第6話 緩やかなる変化

 翌日、何事もなかったように朝は訪れる。

 あれから朱音とは特に実りのある会話もできずにそのまま帰宅した。そのなんとも言えない空気が残っていて昨日を思い返すと憂鬱だ。学校へ行くのも面倒臭いのだが、ぐだぐだしていたら姉に怒られると諦めて支度を終える。支度を済ませて家を出るときに母に呼び止められて、和真は足を止めた。


「これ」


 そう言って母から差し出されたのは封筒だった。封がされていないそれを不思議そうに見てから、和真は中身を確認する。中に現金が入っているのを見て目を見張った。


「新しいリュック買ってね」


 いずみはちらりと和真の右脇に視線を向ける。連休中にでも新しい物を買おうとしていた矢先のことだった。


「でも、これは俺の不注意だから……」

「必要なものでしょ。それぐらいのお金は普通にあるわよ」


 さあいってらっしゃい、と母がにこやかに笑う。


「……ありがとう」


 それ以上問答するのは無粋な気がして、和真はそのまま封筒を受け取って家を出た。


 普段と変わりなく学校へ着いて教室に入る。その途端、なんだかいつもより視線を感じるような気がして教室内を見渡した。なんとなく女子からの視線が刺さる気がする。

 席に近づくやいなや、前の席の安藤あんどうみなとが肩に腕を回してきた。背の高い安藤にガッチリと肩を押さえ込まれ、友人の島崎しまざき直希なおきが右脇を固める。


「一ノ瀬、美人の子といつの間に仲良くなったんだよ?」

「は?」


 安藤の発言に和真は動きを止め、心外だと言わんばかりに眉根を寄せる。


「校門の前でなんかちょっとした騒ぎになってたらしいじゃん」


 安藤はバスケ部だ。どこでその情報を手に入れたのだろう。

 安藤は女子いわく爽やかなイケメンというやつだ。タイプが違うと互いに分かっているので普段はそれほど積極的には話さないのだが。面倒なやつに捕まったなと思いながら、和真はきっぱりと否定する。


「そんなんじゃない。あれは——」


「へぇ? じゃあ一緒にいた女の子をほっぽり投げて、その子とどっか行ったってのはホント?」


 右脇を固める島崎が意味ありげな視線を向けながらそう言う。

 言われてみれば何も事情を知らない第三者から見ればそうにしか見えない。いや、理由はどうであれ事実はそうでしかない。和真は女子の刺さるような視線の理由に今更気がついた。


 噂——特に色恋沙汰の話に敏感な女子のことだ。この手の話がすぐに広がるのが和真でも容易に想像できた。

 しかし、あれ以外にどうしろと言うのだろう。和真は大声にならない程度で弁明する。


「あれは無くした定期をわざわざ届けにきてくれて……」

「ふーん。警察に届けなくてわざわざ届けにくるもんなの?」

「そりゃそうだけど……。でも本当だってッ」

「でさ、名前は~?」


 安藤と島崎に交互に攻め立てられる。これは弁明しても聞いてくれないやつだと和真はようやく気がついて、かつてないほどの深いため息をついた。

 そうしている間にも一限目が始まる。隙があれば絡んでくる安藤と島崎をなんとか躱しているうちに昼休みになり、和真は校舎外の片隅で一息ついた。今はとにかく一人でいたい気分だった。


 雲一つない清々しいほどの晴天。風に揺れる木の葉がサワサワと音を立てて塞いだ気が少し紛れる。

 昼食を取る前に携帯電話を確認する。昨日、帰宅する時に朝木に詫びのメッセージを送ったのだが、既読はついたものの返事がない。あの状況なら怒っても仕方ないだろうなと思うと、またため息が出てしまった。

 改めて平穏が一番だと和真は思う。早く落ち着いた日常を取り戻したい。明日を乗り切れば連休に入るのが救いだろうか。


「お疲れさん」


 そんな言葉と共に何かが後頭部に当たる。振り返るとペットボトルを持った俊が後ろに立っていた。

 何事かと思っていると、俊は何を言うでもなく再びペットボトルを差し出してくる。戸惑ったまま受け取ると、彼は手を軽く振ってその場を後にした。


 きっと気を使ってくれたのだろう。後で礼をしなくちゃなと思いながら、和真は冷えている清涼飲料水を口にした。

 その時、携帯電話に通知があって確認する。メッセージを確認して、ひとまずこちらはどうにかなりそうかなと思いながら、もう一口清涼飲料水を飲む。

 熱気に少し汗ばむ。真夏がもうすぐそこまで迫っているような、午後の日差しが煌々と辺りを照らしていた。



  * * *



 現実を再確認したいという思い。可能性はほぼないにしろ、朱音ともう一度会う機会があるかもしれないという考え。もしくは、ただ単純に知った人達がいるところから逃げ出したいという無意識のうちの行動かもしれない。


 授業を終え、和真は一人最寄り駅の隣駅へ向かう。今日までの一連の出来事は夢であって欲しかったのだが、店は変わらずそこにあった。

 やっぱり夢じゃないよなと思いながら遠慮がちに扉を開けた。出入り口の鐘が鳴り、店主のいらっしゃいませという声が聞こえる。


「こんにちは」


 少し遠くから声をかけられ、和真は声がしてきた方向に視線を向ける。二人掛けの席で昨日ウエイターをしていた少年が手を挙げてこちらを見ていた。断る理由が思いつかず和真は少年の席に向かう。少年は詰襟の制服を着たまま教科書とノートを広げていた。制服は首元を開けて少し着崩している。


「今日も来てくれたんですね」

「ああ、まぁ……」


 にこにこと人懐っこそうな笑みを浮かべる少年に和真は曖昧な返事をする。昨日の見苦しい場面を見られていたので少々居心地が悪いのだが、それを気にした様子もなく少年から自己紹介をしてくれた。


 三浦みうら拓海たくみ、高校一年生。昨日紹介されたように朱音の従弟だそうだ。店主である祖父と二人暮らしで、店の手伝いとしてバイトをしているのだと話してくれた。

 気さくに話しかけてくる拓海を見ていると、失礼ながら朱音とは似ていないなと改めて思う。和真にとっては拓海の気兼ねない雰囲気がちょうどよかった。ちなみに何故制服のまま喫茶店にいるかというと、学校の課題をしているのだそうだ。


「なかなか家だと手が進まないというか、やらないというか……」


 そう言って苦笑いをする拓海に勝手ながらに親近感が湧く。話している間に店員が注文を取りに来てくれたので、和真は烏龍茶を注文した。


「朱姉に何か用でした?」


 店員が離れたのを見ると、和真の意図を見越したように拓海はそう言った。理由としては半々のところだが、特に否定することでもないかと思って肯定で返す。


「……まあ、そんなところ」

「そうですか。最近はあまりこっちに来なくて」


 申し訳なさと残念さが半々に混じった笑顔で拓海は呟く。それを見て、元々はここへよく訪れるぐらいの仲だったのだろうかと和真は思った。


「そっか。……五十嵐さんとは仲良いのか?」

「……多分。昔からよくしてもらっていたから」


 なんとなく歯切れの悪い返事だ。ただ、家族や親戚も時間が経てば関係性が変わってくるだろう。無闇に立ち入るのは無粋だと思って和真はそれ以上のことは言わなかった。

 拓海はストローでレモネードのグラスの中をつつく。からんと氷が冷たい音を立てた。


「事情を何も知らない俺が言うのは筋違いだとは分かるんですけど。朱姉があんな態度だったのは理由があると思うんです。普段はあんな感じじゃなくて……」


 先ほどの気さくな雰囲気は鳴りを潜め、年下には似つかわしくない落ち着いた空気を纏う。そんな拓海を見て和真も改めて思い返す。


 誰にも認知されない透明な魚。それをきっかけに遭遇した幻覚や白昼夢だと一笑されそうな出来事。そんなものは余程いいことでもない限り遠ざけたくなるのが普通な気がした。悪いものなら尚更。


 彼女は見ず知らずの自分に声をかけて、未知の中を先導してくれた。何も思わないような人であればわざわざそんなことはしない。むしろ、昨日の態度は助けられた恩を仇で返しているようなものだ。


「……いや、俺が自分のことしか考えていなかったからさ」


 自分が知りたいという思いだけで話を進めようとしてしまった。話してくれると思って疑わなかった。勝手な期待を押し付けたのはむしろ自分だと和真は思う。

 和真の言葉に拓海は少し驚いたような表情をする。それから少し悪戯っぽい笑顔を浮かべた。


「朱姉も言い方があると思うんで。お互い様ってことで」


 そう言う拓海の表情は年相応に戻ったような気がした。雰囲気も声をかけてきてくれた時のような明るいものへと変わり、興味津々といったように口を開く。


「和真さんって高校、千歳緑ヶ丘ちとせみどりがおかですか?」

「ああ、そうだけど」

「近くだからよく見かけるんですよね。あそこ公立だけど、部活に力入れてますよね」

「まあ確かにそうかも。運動部は大会とかいいとこまで行ってみたいだし」

「サッカーは今年の二次予選、準決勝まで行ってましたよ?」


 拓海が苦笑混じりに指摘する。運動部に関してはあまり関心がないのであまり記憶に残っていなかった。

 それから学校のことやバイトのことなど拓海につられるように話していた。互いに特殊な家庭環境であることやバイトをしていることを知ると、なんだか急激に親近感が湧いてきた。たわいもないことを話し続けるうちに自然と塞いでいた気分が和らぐ。


 そんな些細な時間が、今はありがたかった。

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