第3話 香月の正体

 真っ暗な部屋の中で、あすなは目を覚ました。

「ここはどこなのかしら?」

 自分が縛られているのを感じた。

 しかし、それほどきつく縛られているわけではなく、ある程度軽くなら動かすことができる。それでも、縄を解くことは不可能で、なまじ緩く結ばれていることに、ぬか喜びさせられた自分が情けなかった。

「目が覚めたかい?」

 ギーっという重たい金属の扉が開く音がして、四角い光が飛び込んできた。

 そこにはシルエットで人の姿が映し出されていて、その声の主が香月であることはすぐに分かった。

「香月さん、これはどういうことなの?」

「あすなさんには悪いと思ったんだけど、少しの間、僕とここで一緒にいてもらいたいんだ。悪いようにはしない。これも君を守るための一つの行動だと思ってほしい」

 あすなは、その言葉に疑念を覚えた。

――一つの行動? ということは、私を守るためには、他にも行動を取らないといけないということ?

 何か、大きな陰謀に巻き込まれてしまっていることに、あすなは気づいた。

「どういうことなの? 私が何をしたの?」

 そこまで分かっているので、あすなは、なるべく自分が何も知らないふりをしなければいけなかった。

 だから、その言葉には、

――こんな状況に陥って、パニックになっています――

 という意識を相手に植え付けなければいけない。

 相手はあくまで落ち着いている。あすなの考えていることなんか、お見通しなのかも知れないが、策を弄しないよりも弄した方がいいように思った。とりあえず様子を見てみるしかないだろう。

 その時のあすなには、恐怖というものは不思議となかった。まるで自分には誰かがついていてくれて、最後にはその人が助けてくれるという妄想が頭の中にあった。それが誰なのか分からないが、あすなには、予知能力のようなものがあったのだ。

 香月は話始める。

「あすなさん、実はあなたが学説を発表するというプレス発表をさせてもらった」

 あすなはビックリして、

「えっ、どういうことなの?」

「君が学説を完成させていることは分かっている。それを発表しようという準備を今していることもね。でも、今その発表をされると困るんだ。それは僕が困るだけではなく、あすなさんの身にも危険が及ぶことになる。それで不本意だけど君をここに監禁し、プレス発表をしたんだが、君が行方不明になったので、発表は中止ということにしたいんだ。一度中止にしてしまうと、君も知っていると思うけど、しばらくの間、発表する機会を持つことができないだろう? それが狙いなんだ」

「まったく意味が分からない。分かるように説明して」

「申し訳ないが、それはできない。いずれはすべてを話すことができると思うんだが、今はできないんだ。こうやって君を監禁し、君を守っていることで、本当なら僕にも危険が背中合わせになってしまっている。とても辛い選択だったんだけど、僕にはこの方法しかなかったんだ。僕には、特殊能力が備わっているわけではないからね」

 あすなは、香月のことを本当に悪い人だとは、この期に及んでもどうしても思うことができなかった。香月の顔を見ると、最初だけは、

「何て、図々しい男なんだ」

 と感じさせるほどの上から目線に見えていたが、今では、辛い顔しか自分の前で見せることはなかった。

 香月はあすなの前で自分の辛さを隠さないのは、それだけ自分があすなに対し、哀れみを感じていて、

――俺のような男でいいんだろうか?

 という思いが見え隠れしているからだ。

 あすなには予知能力はあるが、相手の心を読むという、優香や綾のような力はない。そのことが、香月に辛い顔をさせるのだった。

 香月は優香や綾のことも知っている。知っていて、あすなに近づいたのだ。

 もちろん、正樹のことが気になっているのももちろんのことだが、本当の目的は、あすなを取り巻く危険から救うためのものだった。

 あすなを取り巻く環境に中で、一番状況を分かっていないのはあすなだった。

――優香には綾がいる。あすなには正樹がいたが、今はいない――

 それが、香月の感じているあすなを取り巻く環境だった。

――俺が、正樹さんの代わりになれればいいんだが――

 という思いを抱いているのも事実だ。

 しかし、その感情が、次第にあすなに対しての恋愛感情になってきたことを、香月は感じていた。

――俺が、女性を好きになるなんて――

 今までに、自分が接触した女性で好きになった相手はいなかったと思っている香月だった。

 確かに、優香や綾というのは魅力的な女性で、普通なら、どちらかの女性に恋心を抱いても不思議ではなかったはずなのに、香月は二人に対してそんな感情を抱かなかった。

――俺は、女性を好きになれないのかな?

 と感じていたが、それが優香と綾の女性同士の恋愛感情に阻まれていたことを香月は気づいていなかった。

 もちろん、二人の関係を怪しいとは思っていたが、

――まさか、そんな――

 と思っていた。

 しかも、今度は自分が近づいたあすなに対して、哀れみを感じてしまったことで、自分の中に辛さが真っ先に生まれてきたことに違和感があったのだ。

――こんな思い、初めてだ――

 それが、あすなの心の中にある、正樹への思いだと知った時、

――正樹という男の存在を、あすなさんから消さないと俺の本当の気持ちは自分で納得ができない――

 という思いに至ったことで、香月は、正樹の行方を追うことを決意した。

 あすなに近づいたのは、綾に頼まれたからだ。

「ミイラ取りがミイラになった」

 ということわざがあるが、香月はまさに、そのミイラ取りなのかも知れない。

 あすなは、そんな香月の気持ちを分かっていない。あくまでも、香月が自分の口から喋った言葉を信じているだけだ。

 香月は、あすながそんな素直な女性であることを分かっていた。分かっているから辛く感じるのであって、その辛さが自分にも同じように伝染し、

――これが人を好きになることなんだ――

 と、自分の気持ちを納得させたのだろう。

 あすなが、研究を完成させたことは香月も分かっていた。完成したのが優香とどちらが早かったのか分からなかったが、二人の研究の発表を、少しでも遅らせたいという意識が香月にはあったのだ。

 二人の研究の内容を両方とも知っているのは、香月だけだった。もちろん香月は専門家ではないので、そんなに詳しいことが分かるわけではないが、二人の研究が同じ発想から始まって、違った結論を導き出したことだけは分かっている。それは、それぞれに説得力があり、どちらが最初に発表されたにしろ、最初に発表した場合と後から発表した場合とでは、結果は同じであることを、香月には分かっていた。

 ただ、その結果がどういうものであるかということは分からない。香月には、あすなにも優香にも、どちらにも傷ついてほしくはなかったのだ。

 香月は優香が病に侵されていることを知っていた。それは綾が知るよりも前からのことで、医者以外で優香が病気だと知っていたのは、香月だけだった。

 香月は、優香とは高校時代の友達だった。

 優香が学者を目指すと言った時、

「おいおい、女性のお前にそんな研究者のようなことができるのか? 一体どんな研究をしようって言うんだ?」

 と聞いてみると、

「タイムマシンやSF的なことを研究したいって思っているのよ。女だてらにと言われるかも知れないけど、私以外にも同じように研究者になろうとしている女性がいるらしいんだけど、その人がどんな人なのか、少し見てみたいわ」

 それがあすなのことだった。

 その頃のあすなは、幼馴染の正樹が研究者になりたいと言っていたのを聞いて、

「私もなりたいわ」

 と言い出すようになっていた。

 そんなあすなを見に行った優香だったが、その時はあすなの決意がそれほどのものではないと気が付いて、一旦は研究者になるのをやめようと思ったのだが、結局は研究者になった。

 その心境の変化については、香月にしか分からなかった。そして、その時の心境の変化を見た香月は、

――俺が優香を好きになるということはないかも知れないな――

 と感じた。

 要するに、ついていく自信がなかったのだ。

 その頃には、優香に相手の心を見抜くという特殊能力があることを見抜いていた。

――俺の心も見抜かれているんだろうな――

 と感じたことが、ついていけないと感じた一番の理由だった。

 それでも、優香から離れられなくなった自分を香月は感じていた。

 それは、優香を好きになるよりも結びつきという意味では深いものではないかと感じていた。

――恋愛感情よりも深い気持ちが存在するなんて――

 と、香月はビックリしていた。

 もっとも、香月はそれまでに女性を好きになったこともなければ、付き合ったこともない。女性を好きになるという感情がどのようなものか、具体的には分かっていなかったのだ。

 そのせいもあってか、優香と一緒にいる間、他の女性を好きになることなどないと思うようになっていた。実際に三十後半に近づいてきた今までに、誰かに恋愛感情を抱いたという意識はなかったのだ。

 本当は、香月は優香の掌の上で踊らされていたのだ。

「マインドコントロール」

 つまり、洗脳されていたと言ってもいい。

 ただ、優香には香月を洗脳していたという意識はない。彼の「好意」に甘えていたというのが本音だった。お互いに相手の気持ちが分かっていると思っていたのだが、少しずつすれ違っていたことで、本当の気持ちを見失っていたのかも知れない。

 香月はいいとして、優香の方は、相手の気持ちが分かるという力を有しているという自覚があるだけに、絶対に分かるはずのない思いだった。分かるはずがないというよりも、自分で納得できないことだからである。

 香月は知らなかったが、一時期、優香が好きになった男性がいた。その男性の存在は、香月はおろか、綾も知らなかった。後からその人の存在自体は知ることになるのだが、まさか優香に恋愛感情を持たせた相手だということに誰も気づくはずはなかった。

 逆にその人の存在があったから、優香には今まで誰に対しても恋愛感情を持ったことがないという錯覚を与えたのかも知れない。優香がその人のことをあきらめた瞬間から、優香の中で、その人の存在はおろか、その時に感じた感情を、自分の中に永久に封印し、

「これは墓場まで持っていく」

 と、決意させたものだった。

 優香に、恋愛感情を持たせたその人というのは、実は高梨正樹だった。

 彼は、研究所は違ったが、同じ研究をする人として、上官から紹介されたことがあった。研究所が違うので、本当は交流を持ってはいけないのかも知れないが、ちょうどその頃、二人が所属するそれぞれの研究所で、共同研究のプロジェクトが持ち上がっていたこともあって、比較的、交流は自由だった。

 その時に、二人はお互いの考えを話し合ったことがあった。

 もちろん、研究の核心に迫るようなものではなく、世間一般的な話だった。

 しかし、二人の考え方は結構違っていた。それだけに、話始めると、なかなか終わることはない。話が佳境に入ってくると、声を荒げることも少なくはなく、まわりからは一触即発に見えたかも知れない。

 それでも、当の本人たちは、結構楽しんでいた。同じ考えの人と話している時には感じられない新鮮さが、二人の間にはあったのだ。

「高梨さんのお話は勉強になります」

「いえいえ、優香さんのお話こそ楽しかったですよ。お互いにいい研究を続けていきましょうね」

 と、いつも最後は笑顔だった。

 しかし、そんな楽しい時期はあまり長くは続かなかった。

 それまで続けられていた共同研究が途中でポシャってしまったのだ。理由はどちらかが妥協しなければ進まない案件があり、どちらも譲歩しなかったことが原因だった。

「元々、無理だったんだよ」

 と、研究所のプライドはぶつかった時のことをまったく考えていなかった上層部の愚かさが、研究所内でも言われるようになった。

「営利にばかり囚われると、本来見えているものが見えなくなるんだろうね」

 結局、また研究所は外界とは一線を画した場所になってしまった。セキュリティも万全になり、息苦しい場所に変わってしまった。

 そうなると、正樹と優香の関係もそこで終わってしまった。お互いに未練はあっただろうが、しょうがないことだ。お互いに恋愛感情がなかったのが、唯一の救いだと思っていたが、本当にそうなのだろうか?

 優香の方は、アッサリとその現実を受け止めていたが、正樹の方は少々未練があったようだ。

 未練があっても、どうしようもないので、表面上は変わりなく研究を続けていたが、心の中にできてしまった暗い影は、どうしても取り除くことができなかった。

 そんな時に現れたのがあすなだった。

 今から六年前になるのだから、あすなが大学を卒業して大学院に進んだ時、研究所に研修に来た時、初めて二人は知り合った。

 正樹は、あすなのあどけなさに新鮮さを感じただけではなく、あすなの中に、優香を見た気がした。

 どこに感じたというわけではなく、話をしていて、食い下がってくるところは、まさに優香だった。

――俺は、この娘に恋をしたのかな?

 頭の中から優香がまだいる間のことだった。そのために、ハッキリと恋をしたという意識はなかったが、しばらくすると、頭の中にいた優香が消えたその時、完全にあすなに恋をしたと感じたのだ。

 しかも、それは遡及的なものだった。

――あすなを最初に見た時から、ずっと好きだったという感覚が残ってしまった――

 最初は、優香がいたはずなのに、その優香がいなくなったとたん、優香の位置に最初からあすながいた気持ちになっていたのだ。

――優香に悪い――

 という罪悪感はなかった。

 本当に最初からあすなが好きだったという感覚しかないのだ。

 しかし、正樹は別の意識も持っていた。

――あすなが現れたことから、自分が優香に恋愛感情を持っていたことに初めて気づいたのではないだろうか?

 という思いである。

 あすなは、自分が正樹に恋愛感情を抱いているとは、最後まで感じたわけではなかった。そのことに気づいたのは、正樹が死んでからで、彼の死は、自殺だったのだ。

 遺書があったわけではない。しかし、現状の状況から、自殺であることは明らかだった。しかも、自殺の原因に関しては、公にされなかったが、教授たちが原因についての心当たりがあるということで、自殺と断定された。

 ただ、彼が自殺であるということは、一部の人間しか知らない。大学でも知っている人は少ないだろう。あすなも彼の死は、心臓麻痺だと警察から教えられ、それを忠実に信じていた。

 あすなは、彼の死に疑問を持っていた。

 さらに後から現れた香月から、彼の死について疑問があると言われた時、胡散臭いと思いながらも、彼を遠ざけることをしなかったのは、正樹の死についての謎を解いてくれるなら、香月しかいないだろうという思いだった。

 最初は、香月が怖かった。あすなには、香月のようなタイプの男性に免疫があるわけではない。一度恐怖を感じると、なかなかそれを拭うことはできなかった。

 しかし、なぜか、彼に対しては自分から遠ざかるという気持ちはなかった。どこかに懐かしさを感じたからで、以前、自分の知っている人に似ているとすれば、それが誰だったのかということを考えさせられた。そのことを考えているうちに、次第にあすなは、香月の術中に嵌っていってしまった。

 ただ、香月の方とすれば、あすなを何かに利用しようという意識はなかった。最初に話があったように、純粋に高梨正樹の死についての疑問を解決したかったのだ。

 投書の話もウソではなかった。香月はなぜそれほどまでに正樹の死についてこだわっているのだろう? あすなには分からなかった。

 そんなことを考えているうちに、あすなは香月に監禁される羽目になってしまった。せっかく心を許せるかも知れないと思っていた相手に監禁されて、

――これから何をされるのだろう?

 と思うと、恐怖しか感じない。

 その恐怖は、最初にあすなの前に現れた時とは微妙に違っていた。それは、香月の態度の違いがそのほとんどで、最初に現れた時は憎らしいほどの余裕を見せていたのに対して、監禁された時に感じた香月は、余裕などまったくなく、ただひたすらあすなに詫びを入れていたのだった。

――この人は、私を監禁しながら、ずっと謝っている。本当はこんなことをしたくはないと思っているのに、それでもしてしまっているということは、それだけ切羽詰まっているということなのよね――

 と感じた。

 しかし、この思いはさらなる恐怖を呼んだ。

――本当はしたくないことをしなければいけない精神状態というのは、頭が回っていないはずで、気持ちにも余裕などあるわけではない。そんな状態で、冷静な判断が果たしてできるだろうか? 理性とは裏腹な行動を取ってしまうのではないか――

 と思うと、それはもはや恐怖以外の何物でもないことを表していた。

 しかも自分は縛られているので、自由が利かない身である。香月がそばにいればいいのだが、

――もし自分だけをそのままにしてどこかに行ってしまったら――

 と思うと、さらに恐怖を煽られる。

 いつの間にか自分が眠らされていて、ここで監禁されている。いつまでここでこうしていなければいけないのか分からないのは怖かったが、香月の様子をしばらく見ていると、――この人が自分に何かするということはないような気がする――

 という思いに駆られた。

 もちろん、信憑性も根拠もないものだが、あすなの予知能力がそう言っている。

――私が予知能力だと思っているのは、相手の気持ちが見ているものが一緒に見えていることなのかも知れない――

 これは、相手の考えていることが分かる優香や綾の能力とは違っている。あくまでも相手の気持ちを分かっているという意識があるわけではなく、相手が見ているものが見えていることで、先が読める気がしているのだ。

 したがって、あすなが予知能力を発揮できるのは、相手があってのことに限られるのである。

――本当は、俺はあすなの前にもっと後になって現れるはずだったんだよな――

 と、香月は考えていた。

 今回、あすなの前に現れたのは、完全に香月の意志だったのだが、本当であれば、

「決められた手順」

 というものが存在していた。

 そこには香月の「立ち位置」も計算されていて、その計算には、香月があすなの前に現れるのは、もっと後になってのことのはずだった。「決められた手順」に、香月が風穴を開けたのである。

 あすなが、「拉致監禁」されてから、かなりの時間が経ったのだとは思うが、意識を取り戻してから、今までどれくらいの時間が経ったのか、見当がつかなかった。

 そこは、四方を壁に囲まれていて、窓はない。開放されてから、どこに閉じ込められていたのかをハッキリさせないためであることは明白で、それくらいのことはあすなにも分かった。

 それでも、空腹感が襲ってきて、香月はきちんと食事を与えてくれるので、大体の時間経過は見当がついた。

 ただ、睡眠に関しては、昼と夜の感覚がないからなのか、眠くなっては寝るという程度で、眠っていた時間もどれほどのものなのか、時計もないのでよく分からない。ただ、眠っている時に夢を見ていたような気がする。もっとも、ここに閉じ込められていること自体がまるで夢のような出来事なので、どこまでが夢だったのか、よく分からない。

 その時に見た夢の中で、さらに眠ってしまい、その中で夢を見たような気がする。だから、夢の中の夢を見たことになるのだが、なぜか、目が覚めたという感覚は一度しかなかった。

 夢から覚めた感覚が一度だけだというのは、どちらの夢が覚めた時だというのだろう?

 起きている時に見た夢なのか、それとも夢の中で見た夢なのか、定かではない。しかし、その不思議な感覚が頭の中にある間、あすなは、

――何か新しい発想が生まれるかも知れない――

 と感じた。

 あすなは気づいていなかったが、今回、ここで監禁されている間に眠ってしまった時、見た夢の中に、優香が発想した学説があったのだ。

 そのことを、香月に話してみた。誰かに話さないと、気が済まない心境だったのだ。

「香月さん、聞いてくださる?」

「どうしたんだい?」

 香月は、あすながさっきまで眠っていたのを知っていた。香月もあすなを拉致監禁してはいるが、それをいつまで続けなければいけないのか、実は自分でもよく分かっていなかったのだ。

 誰かに頼まれて始めた行動ではないが、自分にも先が見えない。かといって、思い付きで始めたわけでもなく、目的は確かにあったのだ。

 それでも、いくら決意が固いとはいえ、人を拉致監禁し、いつ果てるとも知れない時間だけを浪費しているというのは、まるで寿命を削っているかのようだった。

「私ね。今、学会に発表しようと思っていることと違う発想が思いついたの。聞いてくださる?」

 香月はビックリした。

「どうしたんだい? そんなことジャーナリストの俺に教えていいのかい?」

「ええ、いいのよ。あなたがジャーナリストだろうが違おうが、私には関係ないの。あなただから話をしたいのよ」

 香月は、しばらくあすなを見つめていたが、

「よし、分かった」

 と言って、軽く頭を下げた。

「私が思いついた発想の原点はタイムマシンの発想なんだけど、これは私が今度学会で発表を考えている発想と同じところから始まっているのよね。それは、タイムマシンに乗って自分が今の世界から飛び出した時、私はその世界に存在しているかということなのよね」

「それはもう一人の自分ということかい?」

「ええ、私が以前提唱した発想では、『存在する』というものだったの。普通なら、存在しないと考えるべきなんでしょうけど、私は存在することで、歴史を変えないようにするためだって考えたのよね。でも、今考えたのは、存在しないという発想。普通の発想なんだけど、ここからが少し違う。それは、私がいなくなった世界のその先には、ずっと私はいなかったということになるのよね。でも、自分が未来に飛び出せばどうなるか? その時に初めて自分がこの世界に戻ってくるわけなんだけど、過去から自分が繋がっていない世界なので、それを辻褄を合わせようとすると、自分が戻ってきた世界も、最初から存在していたということになる。それは、自分が飛び立った瞬間から(その瞬間だけとは限らないが)果てしなく広がる可能性であるパラレルワールドの一つが選択されるのではないかと思うのよ。もし、それができないのであれば、タイムマシンなんかできっこない。それこそがタイムパラドックスであり、タイムマシンなんてありえないという発想に行き着くの。理論上は可能なのかも知れないけど、同じ人間が同じ次元の同じ時間に存在しえないとすれば、過去に行くことはできない。そう思うと未来しかないんだけど、未来に行くのも、自分がこの世界から飛び出した瞬間に、果てしなく広がる世界のどこに着地するか、誰かが決めなければいけない。そんな全知全能の神でも存在しない限り、タイムマシンなんかありえないのよ。だから、私は、今までやってきた研究が一体何だったのかって思うし、急に身体の力が抜けてしまったような気がするの」

 この発想は、香月を震撼させた。香月の頭の中には、タイムマシンありきの発想しかなかったのだ。

「タイムパラドックスの発想は、すべて、タイムマシンの存在を肯定することから始まり、タイムマシンの存在を証明することに終わると、俺は思っていたんだ」

 と香月が呟くと、

「そうね。私もそうだったわ。タイムマシンを否定することは、私の研究者としての人生を否定することであり、正樹さんを否定することにもなるような気がしたの。正樹さんも私と同じようにタイムマシンの研究に勤しんでいて、志半ばでこの世を去った。さっき、あなたが彼が自殺だって教えてくれた時、最初はショックだったけど、考えてみれば、最初から私も分かっていたような気がする。だから、私はあなたが彼の死を疑ってからのような行動はしない。彼の死を受け入れて、静かに彼の冥福を祈ろうと思っているの。あなたには悪いけど、それが私から言える正樹さんという人のイメージなのよ」

 あすなは、そう言って、首を垂れて、泣いているようだった。

「いいんだよ。僕もこうやって君を監禁までして本当は何がしたいのか分からなくなってしまったんだ。でも、もう少し開放するのを待ってくれないかな?」

 と言って、あすなに詫びた。

「いいのよ。私もこうやって縛られていると、普段発想できないことをたくさんできるような気がするの。香月さんが悪い人でないということが分かっているだけ、私は安心です。だから、私が発想したことがあれば、あなたに聞いてほしいの。そうでなければ、今みたいに話しかけたりはしないわ」

 あすなと香月の間に、確かに心の交流があった。そこに恋愛感情はないと思っているが、愛情の二文字は存在しているような気がする。

 恋愛感情のような一方通行ではなく、双方向からの愛情は、お互いを慈しむという感情ではないかと、あすなも香月も感じていた。二人の間に存在する思いは、次第に熱くなっていった。

「私は、タイムマシンの発想で、もう一つ思いついたことがあったんですよ」

「それは?」

「ここに来てからの発想なんだけど、出発点は、やはり同じ、タイムマシンでどこかに飛び出した後の世界に自分はいるか? ということなんですよね」

「はい」

「その時の発想は、存在しないというもので、未来にしか飛び立つことができないというものなんですよ。過去にいけないというのは、さっきの発想と同じで、もう一人の自分が存在するからなんですよね。でも、私の発想は『タイムマシンありき』ですので、未来に到着した自分は、過去からやってくる人を待つという発想だったんですよ。つまりは、私は時間を飛び越えたのはいいんだけど、他の人が追いついてくるまで、どこかで眠っているという発想ですね。ただ、年は取っていない。つまりは、まったく違った人間がいきなりこの世に飛び出したことになる。その時の記憶はまわりの人の意識を変えるのではなく、自分だけが意識を変えるということですね。まわりの人にバレないように、必死になって隠さなければいけない事実を抱えたまま、その事実を墓場まで持っていくことになる。果たしてそれに耐えられるかどうか、私の発想は、『耐えられない』と思うんです。じゃあ、どうすればいいのか?」

 あすなも、香月も息を飲んで、重苦しい空気の中にいる自分を感じていた。

「どうすればいいんですか?」

「そこで登場するのが、『玉手箱』というわけです。つまり、浦島太郎が乙姫様から渡された玉手箱、そこを開ければ、白い煙が出てきて、おじいさんになってしまうというお話でしたよね。私は、それは本当のことだと思うんです。そして、その玉手箱こそが、墓場への近道であり、そして、白い煙の正体は、耐えられないと思っていたことを、頭の中から消去するための『記憶消去ガス』のようなものでないかと思うんですよね」

「そんな昔から、タイムマシンの発想が?」

「ええ、中には発想していた人がいたとしても、不思議はないと思うんですよ。逆に言えば、今から数百年経って、文明が爆発的に発達しても、まだタイムマシンは開発されていないかも知れない。この発想もありなんじゃないかってですね」

 香月は話を聞いているだけで、自分がまるで異世界に飛び出したかのような錯覚を覚えていた。

――一体、どういう発想なんだ――

 これだけの発想をいきなり聞かされると、もう学会で発表などということは、どうでもいいようにさえ感じられた。

――まるで、正樹が乗り移ったかのようだ――

 と感じた香月だった。

 だが、この発想は、優香の発想でもあった。ただし、切り口はまったく違っていた。

「タイムマシンというのは、『パンドラの匣』なんですよ。開けてはいけない箱、つまり、タイムマシンを開発すること自体が『玉手箱』を作っているようなものなんですよ」

「ひょっとして、誰も知らないまま、玉手箱がどこかに存在していたりして?」

「私は十分にありえることだと思うんですよ。だから、浦島太郎というおとぎ話が存在しているんだし、必ず物語の根幹が、実在したもののはずだって思うんですよ」

「どういうことですか?」

「今の時代の人が浦島太郎の話を読むから、それをおとぎ話の世界だと思い、人によっては、未来への系譜のように言う人もいる。でも、あの人たちに未来や過去という発想がないのだとすれば、物語はまったく違う見方をすることもできるんですよ」

「よく分かりません」

「あのお話は、竜宮城から帰ってくる時に、太郎が乙姫様から、箱をお土産にもらったですよね?」

「ええ」

「そして陸に上がってくると、そこには、自分の家もなく、家族は誰もいなかった。そして、自分が知っている人は誰もいない。さらに、自分のことを知っている人も誰もいなかった……」

「……」

「そこで太郎は、途方に暮れて、もらった玉手箱を開けてしまった。すると、そこから白い煙が出てきて、一気に年を取ってしまったというお話ですよね」

「ええ」

「でも、そのお話の中に、太郎が辿り着いた世界が、自分の住んでいたところの未来だとどうして分かるんでしょう? あくまでも玉手箱を開けて、年を取ってしまったことで、皆が勝手に想像した内容ではなかったか?」

「なるほど」

「そう思うと、陸に上がった瞬間に、どうして年を取らなかったのか? と思うんですよね。そうでないと、辻褄が合いませんよね。玉手箱を開けないと、年を取らないというのは、本当のフィクションで、ありえないことだと私は思うんですよ。元々おとぎ話自体、竜宮城や乙姫様の存在も怪しい。何よりも海の底に行くのに、アクアラングもなしに行けるということ自体、変ですよね。そういう意味では、このお話はどこまでが本当なのか、あるいはすべてがウソなのかも知れない。いや、それよりも人間の心理を巧みについた秀逸の作品なのかも知れないとも言えますね」

「どういうことですか?」

「『木を隠すには森の中』っていうじゃないですか。つまりは、一つの本当のことを隠すには、九十九のウソに紛れ込ませればいいんですよ。このお話は、案外そういう『間違い探し』のようなお話なのかも知れないって私は思っています」

 これが優香の発想だった。

 もっとも、これはタイムマシンに対しての発想ではなく、浦島太郎という個別のお話への発想というだけだった。

 しかし、あすなから浦島太郎の話をタイムマシンと絡ませた話の例題に持ってこられると、優香の話の方が、説得力があった。それは浦島太郎の話にだけ限った説だと思っていたが、あすなの発想も、引き込まれてしまうほどの説得力を感じる。

――どちらも本当のことのようだ――

 ひょっとすると、どちらも本当であって、どちらもウソなのかも知れない。つまりは、一つの大きな学説を唱えるための仮説にすぎないのが、この浦島太郎の話で、大きな学説に辿りつくためには、避けて通ることのできないものだと考えるのも決して間違ってはいないような気がしていた。

 なぜなら、あすなの発想の中にあった「玉手箱」が、「記憶消去ガス」の一種だという説は、優香の考えを正としても最終的には消去することで、お話を再度考えさせることができるものである。

――堂々巡りを繰り返す――

 この発想は、タイムマシンを考えるに当たって、最初に突き当たる発想だった。

 少しだけ発想が進んでも、気が付けば元の位置に戻っていることがある。今までにはそんな意識はなかったのに、タイムマシンの研究を始めたとたん、堂々巡りとは切っても切り離せなくなってしまっていた。だからこそ、止められないというのが、優香の意見だった。

 優香の意見を思い出していた香月だったが、彼の頭の中には、

――あすなも優香もこの話は知らないようだな――

 と思っていることがあった。

 香月としては「隠し玉」のように暖めておこうかとも思ったが、どうにも話してしまわなければ気持ち悪く感じるのだった。目の前にいるあすなのことに同情したのか、それとも愛情が生まれたのか、香月としては襲ってくる空気に、まるで、

「自白剤が含まれているようだ」

 と思わないではいられなかった。

 しかし、この自白剤は苦しいものではない。話をしない間も心地よさに包まれているのだが、それは話してしまうことを前提に考えるから心地よく感じるものだった。小説やドラマなどで言われる自白剤も、自白の瞬間は恍惚の表情をしているが、この時の感覚は、最初から恍惚の感覚だったのだ。

 話の中心が浦島太郎の話になった時、香月には、自分が隠し玉を持っている感覚が襲ってきていた。

――どうして、優香と話をした時、この隠し玉を話したいと思わなかったのだろう?

 それは、優香の意見だけを聞いても、一つの意見だけでは、この隠し玉を話すまでには至らない何かがあったのだ。そう思うと、香月は隠し玉の本当の意味を知ることになると自覚していた。

「あすなさんは、浦島太郎の話の神髄を分かっておられないようですね?」

「どういうことでしょう?」

「たぶん、あすなさんも、そして私が知っている研究者の方も、研究者というお立場からしか話をしていないんだって思うんですよ。二人とも、浦島太郎のお話の神髄を、陸に上がってから玉手箱を開けるまでに集中してしまっている。その間だけで、話の真偽を確かめているでしょう? でも他の人は違うんです。確かにクライマックスは陸に上がってからのことなんですが、それ以前の話もちゃんと見ていて、全体から考えて、いろいろな意見が出てきているんですよ」

 あすなも確かに、

――言われてみれば、この人の言う通りだわ――

 と感じた。

 しかし、そう感じてはいても、実際に全体を見渡そうとしても、最初から自分の中で結論めいたものを見出しているので、いまさら初めて話を聞いた時のような新鮮な気持ちになることはできなかった。

 香月は続ける。

「浦島太郎のお話というと、まずは浦島太郎が浜辺を歩いていると、そこで一匹のカメが子供たちに苛められているのを見かけた。見るに見かねた浦島太郎が子供たちからカメを助けた。この助けた時のやり方にもいろいろな説があるようなんだけど、ここでは関係ないので。そして、助けたカメがお礼だと言って、浦島太郎を背中に乗せて、海の中にある竜宮城に連れて行ってくれた。そこで、昼夜を問わず飲めや歌えやの、まるでパラダイスとハーレムが一緒になったような世界を味わうことができた」

「ええ」

「でも、太郎はしばらくすると、我に返ったのか、元の世界に戻りたいと言い出した。竜宮城の王女である乙姫様は、浦島太郎に一つの箱を『お土産』として渡した。『決して開けてはいけない』と言ってね」

「そうですね」

「自分の感覚としては二、三日くらいだと思っていた楽しかった日々を思い出に、陸に戻ってくると、その場所には自分が知っている人、自分を知っている人が誰もいなかった。途方に暮れた浦島太郎は、そこで『開けてはいけない』と言われた玉手箱を開けてしまった。すると、白い煙が出てきて、おじいさんになってしまった……。というのが、浦島太郎の伝わっているお話ですよね?」

「ええ、大体その通りだったと思います」

「そこで、皆、浦島太郎が上がった陸は、数百年後の未来で、玉手箱を開けると、おじいさんになったのは、そのせいだと思っているんですよね。だから、どうしても、視点は陸に上がってからに向いてしまう」

「ええ」

「でもね。これはおとぎ話なんですよ。本来なら、子供たちへの教育の一環として教えられているお話なんです。どこかに教訓があるのではないかと思うのが、他の人の考えなんですよ」

「確かにそうですね」

「そうなると、最初に考えられるのは、この話で何が言いたいのかということなんですが、皆さんは、最初まず矛盾を感じています」

「矛盾、ですか?」

「ええ。だってそうでしょう? 浦島太郎は苛められているカメを助けたんですよ。まずはいいことをしたと思うじゃないですか。そしてお礼に竜宮城へ連れていってもらった。でも、戻ってくるとそこは時間が経過していて、最後にはおじいさんになってしまうという残酷なお話に変わってしまっているんですよね。子供の教訓にするようなお話に、ラストは残酷な話になっていいものなんでしょうか?」

「確かに言われてみればそうですよね」

 あすなは少し考えてみた。

 しばらく沈黙が続いたが、あすなが何かに気づいたようだ。

「浦島太郎が、何も悪いことをしていないと言われましたけど、果たしてそうでしょうか? というのは、乙姫様からもらった玉手箱。開けてはいけないと言われていたのに開けてしまったというのは、約束違反なんじゃないですか?」

「ええ、その通りなんですよね。でも、そのことになかなか皆気づかない。なぜかというと、玉手箱をもらったのは、竜宮城から帰る時ですよね。その時にはすでに浦島太郎の運命は決まっていたわけでしょう? その後、自分の知らない世界に帰ってきたという残酷な展開になってしまったことで、浦島太郎には、どうしても同情的な目が向いてしまう。でも、あすなさんの言われる通り、確かに『約束違反は悪いこと』なんですよね。だけど、皆そのことに気づかないので、矛盾を感じてしまう」

「ええ」

「じゃあ、どうして、このお話がおとぎ話として、受け継がれるようになったのかというと、実はこのお話には、『続編』が存在しているんです。もっとも、おとぎ話の類は、続編が存在していて、教えられているものとはまったく違ったラストを迎える話も決して少なくはないです。浦島太郎のお話もその一つなんですが、ここからが私のお話の本題というところですね」

「今までは前置きだったんですか?」

「ええ、でも、大切な前置きです。前置きだけで、ほとんどの話になってしまうことも結構あったりしますよ。このお話もそうかも知れませんね」

「浦島太郎のお話は、本当はハッピーエンドだったのでしょうか?」

「ええ、そう受け取る人も多いようです。でも、その前にどうして教えられている話が途中で切れてしまっているかというのが一つの問題になりますよね」

「はい」

「浦島太郎のお話というのは、室町時代に書かれた話が起源になっています。つまりは五百年以上も前のお話ですね。でも、言い伝えられている時は、すべての話が伝えられていたんでしょうが、明治時代になって、教育の一環としておおとぎ話が確立した時、続編と言われる部分は削られて、今皆が知っているようなお話になったんですよ」

「その続編というのは?」

「浦島太郎が上がった陸の世界というのは、七百年後の未来だったというお話なんですよね。そして、どうやら、この浦島太郎というお話は、恋愛物語だったという説があるんですが、浦島太郎が貰った玉手箱の中には太郎の魂が入っていて、それを知らない太郎はそれを開けると、老いない身体になってしまい、そのまま鶴になったというお話です。乙姫様がどうして浦島太郎に玉手箱を渡したのかというと、乙姫様は太郎のことを愛していたようで、もう一度会いたいという思いを込めていたそうなんですよね。だから、乙姫様はカメになって太郎に会いにくる。そして、二人はずっと愛し合ったというお話なんだそうです」

「じゃあ、ハッピーエンドなんですね?」

「そうなんでしょうね」

 すると、またあすなは考え込んでしまった。

「待って、じゃあ、せっかくのハッピーエンドなのに、どうして、明治時代の教育改革の時に、この話をハッピーエンドにしなかったのかしら? こんな疑問を残すようなことをして……」

「明治時代の考えとしては、開けてはいけないという玉手箱を開けたということを問題にしたんだそうです。つまりは、これは『いいことをしたから報われる』という教訓ではなく、『約束を守れなかったから、おじいさんになった』ということを教訓にしたお話だったようです」

「だったら、最初にカメを助けた件をつける必要があるのかしら?」

「だって、その話を持ち出さなければ、話が先に進まないでしょう? あくまでもカメを助けたというのは、このお話のプロローグでしかないのよ」

「とっても、中途半端ですわ」

「そうなんですよ。このお話の根幹はそこにあると僕は思っているんですよ。このお話には矛盾している部分が結構ある。続編を考えるとピッタリと噛み合う、まるで勘合符のような話なんですよね」

「ええ、その通りだと思います。でも、具体的には他にどんなところがあるんですか? お話の内容は今聞いたことで分かったんですが、続編は今聞いたばかりなので、自分を納得させるまでには、どうしても行き着きません」

「そうですね、例えば、浦島太郎が陸に上がった時のことなんですが、あすなさんは、最初からあれが『未来の世界』だと分かりました?」

「今から思えば、そう思い込んでいましたね。お話を聞いた時から未来の世界だったと教えられたとしか思っていませんでしたから」

「でも、これは僕の記憶では、浦島太郎が辿り着いた世界は、家族はもちろん存在せず、自分を知っている人、自分が知っている人が一人もいないところで、見たことのない世界になっていたというお話だったと思います。でも玉手箱を開いておじいさんになったということで、そこが未来だったと思ったのかも知れません」

「確かに続編では、というよりも作り変えられる前のお話ということかも知れませんが、そちらでは、七百年後ということらしいんですよ。僕たちは、未来だということは感じていても、具体的に七百年後などという具体的な数字はまったく知らないはずですよね」

「ええ」

「思い込みなのか、それとも、未来ということだけは教わったのか、誰もたぶんハッキリとは分からないと思うんですよ。記憶が曖昧なんですね。これは故意に記憶を曖昧にさせる何かがこのお話の中に含まれているのか、何かがあると思っています」

「なるほど、それがこのお話に続編がついていなくても、あまり問題にならなかったところなのかも知れませんね」

「はい、とにかく、今語られている浦島太郎の話は中途半端なんですよ。皆も少しは考えれば分かることなのかも知れないけど、曖昧さが考えようとさせないのかも知れませんね」

「でも、香月さんはどうしてこのお話を私にしたんですか?」

「あすなさんの話を聞いていて、浦島太郎の話をしてみたくなったんです。浦島太郎のお話ができる人がまわりにいなかったこともあって、ずっと抱え込んでいたんですよ。自分のまわりにも研究者の人はいます。そしてその人も独自の考え方を持っている人なんですが、浦島太郎のお話ができるような人ではないんです。お話をすればそれなりに会話は弾むと思うのですが、自分の疑問に思っていることが解消させることはなく、逆に深みに嵌ってしまうような気がしていたんですよ」

「じゃあ、私とは正反対の感じの人なんですか?」

 あすなにそう言われて、香月は黙り込んでしまった。

 ようやく口を開くまでにどれほどの時間があったのか、時間の感覚がマヒしてしまっている二人には想像がつかなかった。

「正反対というわけではないですね。むしろ似通っているところは結構あると思います。でも、結局は、交わることのない平行線なんじゃないかって思うんですよ」

 あすなは、香月が虚空を見つめていることに気が付いた。

――この人は、その女性が好きなのかも知れないわ――

 あすながその時、自分がそう感じたことに、疑問を持っていなかった。

 香月は、

「自分のまわりにも研究者はいる」

 と言っただけで、その人が女性であるとは一言も言っていない。ただ、黙り込んでしまったあと、虚空を眺めている表情を見ただけだった。それなのに、あすなはそれだけで、相手が女性であると考えた。これではまるで、浦島太郎が上がった陸を、最初から未来だと思い込んでいた感覚と同じではないか。

 これこそが人間の性なのかも知れない。

――先を読む――

 ということが相手に対して、気を遣っているかのような錯覚を持つことで、人は、

――思い込み――

 という感情に走ってしまうのだろう。

 しかし、この思い込みというのは曖昧なもので、もしそれが真実であったとしても、思い込みである間は、曖昧なものに変わりはない。

 少ししてから、香月が口を開いた。

「実は、その人もタイムパラドックスの研究をしていて、あすなさんと同じような発想をしていたんですよ。途中までは同じだったんだけど、途中から少し違ってきました。あすなさんの話を聞いていると、彼女の理論の続きを、あすなさんの説が補ってるような気がするんですよ」

「でも、私の説とは途中から変わってしまっているんでしょう?」

「ええ、でも、最後にあすなさんの考えを『続編』にしてしまうと、最後には辻褄が合ってしまうような気がするんです。彼女の説だけを聞いている時は、その話は非の打ちどころのないものだって思っていたんですが、さっきのあすなさんの話を聞いて、実は彼女の説にはどこか矛盾があるような気がしてきたんですよ。それをあすなさんが補ってくれたという感覚でしょうか?」

「さっきの私の説は、本当の私の説ではありません。本当は最初からまったく正反対の発想だったんです。実は、元々の説を考えたのは、正樹さんだったんだけど、彼が死んでしまってから、私がその説を受け継いだんですね。でも、彼が生きている間は、私は彼の説に反対だった。でも、彼が死んだことで、私の中に彼の魂が入り込んだのか、彼の考えが、最初から自分の考えだったような気がして仕方がないんです」

 あすなは、さっき虚空を眺めていた香月のような表情をしていた。それを見て、

――やはりこの人は正樹さんを心から愛していたんだな――

 と感じた。

「僕には、浦島太郎の話が、『二重構造』になっていたことが一番気になっていることなんです」

 香月は、またしても浦島太郎の話に話題を戻した。

「二重構造ですか?」

「ええ、まずは現在伝わっている話の中での教訓として、開けてはいけないと言われていた玉手箱を開けてしまったことへの教訓ですね。『約束を違えると、報いを受けることになる』という意味で、おじいさんになってしまったというラストですね」

「ええ、それが一重目だと?」

「はい、この場合の二重構造は、二段階という発想とは違い、一重目のまわりを二重目が覆っているというような考え方ですね。それはまるで階段ピラミッドを上空から見た図を見ているような感じになります」

「要するに、立体感を平面的に見たというイメージですね?」

「ええ、三次元を二次元にして見たわけですね。じゃあ、四次元を三次元としても見ることができるのではないかと思うと、このお話が二重構造だと考えると、少し違って見えてきました」

「一重目を包むようにしている教訓は、昔から伝わっているお話ですよね? つまり、カメを助けるといういいことをすると、最後には、乙姫様とずっと愛し合えるような素敵なハッピーエンドが待っているというような……」

「そうですね。これがこのお話の二重構造なんですが、なぜか明治になって教育という場に持って行こうとすると、せっかくの二重構造を崩してしまっている。しかも、話が中途半端な教訓を残すということを犠牲にしてもですね」

「分かっていなかったんじゃないですか?」

「かも知れません。それとも、教育上、恋愛物語にしてしまうのは、よろしくないと考えたのかも知れません。とにかく、このお話は中途半端な解釈にしてでも、二重構造を表に出したくなかったんでしょう。そこに何か秘密があるように思えてならないんですよ」

 香月の様子を見ていると、どうも歯にモノを着せぬ言い方になっているのに気づいた。

「香月さんは、そのことを今になって気づいたんですか?」

 今までの話の展開を考えると、香月の話には、結構、

「思い付き」

 が多いように思われた。

 しかし、このことに関しては、思い付きではないような気がした。

 なぜなら、話の展開の中から簡単に思いつくようなことではないような気がしたからだ。それだけ、ここまでの話の中での核心部分に思えてならなかった。

――この人は、ここまでの話に持ってくることを最初から狙っていたのかも知れない――

 と感じた。

 しかし、もしそうであるならば、相当頭がキレていなければできないことだった。

 あすなは、今とんでもないことが頭の中を駆け抜けた。

――正樹さんの死への疑惑は、まさかこの浦島太郎の話の中に答えが隠されているのではないか?

 元々、香月があすなの前に現れたのは、正樹の死についての疑念を確認したいということだった。

「真実を知りたい」

 正樹の死を疑っていたが、彼は、

「正樹さんは生きているのではないか?」

 という言葉を一言も発していない。

 あすなの中で確かに彼の死について疑念があった。

 その疑念がいつしか、

――あの人は本当に死んだのだろうか?

 という疑惑に変わっていた。

 この展開は、まるで浦島太郎が陸に上がった時、それが未来だったのかどうかの疑念に繋がるものである。

――あれは完全に私の思い過ごしだったのだろうか?

 いや、見た夢の中で何度か彼が生きていたという感覚が残っていただけなのではないだろうか。

 見た夢のほとんどを忘れてしまうあすなだったので、夢の世界と現実とがごっちゃになって混乱していたのだろう。

 そういえば、香月から「二重構造」という言葉を聞いて、

――どこかで同じ表現を聞いたような気がする――

 と感じた。

 しかし、それがいつどこでだったのか思い出せないのだ。

 だが、さっきの虚空を眺めていた香月の表情を思い出し、今自分が同じ顔になっているのを感じると「二重構造」という言葉を聞いたのが、夢の中だったのを感じていた。

 かといって、夢の内容を思い出したわけではない。ただ、その言葉を思い浮かべた時、夢を見たという感覚に行き着いたからである。

 香月も、あすなが夢というものを感じいるまさにその時、自分も以前に見た夢を感じていた。

 しかし、香月はその「二重構造」の正体が何であったのか分かっているつもりだった。

――そうだ、優香さんと綾さんの関係だ――

 あの二人は、それぞれに表になり裏になりしてきた。それが、お互いを成長させ、絡み合いながら、二重構造を形成していた。

 人から見れば、

――二重人格――

 と見えるかも知れない。

 ただ、二重人格というのも、ここでいう「二重構造」の応用だと思えば、本当に悪いものだと言えるだろうか。

 香月がここであすなを拉致監禁したのは、本当は自分の意志ではない。

――なぜこんなことをしたんだろう?

 自問自答してみたが、答えは出るものではなかった。

――何かの力に導かれた?

 完全にベタな言い訳である。

 しかし、香月にはそう思えて仕方がなかった。

――俺にも何か二重構造を形成しているものがあるのかな?

 今はそれを自問自答するしかなかったが、自分を納得させられる答えが得られたわけではない。

 あすなと話をしていると、いろいろなことが分かってきた。

――ひょっとして、あすなが自分から監禁されるようにこちらを洗脳したのだろうか?

 もしそうであれば、自分の意志はどこに行ってしまったというのだろう?

 しかし、ここであすなと話をしていると、その場の「制占有権」は自分にあった。少なくとも監禁しているのは自分である。会話をしていても、あすなを誘導しているのは自分であった。

 香月は、実は正樹の死についてある程度までは最初から知っていた。本当は彼の死の真相について一番近い位置にいたにも関わらず、本人はそこから先にはどうしても進めない。

 他の人は、まだ彼の死の真相についてどころか、疑念すら抱いていない。

 しかし香月は、

――他の人には先に進むことができる道が用意されているが、自分が通ってしまった近道は、途中で行きどまりだった。迂回して進むにも迂回路はない。元に戻ってやり直すしかないのだ――

 と感じていた。

 そのことに気づいてしまうと、自分が結界に行きついてしまったことが分かった。

――結界とは、何にでも存在しているもので、目の前にすると、その壮大さにひるんでしまう――

 その感覚はずっと持っていた。しかし、結界がない通り道も存在するということを最近になって香月は知った。

――結界の存在を知ってしまったために、勝手に存在しないかも知れない結界を、今までに自分で作ってしまったこともあったかも知れない――

 とも感じた。

 いろいろな発想が香月を襲う。その思いの結果が、

「あすなを拉致監禁する」

 という暴挙に出てしまったのかも知れない。

 香月は、自分がここであすなを拉致監禁しているのは、浦島太郎でいうところの「一重目」なのではないかと思っている。拉致監禁の前後がどんなものなのか、香月には分かっていないが、全体を見渡して分かっている人がどれほどいるというのだろう?

 確かに全体像の中でのテーマとしては、

――それぞれの研究所で発表する学説――

 というものが暗躍したために、起こったことであることは、香月にも分かっている。

 香月がこの話に登場してくるのも、元々はジャーナリストとして、

――学説を取材する――

 という命題があったからだ。

「事実は小説よりも奇なり」

 という言葉があるが、

「事実は、学説よりも奇なり」

 と言った方が、もっと的を得ているような気がしたのは、香月だけではないだろう。

 優香の学説も、あすなの学説も、まったく違っているように見えるが、どこかで一緒になっているように思う。その学説が、「二重構造」を形成していて、その「二重目」に、正樹の死の真相が隠されていた。

 正樹は、自分が学説の発表に巻き込まれたのを感じた。

 あすなも優香もその中にいる。あすなも優香も、お互いに正樹がそれぞれの相手を知っているということは知らなかった。知っているとすれば、綾だけだったのだが、綾は自分が全幅の信頼を置いている香月に対して、優香とあすなのことを話していた。

 二重構造の正体が明らかになることもあるだろう。そしてその時には、正樹の死の真相も明らかになる。

 あすなと香月が少なくとも、彼の死の真相に関わっているのは明白だった。そのことを最初に予感したのは香月であり、あすなの拉致監禁の火付けになったのは、このことが一番の原因だった。

 二重構造の正体が明らかになるには、段階が必要になる。

 その第一段階は、翌日の新聞を賑わせた。

「拉致監禁の犯人。被害者を巻き込み自殺。犯人は、香月正樹三十五歳、被害者は西村あすな二十八歳。香月は自称ジャーナリスト、西村さんは、K研究所の研究員」

 しかし、この記事には誤報だった。本当は二人は心中だった。香月の胸のペンダントのロケットに貼ってあった写真、それは、幼い頃の優香だった。

 二人が心中だと知っている人はいないだろう。いや、知っているとすれば、優香と綾だろうが、その二人はこの事件が発覚する数日前から行方不明になっていた。この場合、どちらが「一重目」だったのか、関係者全員がいなくなってしまった今、永遠の謎になってしまったのだ……。


                  (  完  )

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二重構造 森本 晃次 @kakku

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