哲志−with SOUSUKE

「体に気をつけろよ。ちゃんと飯食えよ」

 JRのロータリーに車を停めて後ろの座席からスーツケースをおろし、歩道に突っ立ってぼんやりと俺の動きを眺めている裕揮におろしたスーツケースを渡した。すると裕揮は、いきなり顔をクシャと歪ませて、珍しく人目もはばからず俺に抱きついてきた。

 いきなりのことで反応できないでいる俺の頬を、裕揮は両手でぎゅっと挟むと、自分の唇を俺の唇に押し付け、そのままスーツケースを引っ掴むと春物の薄いコートを翻して早足で駅の構内に向かって歩いていく。

 泣いているのだろうか。俺と離れることが耐え難くて泣いているのだとしたら、それでいい。俺は心から、裕揮が選んだ道を応援してあいつを手放してやることができる。

 裕揮の姿が駅の出入り口を行き来する雑踏に紛れて見えなくなったところで、俺は運転席のドアを開けて車に乗り込んだ。


 さて――。

 俺はこれから、何をおいてでもやるべきことがひとつある。それは会社に戻って仕事の続きをすることでもなく、家に帰って1人分の荷物が減った部屋を片付けることでもなく、裕揮が居なくなった喪失感に打ちひしがれてやけ酒をあおることでもない。

 俺はヤツを捜し出さなければならない。

 これは裕揮が僻地医療に携わりたいと言い出したときからずっと考えていたことだった。俺が再び裕揮と共にあるために。そのためには、なんとしてでもあいつ――蒼介を俺は捜し出す。


 取り敢えず俺は、最初の手掛かりを求めて蒼介の親父名義である、以前俺と裕揮(その前は蒼介)が住んでいたマンションに向かった。

 相変わらず金持ち仕様でギラギラとした造りのマンションだ。つい2年ほど前までここに住んでいたというのに、余程性に合っていなかったのか、今はもうウンザリするような違和感しかない。

 エントランスを潜りいまだ持っていた合鍵でオートロックを開け、シャンデリアのぶら下がったエレベーターホールに入る。やってきたエレベーターに乗って上階に上がり、かつての我が家のドアを、まるで初めて訪問したときのような心持ちで開いた。

 電気はまだ開通されたままだ。お気楽な親父だと思いながらも有り難くその恩恵を受けてリビングの灯りを全灯にし、俺はリビングとダイニングを隔てるために置いてあったチェストの1番上の引き出しを開けて、中身を一気にテーブルの上にぶちまけた。

 ここに入っていたのはほとんどなにかの折に必要になるかもと取ってあった書類や郵便物だ。何年も前のクリーニング店の割引クーポンなんかも入っている。

 ちゃんと整理しておくべきだったなと思いながらソファに座り、様々な大きさの紙類から絵葉書の類だけを選り分けてテーブルの端に重ねていく。葉書の表側にはまずこのマンションの住所、そして「JAPAN」の文字。消印はすべて、違う国のもの。そして下半分には「今、ケニアにいます」だの「デンマークで家具職人の修行中」だの、おまえは"世界ウルルン滞在記か"と突っ込みたくなるような近況報告が、「蒼介」をくるんっと丸で囲っただけの簡単なサインで締めくくられている。

 俺はそれらの絵葉書をすべて紙の山から選り分けると、1枚ずつ日付けを確認して、1番直近であるメキシコからの葉書を手に取り残りをテーブルの上に残した。1番新しいものでももう日付けは6年前だ。蒼介の飽きっぽい性格からして今でもここに滞在しているとは考えにくい。期待はしていなかったが、少々落胆しながら俺はソファから立ち上がると、未練がましく何かないかと今開けた1番上の引き出しのその下の段の引き出しを開けた。

 引き出しの手前、1番端から、開けた勢いで少し奥にズレた銀色の灰皿が見えたとき、俺の脳裏に、まるでモヤが晴れていくみたいに一気に蒼介との記憶が蘇ってきた。

 俺は引き出しの中から、安っぽくて軽い、小さな灰皿を指でつまんで取り出した。


 蒼介と初めて会ったのは、俺がアメリカの大学を卒業して1度は就職したものの、思うところあって、もう一度大学に戻り経営学の勉強をしていた頃だった。

 実家の料亭は両親と兄夫婦だけで成り立っていたし、自分で飲食関係の会社を起業するのも悪くないと思っていたのだ。

 幸い実家は創業から100年以上は経つ老舗料亭なので、ツテはいくらでもある。後継ぎも望めない俺にとって、実家との距離をはかるにはそれくらいが丁度いいだろうと感じていた。


 その日は朝からよく晴れた、気持ちのいい日だった。

 俺は大学へ向かうアスファルトの道を、散歩も兼ねてのんびりと歩きながら今日の時間割を思い返していた。そのとき、「だからさ、俺が引っ張るから!怪しいもんじゃないって!」久々に耳に届いた日本語に、俺は思わず立ち止まると声のする方向を見た。するとそこでは、杖をついた老婦人と、その杖を掴む浅黒い肌をした若い男が何やら揉み合っているように見える。

 男は必死で杖を老婦人から奪い取ろうとしているが、老婦人もまたNo!と首を振って杖から手を放さない。ひったくりか?と目を凝らすと、老婦人の持つ杖の先がアスファルトの割れ目にガッチリと挟まってしまっているのがわかった。

 どうやらあの青年は老婦人の杖を引き抜いてやろうとしているのに、言葉が通じないせいでひったくりか何かだと誤解されてしまっているようだ。

 俺は2人に近づいていくと、老婦人に向かって「It seems like he wants to help you(彼はあなたを助けたいようですよ)」と伝えた。それを聞いた老婦人は、Oh!と慌てて手を杖から放し、青年は無事に杖を割れ目から引き抜いて老婦人に渡す事ができた。

 Thank you、Thank youと何度も言いながら去っていく老婦人と一緒に、俺もその場をサッサと離れようと、意図的に青年の存在を目に入れないようにしながら歩き出した。すると後ろから、「ねえ!ちょっと待ってよ!アンタ日本人だろ?待ってってば!」と青年が俺の背中に向かって声をかける。が、もちろん俺は待たない。

 日焼けした肌に色の褪せたTシャツ、後ろでひとくくりにした伸ばしっぱなしの髪、擦り切れたバックパック。こいつは暇と体力をもて余し身ひとつで海外を旅している典型的なバックパッカーだ。こんな人間と関わったが最後、家に泊めてほしいだの、金を貸してほしいだの、ロクでもないことを言われるに決まっている。

「待って、待って。たかりじゃないって。聞きたいことがあるだけ」

 青年は走って俺の前に回り込むと、人懐こそうな大きめのタレ目で俺を見上げると、「この辺で長期滞在できる安い宿ないかな」と訊ねてきた。

 宿に泊まろうというのだから、どうやら金は持っているようだ。なら、あれだ。1度は会社勤めをしたものの、何年か働いたのち、何か違うと会社を辞めて、貯めた金で自分探しの旅に出ている系のあれ。

 再び無視を決め込んでもよかったが、俺の頭は自然と数日前に俺の住むアパートメントの大家に言われた言葉を思い出していた。

「そう言えば、アパートの大家が誰か力仕事をしてくれる若いのがいないか探してたな」

「マジで?じゃあ俺がそれやれば住み込みとかさせてもらえたりするかな」

 青年が嬉しそうに顔を輝かせた。しまった、と俺は自分からこいつと関わる口実を作ってしまったことを心から後悔し、「どうかな、住み込みは難しいかも」とささやかな抵抗を試みる。

「一応頼んでみたいからさ。悪いけどそのアパートの場所教えてくれない?えっと……」

 青年が俺を指差しながら言い淀み、名前を知りたいのだと判断した俺は、「皆川みながわ」と短く答えた。

「ファーストネームは?」青年は馴れ馴れしく詰め寄ってくる。

「……哲志てつし

「よろしく、哲志。俺は田丸蒼介たまるそうすけ

 蒼介が満面の笑みで俺に右手を差し出した。


「哲志〜、ばあちゃんがチェリーパイ焼いたから哲志にも持って行けって〜」

 大家のマリアさんのことを「ばあちゃん」と呼ぶほど、すっかりここでの暮らしに馴染んでいる蒼介が俺の部屋のドアの前で叫んでいる。

 机に向かって本を読んでいた俺は、ため息をつきながら立ち上がるとドアの鍵を開けた。

「ういーす」

 蒼介はパイの載った皿を胸の前に持って、陽気に俺に向かって片手をあげてみせた。

 俺はそのまま黙って部屋の中に戻り、机に向かうと読書の続きを始めた。蒼介がこのアパートに住み込みで働くようになって1ケ月、こいつがこのまま大人しくパイを置いてすぐに帰らないことにももう慣れた。

「ねぇねぇ、何読んでるの?」

 蒼介は俺の許可なくズカズカと部屋に上がり込むと、俺が読んでいる本の横にパイを置き、するりと俺の肩に腕を回して本の中身を覗き込んだ。

「Business Management-Introduction」

「わかんねえよ」

 本の表紙に書いてあるタイトルをそのまま俺が読み上げると、何が可笑しいのか蒼介はケタケタと笑いながら、机の隅に置いてあった俺のスマホを勝手に手に取り勝手に俺の前にかざして顔認証にしてあるロックを解除し、「ビジネスマネジメントイントロダクション日本語で〜」とスマホに向かって話しかけた。そんな数々の図々しさも、もう煩わしいとさえ思わない自分に自分で呆れてしまう。英語がほとんど話せない蒼介と、日本語がほとんどわからないマリアさんがちゃんとコミュニケーションを取れていることといい、パッと見ひったくりと間違えられるような風貌でも、付き合っているうちにいつの間にかふっと人の懐に入り込んでいるような、そんな不思議な魅力が蒼介にはあった。

「経営学入門?哲志、経営学の勉強してるんだ」

 スマホの画面を見ながら蒼介が感心したような声を出す。

「……勉強してるって気づいたならそろそろ出て行ってくれるかな」

 俺がそう言うと蒼介は、へいへい、とスマホを置いて俺の肩から腕を放し、一旦離れかけてから、「哲志」と俺の名前を呼び、振り向いた俺の唇をあっさりと奪ってみせた。

 一瞬、驚いた。

 でも、蒼介が唇の間から舌を差し出したとき、俺は何の躊躇もなくその舌を自分の舌で絡め取って奥まで咥え込んだ。

「ね、ベッド行こうよ」

 唇を触れ合わせながら熱い息と共に内緒話でもするみたいな声で蒼介に囁かれ、俺はまた何の躊躇もなく立ち上がるとすぐ後ろにあるベッドに蒼介を押し倒した。


「はああ〜〜〜スッキリ〜ずっとヤってなかったからもう溜まっちゃって溜まっちゃって」

 そう言ってだらしなく裸の上半身を布団から出して、蒼介は俺のベッドの上に大の字になって横たわっていた。俺はそのすぐ横で、さっさと自分の衣服を身に着け始めている。

 事後の甘ったるい余韻に浸ることも、蒼介に愛の言葉を囁くこともない。俺にとって蒼介は、ただ性欲を発散させるための相手であり、蒼介にとっても俺がそうであるとはっきり自覚していたからだ。

 ただ、ひとつ気がかりなことがある。

「どうして俺がゲイだってわかった?」

 俺はベッドから降りて通常モードに戻るとすぐに蒼介に向かって問いかけた。自分がゲイであることを周りに隠している身としては、俺のどこにゲイバレする要素があるのかを知ることは最重要案件だ。

 蒼介は、うーん、と天井を見上げながら暫し考えたあと、「なんとなく?違ってたらごめんごめんって謝るつもりだった」と頼りにならない返事をよこした。

「同族にはわかる雰囲気とか?」

 しつこく食い下がる俺に、蒼介はハハッと軽く笑ってみせると、「どうだろ。俺はバイなんだよね。しかも、タチネコどっちもいける」と完全タチ専ゲイの俺にとっては信じられないことをあっけらかんと言ってのけた。

「……守備範囲が広いな」

「だってセックスできればそれでいいんだもん。気持ちいいじゃん、人と肌を合わせるのってさ」

 よっ、と言いながら蒼介は上半身を起こすと、そろそろ戻らなきゃ、と服を着込み、じゃあね〜といつもと変わらない調子で俺の部屋を出て行った。

 その数週間後、マリアさんが頼みたかった用事がひと通り済んだ頃、何故か俺は蒼介の親父の会社を継ぐために、蒼介と日本へ向かう飛行機に乗っていた。


 本で読むより実践で学んだほうがいいよ、と蒼介に言われた通り、実際に蒼介の実家が経営する会社に入って蒼介の親父である社長の元で一緒に業務をこなすことは、俺にとっては毎日が学びの連続だった。

 あんな道楽息子の父親の割に、社長はかなりの敏腕経営者で尊敬すべき人ではある。ただ社長を引退したい理由が「自分のブランドのワイナリーを立ち上げたい」という自由なところがさすが親子の遺伝子だ。そしてびっくりするほど、蒼介に対して甘い。

 蒼介が俺を連れて日本へ帰った途端、社長は俺たちが2人で住むための広いマンションと高級家具をひと揃い用意した。寝具はダブルベッドだ。

「親父さんはおまえの性指向を知っているのか」と訊ねる俺に向かって蒼介は、「俺のお父さんは俺に対する愛ゆえに息子のすべてを受け入れられるんだよね」とよくわからない理論を展開してみせた。そしてその日から、俺が会社から帰ると蒼介が、「おかえり〜」と言って食事の用意をして待っているという、不思議な同棲生活が始まった。


 ゴホッ、ゴホッと蒼介がベッドの上で苦しそうに咳き込む。

「世界中の病原菌を拾ってきたようなやつが、たかが日本の風邪をこじらせるなよ」

 俺がコップに入れた水を差し出すと、蒼介はそれを受け取ってひと口飲み、「俺がいない間に日本の風邪がより強力に変異したんじゃない?」と言ってもう一度ゴホッと部屋にウイルスを吐き出した。

 蒼介が撒き散らしたものから逃れるように俺がリビングへ退散すると、「哲志、今日会社は?」と寝室から蒼介の掠れた声が聞こえる。

「おまえが風邪引いてるって言ったら今日はもういいから蒼介のそばにいてやってくれだとさ。本当におまえに甘いよな社長って」

 俺が呆れたように言うと、「しょうがないよ」と今まで聞いたことのないような蒼介の声がして思わずハッとした。ここからではその表情を読み取ることはできない。

「俺、ひとりっ子だしさ。お母さんがね、早くに死んじゃったから。忘れ形見ってやつ?」

 ゴホッ、ゴホッと激しく咳き込む声。俺は慌てて喋るのをやめさせようと、「薬局行って風邪薬買ってくるよ。あとアイスノンとか。お粥、帰ってから作るから」とリビングとダイニングを隔てるチェストの上から財布とスマホを取り上げた。

「てつし〜」

「もう喋るなって。咳出るから」

「じゃなくて。ついでに煙草買ってきて」

「はあ?」

 こんだけ咳してるのに煙草って……と、心底呆れたが、これ以上会話を続けるのもなんだかはばかられた俺は黙って玄関に向かった。そんな俺の背中を、「マルボロの赤ね〜」という弱々しい声が追いかけてきた。


 ふはぁ〜〜〜と白い煙を顔の前いっぱいに吐き出した途端ゴホゴホと咳き込む蒼介に、壁にもたれて腕を組みながらその様子を眺めていた俺は、「そらそうなるだろ」と冷笑してみせた。

「いいんだよ〜」

 蒼介は口を尖らせながら、ふと気づいたように「やべ。灰皿ってないよね」とそのときだけ突然風邪が治ったかのように力の戻った目で俺を見つめた。

「ああ、忘れてた。100均で買ってきたんだった」

 俺は一度リビングへ戻ると、薬局でもらったレジ袋に一緒に放り込んだ銀色の灰皿を持って寝室に戻った。俺も大概お人好しだ。薬局に煙草は売っていなかったのでコンビニに寄って、コンビニで煙草とライターは買えたけど灰皿がなかったので、その足でわざわざ100円ショップまで行って灰皿を買ってきたのだ。

「サンキュー。気が利くね〜哲志」

 俺が差し出した灰皿を受け取って膝の上に載せると、蒼介はそこに灰をトントンと落として、もう一度煙草を口に持っていくと深く吸い込んで咳と一緒に煙を吐き出した。

「そこまでして吸いたいのかよ。ていうか蒼介吸う人だったっけ?」

 アメリカにいた頃の蒼介の記憶を手繰り寄せるが、煙草を咥えている姿どころか煙草の匂いをさせていたことすらない。

「なんかさあ、たまに体の中を悪いものでいっぱいにしたくなるときってない?」

 俺は返事をしないまま寝室を出たが、蒼介の言いたいことはよくわかった。例えばヤケ酒なんかがそうなように、まるで自分を1度全部ぶっ壊してリセットしたくなるような瞬間が確かに人にはある。

 蒼介は今、そんな気分なのだろうか。

 炊飯器から小さめの土鍋にご飯を移し、お粥を炊く準備をしながら、俺は、あ、と小さく声を出す。思い出したのだ。さっき俺が出かける寸前「しょうがないよ」と呟いた蒼介の小さな声を。

 父親の強すぎる愛。

 俺は最近ずっと社長と行動を共にして、あの会社の経営方針を聞いているうちに気づいたことがある。あそこは、いつか蒼介に継がせるために、蒼介という形の器にぴったり合うように作られている。小規模経営に確かな人脈。社長が発掘し、他社よりも高待遇で雇っている優秀な社員たち。正直、俺じゃなくてもいいんだ。あそこはいつか、蒼介が収まるためにある場所だ。でも蒼介にとっては、そんな何もかもが準備された籠の中の鳥でいることを、息苦しいと思う瞬間があるのかも知れない。蒼介が親父さんを嫌っている素振りなどはまったくない。久しぶりに帰国して再会したとき嬉しそうに父親に抱きついたそれは、完璧に愛する家族に対してする仕草だった。亡くなった母親の、たったひとりの忘れ形見。その座を守り続けようとしている自分と、そこから逃れて自由になりたいという自分の間で、蒼介は常にもがき続けているのかも知れない。

 だけどそれはそれ、これはこれだ。俺はいつか、蒼介にあの会社を返すことになるだろう。それまでの間、俺は経営者になるための研修の場として有り難く社長の椅子をお借りすることにしよう。俺はクツクツと煮えてきたお粥の中に、ほぐした卵を回し入れ小ネギを散らすとレンゲと一緒にお盆に載せ、煙草の匂いで充満している寝室にお粥を運んだ。

 蒼介が姿を消したのはその3日後だった。

 いつものようにマンションに帰ると、部屋の中は真っ暗で、蒼介の身の回りのものと、擦り切れたバックパックが無くなっていた。リビングのテーブルの上に、中身の半分くらい入った煙草の箱とライター、そして銀色の灰皿の下に挟んだ、「親父と会社のこと、よろしく〜」と書いたメモが残っていた。


 蒼介からの絵葉書の、最後の日付けがついたメキシコの住所に連絡を入れて、その後の足取りを順に追ってみたが、その足跡はすぐに途絶えてしまった。もっと前の日付けの場所にも連絡して、蒼介が立ち寄らなかったか訊いてみたがさっぱりだ。何か他に手はないだろうかと考えて、ふと、蒼介の親父は居場所を知らないのだろうかと思いつく。いや、あいつは親父から逃げているんだ。その本人に居場所を教えるなんて、そんな馬鹿なことはするはずはない、と思いつつも駄目元で蒼介の親父が営む丸介ぶどう園に顔を出したついでにさり気なく蒼介の居場所を知らないかと切り出した。

「え?哲志くん知らないの?蒼介、今日本にいるよ?北海道の島で漁師やってるんだ。この前、僕会いに行ってきたよ。海鮮丼、旨かったなあ〜」

 絶句したまま身動きすらできないでいる俺の目の前で、楽しそうにフンフンと鼻歌を歌いながらぶどうの木の手入れを続ける蒼介の親父を見つめながら、俺は言いようのない怒りがふつふつと湧き上がってくるのを感じ、「はあああああっ?!」と大声で叫ぶと、びっくりしている蒼介の親父をそのままにして駐車場に向かって全力疾走した。そして車に乗り込むとすぐスマホを取り出して、今から1番早くに北海道に到着できる飛行機の便を探し始めた。


 タクシーを漁港に乗り付けると、漁船がたくさん並ぶ波止場で漁師仲間たちと煙草を吸いながら談笑している蒼介の姿を、すぐに見つけることができた。

 俺はタクシーの運転手にここで待っててもらうように頼むと、タクシーを飛び降り「そ・お・す・け〜〜〜〜!!」と叫びながら一直線に蒼介に向かって走った。俺に気づいた蒼介が、ギョッとして一歩後ずさりする。

「ええっ?!哲志?なんで……」

 ガンッ!

 目を丸くしながら驚く蒼介の声は、俺が思い切り放ったパンチによって途中で途切れて消えた。

 え、どうした、どうした、とうろたえている年配の漁師たちを尻目に、俺はバランスを崩して尻もちをついている蒼介の腕を掴んで立たせると、「こいつ家出人なんで連れて帰りますね。何かご迷惑おかけすることがあったらこちらに連絡してください」と、漁師の1人に自分の名刺を渡し、「行くぞ、ほら」と蒼介の腕を引っ張ってタクシーに向かった。

「痛い!痛いって、哲志」

「うるさい。早く乗れ」

 俺は抵抗しようとする蒼介の腕を放すと、後ろから背中に手を当てて無理矢理タクシーに押し込んだ。そして俺も蒼介の隣に乗り込むと、「来た道を戻ってください」と運転手に告げる。

「んも〜いきなりだなあ」

 観念したのかフリをしているのか、取り敢えず大人しくなった蒼介の懐かしい間延びした声が俺のすぐ隣から聞こえる。うん、蒼介だ。

「おまえが言うな。俺は借りてたものを返したいだけだ」

「え?哲志、会社辞めんの?」

「元々あそこはおまえの場所だ。俺には俺の場所があるんだよ」

 俺は窓の外を眺めていたけど、そのとき俺の横にいる蒼介の空気がふっと変わったような気がした。

「はは〜ん哲志、パートナーができたんだね」

 からかうように言ったそのときの蒼介の声は、何故か昔風邪を引いたベッドの上で「しょうがないよ」と呟いたあのときの声に似ていた。

「じゃあ、しょうがないね。祝福しなきゃ。わかった、帰るよ」

 ミシッと座席の背もたれに体重を預ける気配を隣に感じながら、俺は、悪いな、という言葉を言いかけて慌てて飲み込んだ。

「もう気が済んだだろう。俺を代役にしたてて逃げ回るのも」

 そうだ。俺は悪くない。寧ろ被害者だ。

「うん、そうだね。気が済んだ。ていうか早く帰んなきゃって思ってたかも。だから日本に戻ってきたのかな」

「よく言うぜ」

 吐き捨てる俺に蒼介はハハッと笑うと、「まあ俺は哲志に信用されるようなこと何ひとつしてないからね」と言って「海鮮丼、食べた?」と突然話題を変えた。

 俺たちを載せたタクシーは、水平線に沿うように滑らかに信号のない道を真っ直ぐに滑っていった。


〈了〉




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