記憶の海の渡り人

立藤夕貴

一章

第1話 透明な魚と青の世界〈1〉

 それはいつかの記憶。 

 止まった水面に一つの雫が落ち、波紋が広がるように記憶を揺らす。

 

 鮮やかな橙色の光が差し込む病室。一人残された自分は目の前の光景に立ち尽くした。

 夕日に染まる部屋の中、透明な魚が無数浮遊している。

 横たわる人を取り囲むような光景は、子供ながらにも異様だと分かった。


「それに触れてはいけないよ」


 立ちすくむ自分に向かって、穏やかな声で祖母はそう言った。ベッドに伏せたままで何を言っているのかはっきりしなかった言葉が、その時ははっきりと意味を持っていた。

 その雰囲気に気圧されたように、うんと呟きながら頷く。

 いいこだね、と祖母は笑った。

 その声は穏やかで、とても寂しそうに響いた。



  * * *



 寒かった空気が春の香りを含んでいたのも束の間、今では既に夏の熱気を孕み始めている。瑞々しい青い葉が天に臨むように茂り始める季節だ。


 鳶色の髪の少年、一ノ瀬いちのせ和真かずまは身支度を終えてリュックを片手に出かける。 特急電車に乗り、揺られること二十分ほどで高校の最寄り駅に到着する。高校の近くには大学などのキャンパスもあり、この辺りは学生たちが多く住む学生街だ。

 教室に辿り着けばクラスメイトが親しい者を中心に挨拶をしている。新年度始まって間もないのでまだ席は出席番号順のままだ。大人しく廊下側の席に座ったところで見慣れた姿が前の席に腰掛けた。


 幼馴染みの陸田むつださとしだ。男子にしては大きい目と鼻元中心にそばかすがあって少し幼く見える。俊はまだ来ていないクラスメイトの席に跨るように座って頬杖をつく。


「はよー。今日暑いな」

「だな。 っていうか勝手に座っていいのか?」

「きっと心の広い安藤なら許してくれるから大丈夫」


 和真の指摘に対して俊は全く意に介することなく間伸びした口調で返す。

 俊とは小学校からの付き合いで今も昔も気兼ねしない仲だが、その気儘きままさに思わず呆れてしまう。そんな俊が携帯電話を見ながら眉根を寄せ、不思議に思った和真は声をかけた。


「どうした?」


「『通行人の男性が二十代男性と女性二人が倒れているのを発見。目立った外傷がなく、病気と共に事件の可能性を含めて原因を調べています』だってさ」


 そう言って俊は携帯電話の画面を向ける。発見された男女は意識不明の重体と書かれていた。今日の気温でも調べていて目に止まったのだろうが、朝から重い話は御免被ごめんこうむりたい。


「……朝から重すぎる話だな」


 それはそうだな、と言って俊は携帯電話の画面を消す。それからふと思いついたように明るい笑みを浮かべた。


「あ、そうだ。連休中もしバイトとか都合あえば映画でも見ね? ちょうど見たい映画の配信始まったんだよ。面白いのはもちろんだけど、撮影とか動画の編集とか改めて見たいやつでさ」


 自分の好きなことを楽しそうに語る俊は子供っぽくてどこか憎めない。それは何かを作るということが好きな者同士の共感が含まれているのかもしれない。和真は携帯電話を取り出してスケジュールを確認する。


「そうだな。じゃあ三日の午後とかは?」

「ん、おっけ。じゃあ適当によろしく」


 俊はそう言って席から立ち上がった。好きなことを好きなだけ語って去った俊に苦笑しつつ、和真も授業の準備を始める。そんな風に始まった学校はいつものように穏やかに過ぎていった。


 冷蔵庫の中身を思い出しつつ、和真は携帯を片手に今日の夕飯の献立を考えながら駅に歩き出した。同じように駅に向かう生徒たちが会話をしながら道を歩いていく。


「よ!」


不意に左腕を叩かれ、和真は携帯から視線を上げる。目の前にいたのは見慣れたショートカットの女子高校生だ。


朝木あさき」  


 女子高校生——朝木あさき由香ゆかは同じ部活の同級生だ。高校一年で同じクラスだったこともあって普段も割と声をかけてくれる。明るく竹を割ったような性格で、友人といる彼女の姿を見ると運動部の方が似合いそうだといつも思う。由香は少し意地悪げな表情を浮かべ、腰を折って覗き込んできた。


「なーに見ながら歩いてんのよ。歩きスマホは禁止ですー」

「あーはいはい……。悪かったよ」


 由香の指摘に和真は大人しく携帯電話を上着のポケットにしまった。大人しく引き下がったのを見て由香は和真の横に並んで歩く。


「で、何見てたの?」

「今夜の夕飯何にしようかと思って。適当に検索してたんだけど」


 和真の言葉に由香は少し複雑そうな表情をしたが、すぐにそれを潜める。


「……そっか。今日当番なんだ?」

「まあな」 

「大変だね」

「まあ、作るの嫌いじゃないし。片付けはちょっとめんどくさいけどさ」

「あはは、それ分かる〜。私も作るのは好きだけど後がねー」


 そう言いながら頬を指先で掻き、由香は苦笑いを浮かべた。それからは料理は何が好きだとか嫌いだとかたわいもない話が続く。話をしているうちに駅に着き、由香とは乗る路線が違うため改札内で別れる。


「今度いいやつ見つけたら教えてくれよ」

「うん、分かった。じゃあまた明日!」


 そう言って手を挙げると由香はもう一つ奥の階段に少し駆け足で向かう。ホームに車両が滑り込んでくる音がした。

 由香の後ろ姿を見送ってから和真は手前の階段を登っていく。上がりきった階段の先にあった光景を見て、不意に足を止めた。


「あ……!」


 足を止めた拍子に何かが当たってきて和真は思わず体勢を崩した。踏みとどまって振り返れば、強面の中年の男が舌打ちをしてこちらを睨みつけていた。


「すみません」


 和真は慌てて道を開ける。男は不満そうな表情をしつつも特に何も言うことなく、ホームの先の方に歩いていった。その後ろ姿を見ながら、何をやってるんだと自分に悪態をつきながら息をつく。


 その場に立ち止まったまま、和真は足を止めることになったモノに視線を向ける。

 そこにいるのは複数の透明な魚。さっきまであった暖かな空気がスッと冷えるような感覚が過ぎる。


 そうこうしているうちに目的の電車がホームに滑り込んでくる。和真は宙を漂う魚を一瞥した後、電車に乗った。

 いつものように降車口付近に背を預け立つ。車内は満席だがそれほど混んでいなくて、皆が携帯電話を見ていたり本を読んだり音楽を聴いたりと、それぞれの世界に没入していた。


 そんな電車の中でも透明な魚がフワフワと浮遊していた。形はどことなく金魚に似ているが、それもよりもはるかに大きな体は透けていて向こう側が見える。降車口のそばに立って壁に頭を預けたまま、和真はそれを眺める。


 特に何をするわけでもない。

 害があるわけでもない。

 だから自分はいつも、それをないものかのように過ごしていた。


 この現実世界と相入れないものと分かるそれを初めて目にしたのは、祖母の死の間際だ。いつもというわけではないが、不意に日常でも見かけるようになった。


 しかし、どうやらそれは他の人には見えないらしい。それを知ったのは幼い頃、何の気もなしにその透明な魚のことを指差して友人に声をかけた時だった。冗談に思われていたのだろう。初めは本気にされずに揶揄からかわれ、それが何回か続いた後に嘘つきと言われたり気味悪がられたりするようになった。今思えばそれは当然だと思う。それからようやく周りの人は誰一人として見えないということに気がついて、和真はその透明な魚についてほとんど話さなくなった。


 その時のことが脳裏によぎって和真は魚から逃れるように目を伏せる。そのまま過ごしていると目的地のアナウンスが流れて最後に降車した。


 降り立ったホームにも透明な魚が漂っていた。思わず足を止めてそれを眺めているうちに混んでいたホームも人がまばらになり、その姿がより一層顕著になる。 和真はゆっくりと足を進めて、不可思議な存在と距離を埋める。


 金魚のような丸い体に華やかな尾鰭おひれ


 なぜだろう。

 普段なら何もないかのように通り過ぎるのに、その時は目が離せなかった。

 まるで何かに引き寄せられるかのように。

 何かに呼ばれるように。

 その体に手を伸ばす。

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