第3話 広がる波紋〈1〉

「—— 言い残すことは?」

 

 狭い玄関のホールで正座を強いられながら、和真はただ一言だけ返した。


「……ありません」


 腕を組んで仁王立ちする姉に反論する気などもちろんなく、ただ平謝りするしかなかった。


 一ノ瀬家に門限という門限はないのだが、何かある時は必ず連絡をするのが決まりだった。 それを破ったのだからこの対応は致し方ないと思いつつも、今回は不可抗力だと和真は思う。したくてもできなかったのだと言いたかったのだが、夢とも現実とも思えない現象を話すこともできない。連絡をできなかった理由をなんとか誤魔化そうとしたが、それが却って姉の不興を買っているようだった。


 そこでずっと口を閉ざしていた母、いずみが口を開く。


千晃ちあき、もういいんじゃないかしら」


 姉の後ろから母が少し苦味のこもった笑みを浮かべた。それを見て千晃はしばらく沈黙していたが、少し間を空けてから大仰に息をつく。


「早く寝なよ」


 そう言って背を向けて片手を上げると千晃は足早に自分の部屋へと戻っていった。姉の後ろ姿を見送ると、先ほどまでの不穏な空気が鳴りを潜め、玄関がしんと静まり返る。


 その空気を破るかのようにいずみが和真に手を伸ばす。和真が遠慮がちに手を取って立ち上がると、母は確認するように全身を見渡した。ふわりと笑みを浮かべられ、かえって申し訳なさが先に立つ。


「何事もなさそうね。よかった」

「……ああ、うん」

「お風呂に入って早く寝なさいね。明日も学校があるんだから」


 重ねて問うようなことはせず、いずみはただそう言った。上手い言葉も見つからずにもどかしい。ようやく口にできたのは不甲斐ないほど拙い詫びの言葉だった。


「その……心配かけてごめん」


 いずみは少しだけ驚いたような顔をしてからふっと笑った。


「大丈夫よ。それじゃあ、おやすみ」


 それだけ言い残すと母も奥の部屋へと戻っていった。それを見届けて和真は軽く息をつく。

 不意にリビングの棚に視線を向けると、子供と穏やかに微笑む男性の写真が目に入った。肩から力が抜けたのを感じて、自分が思っていたよりも気を張っていらしいとそこで気がついた。


 玄関の右隣にある自室に戻ると和真は改めて腕時計の針を見る。まるで何事もなかったように時を刻む時計を見て、やはり先ほどの出来事は夢だったのだろうかと思った。



 * * *



 翌日の朝、改札を通る時になって昨日の出来事が夢でなかったと改めて和真は思い知らされた。リュックの右側にあるポケットが見るも無惨に裂けていたのだ。本体も少し裂けていたが、辛うじて使うには支障がないといったところだった。

 思い当たるのは言うまでもなくあの透明なクジラだ。あれが当たった時に裂けたのだろう。そこに入っているはずの定期券がないことにようやく気が付き、慌てて切符を買っていつもの電車に駆け乗った。


 無事に学校に着いたものの、昨日からの出来事で精神的に疲労困憊だ。授業などもちろん身に入らなくて、内容の多くは耳の遠く彼方を通り過ぎていった。


「和真、なんかむっちゃ疲れてねぇ?」


 昼休み、机に突っ伏している和真にそう声をかけてきたのはさとしだ。和真は少しだけ気怠そうに俊を見るとため息をつく。理由はたくさんあるのだが全てを話す気にもなれず、分かりやすい事実だけを伝えることにした。


「……定期なくした」

「はーそりゃ災難だったな」


 全く心配していないと分かる声音でそう言いながら、俊はまた安藤の席に断りもなく座った。和真はそんな彼を恨めしそうに見つめるも、当の本人は全く気にした様子もなく紙パックのジュースを飲んでいる。


「そんな時もあるって。けど悪いことは続くって言うし、何事もないように祈っとけば?」

「不吉なこと言うなよ……」


 やめてくれと言わんばかりにため息が出てしまう。正直これ以上訳が分からないことに巻き込まれるのはごめんだ。そういえばどうしてあんなことになったのかと、和真はふと思った。


 いつもなら見過ごすはずの透明な魚。あれに触れたのがきっかけだった。そういえば何故今まで触れようとしなかったのかと和真は今更ながら思う。

 頬杖をつきぼんやりと廊下を眺めながら記憶を漁る。祖母に触ってはいけないと言われていたのだと思い出した時だった。


 何気なく向けた視線の先、一人の女子生徒を追うように透明な魚が泳いでいく。それに驚いて勢いよく体を起こすとガタンと机が音を立てた。その音に少しだけ教室内の視線が集中するが、すぐさま興味は薄れて自分達の会話に戻っていった。


「……和真さーん。またなんか見えちゃった?」

「いや、まぁ……」


 俊の小さい問いかけに気が付き、わずかに浮いた腰を下ろして和真は気まずそうに応える。

 俊は和真の秘密を知っても変わらずに接してくれていた唯一の友人だった。たまに上の空で虚空を眺めている和真を馬鹿にすることも蔑むこともなかった。昔を境にしてほとんど透明な魚の話はしないが、それは今も変わらない。ありがたいと今更ながらに思う。

 俊は椅子の背もたれに頬杖をつきながら、いつもと変わらない様子で続ける。


「なんか慌ててたけどめずらしいよな、そういう反応」

「……ちょっといつもと様子が違ってさ」


 言おうかどうか一瞬ためらったが、和真は正直な感想を口にした。


 いつも空間を漂っているだけの透明の魚。それが意志を持って人を追っているように見えたのだ。今までそんなことがなかったので驚いたのだが、本当にそうだったのかと言われれば自信はない。昨日のこともあって神経質になっているのかもしれないと和真は思った。

 俊はそっかと言って廊下から視線を外し、重ねて聞くことはなく独り言のように呟く。


「ってか、あれって誰だったっけな?」


 見たことあるような気がするんだけど、という俊の言葉を上の空で聞きながら、和真はもう目的のものが無い廊下を眺めていた。

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