないけれど、なんとも気恥ずかしくて和真は小さくありがとうと呟いた。
久しぶりに家族揃ってゆっくり夕食を摂る。
海鮮の旨味が染みたパエリアはちょうどいい炊き上がりで、パリッと香ばしいお焦げも合わせて美味い。スープもサラダも野菜が豊富で食べ応えがあり、唐揚げはカラッと揚げられて店と遜色なく思える。千晃自身が食べたいからという理由で作ったティラミスもクリームの甘さとコーヒーのほろ苦さのバランスが丁度いい。用意してくれた料理はどれも美味しかった。
それだけでなく、好きに使ってとプレゼント代わりの小遣いを母から渡された。さすがにここ連続で貰ってばかりで気が引けて、和真は思わず手を上げて制止する。
「いや、さすがに……」
「こういうのはありがとう、って言って受け取るのよ」
「そうそう」
そう母と姉に言われて、仕方なしに和真は差し出されたもの受け取る。居たたまれずに片付けをしようとしたらあんたは主賓でしょ、などと千晃に退けられた。
手持ち無沙汰になってしまった和真は部屋へと戻ることにした。机に置いてあった由香のプレゼントが目に入って、ベッドに腰をかけて丁寧に包みを開ける。
中に入っていたのは簡単おもてなしレシピ集と書かれた本、クッキーとドリップコーヒーだ。メッセージカードには少し右上がりの字で『美味しいもの作ってあげて!』と書かれていた。
朝木らしいなと笑みを受かべながら、和真は由香に改めてお礼を送ろうと携帯電話を手に取った。
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