第2話 透明な魚と青い世界〈2〉

「……!」


 手が触れた途端に透明な魚は宙に溶けて消える。その瞬間、波に押されるような圧力を受けて和真は後方に体勢を崩したが、辛うじて踏みとどまった。

 それと同時に空気が変わる。波が引いた感覚がして和真はゆっくりと目を開けた。


 目の前に広がっているのは代わり映えしない、いつもの最寄り駅。けれどそこは白と青の濃淡だけで彩られていた。

 日常と同じであって同じでない風景。普通ではあり得ない場所だ。そう思った瞬間、ぞわりと悪寒が全身を駆け抜ける。それは恐らく直感だ。


 ここにいてはいけない。


 和真は改札口を素早く通り抜けて道路に出ると、すぐそばにある見慣れた並木通りを走る。出た先の街中もいつもと変わりのない風景なのだが、辺りはしんと静まり返っていた。音がなく、モノトーンのように白と青の濃淡だけで成り立っている水底のような世界。

 そこには誰一人として人はいない。ここにいるのが自分だけという現実をじわじわと実感させられ、心臓が異様に早鐘を打つ。


 ——クォーン。


 唐突に独特な生き物の鳴き声が轟いて、和真は身を強張らせてから天を見上げた。

 見上げた先は快晴。しかし、そこは空であるのに海の中にいるような水面のゆらめきと光のようなものを感じる。


 先ほどの鳴き声はなんだったのだろう。しかし、どこかで聴いたことがあるような気がした。ただ単純な音ではないような気がする。

 そんなことを思っているうちに、和真のはるか頭上を透明な魚の群れが通り過ぎていく。その後ろから現れたのは巨大で透明な魚影。


 いや、魚ではない。それよりはるかに巨体で海を住処とする哺乳類——クジラだ。


 透明な魚を追いかけていく姿を見て、先ほどの音がクジラの鳴き声だと気がつく。和真は魅入られたように魚に迫るクジラを目で追う。もう少しで魚の群れの一角が捕食される、その時だった。


「こっち!」


 その声とともに勢いよく左腕を掴まれ、ぐんと引っ張られる。和真はそこでようやく現実に引き戻されて視線を下に戻した。

 そこにいたのは黒髪の女性だ。他に誰もいないと思っていた和真は自分以外の人の存在を認識して狼狽えた。


「え……⁉」

「ごめんなさい、今説明している時間がないの!」


 女性は顔を強張らせながらそう言うと和真の腕を引いたまま走り出した。唐突なことで和真は思わずバランスを崩しかけるが、辛うじて立て直すと並んで走る。


 まるで何かから逃れるかのように走る女性からは焦燥が滲んでいた。その時、不意に後方から気配を感じて和真は後方を振り返る。瞬間、何かが勢いよく突っ込んでくるのが視界に入って慌てて身を翻した。

 しかし、わずかに遅い。リュックの右側に当たったと思った途端、その勢いを真っ当に受けて和真は地面に倒れ込んだ。素早く身を起こして自身の横に視線を向ける。


 その横を通り過ぎていくのは透明なクジラ。

 それはほんの一瞬の出来事。

 なぜだろう。

 それから目が離せなかった。


「……大丈夫⁉」

「あ、ああ……」


 焦燥が滲んだ声が聞こえてようやく和真は我に返る。心配そうな表情で女性に覗き込まれて、呆けている場合ではないと気がついて素早く立ち上がった。その場に携帯電話が落ちているのに気がついて慌てて回収する。女性は和真を一通り見渡すと、ほっとしたように息をついた。


「……何もなくてよかった」

「あれは一体? それに……」


 和真がそう言いかけたところで女性は首を横に振る。


「とにかく今はここを離れましょう」


 そう言って女性は走り出す。先ほどよりは速度を落としているし緊迫感は薄れていたが、何かを問う雰囲気ではなく和真は無言のままその横を走った。


 そうして辿り着いたのは街中にある小さな公園。和真も知っている自宅とそれほど離れていない場所だ。特に周囲と変わりはないような、と思っているうちに再びクジラの鳴き声が空に響いた。二人は空に視線を向けるが、透明なクジラの姿は見えない。女性は空を一瞥するとすぐさま和真に視線を向けた。


「ここに入って。そうすれば元の場所に戻れるから」

「……君は?」

「私はまだやることがあるから」

「それなら俺も ——」

「それは駄目だわ」


 返ってきたのは先ほどよりも緊迫感を持った声と冷めた視線。


 その瞬間、両肩を押されて和真は後方に体勢を崩す。道路と公園の境を越えた時、水面に体が当たるような感覚がした。その途端にぐらりと頭が揺れる。周囲はいつの間にか深海の水底のように藍の世界に変わっていて、視線の先に水面の光が煌めいていた。


 唐突に頭痛に襲われる。激しくなる頭痛に和真は頭に手を当てた。それと共に雑多な音が頭を侵食するかのように鳴り響く。聞き取れそうで聞き取れない。どこか聞き覚えのある音がずっと鳴っている気がして、和真は必死に耳を傾ける。


 ブランコが揺れる音。微かな葉のさざめき。子供の無邪気な笑い声。誰かが自分を呼ぶ声。

 訪れては消えていく音の波に呑まれ、頭痛とともに意識は水底へと沈んでいく。


  ——またね。


 遠く、そんな声が聞こえたような気がした。


 

  * * *



 少し冷えた風が肌を撫でる。


 和真はふっと目を覚ます。視界に入ったのは青墨の星空。暗い空の中、星が煌々と輝いていた。そよそよと流れる風が心地良くて、しばらく倒れたまま空を眺める。


 しばらく空を眺めた後、和真はぼんやりした頭のまま体を起こす。頭痛とともに目眩に襲われて思わず額に手を当てた。目眩はすぐに収まって、改めて和真は周囲に目を向ける。


 和真がいるのは見慣れた近隣の公園だ。ただ、あの青で染められた風景ではなく、日常で見ている何の変哲もない公園だった。それを見てこちらに戻ってきたのかと和真は不意に思った。 まるで現実味のない出来事に頭が追いつかない。


「一体何だったんだ……?」


 そう言いかけて和真は思い出したかのように左手の腕時計を見る。そして、目の前に叩きつけられた現実に言葉を失うとともにさっと血の気が引いた。慌てて携帯電話を確認すると何件もの不在着信が並んでいた。

 

  携帯電話の時計は——日付をまたいで午前一時に迫っていた。

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