一葉−at home

「ぱぁぱ」

 そう言いながら小さな両手を差し出すこの世のものとは思えないくらい可愛らしい生き物を、俺はひょいと抱き上げ腕の中に包み、そのマシュマロのようなほっぺをはむっと自分の口の中に吸い込んだ。ん〜マジで食感はマシュマロそのものなんだよな〜。

「ちょっと、一葉いちは!お酒飲んだ口でちぃちゃんにそれするのやめてっていつも言ってるじゃん!」

 嫁の百花ももかがお風呂上がりのまだ濡れた髪をタオルでワシャワシャ拭きながら俺に文句をたれる。

 へいへい、と俺は娘の千咲から口を離すと、今度はようやくゴムで結べるくらいに生えそろった、まだ細くて柔らかい髪に鼻を埋めて思い切り息をすいこんだ。は〜いい匂い。癒やされる〜。

「んも〜結局、寝るの遅くなっちゃった」

 百花が聞えよがしに俺のいるリビングの絨毯にどっかと座りながらそう言うと、ドライヤーのスイッチを入れてブオーと派手な音をたてて髪を乾かし始めた。肩くらいまである髪がドライヤーの風に煽られてふわふわと横に揺れる。

「お風呂くらい一人でゆっくり浸かりたい」という百花は、いつも俺が帰宅する11時まで千咲と2人でお風呂に入るのを待っている。まだ2歳になったばかりで1日じゅう目が離せない娘から、ほんのひと時でもいいから解放されたい、というのが百花の言い分だ。ちなみに二人は午後にたっぷり昼寝をしているはずだから、こんな夜中まで起きているなんてどうってことはない。そして俺が帰ってくるなり、百花は千咲をサッとお風呂に入れて俺を呼び千咲をパス、俺が千咲の体を拭いたり服を着せたり歯磨きをしてあげたりしている間、自分は一人でのんびりと湯船に浸かって、1日の疲れとストレスをゆるゆるとお湯に溶かしている。でも百花はそれだけではまだ満足していないらしく、自分がお風呂からあがるまでの間に俺が千咲の寝かしつけまでしておいてくれたらいいのに、と思っているようだ。

 はいはい、わかってますよ。1日じゅうちっちゃい子と一緒にいることが、どのくらいのストレスを伴うかってことぐらい。でも俺だってさ、仕事終わりで寄り道もしないで真っ直ぐ帰ってきてすぐちぃちゃんの面倒みてさ、ちょっと酒くらい飲ましてもらってもいいと思うんだよね。それもお酒のディスカウントショップで買ったやたらと度数だけ高くて値段は安い偽物みたいな焼酎を更にお湯で薄めてちびちびやっているだけだというのに。

 こんなことばっかしてると、てっしさんとこで飲ませてもらっていた酒が、如何に上等なものばかりだったかということがよくわかる。まあ、あそこんちは社長と医者っていうハイスペックカップルだし、俺んちはしがない料理人と主婦。子持ち。生活レベルが違うのは仕方がない。なんてひがむのはお門違いだともちろんわかっている。幸せの形は人それぞれ。隣の芝生は青く見えるんだよね〜と俺は千咲のほっぺにすりすりと自分の頬を擦り付けた。と、やめて、とばかりに千咲のちっちゃな手がパチンと俺の顔をはたく。ごめん。

 それに、明日から百花はただの主婦ではなく、兼業主婦なのだ。

 百花は勇ましくドライヤーをカチッと止めてコンセントを引き抜き、くるくるとコードをドライヤーに巻きつけてキャビネットに置くと、手で乱れた髪を整えながら立ち上がり、俺の腕の中から千咲を奪い取って、「ちぃちゃん、ねんねしよっか。ほら、ニャンコちんも『眠いよ〜ちぃちゃん一緒に寝ようよ〜』って言ってるよ」と床に転がっていた猫のぬいぐるみ、通称『ニャンコちん』を拾って千咲の鼻先でふにゃふにゃ動かしてみせた。


「いつか、一葉の料理でお客さんに喜んでもらえるような理想の店を2人でやりたい」

 しっかり者の百花は、俺よりも1つ歳下であるにもかかわらず、俺なんかよりもよっぽど明確な夢と目標を持って着々と準備をはじめ、まずは軍資金を貯めるために千咲が入所できる保育園を1人で探し出し、育休を取っていた会社に復帰する手はずを整えて、いよいよ明日から働き始めることになっている。そんな勇敢な嫁に対して俺ができることといえば、百花と千咲が寝室で寝付くまでの間、リビングの電気を消して廊下に避難し息をひそめていることくらいだ。俺がリビングの電気をつけたままそこにいると、扉の隙間から漏れる明かりと気配で、敏感な千咲がなかなか寝ないらしいのだ。

 俺は千咲がニャンコちんに気を取られている間に、サッと絨毯に這いつくばってテーブルの影に身を隠し、2人が寝室に入ったと同時にリビングの電気を消して、焼酎の入った湯呑みとスマホを持って廊下に移動した。

 玄関に続く2メートルにも満たない狭い廊下の電気をつけた途端、ポコポコとラインの着信を報せる音が鳴る。うおっ、やべ。音、消しておくの忘れてた、とそっと寝室の方を伺うが大丈夫だったようだ。

 こんな時間にラインしてくるのは1人しかいない。俺は裕揮の、しだれ桜の写真が丸くトリミングされたアイコンをタップしてトーク画面を開いた。途端に、てっしさんが寝ている顔が大写しになった写真が現れ、俺は思わずぶっと吹き出す。

 酔っているのだろうか。ほのかに顔が赤い。そんな微妙な色も分かるくらいに最近のスマホは画質がいい。

 俺は廊下から、すぐ横にある風呂場の脱衣所にするりと移動して電気をつけると、音が漏れないようにピッタリと横開きの扉を閉め、扉にもたれながら開かれたままの裕揮のトーク画面の右上にある通話ボタンを押し耳にあてた。2回ほど呼び出し音が繰り返されたあとで、『はい』とまるでかかってくるのがわかっていたかのような裕揮の落ち着いた声が、何百キロも離れた遠い場所から電話を通して俺の耳に届いた。

「何これ?一体どういう状況?」

 俺は笑い交じりに、いきなり裕揮に問いかけた。

『哲志が会社を辞めてて、こっちに移住するって今日いきなり来たんだよ。で、村役場に挨拶に行ったら途端に村の人たちにしこたま飲まされて酔い潰れたとこ』

 それを聞いた俺は再び、ぶぶっと吹き出す。

「てっしさんが潰れるって、どんだけ飲まされたの。ていうか会社辞めて移住って……」

 俺は声を出して笑ってしまいそうになるのを必死で抑え、震えるお腹を抱えてその場に座り込んだ。あまりにも「らしい」展開には、もう笑うしかない。

「今、どこなの、そこ」

『俺が借りてる家。なんとか運び込んだ』

「へー。そんなに潰れちゃってたら、久しぶりの再会なのにえっちもできなくて可哀相だね」

 俺がニヤニヤしながらそう冷やかすと、裕揮は『う〜ん』と何やら歯切れの悪い声を出した。

「何?またなんか悩んでんの?」

 裕揮はいつも、どうでもいいことで悩んでいる。

『なんか……哲志はもうそういうの別にいいのかなって思って』

「どういうこと?」

『いや、だってもうアラフォーじゃん?なんかもうそっちは落ち着いちゃってるのかなって』

 はあ?なんだ、そりゃ。そんなもんか?俺は自分の10年後を想像してみた。性欲ってそれくらいになったら衰えちゃうもんなのかなあ。でも還暦過ぎても子どもこさえちゃう大物有名人とかいるし。あ、そうだ。

 俺はいいことを思いついて、電話の向こうの裕揮に向かって提案してみた。

「しゃぶってみたらいいじゃん」

『は?』

「寝てるなら今がチャンスだって。しゃぶってみてノッてくるようならまだ大丈夫だし、なかなか勃たないようだったら……」

 テロリン。いきなり通話が一方的に切られて、俺はしんとした深夜の狭い脱衣所に1人置き去りにされた。俺はため息をついて、無言になったスマホを耳から離す。あいつ、意外とこの手の話題に弱いんだよな。むっつりのくせに。でもきっと今頃、てっしさんの前で正座なんかしちゃって股間をじっと見つめながらどうしようか迷っているに違いない。俺はその姿を思い浮かべてまた笑いそうになって、湯のみに残った焼酎を一気に飲み干しながら立ち上がった。


 そっと暗い寝室に入って、リビングの向こうの廊下からやっと届くわずかな明かりを頼りに床に敷かれた布団に近づき屈み込む。ひとつの布団に寄り添い合うように一緒に入っている百花と千咲は、もうスースーと寝息をたてて眠っていた。俺は2人の寝顔を見つめ、思わず千咲の頬に触ろうと伸ばした手をおっと、と慌てて引っ込める。あぶない、あぶない。ここで、ちぃちゃんを起こしちゃったら、また百花から大目玉だ。なんて怒ってばかりいたって、百花はいつだって俺の人生の大切な伴走者だ。

 ねえ、裕揮。裕揮は前に言ってたよね。一日のうちにだって感情は次々と変動していくんだから、今幸せだと思ってても次の瞬間にはわからないって。それはさ、幸せが向こうからやってくるのを待っているからじゃないのか?俺の幸せは、いつもちゃんとここにあるよ。

 だから、大丈夫。

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