あと少し世界が続いても……。

笹木シスコ

真咲−from Lemon

真咲まさきー、準備できた〜?」

 俺が洗面所の鏡に向かって集中していると、リビングの方から麻也あさやの声が聞こえた。

 ちょっと待てって。今、耳にあいた穴にピアスをぶっ刺すところなんだから。まだ時間はあるんだから大丈夫だってのに、俺の相方は真面目くんなので、もし電車が遅れるだとかのトラブルがあって自分たちがレストランの予約時間に間に合わなかったら、とさっきから酷く気を揉んでいる。

 俺が返事をしないでいたからか「真咲?」麻也が洗面所の入り口から顔を出した。

「あとちょっと。これ、はめたら終わり」

 俺はそう言って、高校のとき麻也から初めてもらった、細かいモザイクの入ったシルバーのピアスの片方を、指で摘んで麻也の目の前にズイと突き出した。

 男が男にピアスなんて、普通プレゼントしないだろ?それが、するんだよなあ。なんせその頃から俺と麻也はラブラブだったから。俺たちは高二の始業式で初めて出会い、その夏にはもう付き合い始めて、あれよあれよで今年で十年を迎える。今ではもう夫婦同然だ。麻也が大学を卒業し、中学校の国語の教師になって一年が過ぎた頃から、俺たちは一緒に暮らし始め、今年の夏、付き合って十年目記念日には指輪の交換もした。今となってはまあまあ俺のシナリオ通り。ただちょっと、いや、だいぶ違うのは、俺が就職をしていない、というところだ。


 俺は高校生のとき、不眠症で薬を飲んでいた。その副作用で昼間も眠気が残り、あまり学校に行けていなかった。それでも担任や麻也の助けもあって、なんとか高校を卒業し、大学にも入学した。

 俺はその時まだ、大学もきちんと卒業し、いい会社に就職して、麻也と一緒に生きていくための地盤を固める算段をたてていた。

 でも、俺が入学した大学には、麻也が居なかったのだ。

 別々の大学に進んだ俺たちは、高校のときに比べて格段に一緒にいる時間が減ってしまった。お互い実家暮らしだったし、俺んちはもう終わってるからいいんだけど、麻也の家はちゃんとした家なので、そう易々と夜まで、互いの家に入り浸るわけにもいかない。大学は知らないやつばっかりだったし、麻也がバイトを始めて更に会う時間が減ったことがまた俺の寂しさに拍車をかけた。俺はまた高校んときみたいに、まるで体の真ん中に鉛を突っ込まれたみたいに、ベッドから起きあがることが難しくなってしまった。

 そうして俺は、二年に上がる前に、大学に退学届を提出した。


「真咲、洗濯機なんか入ってない?」

「あ、やべ」

 いつも忙しい麻也だけど、今日はちゃんと一日中フリーにしていたので、俺たちは心ゆくまで遅起きをして、そのままベッドでイチャついて、汚してしまったシーツを洗濯機に入れて回したまま、止まったのにも気づかず干すのを忘れてしまっていた。

「もうシワシワだ」

 俺はドラム式洗濯機の扉を開くと、中で丸まっていたシーツの端を掴んでズルズルと引きずり出した。

「取り敢えず干しとく。今日、雨降らないよな?」

「うん、多分」

 曖昧に答えた麻也の言葉を信じて、くしゃくしゃになった淡い水色のシーツを抱えた俺はベランダに走った。この家の家事はすべて俺の担当だ。まあ大黒柱は麻也だから、仕方ないよな。ていうか、これは俺たちが二人で暮らすときに決めたルールだ。麻也が生活費を稼いで、俺が家事を担う。そうやって俺たちは、お互い役割りを決めてどちらか一方に負担が偏らないよう公平性を保っていた。

 でも、やっぱりちょっと無理あるよな、と感じることはある。一応、家事だけだと時間が余ってしょうがないから、俺は一日四時間という少ない時間だけど、アルバイトをしている。でもさ、でも俺たちは、法的に婚姻関係になっていないから。麻也が大黒柱といっても、俺は麻也の扶養家族じゃないし、保険証も別だし、国民年金払ってるし、バイトなんていつクビになるかわからないし。結局、俺にはなんの保証もない、麻也は俺が居なくても生きていけるけど、俺は麻也に振られたらどうしていいかわからない、なんにもない人間なんだよな〜って、思ってた。つい先日までは。


「杉本くんさあ、正式にうちの社員にならない?」

 俺が雑用のバイトをしているデザイン事務所で、所長にそう告げられたのがつい一昨日のことだった。

 俺はびっくりして、左手で握っていたペンタブのペンを強く握り締めて、言葉を失う。

 実は最近、掃除やお使いや資料作成だけじゃなく、デザインの仕事の方もちょこちょこ手伝わせてもらっていた。きっかけは、俺が自分用のアイコンに使っていた、自分でデザインした猫のキャラクターを所長が気に入ってくれたことだった。欠席連絡などをするときのために、従業員は全員、所長とラインを繋げている。

「このアイコンの猫、いいねえ。どっから拾ってきたの?」

「あ、俺が適当に、アプリとか使って創ったやつです」

「え?杉本くん、天才?」

 その日から所長は、俺にパソコンで絵を描く方法を教え始めた。


 まだ、返事はしていない。麻也にも話していない。もし言えば、麻也はきっと喜ぶだろう。何故なら、俺が自分の身の上を心配している以上に、麻也は俺のことを心配しているからだ。この先もし自分に何かあったら、真咲はどうなってしまうんだろう、と。はっきり口に出して言われたことはないけど、わかる。長年一緒に暮らしていると、わかりたくないことまでわかってしまうし、それを無視することにも慣れてしまう。

 でも俺、正直、今のバランスが崩れるのが嫌なんだよね〜。だって俺がフルで働きだしたら、麻也はきっと家事を分担制にしようと言い出すだろう。それはもちろん公平性を保つためにだ。そしたら結果的に、俺のせいで麻也の負担が増えてしまうことになる。俺にとってはそっちの方が嫌だ。

「おまたせ〜。行こうぜ」

 ベランダの手すりに、手で出来る限界までシワを伸ばしたシーツを干し終わった俺は、ソファの背もたれにかけてあった紺のジャケットを引っ掴み、すでにグレーのハーフコートに身を包んで玄関で待っている麻也の元に向かった。


「やっぱ早いな」

 俺たちが駅のホームに着いた途端、タイムリーでやって来た電車に乗りこんだ時点で麻也が腕時計を見ながら呟いた。うん、わかってたよ。きみがちょっと心配しすぎなんだよ、と俺は電車の扉にもたれかかりながら心のなかで麻也に語りかける。でも俺にとっては丁度いい。何故なら、俺にはちょっと寄りたいところがあったからだ。

「じゃあ電機屋寄っていい?」

「え?なんで?」

「いや、ちょっと」

 今日がきみの誕生日を祝う日だという時点で、きみへのプレゼントを買うためだとすぐにピンとこないところが麻也のかわいいところだ。最も当日に、しかも本人の目の前で誕プレを買おうとしている俺も俺だけど。最初の数回こそサプライズ的なこともやってみたりしたけれど、さすがに十年も経つとそんなの億劫になってくる。だってプレゼントを贈り合う日なんて誕生日だけじゃないしさ。クリスマス。バレンタインデー。ホワイトデー。エトセトラ……。


 予約したレストランのある駅の一駅前で降りて、駅前にある大きな家電量販店に向かう。ここならレストランまですぐだし、麻也が時間を気にしなくてもそこそこ大丈夫だろう。第一、買うものはすでにもう決めてある。

 俺は店に入ると「一階で待ってる」という麻也を置いて、二階の家電コーナーに向かった。

 エスカレーターを上がると、キッチン用品、と書かれた看板を見つけて一直線にそっちに向かって通路を歩いていく。

 お目当ての棚の前に立ったとき、ありゃ、と俺の脳が少々バグった。「果物を摂りたい」と言っていた麻也の為にスムージーを作るためのミキサーを買おうと思っていたのだが、ミキサーなんて、一種類かせいぜい二種類ぐらいかと思っていたら、結構な数の種類がある。色んなメーカーが色んな機能を搭載した、色も形も様々な商品が棚の上にこれでもかと並んで、選択肢を増やしすぎるということは逆に選択の幅を狭めているんだ、と何処かで読んだ言葉を思い出す。

「すみません」

 俺は側に居た、何やら立ったまま忙しそうに書き物をしている店員を呼び止めて「この中でスムージーが一番簡単に作れるやつ、どれですか?」と訊ねた。

「そうですね……」

 どうやらお客様第一の精神を持った有り難い店員はすぐに書き物を止めると「これとか、これとか……これなんかもいいですね」といくつもの商品を指差してみせた。うん、あんまり、選択肢、減ってねえな。

「じゃあ、これ下さい」

 見た目重視の俺は、店員が指差した中で一番スタイリッシュな、土台と蓋がエンジ色で細みのシルエットがかっこいいやつを選んだ。値段だけ、そんなに高くないことを確認すると、あと節電だとか洗いやすさだとか色々値札に書いてあることは、全部無視だ。

 俺は、店員が陳列棚の下から引っ張り出してくれた、まだ段ボールの箱に梱包されたままになっている商品をお礼を言って受け取ると、レジで会計を済ませ、麻也が待つ一階へ向かった。


 エスカレーターで降りていく途中、上からもう麻也の姿を見つけた。てか、おい。ちょっと待て。なんだ、あいつ?麻也がカメラコーナーの前で誰か知らない男と喋っている。あいつ、まさかナンパ野郎?

「麻ぁ」

 俺はワザと特別な人間にしか言わないような呼び方で麻也を呼ぶと、二人の間に割って入っていった。

「うわ。何買ってんの、おまえ」

 麻也が、ぎょっとして視線を俺が抱えているミキサーの箱に移す。よし、見てろよナンパ野郎。こいつは俺のもんだとちゃんと分からせてやるから。

「だって麻也、果物摂りたいって言ってたから。スムージー作ったろうかと思って」

 俺はこれみよがしに大きな声でそう言うと、どうだ、俺はこいつと生活を共にしているんだぞ。とナンパ野郎をチラ見して……。

「あっ!!篠宮しのみやじゃん!」

 俺はまったく的外れな憶測をしていたことと、まさかの相手に出会ったことに驚いて、めっちゃ素のビビった声を出した。

 そこには、俺と麻也がまだ高校生だったときに同じクラスだった同級生、篠宮が無表情のまま立っていた。

「髪が全然違うな」

 篠宮がボソリと呟く。まあ、確かに髪色はだいぶ変えたけど。てか、こいつ、全然変わんね〜。無口で無愛想。何考えてるのかわからない。いや……でもなんか、ちょっと違うな。雰囲気が違う。あの頃はもっと、尖ってたっていうか近寄り難い雰囲気あったけど、今は少し丸くなったっていうか、う〜ん、いや違うな。疲れてるのか?

 とにかくその時の篠宮は、なんだか酷く元気がないように見えた。なんというか、まるで生気が感じられないというか……。

 俺たちはその後、高校を出てからお互いどうしてただのの話を少しだけして(仕事の話になったときは、ちょっとドキとして思わず冗談で誤魔化そうとした)篠宮が「じゃあ、お幸せに」と俺たちの仲を祝福する言葉を棒読みで言いながら立ち去ろうとした、その時だった。

「山口は?」

 俺は不意にその名を言葉にしていた。篠宮が変わってしまったのだとしたら、原因はきっと山口だろうと思ったから。だって高校のとき、篠宮は、明らかに山口のことを愛していた。俺たちのクラスは特別進学クラスで、三年間クラス替えも席替えもなかったから、いつも他クラスから篠宮を迎えにやってくる山口のモコモコヘアーを見つけたとき、篠宮がふっと表情を緩めるあの瞬間を、あいうえお順ですぐ後ろの席に居た俺は何度も見ていたのだ。

「山口は元気?」

 分かりやすく顔色を変えた篠宮に向かって俺はもう一度訊ねる。

「元気だよ」

 篠宮は自然を装ってそう答えたけど、その声の奥底に何か怯えのようなものがあるのを俺は見逃さなかった。

「真咲!もう行かないと予約の時間」

 麻也の心配症がまた炸裂して、俺と篠宮の間にあった緊張感を破る。

「あ、うん。んじゃね、篠宮」

 俺は仕方なく麻也の後に続いてその場を後にした。

 何か返ってくることを期待したわけじゃない。別に、今更篠宮のことなんかどうだっていいんだ。でも何故かその時俺には、何か大事なことを忘れているような、妙な引っかかりがあった。


「俺、篠宮になんか言いたいことがあったような気がするなあ」

 電機屋を出てから俺は誰にともなく呟いた。

「はあ?今更、何を言うことがあるんだよ」

 麻也がそれを拾って返してくる。

 駅のあるビルは電機屋とは大きな道路を挟んだ向こう側にある。俺たちは赤信号を灯している横断歩道の前で並んで立ち止まると、目の前を通り過ぎる速い車の流れを無言で眺めていた。

 篠宮に何が言いたいんだっけ?と俺はまだ考え続けている。何かとても大事なことのようにも思えたし、別に取るに足りないことのようにも思えた。

 まあ、いいんだけど。だって俺が言わなくても、きっと誰か別のやつが言ってくれている。なんでかわかんないけど、根拠はないんだけど、そう思う。例えばあいつ。俺が、姉ちゃんの大学にある心理相談室に通っていたときに出会った、あの栗毛で背の高い兄ちゃんとか。

 歩行者用の信号が青に変わって、交通規則に従って何台もの車がきちんとその流れを止めている。俺と麻也は、大通りを一気に渡り切るために急ぎ足で横断歩道を渡り始めた。そして、ふと思う。

 なんで今あの栗毛の兄ちゃんが、出てきたんだろう。篠宮と会ってから、何か点と点が、まだ線で繋がらないようなそんなもどかしさが俺につきまとっている。俺は順を追って考えることにした。

 俺が大学を辞めて暫く家で芋ってたとき、心配した姉ちゃんが「うちの大学に心理カウンセリングを受けられる部屋があるんだけど、行ってみない?」と俺を外に誘い出してくれた。それから月に一回、そこに通いつめた。多分3〜4年は行ってたと思う。バイトを始めてみてもなかなか続かなかったし、他にやりたいこともなかったし、外との接点が、たまに会える麻也と姉ちゃんとそこしかなかったから。そこは院で学ぶ学生の研修目的もあったから毎年担当が変わってたんだけど、最後に俺の担当になった院生の田端たばたっちがあんまりにも見当外れなことばっか言うから、カウンセリングが終わったあとのモヤモヤを解消するため、俺はたまたまその辺にいた、多分心理学部の学生を捕まえていきなり身の上相談を持ちかけた。その相手がその栗毛の兄ちゃんだった。

 俺はその時、すでに教師として働き始めていた麻也と、実家を出て一緒に暮らしたいのに、自分が仕事をしていないがために麻也にそれを言い出せないでいることを、ずっと悩んでいた。

 栗毛の兄ちゃんは、初対面でいきなり身の上相談を始めた俺を、邪険にすることもなく大学の構内にあったベンチに座って最後まで、うん、うん、と頷いて話を聞いてくれ、「取り敢えず、思っていることを全部お相手に伝えてみては?そしたらそれは、一人で悩むことではなく、二人で考える問題になるじゃないですか」と、不思議な色の瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。

 そうだ。俺、あのときのあいつの言葉があったから、あと後すぐに、麻也と暮らすことができたんだった。

 俺が麻也に、一緒に暮らしたいこと、でもバイトすら続かない俺にそんなことを言う資格はないんじゃないかと思ってることを伝えると、麻也はまるでなんでもないことのように、「あ〜ごめん、ごめん。俺から言わなきゃと思ってたんだけど、まだ仕事が落ち着かなくて余裕なくてさ。良かったら真咲、物件探しといてくれない?俺は家賃さえ高くなければ特にこだわりないから」と言って、あー腹減った、なんかない?と勝手に俺んちの冷蔵庫を開けた。


「あ、篠宮だ。何やってんだ、あいつ?」

 信号を渡り切って駅ビルへ向かう途中、後ろを振り向いていた麻也の声にハッとして俺も振り返ると、大通りの向こうで篠宮が電機屋の隣の広場にあった大きなクリスマスツリーに左手を掲げているのが見えた。

「念でも送ってるのかな」

 麻也が薄く笑って、すぐに興味をなくしたように前を向き直り歩き出したけど、俺は暫くその篠宮の姿に釘付けになった。

 あいつ、もしかしてあの手に指輪してるのか?

 さっき篠宮は、俺たちがしていたペアリングに興味を持ちながら、自分の手は頑なにコートのポケットから出そうとはしなかった。

 あんまり幸せな恋じゃないんだろうか。だから元気がなかったんだろうか。

 何があったのかは知らないけど、篠宮にもあの栗毛の兄ちゃんみたいな、自分をいい方向に導いてくれるような人との出会いがあればいいと思った。そして俺も、今、再びあの兄ちゃんの言葉に背中を押されたいと思っている。

 点と点が線で繋がった。

「麻也」

「ん?」

「俺、後で麻也に話したいことあるよ」

 俺は、正社員の話が来ていることを、麻也に伝えてみようと思った。そのことを一人の悩みではなく、二人で考える問題にしようと思った。

「なんだよ、怖いな」

 麻也がビビったように笑って俺を見たけど、俺は笑い返さなかった。

「別に怖い話じゃないよ。多分、良い話」

 俺はそう言うと、もう一度、振り返って篠宮のいた方向を見た。

 でも、そこにはもう、篠宮の姿はなかった。

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