第2話 優香と綾
「優香さん、この週刊誌、見た?」
あすなの研究所とライバル関係にある別の研究所の社員食堂で、カレーを食べていた一人の女性に話しかけるもう一人の女性がいた。
話しかけられた優香と呼ばれた女性は、別に興味のなさそうな低い声で、
「いえ、見てないわよ」
と答えた。
「ほら、ここにS研究所で新しい論文が発表されたって書いてあるでしょう?」
S研究所というのは、あすなの研究所のことだった。
週刊誌には、
「S研究所において、『宇宙科学研究』に対して、斬新的な論文が発表された。その研究を発表したのは、当研究所の西村あすな研究員で、彼女の突出した研究発表に、学会も戸惑いを隠せない」
と書かれていた。
ただ、この週刊誌がゴシップ専用の週刊誌で、信憑性に関してはかなりの疑問符があることを世間知らずの二人は分からなかった。
宇宙科学研究というのは、最近になって確立された学問で、タイムマシンや異次元に対しての研究である。今までは非公式には研究されていたようだが、正式に研究されるようになったのは、全世界でもここ数年のことだった。
元々は、ある先進国の「宇宙科学研究所」で、密かに行われていたものだった。
宇宙開発は元より、医学面、ロボット工学などの、研究費用が莫大なもので、なかなか民間では行えないようなことを行っていた機関である。
昔は、軍事面での研究が主だったが、「仮想敵国」の存在がなくなり、国際連合でも軍事的な新しい開発は禁止されたこともあり、軍縮ムードの中、「宇宙科学研究所」の存在意義も大きく変わってきた。
本当に宇宙に対しての研究であったり、異次元の研究と言った、新たな研究を行うことで、国家の威信を保とうとした政治家により、現在は運営されている。
そのおかげもあってか、宇宙研究に関してや、異次元の研究など、「市民権」を得た。先進国では、それらの研究を密かに行うための研究所を以前から持っていたが、どうしても予算の問題で、ほとんど有名無実のような形になっていた。それが社会情勢の変化とともに、脚光を浴びようとする時代が到来したのだ。
この国でも、他の先進国と同じように、国家予算もままならず、密かに行っていた研究も、次第に日の目を見るようになった。
だが、新たな弊害も起こった。
今までは密かな研究だったために、曖昧な研究発表であっても、それなりに評価が受けられたが、国家公認となっては、正当性が証明されない限り、研究することすらままならなかった。
実際に今まで研究されてきたことは、表に出ていないことが多く、そのおかげで、社会に知られないという利点を持って、社会の役に立っていることも少なくなかった。一部の国家最高機関に属する人であっても、「宇宙科学研究」の神髄に触れることはできなかった。つまりは、非公式の研究所は、
「国家であっても、決して冒してはならない『聖域』なのだ」
と言えるのではないだろうか。
そんな研究所では、SF小説さながらの、タイムマシンの研究であったり、ロボットの研究であったり、パラドックスやフレーム問題などの、デリケートな問題を含んでいる学問に対して、敢然と立ち向かっていると言ってもいいだろう。
大学で、そんな研究をしているところはさすがにない。大学院まで進めば、それらしき研究ができるところもあるだろう。正樹もあすなも、そして優香と呼ばれた女性も、大学院では、今までとは違った特別な研究をしていたのは間違いにないことだった。
あすなや正樹の属していた「S研究所」は、公式には半官半民のような機関になっていて、予算はそれなりにあったが、完全に自由な研究ができるわけではなかった。
実際に今までの研究成果は、民間の企業に落札されることで決着のつくものが多く、一般の企業内にある研究所と、さほど違いはなかった。
「S研究所」のように半官半民のような研究所は、研究結果が発表されると、その特許は競売によって落札されるのが一般的になっていた。
以前までは、研究所が単独で存在するということはなく、すべて所属する会社の研究となっていたが、時代の流れによって、研究所が企業から独立するところが増えてきたのだった。
それにより、研究所自体に、研究部署とは別に、営業企画の部署も必要になり、最初は、受注を受けての研究が盛んだった。
「これだったら、今までと変わりはないじゃないか」
という研究員の意見が多くなった。
彼らの言い分としては、
「受注を受けてからの研究ではなく、研究所独自の研究が自由に行われ、それを売り込みにいくような形が、自然ではないのでしょうか?」
というものになった。
研究所では、その意見に基づいて、研究結果を売り込みに行く部署ができたのだが、元々、そういうノウハウがない機関なので、研究と営業との間でうまく気持ちの疎通がいかなかったりした。
そんな研究所が増えてくると、研究結果を欲している企業の方から、ある提案が持たれた。
「それじゃあ、競売に掛けて、落札形式にしてはいかがかな?」
それは、研究所側には、目からうろこだった。
「なるほど、確かにそうですね。それだと、こちらもカスタマイズとして売り込むことができますし、後は、クライアントの方で、いろいろ改良を加えられるのも自由ですからね」
「そうですね。ただ、そうなった場合の特許は、どちらになるかが問題になりますね」
「それは、研究所側ではないですか? 保証はどこまでするか? あるいは、改良に対してのフォローはどこまでするか? などと言った問題は、後からでも相談はできますからね」
まずは、
「競売による落札」
という形式を確立することが先決だった。
もっとも、これは研究所の存続という意味では、一つの選択肢でしかなかった。それでも、研究所と民間企業との間でのパイプが結ばれることが先決であった。そのため研究内容は、国家に縛られることもなくなった。半官と言っても、官僚の中に、研究内容が分かる人など一人もいないのだ。たぶん、大学教授でも、ここでの研究が異常であることは分かっても、理屈まで分かる人はいないだろう。反論は難しいのだ。
優香の所属する「K研究所」は、正樹やあすなほど官僚に結びついているわけではない。確かにこの研究所も半官半民と言われているが、半官半民と言ってもピンからキリまであり、S研究所は官僚に近く、優香の方は、民間に近かった。
それは仕方がないことで、S研究所は設立されてから、すでに十年近く経っていて、半官半民の研究所の先駆けと言ってもいいだろう。
それに比べてK研究所の方は、最近まで某民間企業の研究室だったものが独立したもので、しかも、独立に際して企業側と少し揉めたことで、研究所側が策を弄して何とか独立した形だった。
そのため、
「実際の独立がいつだったのか?」
ということは曖昧になっていた。
もちろん、定款を見れば分かるのだろうが、それは形式的なこと、実際の独立は、
「どさくさに紛れて行われた」
と言われているが、まさしくその通りだった。
研究員も、その煽りを受けてか、独立してもしばらくは落ち着かなかった。研究どころではなかったと言ってもいいだろう。いまだに元の会社と研究所の間には確執があって、研究所で開発された研究を競売に掛けても、元企業の方で、嫌がらせや妨害が行われていたのも事実だったようだ。
そんな研究所に嫌気が差して、辞めていった者、他の研究所から引き抜かれて、簡単に移籍したもの、中には研究自体に見切りをつけて、元企業で、まったく別の部署でやり直そうとした人もいたようだ。
研究員として頑張っている人はまだいいのだが、悲惨だったのは、研究に見切りをつけた人だった。
最初こそ、
「研究所の力を削ぐ」
という目的で研究をやめてしまった人を受け入れた元企業だったが、研究をやめてしまった社員に、いまさら用があるわけもない。いきなり左遷コースを歩まされ、惨めな思いをさせることで、自分から会社を辞めるように仕向けていたのだ。
「こんな会社……」
と、失意のまま辞めてしまって、後は坂道を転がり落ちることになる人がほとんどだった。
だが、この日、優香に声を掛けてきたこの女性、名前を村上綾というが、彼女も、実は元の企業に戻った一人だった。
彼女は、女を武器に、前の会社で生き残ろうとした。たらしこんだ男は、彼女の思った通りの男性で、自分を引き上げてくれるような感じだったが、綾が思っていた以上に、彼は猜疑心が強く、そしてまわりに流されやすい男だった。
綾もある程度までは分かっていた。分かっていて、利用したのは、
――私が彼を変えてみせる――
と思ったからだったが、何と彼は猜疑心が強いくせに、男色だったのだ。
綾とは別に、課長とも「できて」いた。
課長は、自分の出世だけを考えている人で、この男も、課長に利用された一人だった。
この情けない男は、そんな課長の真意を、完全に読み違えていた。
――課長が愛してくれているのは、僕だけなんだ――
しかも、この男の中に猜疑心が強く潜んでいることを本人に気づかせたのが、この課長だった。つまりは、綾が彼を利用し始めた頃には、猜疑心がここまで強いとは思っていなかったのだ。
完全に綾の計画は崩れてしまった。
一番信用していた男に裏切られ、
――と言っても、元々利用していたのだから、どっちもどっちなのだが――
一気に敵を二人に増やしてしまった。
「しまった」
気づいた時にはすでに遅かった。
「まずい」
といち早く気づいたことで、転落する前に会社を辞めることができて、ある意味よかったのかも知れない。
綾は反省はしたが、後悔はしていなかった。それだけ前向きだったのである。
そんな時、優香から声を掛けられた。
「綾ちゃん、久しぶりね」
「優香さん……」
さすがに失意のどん底であった綾は、優香に声を掛けられたことで、元気を取り戻した。元気さえ取り戻せば、綾はそれまでの性格を取り戻すこともできた。しかも、声を掛けてくれた優香に対して、服従の気持ちが大きかったのだ。
――あの男が男色だったのを気持ち悪いと思ったけど……
綾は、自分が優香に惹かれていくのを感じていた。
だが、優香は綾を自分のものにしようとはしない。女性同士というのはありえないと思っているのか、それとも、綾に対してはそんな感情が沸いてこないのか、綾には分からない。分からないだけに、綾には神聖に見えたのだ。
――この人についていけばいいんだわ――
綾は、自分のこれから進むべき道がハッキリと見えた気がした。
優香の冷たい雰囲気も、
――他の人に対してのものとは違うんだ――
と感じた。
綾は優香の、
「優秀な助手」
になった。
まわりから見ると、気持ち悪いほど密接な関係に見えた。
「あの二人、できてるんじゃないか?」
研究員というのは、あまりまわりを気にしない人が多いが、中には、まわりが気になって仕方のない人もいる。特に、こんな閉鎖的なくせに、誰もが何を考えているか分からない魑魅魍魎が渦巻いているようなところでは、気が狂ってしまいそうに感じている人もいたりする。
そんな人たちは、お互いに引き合うものがあるようで、すぐに、
――この人は、自分と同類だ――
と、いつしか団結心が芽生えていたりしたものだ。
同類が集まると、まわりがいくら魑魅魍魎の住処だとしても、自分たちの結束には、何ら関係のないものだという意識が芽生えるもののようで、魑魅魍魎とはまったく違った勢いを自分たちの中に持とうとするのだった。
だが、その「鉄の団結」には、一点の曇りもあってはいけないのだ。一人でも、気持ちが離れてしまうと、すぐにその人を切り捨てるような対応をしないと、全体的に腐ってしまう。彼らの「鉄の鉄則」は、結構強い絆で結ばれていて、本当に気持ちが揺らぐ人がいれば、必ず誰かが気づくようになっていた。
気持ちが離れてしまった人を、「丁重」に切り捨てると、また静かに「鉄の団結」を修復する。それを繰り返しながら、研究所に巣食う魑魅魍魎に敢然と対抗しているのだ。
魑魅魍魎も、鉄の団結集団も、それぞれに勢いが衰えることはなかった。
優香も綾も、お互いに自分たちが魑魅魍魎の中にいることを自覚していた。
優香は、研究所に入所した時から、すでに研究所の中の異様な雰囲気に気づいていて、自分が魑魅魍魎の中にいることを自覚していた。
魑魅魍魎と言ってもまわりから見て、そう見えるだけで、中にいれば、
「まわりを意識することなく、比較的自由に自分のペースで、研究ができる」
というだけのことだった。
凡人から見れば、学者や有識者などというのは、自分たちとは違う人種であるということを嫌でも思い知らされるが、思い知らされても、心のどこかで納得できないものであった。
そのため、彼らを雲の上の人として、自分たちと一線を画するような存在にしてしまう。
そういえば、神話の世界でも、
「登場する神様は、皆嫉妬深かったり、猜疑心が強かったり、神の領域に人間が近づくことを恐れ、『出る杭は打たれる』の論理で、優秀な君主に対して、難癖をつけ、彼らの未来を、街ごと葬り去ったりするじゃないか」
神話を読んでその理不尽さに、憤りを感じている人の意見として聞いたことがあった。
さらに彼は、
「聖書にだって、『ソドムの村』や『ノアの箱舟』のように、一部の人は助けるが、大多数の人は、滅ぼすという選択があるではないか。神と言ったって、一皮むけば、魑魅魍魎のようなものなんじゃないか」
かなり乱暴な意見だが、それに対して反論できるだけの力はなかった。
少しでも逆らう気持ちがあるのであれば、いくらでも反論できるだけの自信はあった。
「神なんて、しょせん孤独で、人間が自分たちに近づくことを恐れ、避けようとしているんだ」
「でも、人間を作り出したのは、神なんじゃないの?」
「それも怪しいものだよ。実際に神の存在を人間が信じているのかどうかも怪しいものだ。神話や聖書などの書物はあっても、神について語る本はない。神から『自分たちを描いてはいけない』と言われているのか、それとも、本当に神はいないのか。俺は、いないと思うんだよな」
「どうして、そう思うの?」
「だって、今までの人間の歴史を考えてくれば分かってくることも多いんだけど、人間というのは、必ず争いをしなければいけないという本性を持っているんじゃないかな? それが戦争であったり、平和な時代であれば、競争であったりするわけだよ。そのためには、『仮想的』が必要だよね。古代の人たちにとって、神という存在は、その『仮想的』だったんじゃなかな?」
話を聞いていると、
――なるほど――
と思えてきた。
優香はこの頃から、『仮想的』という発想を思い描いていた。そこには、世の中の「二分性」というものが見え隠れしていた。光と影であり、表と裏であり、そして昼と夜の発想……。
ここまでは、あすなの発想と似ていたのだが、優香の発想はそこで終わらなかった。
あすなの場合も、本当は「二分性」という結論を得るまでに、その先の発想をしてみたことがあった。しかし、あすなの中で結局その後、堂々巡りに入り込んでしまったことで、結論として「二分性」が残ったのだ。
優香は、あすなの存在を知っていた。もちろん、S研究所に入り込むことはできるわけもなかったので、彼女がどんな研究をしているのかまでは分からなかった。だが、綾が慌てて持ってきた週刊誌の記事に書かれている内容は、優香には最初から分かっていた。それも、かなり詳しいところまで分かっていたのだ。
優香もすでに自分の研究を完成させようとしていたが、あすなの研究が気にならなかったと言えばウソになる。
優香の研究は最終段階に入っていて、あすなの研究結果に左右されることはない状態ではあったが、他の人に自分があすなの研究結果を知っていたことを悟られないようにしなければいけなかった。
元々優香は、人の研究などに興味があったわけではない。
綾が勝手に調べてきて、
「ライバルの研究内容を盗む」
という暴挙に走ったのだが、優香は、そのことを諫めるつもりはなく、せっかく盗んできた研究結果に対し、見ることを「丁重」にお断りするという態度に出たのだ。
なぜ綾がそんなことまでしたのかということを、優香は考えることはできなかった。
自分の研究に精いっぱいで、まわりのことに気を配ることをしたくないという思い、本当であれば、その思いを察してくれるのが綾だったはずなのに、
――どうしてこんな暴挙に出たのか?
という段階までしか、優香は頭を働かせることができなかった。
元々、頭の回転は早い方で、研究においてだけではなく、人間関係についての頭の回転も早かった。
本当であれば、どちらかに長けているのが普通なのだが、優香の場合はどちらにもたけている。ある意味「天才」の部類に入るのではないだろうか。
優香は子供の頃から、
「あなたは、天才だわ」
と言われることが多かった。
しかし、子供の頃に天才児呼ばわりされた子供というのは、たいてい、成長するにしたがって、天才の化けの皮が剥げてくるものである。
注目された子供の頃のプレッシャーから解放されて、喜んでいる人もいれば、逆に注目されなくなったことで自分の才能の限界を感じてしまい、人生の道を踏み外す人もいる。
優香の場合は、前者だった。
子供の頃は天才と呼ばれ、まわりから受けるプレッシャーは、結構なものだった。
口では、
「子供なんだから、無理することはないのよ」
と言われていても、心の底で、
「この子は天才児なんだから、無理も何もないわ」
と言っているのが見えていた。
それも天才児と呼ばれる所以であり、優香にしか分からない思いだった。
優香は、人の心が見えることで、不可能を可能にしてきたと言ってもいい。それが、
「天才少女:優香」
を生んだのだ。
子供というのは、大人からおだてられると、どうしても、
――その期待に応えなければいけない――
と思い込んでしまう。
そこに計算は存在しない。純粋な気持ちで期待に応えようとしたことが、少女の悲劇を生んだのだ。
一度、期待に応えてしまうと、まわりは許してくれない。
「この子は素直でいい子なの」
と紹介されると、もうダメだった。初めて遭った相手であればあるほど、相手の目は好奇心に溢れている。
――私はまるでピエロだわ――
しかも、黙って道化師を演じていればいいだけのピエロではない。結果を出さなければいけないピエロなのだ。
――そんなプレッシャーを、あどけないいたいけな少女に持たせるというのは、どうしたものか――
と、世の中を呪ったものだ。
町内という狭い範囲での天才児だったことは幸いだった。優香の話題も最初ほどではなくなってくると、まわりの人は次第に優香から離れていく。
「蜘蛛の子を散らす」
というのは、こういうことをいうのかも知れない。
優香は、あっけに取られていた。
――これでプレッシャーを感じなくてもいいんだ――
と思うと、少しの間、今まで分かっていたはずのまわりの人の心が分からなくなっていった。
――どうしたのかしら?
と思いながら、
「これで、もうまわりから変なプレッシャーを掛けられることはないんだわ」
とホッとした気分になった。
しかし、しばらくして、またまわりの人の考えていることが分かるようになってきた。そのことで、優香の天才的な部分が顔を出してきたのだ。
あれだけプレッシャーを嫌がっていたのに、今では懐かしく感じられるようになり、今度は自分からまわりにアピールしようと思うようになっていった。
ちょうどそれが高校生の頃だったが、その頃のまわりは、皆大学受験のためにピリピリしていて、
「まわりは全員敵」
という状態ができあがっていた。
優香は自分が目立ちたいという気持ちを持っても、それは肩透かしでしかない。その思いを感じた高校時代だったが、その時の気持ちがあったからこそ、大学では研究に打ち込みたいという思いを抱くことになったのだ。
高校の時の優香の成績は、他の人を抑えて群を抜いていた。進学校であるにも関わらず、進学コースでも主席をずっと維持し、大学も名門と言われる国立大学でも十分な成績だと言われていた。
しかし、優香は国立大学でも、名門と言われる大学には行かなかった。合格はしていたが、敢えて、「滑り止め」とまわりが見える大学に入学したのだ。
「気になる教授がいるので」
というのが彼女の理由だったが、その言葉は半分本当で、半分はウソだった。
確かに彼女の気になっている教授がいたのは事実だが、優香がこの大学を選んだのは、「自由な学風」があったからだ。
特に理工系の学部の中でも、空想学科というのがあって、タイムマシンやロボットの研究が進められていた。優香自身は自分が開発に携わるという意識はなかったのだが、空想科学の科学的な解明に力を注いでみたかったのだ。
理工系の学部だからと言って、女性が少ないわけではない。空想学科にも女性は多く、ロボット工学に興味を持って入学してくる人も多かった。優香はそんな人たちと、結構仲良くしていたが、一線を画していたのも事実である。
「ロボット工学三原則」という考え方は知っていたが、あまり興味を持っていたわけではない。どちらかというと、ロボット工学というよりも、「相対性理論」の方に興味があり、タイムマシンやタイムパラドックス、パラレルワールドなどに興味があったのだ。
優香が一番仲良くしていた女性は、ロボット工学に興味を示していた。特に、「ロボット工学三原則」の話になると、夜を徹して話していても話し足りないと言った感じだった。
「でも、すごいわよね。半世紀以上も前の理論が、ずっと今も研究され続けているんですからね。しかも、これって学者の提唱した学説ではなく、SF作家が自分の作品の中で書いたものなんですものね。そう思っただけでも、大いに興味をそそられるのよ」
彼女がロボット工学に興味を示したのは、中学の頃だったという。中学に入学してからというもの、小学校の頃にあれだけ好きだった算数が、数学になったとたん、急に嫌いになったという。
「だって、自分が苦労して解いた答えを、公式に当て嵌めるだけで、あっという間に解けてしまうんだから、面白くないと思っても仕方がないわよね」
なるほど、その通りだ。
優香も、一時期数学に疑問を感じていたことがあった。
小学生の頃の算数というのは、答えが合っていれば、途中の解き方が、どのようなプロセスであってもいいのだ。ただ、問題はその解き方であり、解き方が論理的に間違っていなければ、すべて正解なのだ。
算数に興味を持ったのは、この解き方に対する論理性だった。
その頃から、優香は「論理性」というものを重視し始めた。そのうちに、
「世の中に存在しているものは、すべて論理的に説明できるものなんだ」
という自論を持ったことで、中学の時、一時的に疑問を持った数学に対しても、疑問を感じなくなった。
すべての公式も論理的に考えることができ、公式を覚えるより、むしろ論理的に考えることで、成績が上がってきたというのも、皮肉なものだった。
その考え方が、すべての学問に通じるものだったということを優香が知っていたのかどうか分からないが、成績はうなぎ昇りだった。
成績が上がっても、それが優香の自慢でもなければ、プライドにも結び付いたわけでもない。ただ、論理的に考えることが好きなだけなのに、成績が上がってくることは、通過点のようなものだと考えることで自分を納得させてきた。
だから、学校内で群を抜いて成績がいいことも、優香にとっては、ただの副産物でしかない。副産物だということを、優香は意識していた。
勝手に騒いでいるのはまわりだった。
「栗山優香君は、わが校の誇りだよ」
と、先生の多くは彼女を贔屓していた。
学校を上げて、優香をバックアップする体制さえ、高校時代は整っていた。
しかし、
「出る杭は打たれる」
というもので、まわりのクラスメイトからは、冷たい目でしか見られていなかった。
驕りもプライドもあったわけではない優香にとって、まわりの冷たい目の理由が分からなかったが、
――別に自分が悪いわけではない――
という思いもあり、冷たい視線くらい、別に気になるものではなかった。
それ以上に、学校の期待は耐えられない。人の心を読める優香にとって、クラスメイトの感じている自分への嫉妬よりも、むしろ、大人が見る自分への好奇の目に耐えられないのだ。
好奇の目には、自分の私利私欲が含まれていて、表面上、仲良くしているように見えている人でも、心の底ではドロドロとしたものが渦巻いている。自分を見る目に好奇を抱いている人のほとんどは、私利私欲だけで生きているような人だった。
大人の皆が皆、そうだとは思わない。しかし、見えてくる大人に、心を許せる人は一人もいなかった。プレッシャーに押しつぶされそうになった子供の頃の経験があることで、高校時代に直面した、
「大人の汚い部分」
を見ても、
――私には関係ないんだ――
と、他人事の目で見ることができたのかも知れない。
好奇の目を堪えられないと思っていた時期は、いつの間にか過ぎていた。やはり自分には関係ないという意識を持ったことが、優香の気持ちを楽にしたのであろう。
大学に入学すると、人の心を読むのが面白くなった。
いつも大人ばかりを意識していたが、大学に入れば主役は学生だからである。
戸惑っていると、誰かが声を掛けてくれる。大学に入学してすぐは、そんな毎日が楽しかった。
戸惑っていたのは、今までに学園祭くらいでしか見たことのない人が、学校内に犇めいていたからだ。新入部員勧誘のために簡易ブースを作って、勧誘している姿は、まさにお祭りだった。
お祭り騒ぎは嫌いではない。いつも冷静に見られることで、賑やかなことはあまり好きではないと思われているようだが、本当はそんなことはなかったのだ。
――ここには、高校時代の自分を知っている人はほとんどいない――
というのも、気を楽にさせた。
高校時代までと違って、家から通えるところに大学があるわけではないので、初めての一人暮らしを始めたが、それも心躍らせる演出だったことに間違いはなかった。
いくらランクを下げたとはいえ、他の人の成績で入学できるほどレベルの低い大学ではなかった。実際に、卒業生の中でこの大学に入学したのは、たったの三人だけで、後の二人は優香が入学した学部の試験に落ちていたのだ。
大学に入学してから、友達も結構できた。
人の心を読むことができる力を利用して、友達の心を読んでみたが、そこに私利私欲はまったくなかった。純粋に、入学した大学で勉強し、将来何になりたいのか、しっかり見極めたいという気持ちの人がほとんどだった。
ただ、中には遊びに夢中になって、なかなか大学に顔を出すことのない人もいたが、その人たちは、とりあえず放っておくことにした。
三年生になる頃には、優香は大学院に進むことを決めていた。成績もそこそこだったので、大学院へ進むことはほぼ決定していたと言ってもいい。
優香は大学院に進んで、自分の研究したいと思っていることが二つあることを自覚していた。
一つは、大学三年生の時点で研究していた「タイムマシン」の論理についての引き続きの研究、そして、もう一つは、自分の中にある特殊能力である「人の心を読める」という力の論理的な理解であった。
そのどちらも達成することは、自分に対して、
――生きていることへの「納得」――
であった。
その納得は、自分の手で、自分の力で、自分を納得させるというものでなければいけないと思っている。
「優香の考えていること、何となく分かる気がするわ」
大学時代を通して、一番仲がいい友達が、時々優香にそう言っていた。
――一体、どういうつもりなのかしら?
と、その言葉の信憑性を確かめようと、彼女の心を読もうとしたことがあった。
――えっ、どういうこと?
彼女の心の中を読むことができない。
確かに彼女の心の中に入り込んでいるという意識はあった。それなのに、彼女の心が掴めない。
真っ暗な世界が広がっていて、果てしない世界である。自分はその中にいて、宙に浮いているわけではなく、明らかに、どこかに足をつけて立っていたのだ。
しかし、前に踏み出すことができない。
――一歩踏み出した先が、底なしの沼だったら、どうしよう?
という思いがあったからだ。
前に一歩くらいは進むことができるかも知れない。しかし、一歩踏み出した先で、もう一度まわりを見渡してみると、どちらが前でどちらが後ろなのか分からない。もし、元の場所に戻りたいと思っても、一歩進んでしまったために、戻ることができなくなってしまったのだ。
そんなイメージを抱いていた。
彼女の心の奥は、
――踏み入れてはいけない――
そんな場所だったのだ。
最初、優香は自分が入り込んだその世界を初めて見たと思っていた。しかし、一歩踏み出そうと思った瞬間、思いとどまった理由を自分で納得できたことで、
――前にも感じたことがあったような世界だ――
と感じたのだ。
優香は、彼女の心だけ覗けないことに納得がいかなかった。そして、必死で考えてみた。
――どうすれば、自分を納得させられる答えが見つかるんだろう?
その時考えたのは、
――それが本当の答えである必要はない――
という思いだった。
答えを一つだと思うから、考えが浮かんで来ない。そう思うと、気が楽になって、一つの意見が頭をもたげた。
「そうだ。私が見ている場所が違うんじゃないのかしら?」
今までは他の人を百発百中で見れていたことで、その思いに至ることはなかった。しかし、本当なら、もっと早くその思いが浮かんできてもいいはずだった。
――ということは、自分を納得させていたと思っていたけど、それは間違いだったのかな?
と感じたが、それも違った。
――納得させることが先決で、そこから浮かんで来ない疑問であっても、いずれは何かにぶつかって、その時に再度考え直すことができるんだわ――
それが今だということだった。
その時初めて気づいた。
――自分を納得させること――
それが今までも、そしてこれからも抱えていく優香にとっての存在意義なのだということを……。
優香は、次の日、またしても綾から不思議な話を聞かされた。
「優香さん、昨日私が話したこと覚えてる?」
「S研究所の西村あすなが、新しい学説を発表したということでしょう?」
「ええ、でも、その後不思議なのよ」
「何が?」
「発表したはずの西村あすなという人が、発表と同時に失踪しているという話なのよね」
「どういうこと?」
「雑誌には明記されていなかったし、マスコミ発表もされていないので、知っている人はごく限られた人になるんだけど、西村さんは研究を発表すると言って、数人を研究室に集めておいて、その場には現れなかったらしいのよ」
「じゃあ、その学説は?」
「ちゃんと、プリントアウトされたものが、封筒の中に入っていたということなんだけど、どういうことなのかしらね」
「それはおかしいわよね。もっとおかしいと思ったのは、それだけ大きな発表があったというのに、週刊誌の記事でも、さほど大きな記事になっていないし、他のメディアも見てみたんだけど、他のメディアには、記事すら載っていない。インターネットでも、そのことに触れているのはごく少数だったわ。何かおかしいと思わない方が変よね」
「その通りですね。それに発表された週刊誌も、どこかゴシップ専門のようなところがある『胡散臭い』と言われているところでしょう? どこまで信憑性があるのかって感じるわ」
「週刊誌側の勇み足というところなのかしら?」
「それだったらいいんだけど」
この話はここで終わった。
だが、優香は少し気になっていた。研究が発表したにも関わらず、本人が失踪してしまったということに関してであった。
それにもう一つ気になることがある。
――綾はどうして、こんなに西村あすなという女性を気にしているのかしら?
人の心を読むのが得意な優香だったが、一番心を読みにくい相手というのが、実は綾だった。
綾という女性は、いつも自分の心のまわりにオブラートを巻いていて、中を見えないように「保護」している。それが彼女の持って生まれたものなのか、それとも育ってきた環境によって、人に心を読ませないようにする性格が形成されたからなのか、優香にはハッキリと分からなかった。
だからこそ、優香は綾に興味を持ったのだ。
――こんな女性、今までに自分のまわりにいなかったわ――
今、優香が興味を持っている女性は、綾の他にもう一人いる。実際には会ったことはなかったが、近い将来、絶対に会うことのできる人だと思っていた。
そのことを、一番知られてはいけないと思っているのが綾だった。理由は二つあり、一つは、
――綾が女性として嫉妬するのではないか?
という思いがあるのと、
相手が、優香にとって、ライバル的な存在だからである。
優香を師のように慕っている綾に対して、ライバルの女性に興味を持ったこと、しかも、自分と同等に興味を持っているなどと分かると、完全に綾に対しての裏切り行為になってしまうことと、綾のプライドをズタズタに引き裂いてしまうことになることが分かっているからだった。
その相手というのが、綾が昨日、研究を発表したと言って週刊誌を持ってきた中に書かれている、
「西村あすな」
その人だったからである。
優香は、綾という女性も聡明なのは分かっていた。自分ほどではないまでも、相手の心を読むのがうまいと思っている。しかも、優香の場合は、相手を見ていると、何が言いたいのか分かってくるような「直感的」なところがあるのに比べて、綾の場合は、相手の様子をじっくりと見てみて、さらに相手を正面から見つめる。この二段階で、相手が何を言いたいのかを分かるという「推理力」のたまものだと言えるのではないだろうか。
自分とは違う意味で、人の心を読むことのできる綾を、優香は警戒していた。自分と同じような直感型であれば分かることもあるが、そうでないだけに、不気味でしょうがないと思えて仕方がなかった。
――とにかく、綾にだけは気を付けておかなければ――
そう思っていた優香だった。
優香は、一つのことに突出した性格だった。人の心が読めるというのもその一つだが、それはこれからも続いていく性格だろう。
しかし、彼女には、成長していくにしたがって、その時々で突出したものがあった。それはいつも一つであり、そのため、一度突出したものであっても、次のステップで別に突出したものが現れれば、それ以降は、それまで突出していたことが平凡に戻ってしまう。
そんな彼女を、
「二重人格だ」
という人もいれば、
「いやいや、多重人格なんじゃないの? どこか彼女を見ていると気持ち悪く感じることがあるわ」
それは、彼女の突出した部分だけを見て、ある意味、嫉妬している人の意見であった。突出した部分を知らない人でも、彼女の異様なところが何となく分かっている人は、彼女の気持ち悪さだけを垣間見て、なるべく近づきたくはないと思っているようだった。
「でもね、それが優香さんの本当の性格で、『成長し続ける女』なんだって私は思っているの」
そう言っているのは、綾だった。
「私は、優香さんについていきたいと思ったのは、それを知った時だと思うの。私もそれなりに、自分に自信を持っていたわ。他の人には絶対に負けないと思ったこともあった。でも、そんな自信も優香さんの前では掠れてしまった。それほど彼女には、私にない魅力があるのよ」
「そんなものですかね?」
「ええ、誰だって、自分にないものを持っている人に対して、敬意を表したりするでしょう? 私の場合は、その相手が優香さんだということ。そして、そのことを自分で理解できたことで、自分がついていく相手を見つけたと思っているのよね」
綾の言葉には説得力があった。
綾は三年前、付き合っていた男性からプロポーズされた。今までにも何度もプロポーズされてきたが、その時の断り方とは、明らかに違っていた。
今までの相手に対しては、かなり高圧的な言い方だったのに対し、彼に対しては、自分から諭すような言い方だったのだ。
かつては、
「あなたなんか、私の足元にも及ばないわ。私にプロポーズするなんて十年早いのよ」
と言わんばかりだった。
プロポーズしてくるくらいの相手なので、それまでは適当に相手に好かれるような付き合い方をしていたのだろう。その理由は、
――利用できる相手は、色仕掛けでも利用する――
というしたたかなところがあったからだ。
だが、優香は相手が自分を少しでも拘束しそうになると、完全に本性を剥き出しにし、相手を罵倒することで諦めさせようとした。
――どうせ好きでもない相手なんだわ――
と思っていたからだ。
しかし、三年前に断った相手は、それまでの相手とは違っていた。
彼は研究員であり、優香に似たところがあった。
――もし、優香さんに会っていなかったら、私は彼のプロポーズを受け入れたのかしら?
と感じたが、逆に、
――優香さんという女性を知らなければ、私はもっと卑屈になっていて、男性を好きになるという意識すらなかったかも知れないわ――
とも考えられた。
その男性が、それからどうなったのか綾には分からなかった。しかし、
――研究に熱中していてくれれば嬉しいな――
という、乙女心を抱いていたのを、優香であっても、そこまでは知らなかったのだ。
優香は、綾という女性を一番分かりにくい女性だと思っていたが、見た目ほど、したたかすぎる女性だとはどうしても思えなかった。
それは、自分を慕ってくれているという意味での贔屓目のせいなのかも知れないが、それだけではない。
――私と似ているところが多いはずなのに、まわりから見て、似ているところなんて、まったくないように思える――
優香は、自分のまわりを客観的に見ることができる。その目を使って、自分と綾のことを見つめてみたが、その時に感じたのが、
――まったく似ているように見えない――
ということだった。
しかし、綾が自分と似ているところがあるから、ずっと付き合っていられるのだ。そうでもなければ、お互いに引き合うはずのない人間だと思っていたからである。
優香は最近思っていることとして、
――お互いに相手のことが分かってしまうというのは、まわりから見ているとどんな感じなんだろうか?
優香も綾も、相手の考えていることが分かっている。どちらかだけが分かっているのであれば、分かっている方にとって、圧倒的に有利だと言えるが、お互いに分かり合っているという場合はどうなのだろう? 下手をすると、お互いにギクシャクしてしまうかも知れない。
「策を弄する人は、相手に同じ策を取られることを予期していない」
と言われるが、予期していないどころか、かなりのショックで、そのショックから立ち直れないかも知れないと思うほどだった。
だが、綾と優香の間ではそんなぎこちなさは感じられない。優香の方では二人がお互いに相手のことを分かっているということを理解している。綾の方でも同じではないだろうか。それなのに、ギクシャクしてこないというのは二つ理由が考えられるのではないだろうか。
一つは、同じお互いを分かっている力を持っているとしても、同じ規模の力とは限らない。どちらかが強い力を持っているとすれば、弱い力の方に線を引いて、そこから上だけが相手の気持ちを分かる力だと考えれば、弱い力の方の人にとって、
「この人にだけ、私の力が通用しないんだわ」
と感じるに違いない。
そういう人が一人くらいいても、例外として受け入れることができるだろう。
もう一つの考え方として、強さの問題ではなく、そもそも相手の気持ちを読み取る力の種類が違っている可能性もある。
例えば、相手の目を見るだけで相手が考えていることが分かってしまうという「本能的」な力だ。それ以外としては、相手の様子や素振りから、自分の想像できる気持ちのパターンに当て嵌めて、その気持ちを計り知るという育ってきた環境とそれによって培われた力によるものだとすれば、「統計的」な力だと言えるのではないだろうか。
二人の力のかかわりがどのようなものなのか分からないが、スムーズに行っていても、いずれは一触即発の危機を孕んでいる可能性も否定できなかった。
優香は、綾が持ってきた週刊誌を読んでみたが、あすながどんな発表を学会に残したのか分からなかった。
そもそも週刊誌というのはゴシップを抜くのには長けているが、研究内容を理解できるまでの人がいるはずもない。
「優香さん、そんなにS研究所の発表が気になりますか?」
と、綾から言われた。
さすがに綾には、隠し通せることではないと思い、気持ちを抑えることをしなかったが、それも、腫れ物に触ることのない綾の性格を分かってのことだった。そう思っていたのに、ふいに綾からの指摘は、優香に動揺を与えた。
「そんなことはないわ」
気持ちを隠しても同じなのに、優香は否定した。綾はそれを見ながら、笑ったかのように見えたが、その表情に余裕のようなものが感じられたのは、どういうことだろう?
優香は綾の気持ちを読もうとしたが、まったく読むことができない。それだけ動揺しているということなのだろうが、ここまで何も浮かんで来ないということは、動揺によるものであることは明らかで、しかも、自分のこの力が「本能的」な力であることを裏付けているように思えて仕方がなかった。
「優香さんの研究も佳境に入ってきているんですから、今は、人の研究のことを気にしている場合ではないんじゃないですか?」
優香の研究もタイムマシンの研究に似ていた。突き詰めれば、タイムマシンの研究に行き着くものなのだろうが、今の段階では、タイムパラドックスへの挑戦と言った内容になっていた。
優香の研究は「無限性」に対しての研究でもあった。
優香の中で、
「タイムマシンの研究に似ている」
と思っているのは、自分の研究の発想が、タイムマシンを使った時に起こることの証明から始まっていたからだ。
学説への入り口は、
「タイムマシンを利用したたとえ話」
というところで、奇しくもあすなの発想に似ていた。
おおむね、今発表されている学説の多くは、案外何かを利用した時のたとえ話からスタートしているものではないかと考えている研究者は、あすなや優香だけではなく、結構たくさんいるようだった。
優香もあすなと同じようにタイムマシンを利用した発想から始まった。しかも途中まで同じだということをお互いに知るはずもないことだった。
優香の場合は、
「タイムマシンに乗ってどこかの世界に飛び立つと、飛び立った元の世界に、自分はいないのだろうか?」
という発想までは、あすなと同じだった。
あすなの場合は、飛び立った元の世界にも自分はいて、歴史を変えないようにしようという力が働くと考えていた。
しかし、優香は違った。
「飛び立った元の世界には、もうすでに自分はいない」
という仮説を立ててみた。
「じゃあ、飛び立った人は、その場所に帰ることができるということですか?」
と綾が聞くと、
「それは分からない。単純に帰ってこれるのであれば、もっと前にタイムマシンに対しての学説が確立されていたはずだわ。でも、飛び立った世界に自分が存在しないと考えた方が、私は自分を納得させることができるような気がするのよ」
「私もそれは同意見ですね」
「飛び立った世界に自分が存在していないということは、自分は消えてしまったのと同じことになるので、失踪と一緒のようなものよね。昔であれば、『蒸発』なんて言葉もあったわ」
「ということは、飛び立った世界のそこから先は、自分はずっと存在していないということになるのよね」
「その通り。だから、未来であれば、どの世界であっても、タイムマシンで到達することは可能なの。私はそこに、アインシュタインの『相対性理論』を結びつけて考えるわ」
「どういうことなんですか?」
「かなり以前に発表された映画で、宇宙ロケットに乗って飛び立った二人の男性がいるんだけど、その二人は『相対性理論』を理解していて、ロケットで眠っていた時間を一年間として、『相対性理論』では、数百年経っているという会話をしていたのよね」
「ええ」
「それって、タイムマシンの発想と同じなんじゃないかって思うのよ。『相対性理論』の中には、『時間というのは、高速になればなるほど、その中にいる人は時間が経っていない』というものでしょう。だから、表の世界は数百年経っているのに、自分たちは一年しか年を取っていないという発想ね」
「それは、浦島太郎にも言えることですよね」
「その通りよね。アインシュタインの発想は、まだ百年ちょっと前のものなのに、浦島太郎の話は、五百年以上も前の発想でしょう? これってすごいわよね。世の中はまだ武士の時代で、理論なんか分かるはずもないのに、ちゃんと物語として理論を伝えてきたんだから、日本人のすごさを感じるわ」
「でも、それって全部未来に対してのことですよね?」
「そうね。過去に戻るという発想のお話は聞いたことがない。もっとも、おとぎ話には、未来という発想を与えないようにしているような気がするの。浦島太郎にしても、あくまでも最後になって陸に上がると、知らない世界に変わっていたとは言っているけど、未来になっていたとは言っていないわよね。乙姫様よりもらった玉手箱を開けると、おじいさんになってしまったところで終わっているけど、そこが未来だとは言っていない」
「その時代の人に、そんな理屈が分かるはずないですよね」
「そうなのよ。それなのに、その時の物語が五百年経った今でも語り継がれている。つまりは、重要な話だと思っていた人がずっといたということなのよね」
「未来への系譜のようなものと考えればいいのかしら?」
「そうかも知れないわね。五百年前の発想が、やっとここ百年くらいの間に追いついてきた。そう言ってもいいんじゃないかしら?」
「昔の人は、何を考えて、あの話を書いたのかしら?」
「言われていることとして、竜宮城というのは宇宙であり、カメに乗って海の中に入って行ったというのは、ロケットに乗って、高速を体験したと言い換えられないかということなのよね。だから、その時に宇宙人が地球に存在していたというのはありなのかも知れないわ」
「でも、それが本当にロケットだったのかしら? 実はタイムマシンだったと言えなくもないかしら?」
「それもありかも知れないわね。でも、私はもう一つ、疑問に思っていることがあるの」
「それはどういうことなんですか?」
「浦島太郎は、竜宮城から帰ってくると、まったく知らない世界になっていたって言っているでしょう?」
「ええ」
「でも、ここでおかしいと思わない?」
「どうしてですか?」
「だって、知らない世界を数百年も未来の世界だというのであれば、浦島太郎がその世界についた瞬間に、一気に年を取ってしまうんじゃないのかしら? ひょっとすると、ミイラ化してしまうかも知れない。実は、このことはさっき言った昔見た映画の時にも思ったんだけど、高速で動いている間の人間は年を取らないかも知れないけど、そこで普通の世界に戻ったのなら、一気に年を取ると考えた方が自然なんじゃないかって思うのよ。それこそ自然界の摂理であり、年を取らないということは、時間への冒涜ともとれるんじゃないかって思うのよ」
「あっ」
綾は、小さな声で驚いた。
これ以上の声を出すと、自分がその驚きに押しつぶされそうに思えたからではないだろうか。
「ということは、タイムマシンの研究で、未来に出ることができたとしても、一気に年を取ってしまう危険性を孕んでいることに誰も気づかないように考えられたのが、SF映画であったり、浦島太郎だったりするのかも知れない。もっとも、そうでないと、物語として成立しないだろうからね」
と言って、優香は笑った。
しかし、この笑みは笑顔からではなく、明らかに冷たい失笑だった。
「綾はどう思う?」
綾に振ってみると、綾には綾で考えていることもあったようだ。
「最初に話は戻るんですが、タイムマシンで自分が飛び立ったところから先にだけ自分が存在しないということは、過去にはいけないということですよね?」
綾の方が、最初にその話題に触れることなく進んだのに、話をまた前に戻したのだった。
「そうね、私の言いたいことの半分は、タイムマシンを使ってでも、過去にはいけないということ。過去に行ってしまうと、そこにはもう一人の自分がいて、同じ次元の同じ時間に、同じ人間が存在してはいけないというタイムパラドックスに違反することになるのよ」
「でも、タイムパラドックスとは言っているけど、それも、しょせんは学説でしかないのよね?」
「もちろんそうだけど、でも、こういう研究は、過去から培われた理論を尊重しながら行わなければいけないのよね。その中には真っ向から歯向かう意見があることも承知しているけど、この場合、私は完全に承服した上での発想しか思い浮かばないの。ということは、この理論は間違っていないと、私は納得しているのよ」
優香の言葉には説得力があった。
「実は、私はそこまで優香さんのように、過去の理論に執着する必要はないと思っているの。優香さんには悪いけど……」
綾は恐縮そうに肩を竦めた。
「そんなことはないわよ。学説にしても理論にしても、自分だけの発想だけでは解決できないこともある。なまじ解決できたとしても、いずれどこかで引っかかってくるような気がしているの。あなたもそう思っているような気がするわ」
優香は綾の顔を見た。
「さすがに優香さんの言う通りね。でも、私の発想は、もしかすると、優香さんの発想を根底から覆すことになるかも知れませんよ。それでもかまわないんですか?」
「私には私で自信を持っているつもりよ。まずは自分に対して自信を持つことが大切なの。それが研究者としての宿命でもあるし、生き甲斐でもあるのよ」
「でも、優香さんがさっき話してくれた浦島太郎の物語で、陸に上がった瞬間、年を取らないという発想は、私も以前考えたことがあったんですよ。でも結局結論が出ずに、考えることを止めました」
「私も、今までに何度も、この発想に行きついたのよ。でも、何度も発想しているということは……、分かるでしょう?」
「そうですね」
なるほど、結論が出ないから何度も思い立っては考えているのだ。
それにしても、何度も同じ発想を思い浮かべるというのは、どういう心境なのだろう?
綾には想像もつかなかった。綾の場合は、一度浮かんだ発想が、その時に結論を得ることができなければ、二度と考えることはない。つまり一度何かの発想を考えると、二度とそのことについて再考するということはないということだった。
綾は自分の性格をアッサリしているとは思っていない。どちらかというと、一つのことに集中すると、他のことを忘れてしまうほどで、これは研究者としては、普通なのではないかと思っていた。
しかし、一つのことに凝り固まってしまうことは綾にはなかった。それは、
――ダメならダメで、自分を納得させることができる術を持っている――
と思っているからだった。
研究というのは、ある程度までは深みに嵌り込まなければ、発見できるものも発見できないと思っている。しかし、嵌り込みすぎると抜けられなくなることも分かっている。つまりは、
――引き際――
というのが大切だった。
綾は、学生時代からギャンブルをやっていた。
それは別に金儲けが目的ではなく、自分の中の勝負師としての感性を磨くことが目的だった。麻雀や競馬、パチンコなど、さまざまなギャンブルをやっていた。
それぞれに深入りすることはなかった。やっているうちに、自分に合っているものが見つかればそれでよかった。しかし、それともう一つ目的があった。
「ギャンブルというのは、止め時が問題なんだよ」
と、勝負師の人に言われた。
「ギャンブルは、将棋やスポーツなどと違って、ある程度自分で自由にやめることができる。だからこそ、止め時を間違えると、深みに嵌ってしまって、抜けられなくなる。勝ち続けている時もあれば、負け続ける時もある」
「はい」
「勝ち続けているからと言って、それを自分の運や実力だと思ってやり続けると、いずれ負け続ける時がやってくる。そんな時、君はどう考えるかね?」
「……」
答えないでいると、相手は笑みを浮かべて話し始めた。その顔には、
「本当は、分かっているんだろう?」
と言わんばかりの余裕の笑みが浮かんでいた。
「君はたぶん、『まだ勝っているんだから、マイナスになる前に止めればいい』と思うんじゃないかい? でも、もう一人の自分が囁くんだよ。『少々マイナスになっても、そのうちにまた勝ち続けられる波がやってくる。その時までじっと待てばいい』ってね」
「ええ」
「確かに、波は来るかも知れないけど、その可能性がどれほどのものなのかを考えたりはしない。考えることはできるのかも知れないけど、考えることで、自分が勝負から降りるのが怖くなる。なぜなら、金銭にこだわらないと思っているにも関わらず、失ったものはもったいないと思うものなんだ。だから、決して止めることはしない」
「きっとその場になれば、おっしゃる通りになると思います」
「君はビギナーズラックという言葉があるのを知っているかい?」
「ええ、初心者がなぜか勝ってしまうというオカルトのようなものですよね?」
「そうだね。オカルト、都市伝説の類だね。でも、オカルトというのは、超自然という意味もあるんだよ。自然現象を超越したもの。それを信じるか信じないかということなんだけど、これだって、真実は一つなのさ。だから、僕は実際に起こっていることは否定できないという観点から、ビギナーズラックは信じているんだ」
その人の言葉には説得力があった。
「ビギナーズラックというのも、引き際の一つと考えることもできるんでしょうか?」
「それも一つの考え方だね。ただ、僕の言いたいのは、現実に起きていることを、オカルトや都市伝説として片づけてしまうのは、やり続けた時に、波が来る可能性を考えるかどうかということにも繋がってくると思うんだ。ビギナーズラックを軽視した人には、波が来る可能性についてなど、考える気持ちの余裕はないと思うよ」
綾はその話を聞いた時、自分がギャンブルをする意義が分かったような気がした。最初は、
――運というのが実力に結びつくか?
という発想から始まったものなのだが、それが感性へと変わり、そして、引き際を見極める目を持つことに繋がった。綾が、
――ダメならダメで、自分を納得させることができる術を持っている――
と感じるようになったのは、この時の勝負師の人の話を聞いて、自分なりに考えた結果だったのだ。
優香という女性は天才肌である。しかし、綾は天才というよりも自分の努力でのし上がってきたと言ってもいい。しかも、その努力は孤独の中から生まれたもの。そのことを優香には分かっていた。
しかし、綾には努力だけではなく、天才的な部分も備わっていた。本人は気づいていないかも知れないが、その最たる例として、自分がこれから誰についていくと考えた時、選んだのが優香だということだ。
「先見の明」
という意味では、類まれなき才能を、綾は発揮している。優香も、綾がいてくれることで、自分の天才的な力を、それ以上に発揮することができている。綾は、自分の力を人に与え、その力をさらに倍増させるという力を持っているのだ。
それは、他の人にあるような、
「助手が最高なので、主人が引き立つ」
というのとは少し違っている。
この場合の助手は、あくまでも「影」としての存在であり、光になろうとして出しゃばってしまうと、主人の力が削がれてしまうことになるのは必至だろう。
しかし、優香と綾の関係は、そうではなかった。
綾は決して優香の前で「影」ではない。自分は「光」として輝き続けている。
しかも、どちらも「光」として輝きながらも、お互いに、その輝きが削がれることはない。
つまりは、それぞれの『光』の輝きは、力という意味では別物なのだ。
相手を引き立たせる力を持っていながら、もちろん、自分での光を褪せらせることはない。その力がお互いに誘発させることで、力関係の均衡を保っているのだ。
それにしても、自分でも十分に表舞台に出て、やっていけるだけの力を持っていながら、どうして綾は優香に固執するのだろう?
優香はその思いをずっと抱き続けていた。綾を助手だと思いながらも、対等、あるいは時として、自分よりも上に崇め奉るくらいの気持ちになっているのは、優香の中に、綾に対しての恐怖心があるからだった。
優香はもちろん、綾もそのことは分かっている。
優香が自分に対して、恐怖心を抱いているのを分かってはいるが、綾はそのことに警戒心を抱くことがなかった。
それならそれでいいと思っているからだ。
普通の人なら、自分の立場を脅かす人が現れれば、何とか排除しようと思うだろう。しかも、恐怖心を抱いているのだから、なおさらのことだ。
しかし、彼女を排除することは、自分のせっかく今まで築いてきた地位や名誉を捨てる結果になるかも知れない。
ある程度までの地位に昇りつめると、それ以降に限界を感じ始める。そこまでくると、今度はその地位にしがみつくのに必死になる。
今までのように、上ばかり見て歩んでいくわけにはいかない。今度は下を見なければいけない。
下を見るということは上を見るよりも怖いことだ。梯子を昇っている時だって同じではないか。上を見ている時は怖くなかったものが、下を見ることで急に恐怖心を煽られてしまう。
しかも、下からはどんどん人が迫ってくるので、自分は上に昇っていくしかないのだ。そう思うと、下を見ることすら許されなくなる。
「現状維持ほど難しいことはない」
と言われる。
どんどん自分の力の衰えと戦いながら、前を見続けなければいけないことは、自分に方向転換も意識させられる。この時一人だと、これほど心細いものはない。上を目指している間に、その時に一緒にいてくれるパートナーを探すことも、今の優香には必要なことだった。
だからこそ、優香には綾が必要なのだ。怖いと思いながらも、いずれは自分の本当の力になってもらいたいと思っている。それは頭の中での矛盾であり、ジレンマでもあったのだ。
輝き方の違いには、ある程度目を瞑り、優香は綾を手放すことはできない。そのためには、今まで以上に綾に対して、気を配っておかないといけないような気がした。
しかし、綾は言わずと知れた百戦錬磨の猛者だと言ってもいい。優香も自分に対して同じような思いを抱いているのも分かっている。ここは分かち合うには、相手に対しての尊敬の念を、表に出すほかはないと思うようになっていた。
優香は綾に対して尊敬の念はしっかりと持っている。今までは、
――自分が主人だ――
という意識を持っていることで、表に出さなかったが、今後はその思いを表に出していかなければいけないと思うようになった。
綾は自分の人生の中で、一度だけ幸せに感じた時があった。その幸せというのは、女としての幸せであり、逆に言えば、女としての幸せを感じたのは、今でもその時一度だけだと思っていた。
それは、綾がその時付き合っていた男性からプロポーズされた時のことだった。それまでに付き合っていた男性は何人かいたが、綾は心から好きになった人はおろか、
――この人なら信じられる――
と思える人もいなかったのだ。
要するに男運が悪かったというべきであろうか。
綾は、男性に対して見る目はなかった。今まで付き合う男性は、軽いノリで付き合っているだけで、男の言葉を最初は疑ってみても、最終的には信じてしまう綾は、騙すにはこれほど騙しやすい相手はいなかった。
二股三股は当たり前、それを発見し指摘すると、相手は開き直って、
「俺がお前のような女を真剣に好きになるわけないだろう? お前は俺の付き合っている女の中の一人でしかないんだよ」
と言ってのける。
男としては開き直っているわけではないのかも知れない。自分のことを信用してくれるのはいいのだが、それも浮気しても疑わないと思っていたから、
――どうせバレるまでの付き合いだ――
と、バレた時には最初から別れるつもりでいたのだから、いくらでも言いたいことは言えるというものだ。
その時の男は捨てセリフとともに綾の前から姿を消した。未練の欠片もなかった男に対し、
「去る者は追わず」
と思っていた綾の方が、未練タラタラだった。
気持ち的には、そんな男と別れられてせいせいするのだろうが、実際にはそうはいかない。その状況に戸惑った綾は、しばらく鬱状態になった。
鬱状態の正体は、自分の中にあるジレンマのせいなのに、まわりからは、
――失恋のショックだと思われているのではないか――
と思うと、いたたまれない気持ちになった。
綾の鬱状態は、数か月続いたが、立ち直ると、また他の男性を好きになっていた。
今度の男は、浮気などは一切しなかったが、そのかわり、ギャンブル狂いだった。定職にもつかず、気が付けば、綾のヒモになっていた。前の男よりも悪化していたのである。
その男とは、綾にお金がないのが分かると、勝手に男の方が去っていった。
今度は綾もさすがに追いかけたりはしない。
――私はなんて、男運が悪いんだ――
と思ったものだが、三年前に付き合った男性は、打って変わって誠実な男性だった。
まだ若い研究員だったのだが、綾に対して誠実な思いは本物だった。その証拠に彼は綾にプロポーズしてきたのだ。
彼のプロポーズを受けてからというもの、初めて感じた女としての幸せを噛みしめていたのだが、せっかくの幸せも、彼の失踪という形で、あっさりと終わってしまった。
彼がどこに行ったのか分からない。綾は必至に探したが分からなかった。元々彼は友人も少なく、後から思えば、彼が綾に対して見せる姿以外、ほとんど何も知らなかったのだ。
しかし、綾は彼と付き合った時期を後悔してはいない。今までの二人とはそこが違った。別に付き合った相手が悪いわけではない。綾が彼のことをあまりにも、知らな過ぎただけだ。
――仕事に集中しよう――
と思った矢先、会社からも捨てられた。
その時自分を拾ってくれた優香を慕うことで、それまで燻っていた綾の才能が覚醒したのだ。
かなり遠回りしたのかも知れないが、その時の覚醒を与えてくれたのは、プロポーズしてくれた彼だったように思う。彼から得るものは大きかった。モノの考え方、自分のやりたいことを見つけ、それに徹するための心構えなどを話してくれた。それだけで、綾は彼を心から信じることができて、初めて男性を好きになったのだと思ったのだ。
学生時代にやっていたギャンブル。そして失恋を重ね、初めて出会った好きになることができた男性が自分に与えた大きな影響。それが綾を覚醒させ、優香と出会うことで、覚醒した自分に気づくことができたのだ。
覚醒したままでも、優香との出会いがなければ、覚醒に気づくことはなかっただろう。
優香は、そんな綾を見て、彼女が覚醒していることに気づいた。
優香でなければ、綾に近づこうとは誰も思わなかったことだろう。近づいたとすると、彼女の引力に引き込まれ、どうなってしまうのかそこから先がまったく想像もつかない状態になったことだろう。それを思うと、
「君子危うきに近寄らず」
という言葉に従うしかなかった。
綾は、優香に次に会った時、
「優香さん、そんなにS研究所の発表が気になりますか?」
という言葉をもう一度口にした。
さすがに以前は答えを控えたが、二度目に聞かれた優香は、ここで黙っていることはできないと思った。
「もちろん、気になっているわ。でも、向こうは向こう、こっちはこっちよ」
と、無難な答えしかできなかった自分に、歯がゆい気持ちになった優香だった。
その気持ちの動きを見逃すような綾ではなかった。
「私、知っているんですよ。S研究所の発表内容」
優香の表情が明らかに変わった。
「どうして? 発表内容というのは、学会での会議がないと正式に公開されないはずよ」
優香の言う通りだった。
前は、学会での会議が最初で、その後プレス発表だったのだが、今はプレス発表が先で、学会での会議はその後になった。理由は様々だが、一番の理由は、時間短縮ではないかと言われているが、その真意も定かではない。
優香は、綾から発表内容を聞かされた。
「それって……」
「ええ、そうなの。これは優香さんが考えていたことと酷似しているでしょう?」
まったく同じというわけではなかったが、少なくとも発想のスタートが同じであったことは間違いない。
同じような内容であっても、発想の最初が同じという場合は、なかなかあるものではない。発想の途中で似た発想に近づいていくことはあるが、それも稀なことである。今回のように、発想の最初が同じだというのは、相手の気持ちが分かっていなければありえないことだった。
そういう意味では、発表したのが綾であれば分からなくもない。相手の気持ちを読み取ることのできる人間はそういないだろう。
少なくともここに二人は存在している。自分の近い存在にもう一人いるなどということは、神がかっていなければありえないことだった。
「どうして、そんな……」
優香は綾に対しても、自分の理論の根本を話したことなどなかったはずだ。
いくら相手が全幅の信頼をおいている相手だとはいえ、言えることと言えないことがある。これが発表内容でなければ、
「この秘密は、墓場まで持っていく」
と考えているようなことが、誰にでも一つはあると思っていた。
その思いは実は綾にもあって、綾の場合は、墓場まで持っていく秘密は一つや二つではない。優香に対して前の会社で捨てられたことは話してはいたが、自分の男関係に関しては一切話していない。
――優香さんのことだから、私は男性と付き合ったことのない女性だって思っているかも知れないわ――
とさえ思っていた。
綾も優香の男性関係に関しては知らない。
優香が隠しているわけではなく、何も言わないだけだった。
――言葉にしないというのは、秘密にしているという感情とは違うもの――
というのが優香の考え方だ。
相手に聞かれれば、別に答えないわけではないと思っているからだ。
しかし、綾にはこの思いがあるわけではなかった。
――言葉にしないのは、秘密にしたいからだ――
というのが、綾の考え方だ。
したがって、優香が男性関係のことを口にしないのは、
――自分のような傷を持っているからに違いない――
と感じているからに違いなかった。
優香が研究していた内容は、本当はあすなが考えていた発想とは対になるものだった。
そのことは綾から、
「S研究所が発表した内容」
として聞かされた学説を思えば、気づくことだった。
しかし、その時の優香は、少なくともパニックに陥っていた。しかも、このパニックは、少々のことでは収まらない。今までの優香の能力を著しく狂わせるだけの十分な力を有していたのだ。
綾の中にはその思いがあった。
綾は、優香の考えていることがある程度分かっていたが、さすがに彼女の発想までは分からなかった。綾が分かるのは、優香が誰かを相手に何を考えていることであって、一人で発想や妄想したことを分かるわけではなかったのだ。
そのことに気づいたのは最近のことで、気づいた時、少しショックを受けた綾だったが、そのことが今回の自分の中にある計画に火をつけたと言っても過言ではなかった。
――優香さんには悪いけど……
綾は優香に手を合わせたが、走り出した計画を止めることはできなかった。
「走り出した列車は、止めることはできないのよ」
綾は、自分に言い聞かせるのだった。
まずは、優香の学説がどんなものなのか、探ることが先決だった。なぜなら、あすなが自分の研究を発表したということで、優香は、自分の発想に磨きをかけて、さらにアンチな学説を考えるに違いない。
その前に彼女の本意を知る必要があった。彼女の様子を見逃さないことと、彼女の研究資料を探ることで、分かることだと、ある意味、簡単に考えていた。
もし、計画が失敗しても、本当はS研究所が発表するはずだった内容を、そのまま発表させればいいだけのことだった。綾の相手にプレス発表をさせるという作戦は、失敗した時のことも考えてのことだっただけに、実に計画性のあるものであったに違いない。
その頃優香は、綾の計画を知ってか知らずか、ある男性と会っていた。
「すべてはあなたの計画通りに進んでいるということ?」
「まあ、そういうことかも知れないね」
相手の男はタバコを燻らせていて、どこから見ても、胡散臭く見えていた。
二人が会っていたのは、普通の喫茶店であり、別に密会していたわけではない。会話の様子からは、お互いに相手の様子を伺いながらというのが見て取れるが、
「優香さんは、相手の心が読めるので、ウソはつけないですよね」
と言って笑みを浮かべたが、この男、優香の能力に気づいているようだった。
「そうかしら? これでも最近は、この能力に少し限界を感じているのも事実なんですよ」
この言葉にウソはなかった。
確かに優香は、自分の能力に少し疑問を感じていた。それは綾の存在が大きいのだ。
綾も相手の気持ちが分かるので、お互いに探り合っていると、「見かけの部分」しか相手の気持ちが分かっていないような錯覚に陥る。優香はそんな自分にホッとしていたのも事実だった。
――人の心が読めたって、ろくなことはないわ――
相手が自分に対して感じていることが、嫌でも感じることになる。それは本当に知りたくないと思えることばかりだったりする。
「立場上、あんたと仲良くしているが、本当なら顔を見るのも嫌なくらいなんだ」
そんな思いを見させられると、溜まったものではない。
それでも最近は慣れてきた。
――こんなことに慣れてきたくなんかないわ――
と感じていたが、それでもそばに自分と同じ能力を持った綾がいてくれるのは心強かった。
――いるといないとでは大きな違い――
そう思うことで綾に対して贔屓目に見る自分を見失っていたのも事実だった。
そのことは綾も分かっていて、
――これを利用しない手はない――
と思わせた。
優香と一緒にいる時の綾は、すべての神経を集中させていた。離れるとぐったりしてしまうほど神経を使っているのだが、一緒にいる時、神経を使っていることが生きがいのように思えているのも事実だった。
――私の本当の気持ちって、どこにあるのかしら?
男に対して見る目のなかった、まるで子供同然だった自分がまるでウソのようである。これも覚醒させてくれた、プロポーズしてきた男性と、優香には感謝すべきなのだろうが、自分の目的のためには、そうも言ってられない。
綾は自分の目的に対して今一度考え直してみた。
――本当にこれでいいのかしら?
何度となく自分に問うてみたことだったが、答えは得られなかった。答えを得るとすれば、この計画の最後に何を感じるかということしかない。綾は、今の自分は本当の自分ではないと思いながらも、
――実に綾らしい――
と、客観的に見ることもできていた。
あすなが発表したという学説は、本当は発表したわけではない。プレス発表をしただけなので、あすなが実際に学会に出向いて、その内容を公表しなければ、誰もその内容を知ることはないのだ。
それなのに、綾があすなの発表することになっている学説を知っているというのはおかしなことだ。しかも、その内容が、優香の学説に酷似しているという。
優香は自分の学説をある程度まで綾に話をした。その内容を聞いただけでは、もしあすなの研究発表がどれほど酷似しているのか分からないが、その後、優香が遅れて発表したとしても、それが発表できないほど酷似しているものだとは限らない。
限らないだけに、優香には待っているだけ溜まったものではなかった。普段の気持ちに余裕のある優香であれば、これくらいの期間、待っているのは別に問題ではないが、最初から余裕のない状態で待っているというのは、真綿で首を絞められる思いがして、吐き気からか、息苦しさが襲ってくるようだった。
本当に体調を崩してしまった。
研究中に貧血を起こして倒れた優香は、そのまま救急車で運ばれ、緊急入院することになった。付き添いは綾がいるので、他の研究員は誰も優香に構うことはない。そんな優香を綾は気の毒に思っていた。
――私が招いた種なのに……
綾は自己嫌悪に押しつぶされそうになっていた。
確かに、走り出した列車を止めることはできない。少なくとも、自分だけで止めることはできない。しかし、このことを知っている人は自分以外にはいないではないか。どうしたって止めることのできない列車を走らせてしまった自分に対し、自己嫌悪に陥るのは当然のことだった。
綾は、優香を見ていて、
――ズルいわ――
と感じていた。
いくら自分が招いた種だとは言え、巻き込まれた方は、さっさと気分が悪くなって病に伏している。先に病に伏されてしまうと、自分は死んでも寝込むわけにはいかなくなった。確かにやり遂げなければならない計画のはずなのに、目の前で病に伏せって苦しんでいる人を見ると、自分とかぶってしまって、あれだけ意を決したはずの決意だったものが、どこか揺らぎ始めているのを感じいていたのだ。
「優香さん、大丈夫?」
病に伏してはいたが、薬が効いている間は、ある程度落ち着いている。精神安定剤も入っているのか、最近の切羽詰まった状態から、だいぶ収まってきたかのように見える。
しかし、それは薬が効いている間だけだった。薬がキレてくると、精神は不安定になり、不安定な精神状態はそのまま肉体に直結して、とたんに苦しみ始めるのだ。
息は荒くなり、意識不明寸前まで苦しんでいて、そんな状態を見ていると、さすがに痛々しさで、
――自分がこんな状態になったら――
と想像すると、いたたまれなくなる。
優香はそれでも、気を失いかけたその虫の息の状態で、誰かの名前を呼んでいるようだった。
「どうしたの? 何が言いたいの?」
優香の口はパクパクと動いている。
綾は、その言葉を必死に探ろうとした。明らかに誰かの名前を呼んでいるように思えてならなかった。
それは綾が人の心を読むことができるからで、その能力は、必死にならなくてもできるものだった。
しかし、今綾は必至に優香の口元を読み取ろうとしている。そして、優香の口元に自分の耳を持って行って、何とかその声を聞きだした。
「えっ?」
綾はその時に聞いたその言葉があまりにも意外だったことで、ショックを受けた。
いや、厳密にはショックを受ける前の驚愕で、金縛りに遭ったと言ってもいい。指先に痺れを感じ、頭の中で遠い鐘の音が聞こえるようだった。目の前に小高い丘から見える海が見えていて、その場所は墓前であった。匂ってくるはずのない線香の香りが漂っている。
――どうしたことなのかしら?
その光景は以前にも見たことがあった。それがいつだったのか覚えていない。
――確かあれは……
ごく最近のはずなのに、思い出せない。
墓前に手を合わせている一人の女性を見かけた。その人は必至になって手を合わせ、何かを呟いていた。
その後ろに一人の男性が立っている。必死でお参りしているその女性をじっと見守っていた。
そこで綾の意識は戻ってきたが、墓前だけが瞼の裏に残っていて、人は消えていた。
――今のは何なのかしら?
綾は幻を見たとしか思えなかった。あまりにもリアルな幻である。
優香が綾の耳元で呟いたその言葉、
「お兄さん」
間違いなく、そう言っていた……。
綾は、自分の計画が半分瓦解したのではないかと思った。
なぜ優香の言葉にそんなに過敏に反応したのか、自分でも分からない。しかし、
「お兄さん」
この言葉、優香がいつか口にすることを予期していた。そして、予期していた言葉を発した時、綾は自分の中で大きな変化を迎えることも分かっていた気がした。それがどんなことなのか、予測は不可能だったが、今は分かった気がした。
――私は、今後一切、人の心を読むことができなくなってしまったんだわ――
そう感じた時、悔しさが支配していた。
列車は走り出したのに、自分の力が一つなくなってしまったことで、これからどうすればいいのか、途方に暮れてしまうことだろう。
しかし、その反面、どこかホッとした気もしていた。なぜなら列車を走らせることが本当の自分の意志から生まれたものなのか、ずっと疑問だったからだ。
相手が優香でなければ、こんなにも苦しまずに済んだのに……。
綾は、優香に尊敬の念を抱きながら、自分をいつかは愛してくれると信じて疑わなかった。そんな優香を不本意ではありながら利用しなければいけなかった自分に、嫌悪を感じている。
「お兄さん……」
綾は、自分の思いをその言葉に籠めて、必死で嗚咽と戦っていたのだ……。
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