第5話 広がる波紋〈3〉

 突発的な提案でその場を離れたのはいいが当然行く当てもなく、学校から少し離れたところで和真は足を止めた。そもそもお礼をすると言っても何も考えていない。結局は女性が近くに行きたい喫茶店があると提案してくれて、そこへ行くことにした。


 最寄りの駅から一駅、特に会話もなく歩く。先ほどの視線も耐え難いが、何も話すことがないこの空気も居た堪れない。

 隣駅に着き、見知ったように女性は道を歩く。更に五分ほど歩いたところでレトロな外観の小さな喫茶店に着いた。店先の小さな看板にはエトワールと書かれている。


「ここよ」


 和真に視線を向け、そう一言添えてから女性は扉を開く。カランカランと小気味良い音が響くと共にふわりと香ばしいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。

 店内は落ち着いた雰囲気だ。数組いる客は年配が中心だが、学生らしき人もいて席で勉強している姿もある。店主と客が気さくに話しているのを見て、昔から親しんだ人たちが訪れる店なのだろうかと和真は思った。


「いらっしゃい。お好きなところへどうぞ」


 白髪混じりの男性がにこりと笑う。アイロンのかかったシャツを着ていて几帳面な印象を受けた。女性は会釈すると四人掛けテーブルの中で一番奥にある席に向かった。

 席に着いたところで改めて名乗っていないことに気がついて、和真は挨拶をする。


「一ノ瀬和真です。昨日は……ありがとうございました」


「私は五十嵐いがらし朱音あかね。どうぞ」


 そう言って差し出されたのはメニューだ。先に見てもいいものかと思いながらも、受け取らないのも無粋な気がして手に取る。メニューは昔ながらの懐かしい料理や飲み物が並んでいた。


「ここのお店、学生は割り引きしてくれるの」


 へぇと感嘆の声を上げ、和真は浮かんだ疑問を遠慮がちに尋ねる。


「……えっと、五十嵐さんは?」

「私は大学一年よ。一ノ瀬君は高校二年よね」


 和真の質問の意図を汲んだ朱音はそう返した。年上だ、と思うと同時に昨日何か失礼なことはしていなかっただろうかと慌てて反芻する。それから、なぜ自分のことを知っているのかという疑問が浮かんだ。


「なんで……」

「ごめんなさい。拾ったパスケースに、定期券と一緒に学生証が入っていたから確認させてもらったの」


 なるほどと思いながら、一緒に学生証までなくしていたことに今更ながら和真は気がつく。無事に帰ってきたことにほっとするも、素性が先に知られていたのかと思うと少々気まずい。

 とにかく今はメニューを決めようと思い返して、和真はお任せのブレンドコーヒーにすることにした。メニューを返すと朱音は慣れたように飲み物が乗っているページを捲る。


 長い睫毛が影を落とす。改めて見ると目鼻立ちが整っていて、先ほど男子生徒に話しかけられていた理由を今更ながらに理解した。髪を耳にかける仕草も目に留まる。


「注文してもいいかしら?」

「あ、はい」


 声を掛けられて和真は慌てて返事をする。朱音がすみませんと言って軽く手を挙げると、はいと返事をして店員と思われる少年がやってきた。


 少し明るい色の髪は癖毛なのか所々跳ねている。ウエイターの格好をしているが、二重のはっきりした目でどことなく幼い顔立ちだ。同い年ぐらいのアルバイトかもしれない。注文を済ませて店員が戻ったのを確認してから和真は口を開いた。


「なんでわざわざ学校まで来てくれたんですか?」


 学生証で学校や身元が分かったとしても、直接会って手渡すのは効率が悪いと思った。返すだけなら交番に届け出た方が無駄もなく労力もかからないだろう。何となく、和真には朱音が理由もなく効率の悪いことをするような人には思えなかった。


「会えるなら、直接会って話をしてみた方がいいと思ったの」


 それは和真にとって願ってもないことだった。


 自分以外に透明な魚を認知することができる人がいる。今まで分からなかったことが分かるかもしれないという思いから、言葉は自然と溢れていた。


「昨日のあれは——」

「昨日は何もなかったわ」


 和真が全てを言う前に朱音が言葉を重ねた。

 二人の間は水を打ったようにしんと静まり返る。軽く目を伏せると朱音は言葉を続けた。


「貴方が帰りがけにパスケースを落として、私が偶然拾った。それだけ」


 初めは言われたことの意味が分からなかった。言われていることがゆっくりと頭に染み込んできたところで、和真は朱音が言ったことの意味を理解する。

 昨日の出来事は全て忘れろという意味だ。朱音の主張に自然と不服がこもった声が口をついて出てしまう。


「何でですか」

「……それが貴方にとって最良だと思うから」


 朱音は表情を大きく変えることはなく、ただ淡々とそう答えた。


 あの出来事が異常だということは理解できる。けれど、あれを無かったことにしろというのはあまりにも一方的だと和真は思った。聞きたいことは山ほどある。長年の悩みの種について何かしら知っているだろう相手に、そうですかとすぐには引き下がれなかった。思わず席を立ち、口調が少し強くなる。


「それは——」

「失礼いたします」


 そこで第三者が割り込み、和真と朱音はハッとしたように同じ方向へ視線を向ける。先ほどの少年がトレーを持って、笑みを絶やさずに二人を見ていた。


 そこでようやく自分が席を立っていることに気がついて、和真は気まずそうに座った。少年は注文の品を読み上げながらコーヒー、ティーポットとソーサー付きのカップを和真と朱音の前に置いていく。その間、二人は何も言えずに少し俯いたまま沈黙していた。

 しばらくしてから和真は違和感に気がついて視線を上げる。配膳を終えたのにもかかわらず、少年は去ることなく笑みを浮かべてこちらを見ていた。


 その矢先だった。にっと笑いながら少年は朱音を覗き込む。


朱姉あかねえ、彼氏さんと喧嘩はダメだよ?」

「へ?」


 思いがけない言葉に和真が二の句を継げないでいると、呆れたような表情をして朱音が口を開いた。


「喧嘩なんてしてないわ。それにそういう関係じゃないから」


 きっぱりと返された言葉は実に真っ当なのだが、それはそれで地味に痛いのはなぜだろうか。いや何で地味にダメージを負ってるんだと自分につっこみを入れつつ、和真は色々な意味で平常心を取り戻そうとする。


「ふーん? まあいいけど?」

拓海たくみ、仕事中でしょう? 公私混同しては駄目よ」

「はーい」


 ごゆっくりどうぞ、と言いながら少年は颯爽とカウンターに戻っていった。何事もなかったように他の客へ水を注ぎ回り始めて、和真は呆気に取られたようにその様子を見ることしかできなかった。


「失礼をしてごめんなさい。ここは私の祖父のお店で、拓海は私の従弟いとこなの」


 朱音の言葉になるほどと和真は納得する。彼女がこの店に慣れた様子だったのは親戚という理由もあったのだ。

 和真はちらりと拓海と呼ばれていた少年に視線を向ける。従弟と言っていたが、似ていないというのが第一印象だった。ただ、従弟なのだからそんなものだろうとも思う。


「冷めないうちに飲みましょう」


 そう言って朱音はカップに紅茶をそそぐ。

 先ほどの険悪な空気は拓海によって和らいだが、話を続けるにはぎこちない雰囲気になってしまった。手持ち無沙汰になってしまったのもあって、和真もコーヒーを一口飲む。


 普段飲むインスタントとは違った香ばしい香りが漂うとともに、苦味と酸味が口の中に広がった。

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