第9話 水彩色の初恋

 時は過ぎ一人俺はアトリエにいた。

 応募した絵は落選し、アトリエは売られることとなった。

 このアトリエにいられるのは数日だけ。数多の絵は額縁に収まることも、ただ燃えることだけを余儀なくされる絵たちを見る。


 ――たった、一か月。


 瑠奈と日々が無駄だと通知宣告を受けたようだった。

 ……全て、無駄になった。

 賞に落選した日から母さんたちからハローワーク頑張ろうねと言われた。

 隈ができた瞳は暗い影を映す。乱雑に散らばった絵の床を立ち上がる透は椅子と縄を用意した。縄は輪っかを作り天井に括りつける。

 椅子に登って透はぎゅっと縄を掴んだ。


「ははっ、瑠奈が言いたいことってこれだったのか」


 本で描かれた物語のように上手くいかない、それが現実だ。

 何の価値もなかったと全身に罵倒のごとく失意を浴びせ突きつけてくる世界が憎くてたまらない。きっと、彼女もよく似た思いだったのだろう。

 彼女も自分自身に絶望したのだ。俺も同じだ、他の夢を追いかける人生なんて死んでも嫌だ。だからこそ、空気の水圧に彼女も溺れていたんだ。

 もう何も得られないなら。何も形に残せないくらいならと。

 横目で青色で形どられた絵画たちを見る。

 彼女と過ごした日々は何よりも大切だった。きっと彼女に抱いていた感情は羨望だけじゃなかったが、もう遅い。


 ――彼女と一緒に語った日々の思い出を、ここに閉じ込めよう。


 透はすっと、縄に自分の頭を潜らせ足で椅子を蹴った。

 静寂で支配されたアトリエに訪れる者はその日、誰もいなかった。

 


 ◇ ◇ ◇

 


「……もう、二年も経つのね」


 優月は海を眺めながら独り言を零す。

 海の潮風が懐かしく感じながら、一人この海岸へと来た。

 まるで、あの二人がここで出会ったのも偶然でなく必然めいたものを覚える。彼の姓が色波と聞いて瑠奈の絵の師匠なのだとすぐ気づいた。

 だから、彼のアトリエの崖の場所を知っていたのだろう。

 砕かれたガラス片のごとく月光を浴びた白波が足先へと伸びては戻るを繰り返す。

 彼の両親から手渡された絵を広げた。そこには、黄色の月に照らされ浅瀬で踊る一人の少女が描かれている。白いワンピースを翻しながら笑顔を浮かべて。

 まさに彼女と彼が一緒に出会った時を切り取ったかのようだった。


「……夜月が見せる水彩、ね」


 透君が私に渡すように描いた絵だと、彼が自殺したアトリエに封筒があったらしい。


「……二人が、望んだことよね」


 ……彼なりの、最後の抵抗なのだろう。

 二人の恋物語をもっと応援できたなら違っただろうか。

 今はもう、叶わないけれど。


「私だけは、忘れないわ」


 この絵画が、この場所が、二人にとっての居場所だったのだと告げているから。

 頬を伝う涙はガラス玉よりも簡単に沈み、砂へと落ちていく。

 恋の魔力を秘めた残酷な青海は、静寂をたたえひっそりと揺れていた。

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夜月が見せる水彩 絵之色 @Spellingofcolor

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