二重構造

森本 晃次

第1話 あすなの思い


「今年の夏も暑かったわね」

 そう言いながら、墓前に座り、手を合わせている一人の女性。

 海を一望できる丘の上に位置している墓地は、夏の間に無法地帯のように無造作に生え揃った雑草に埋もれそうになっていた。

 管理人はいるにはいるが、個人で土地を貸し、そこに墓を建てているだけなので、墓の手入れに関しては、個人任せになっている。

 定期的に訪れている人の墓は、墓前はおろか、まわりも綺麗に整備されていて、そこだけ別世界のように見えている。手を合わせている女性のまわりの雑草は、それほど伸びていないところを見ると、ここに眠っている人のために、定期的に掃除している人がいるということだろう。

 彼女もその一人だった。

 花を手向けたその手で、お参りを済ませると、まわりの草を刈り始めた。定期的に綺麗にしているので、そんなに時間も掛からない。軽く汗を掻いた程度ですぐに綺麗になっていた。

「正樹さん、あなたがいなくなってからのこの世界は、まったく変わりないわ。時間はちゃんと正確に時を刻み、流れていく。私はそのことが不思議で仕方がないのよ」

 こんな時、涙を流すのが本当なんだろうと思っていたが、涙が出てくる感じがしない。

 もちろん、彼の死が悲しくないわけではない。それよりも彼の死があまりにも突然だったわりに、この墓地に埋葬するようになったのは、彼の意志だという。彼の遺族からは、それ以上のことは教えてもらえなかったが、どうして先祖代々の墓地に入ることを自分から拒んだのか、彼女にも分からなかった。

 彼女は、立ち上がると、自分が持ってきたスケッチブックを開いてみた。そこには製作途中である鉛筆画が描かれていた。方向を整えて海に向かって、両手を伸ばすと、目の前の光景と見比べているようだった。

「やっぱりまったく変わっていない」

 季節は巡っているが、丘の上から見える光景に、何ら変化は見られない。

「正樹さんが、ここに葬ってほしいと言った気持ち、私は何となく分かる気がするわ」

 と言いながら、正樹の墓前の前にある少し大きめの一枚岩に腰を下ろした。椅子にするにはちょうどよく、筆記具をカバンの中から取り出した彼女は、どうやら、そこで続きを描き始めるようだった。

「前に来た時は暑すぎて、すぐに引き上げたのよね。ごめんなさいね、正樹さん」

 と、スケッチブックに筆を落とす前に、そう呟きながら、墓前に謝っていた。

『大丈夫だよ。俺は君のことが心配なんだ。決して無理なことをするんじゃないぞ』

 そんな声が聞こえてきたようだが、もちろん空耳に違いなかったが、彼女の中では、死んだ正樹が声で耳に訴えかけることができなくなったかわりに、墓の前であれば、直接脳内に語り掛けることができるような、そんな力を持っているかのように思えて仕方がなかった。

「本当に平和だわ」

 そう言って、やっと彼女はスケッチブックに筆を落とした。どこから最初に筆を落としていいのか難しいところであったが、絵を描くことをずっと趣味にしてきた彼女には、そんな意識はなかったのだ。

「最初に目についたところに筆を落とせば、それでいいのよ」

 と思っていたのである。

 彼女も十何年も前からずっと絵画を趣味にしてきたので、最初に筆を落とす部分を意識することはあまりなかったが、最初に描き始めるようになれるまでの一番の難関は、

「スケッチブックのどこに最初に筆を落とすか?」

 ということだった。

 彼女が絵画に目覚めたのは、中学の時だった。小学生の頃までは、芸術関係はいくら授業でも嫌で嫌でたまらなかった。芸術関係の授業を受けるくらいなら、国語や算数の授業の方がよほどマシで、子供心に、

――どうして好きな教科だけを受けさせてくれないんだろう?

 と思ったものだ。

 芸術に特化するようになってからは、小学生に感じたその思いが、

――結局は自分を絵画の道に導いたのだから、こんな皮肉なことはないわ――

 と感じるに至らせたのだから、実に皮肉なものだった。

 しかし、小学生時代はそんな意識があったわけではなく、

――とにかく嫌なものは嫌なのよ――

 と、やらされているという意識の強さが、彼女の中で爆発しかけていた。

 逆に、その「やらされている」という意識がなくなれば、芸術的なことへの抵抗感も自然となくなってきた。

 つまりは、縛られたりすることが一番嫌だと思っていた子供時代、宿題をするのも嫌だった。

 わざとやっていかずに先生を睨みつけて、先生から干されてしまった時期もあった。

「そんなに意固地にならなくてもいいのに」

 というクラスメイトのウワサが聞こえてきたが、ウワサをする人たちは「やらされている」ということに何も感じないのかが不思議で、そんな自分が理解できない人たちが影で何を言っていたとしても、気にしなければいいだけのことだった。

 中学に入ると、ある日、家の近くの河原でスケッチブックを片手に、絵を描いている人がいるのを見た。近づいてその絵を覗き込んでみると、鉛筆画のデッサンで浮き上がってくるようなその絵を見ると思わず、

「素敵な絵だわ」

 と、声を掛けてしまった。

 その人は振り向くと、

「そんなことはないさ。でも、そういってくれるのは嬉しいよ」

 と言っていた。

 その人は年齢的に大学生くらいであろうか、髪の毛は無造作に伸びていて、髭も中途半端に伸びているようで、お世辞にも好青年とは言い難かった。しかし、

「いかにも芸術家」

 というそのいで立ちに、思わずニッコリ微笑んでいた自分にビックリさせられたのだった。

「君が綺麗だと思ってくれているのと、描いている自分が見ているこの絵とでは、決定的な違いがあるんだけど、君にはその理由が分かるかい?」

 と言われて、何と答えていいのか分からなかった。

 何となく分かっているような気はするのだが、言葉にしようとすると難しい。相手に自分が何を考えているのか、それをどう伝えればいいのか、その難しさを、その時初めて知ったのだった。

 今にも喉の奥から出てきそうな言葉を呑み込んだり、もう一度咀嚼しているような様子を見たその人は、

「どうやら君は聡明な女の子のようだ。きっと分かっているんだろうけど、どう表現していいのか、分かっていないだけなのだろうね」

 と、自分の言いたいことを言ってくれて感動したことで、思わず何度も頭を下げ、

「うんうん」

 と興奮気味に目を見開いていたのではないだろうか。

 彼はニッコリと笑うと、

「やっぱり分かっているようだね」

 とさらに笑顔を向けられると、恥ずかしさから、紅潮した顔を上げることができなくなってしまった。

「じゃあ、僕から言おうかな?」

「お願いします」

「僕は最初からこの絵を見ているんだけど、君は今初めてこの絵を見たんでしょう? 違いってそれだけのことなんだよ」

 何とも当たり前のことだった。

 しかも、

――それだけのこと?

 確かに当たり前のことではあるが、そのことを言葉にできるかできないかというのは、大きなことだった。

――私は言葉にできなかった。それなのに、彼は簡単に言葉にできる――

 そう思っていると、彼は続けた。

「どうして君が言葉にできなかったのかというと、君は心の中で、『こんなことを口にすると笑われるんじゃないかな?』ということを考えていたんじゃないかな? もっとも、それは誰もが感じていることであり、君だけのことではない。だから、皆思っていることを自分は口にできないと思っているのさ。思っていることを口にできるというのは、本当は気持ちのいいことなんだよ」

 と言われても、最初はピンとこなかった。

――いつから、思ったことを口にできないと思うようになったのかしら?

 と考えていると、次第に分かってきた。

「そうだわ。小さな頃は好き放題に言っていたはずなのに、大きくなるにつれて、言葉を選ぶようになった。それが成長だって思うようになったんだけど違うかしら?」

「その通りさ。確かに言いたい放題に言っているだけでは小さな子供のままなんだろうけど、自分で言葉を選んでいるうちに、何が正しいのかだけを考えて口にするようになってしまったでしょう? それがそもそも思っていることを口にできなくさせているんじゃないかな?」

 まさしくその通りだった。

 彼は続けた。

「絵を描いている時は、ウソはないんだよ。それがいくら目の前にあることを忠実にあがいていないとしてもね」

「どういうことですか?」

「余分だと思うことを省略することは得てしてあるものなんだよ。それをウソだとは僕は思っている。逆にそこにないものを描くこともある。それこそ、言いたいことを言える自分に照らし合わせて見ることができるんじゃないかな?」

 中学時代の彼女には、少し難しいことだった。

 彼女が絵画を志すようになったのは、この時、絵を描いているこの人に会わなければ、きっとなかっただろう。そう思うと、

――出会いに運命というものがあるのって、本当なんだわ――

 と感じないわけにはいかなかったのだ。

 その時の彼とは会うことがなかったが、彼は絵で将来生計を立てていくつもりはないと言っていた。

「どうしてなんですか?」

 と聞くと、

「僕はあくまでも趣味の世界で描いているだけなんだ。言いたいことを言えなくなるくらいなら、趣味の世界で描いているだけで十分だからね」

 欲がないと言えばそれまでだが、正直もったいない気がした。

 なりたくて努力している人もいれば、趣味の世界で満足している人もいる。人それぞれなのだろうが、

――プロになりたいと思っている人に才能を与えてあげれば、世の中うまくいくのに――

 と、勝手に思い込んでしまっていたが、考えてみれば、誰に才能があるのかを、一体誰が決めるのかということを考えると、プロとアマチュアの違いがどこにあるのか素朴に疑問に感じてしまった。

 そう思うと、気が楽になったのか、

――私にもできるかも?

 それまでの自分が食わず嫌いなだけだったことに気づいたのだ。

 中学の美術の先生が面白い先生だったこともあって、美術部に入部することもなく、一人で描くようになった。先生には時々絵を見せてアドバイスをもらっていた。先生も美術部への入部を無理に進めることはなかったので、気楽に聞くことができた。

 美術の先生だからと言って、先生は別に美術部の顧問というわけではない。顧問というのは、誰でもいいのだ。もちろん、美術の先生だからということで、最初に顧問の打診があったのも事実だったようだが、先生は丁重に断ったという。理由に関しては聞いていないが、人から縛られるのがあまり好きでなさそうな先生なので、自由に動けるように顧問を辞退したのだ。

 学校側は最初、先生がコンクールに応募する作品を作っていたので、それで遠慮したのかも知れない。顧問打診を強く推すことができなかったのも、そのあたりが原因だったのだろう。

 先生に相談すれば、先生も河原で会った大学生と同じような話をしていた。

「目の前にあるものを充実に描くだけが絵画じゃないんだ。時には思い切って省略してみたり、そこにはないものを付け加えてみるのも、絵画なんだよ。絵画は芸術なんだ。マネではない。創造することも大切だって僕は思うんだよ」

 そう先生に言われると、目からうろこが落ちたような気がした。

――なるほど、新しいものを作るという考え方なのね。私が絵画をやってみようと思ったきっかけが何だったのか自分では分からなかったけど、こうやって先生から言われると、だんだん分かってきたような気がする――

 分かってくると、方向性も決まってくる。

 新進気鋭の画家の中には、人には分からないものを描く人もいれば、幻想的なこの世のものとは思えないものを描く人もいる。ピカソや岡本太郎のように、常人では想像もつかないような発想、それこそ、

「芸術は爆発だ」

 と言えるのではないだろうか。

 そんな人のようになりたいとまでは思わないが、自分の中の独創性を醸し出せる絵を分かってもらえる人がいれば、それだけで嬉しかった。

「僕は数万人にウケる作品を作るより、数人の人でいいから、『まさしく自分の感性にピッタリの作品だ』と言ってくれるような作品を描きたいんだ」

 と先生は話していたが、

――本当にその通りだ――

 と思うのだった。

 まったりといつものように夕方になるまで、絵画を楽しむつもりだった。正樹の墓前に来て、すぐに帰るというのは気が引けた。少しでも正樹と一緒にいたいという思いと、ここにいると、誰かに出会えそうな気がしたからだ。それが彼女にとっていいことなのか悪いことなのか、よく分からなかった。

 ここで絵を描き始めて、何度目になるだろうか。そろそろ半分が出来上がろうとしていた。時々筆を休めてスケッチブックに目を落とすと、出来上がりを想像することで、

「よし、もう少し頑張っていこう」

 と、やる気が出てくるのだった。

 その日も何度目かの休憩の途中のこと、後ろに人の気配を感じたが、墓参りの人なのだろうと思い、それほど気にしていなかったが、ふいに後ろから名前を呼ばれて、思わず振り返った。

「西村さん? 西村あすなさんですよね?」

 と言われて、反射的に振り向いたが、そこには一人の見知らぬ男性が立っていた。

 あすなは、何と答えていいのか一瞬考えたが、

「ええ、そうですけども」

 さぞや訝しい表情をその男性に向けていたに違いない。

 その男性は三十代前半くらいであろうか。あすなの顔を見て微笑んでいた。その微笑みは、喜びからの笑みというよりもホッとしているような安心感による笑みに見えたのは気のせいであろうか。

「ごめんなさい。いきなり声を掛けられて、さぞやビックリしていることでしょうね」

「ええ、まあ」

 きょとんとしているあすなの顔を覗き込むように微笑むと、

「私はこういう者です」

 と言って名刺を一枚渡された。

『サイエンスジャーナル編集部:香月洋三』

 名刺にはそう書かれていた。

 サイエンスということは、科学関係の雑誌社の編集者ということだろう。あすなは身体を固くした。

「雑誌社の人が私に何の用なんですか?」

「あすなさんに、高梨正樹さんのことについていろいろ教えていただきたいと思いましてね」

「私にですか?」

「ええ、あすなさんは高梨さんとお付き合いをされていたんですよね? 死の直前まで……」

「……」

 何と答えていいのか迷ってしまった。

 この男は「死の直前」と言ったが、本当は「死ぬまで」というのが、正確な言い方だと言いたかったが、出かかっている言葉を呑み込んでしまった。その代わり、「死の直前」

と言われたことに対して憤慨した気分になったことで、さらに、彼を睨みつけていたに違いない。

 その表情を見た香月という男は、またしても微笑んだ。この表情はさっきの笑みとは明らかに違っている。どこか余裕が感じられ、こちらを見下しているかのようにさえ見えた。

――私の様子から、何かを感じ取ったのかしら?

 と思ったが、余計なことを口にする気もなかった。

「あすなさんは、分かりやすい人だ」

 と香月は言った。

――やっぱり私の表情から精神状態を分析することができる人なんだわ――

 と、さらに警戒の殻を強固にしたが、

――でも、心の奥で何を考えているかまでは分からないはずよ――

 という思いもあった。

 それでも、ジャーナリストという海千山千の相手を見ると、思わず臆してしまう自分がこれからどういう態度を取っていいのか、迷っていた。

「高梨さんが亡くなってから二年が経つんですね」

「ええ、そうです」

「彼は、新宮大学の大学院で何かを研究していたようなんだけど、私はその研究を調べてみたんだけど、何を研究していたのか、さっぱり分からないんですよ。おかしなことに、彼が研究していたという事実すらないようで、これは彼の研究を受け継いだ人が、元々自分の研究だったということにして、何かを隠匿しているように思えて仕方がないんですよ」

 香月は鋭いところをついていた。

「どうしてそう思うんですか? 何よりもあなたに何の権利があって、彼の研究をいまさら探る必要があるというんですか?」

 あすなの言い方は、完全に挑戦的になっていた。

「まあまあ、そんなに興奮しないでください。もしそうだとしても、僕はそのことを記事にするつもりもないし、僕の本当に知りたいことではないからですね」

「どういうことなんですか?」

「僕が彼のことを調べてみたのは、彼が亡くなったということに疑問を感じたからなんですよ」

 あすなはその言葉を聞いて、ドキッとした。明らかに動揺したのが自分でも分かったので、相手にも当然分かったことだろう。

――不覚――

 あすなは思わず臍を噛んだ気持ちになった。

「彼は心臓麻痺なんですよ。警察でもそう言われましたし、検視でもそう伺いました。だから、解剖もされずに、普通に荼毘にふされたんです」

「それは分かっています。でもね、彼を荼毘にふした火葬場に聞いたことなんですが、彼の肉片の一部が燃え残っていたらしいんですよ。あれだけの高熱で燃やすんだから、本当なら骨しか残らないはずですよね。もっとも火葬場の人は、何かの見間違いだということで、誰にも言わなかったらしいんですが、本人としては、夢見が悪かったと告白してくれました。おかげで、私が聞いた時も、簡単に答えてくれましたよ。よほど安心したんでしょうね」

「……」

 あすなは、またどう答えていいものか悩んでいた。

――正樹さん、どうしよう――

 思わず、墓石を見つめた。

「まあ、僕はそこで彼の死に疑問を抱いたわけなんですが、僕も最初はそんな夢のような話、信じられるわけもなかったんですよ。もちろん、人間の死について疑問があるわけではありません。でも、考えれば考えるほど、調べれば調べるほど、謎が深まるのも事実なんです。まるでアリ地獄のようですよね。一体、何がどうしたというんでしょうね?」

 そう言って、彼は両掌を上にして、

「お手上げ」

 というポーズを取った。

「僕はあすなさんなら、何かを知っているのではないかと思ったんです」

「いえ、何も知りません。知っていたとしても、あなたに教えるつもりはありません」

 と言ってのけた。

――どうせ、私が何を言ってもあなたは私を疑うんでしょう?

 と言わんばかりの目を向けた。

 あすなとしては、精いっぱいの抵抗のつもりだった。

 またしても香月はニッコリと笑った。今度の笑みで三回目だが、一回目とも二回目とも違う笑みで、今度もまったく分からなかった。

――この人の笑みは、どんどん分からなくなっていく――

 きっと、お互いに考え方が一直線になっていて、お互いに離れていっているからに違いないとあすなは感じた。平行線が交わることのないように、この場合は、地球を一周でもしない限り、交わることなどありえない。限りなく透明に近い色を思い浮かべていた。

 あすなは、中学時代、白い色と無色透明に興味を持っていた。

 無色透明という色を、絵画で表すことができるかどうかというのを、考えたこともあったが、すぐに無理であることに気づいて、考えるのを止めた。

 すると次に感じるようになったのは、白い色だった。

 世間一般の七色と呼ばれている色をすべて混ぜると白い色に変わるということを知ったのは、中学時代の先生に教えられてからのことだった。紙で円盤を作り、これを十数分にして、そこに七色を散りばめた。真ん中に棒を通し、棒を中心に高速回転を与えると、そこに浮かび上がってくる色は白だったのだ。

 それを見た時、感動したのはもちろんのことだが、その反面、

――前にも同じような思いをしたことがあったわ――

 という思いもよぎったことだ。

 センセーショナルな発見があった時というのは、えてして自分が初めて見たはずなのに、前から知っていたような気がすることもあった。それがどうしてなのか分からなかったが、あすなは、それを事実として受け止めるしかなかった。

――世の中には自分の思いもよらぬことって結構あるのかも知れないわ――

 と感じた最初だった。

 それから何度か同じような思いをしたことがあったのだが、突き詰めれば、同じところに戻ってくるような気がして仕方がなかった。

 その時に感じた真っ白な色は、まだ何も書かれていないスケッチブックの真っ白さをイメージさせた。

 スケッチブックの真っ新なページを開いた時、目が回ったような錯覚を感じることがあったが、それは、円盤をまわして見えた真っ白な色が思い浮かぶからだった。

「西村さん、どうしたの? 眺めてばかりいては、時間が経過するばかりよ」

 と、高校に入って美術の授業で、先生から指摘されたことがあったが、指摘されて初めて自分がスケッチブックを眺めているだけであることにビックリさせられた。まったくの無意識だったからだった。

 あすなは、真っ白いスケッチブックを眺めていて、白い色を感じながら、その先に、

「限りなく透明に近い色」

 を思い浮かべていたことに気が付いたのは、高校を卒業してからだった。

 美術部に在籍していたのは、高校時代までだった。

 大学に入学すると、それまでとは打って変わって、理学部に入学し、理工系の研究を目指すようになっていた。その心境の変化がどこにあったのかというと、高校時代に絵を描いていて、自分の限界を感じたからだ。

 その限界というのが、

「限りなく透明に近い色」

 を見つけることができず、スケッチブックに筆を下ろすことができなくなってしまったからだった。

 そのため、絵画で頑張っていこうと思っていた思いは失せてしまい、まったく違った道を模索するようになったのだ。

 それでも、大学三年生になった頃、試しにスケッチブックを目の前にすると、絵を描けるようになっていた。

――私がプレッシャーに弱かっただけなのかも知れないわね――

 ただ、この思いはトラウマとして残ったのも仕方のないことで、いざという時、本来の力が発揮できなくなるのではないかという思いが募ったのも、仕方のないことだった。

 あれから八年が経ったが、あすなは趣味の域を超えるくらいの絵を描けるようになっていたが、決してコンクールに出品したり、自分の絵を表に出そうとはしなかった。

 たまに馴染みの喫茶店に自分の描いた絵を寄贈したり、研究所の片隅に額で飾ったりしてもらうことが至高の悦びで、細々と絵を描いていることが、今の自分の生きがいのように思っていたのだ。

「あすなさんの絵もすごいですよね。研究室に掛かっている絵を見て誰が描いたのか聞いてみると、あすなさんだっていうじゃないですか。僕はビックリしましたよ。絵の才能もあったんですね」

「いえいえ、才能なんてものではないですよ。私は以前、絵を描くことができなくなって、何年か描いていなかった時期がありますからね」

「それでもこれだけ描けるのだから、素晴らしいです。尊敬しますよ」

「正直に言って、描き始められるようになったのに気づいたのも偶然だったんです。もし気づかなければ、あのまま絵を描くことをやめていたでしょうね。そうなると私の人生ももう少し違ったものになっていたかも知れません」

 と言って、あすなは笑顔で答えた。

 やはり、絵の話になると、少しは気分が晴れるのか、このまま絵の話だけで終わってほしいと思ったくらいだ。

「そうでしょうか? 僕は絵を描いていなくても、あすなさんは、今とさほど変わらない人生だったと思いますよ」

「どういう意味ですか?」

 せっかくよくなった気分を害された気がして、

――いちいち気に障る男だ――

 と、一層の警戒心を深めた。

「深い意味はないですよ。あすなさんを見ていると、自分の人生をさほど悪いものだって思っているようには感じないんですよ。そういう意味でしたので、お気を悪くされたのなら謝ります」

「そういうことなんですね。それなら許します」

 と、また笑みが浮かんだ。

――この香月という人はどういう人なんだ? 一言一言、相手の心情にこんなに変化を与えるなんて――

 と感じていた。

 香月という男は、もっともらしいことを言って、自分が正樹の死について疑問を感じた理由を、医学的な見地から語った。知らない人が聞けば、

――なるほど――

 と感心するかも知れないが、科学的な知識のあるあすなには、香月の話はどこか胡散臭かった。

 もっとも、最初から怪しいと思って聞いているのだから、当然と言えば当然なのだが、香月の表情を見る限りでは、あすなの疑念は分かっているはずなのに、微動だにしないその自信がどこから来るのか、分かりかねていた。

「香月さんの言いたいことは分かりましたが、まさかそれだけのことで怪しいと思ったわけではないですよね?」

「その通りです。そもそも何か根拠がなければ、一旦心臓麻痺として処理された人の死因について、後から再調査などするはずないですよね? 彼と利害関係があったり、彼の死を疑うことで私の方に何かの利益でもなければ、普通はありませんよね。私には彼との利害関係はありません。でも、私がこの話に興味を持った最初は、投書があったからなんですよ」

「投書ですか?」

「ええ、その投書はもちろん匿名だったんですが、彼のことを克明に書かれていました。よほど親密な関係でなければ知らないような事実を細かく書いていたんですよ。私に対して調査してほしいという気持ちが十分に伝わってくるものでした。私に対しても、調べて損のない内容であることを強調されていたんですよね。もし、私が興味を示さなければ、探偵事務所の門を叩くと書かれていました」

「それで?」

「私は少し興味を持って、彼のことをここまで克明に書くことのできる人を探してみたんですが、実は見つからなかったんですよ。一番怪しいと思ったのがあなただったので、あなたのことも失礼だとは思いましたが、いろいろ調べてみました。すると、あなたには、こんな投書をする必要はないという結論に至ったんですが、逆に彼の死がこの投書のように曰くがあるのであれば、その真相を知っているのがあなたではないかと思ったんです」

「それで、直接会いに来られたわけですか?」

「ええ」

「何て大胆なんでしょう」

 と口では言ったが、この男の話にも一理ある気がした。

 もし自分が彼の立場であれば、同じ考えを持ったかも知れない。

 だからと言って、彼の考えが一般的な考えだというわけではない。むしろ、普通なら誰も考えないことではないだろうか。そう思うと、香月という人、まんざら敵視する必要はないのかも知れないと感じていた。

 今まで誰にも明かしたことのない彼の死への疑念、いきなり現れた怪しげな香月という男、この男を全面的に信用するのは危険なことだと思う。しかも、ジャーナリストという立場や人間性を考えると、自分の心を開くなど、普通だったらありえないことだった。

 しかし、少なくとも今は、

――この広い世の中で私だけが疑っていると思っていた正樹さんの死への疑念を、分かってくれる人が現れた。このまま「知らぬ存ぜぬ」と言って、跳ねのけることは簡単だが、それが一生の後悔に繋がるのではないかと思うと、怖くなる――

 と感じていた。

「大胆なのは、あなたも同じかも知れませんね」

「どうしてですか?」

「あなたは、もしかして、彼の死に自分だけが疑念を抱いていて、何を言っても誰も信じてくれないことをトラウマのように感じていて、その思いから、自分の手で、真相を解き明かそうと思っているのではないですか?」

「そうですね」

「少なくとも、あなたは彼が何かの事件に巻き込まれたり、殺されたとは思っていない。もし、彼の死に何か疑問があるのだとすれば、彼の意志がそこに存在していると思っているのではないですか?」

「まさにその通りです」

 何ということだ。まるで自分の心を見透かしているかのようではないか。香月という人を全面的には信じてはいけないが、お互いに同じ目的で動いているという点で、協力してもいいのではないかと思えてきた。

 しかし、

「でも、あなたは彼の死の真相を掴んで、それをどうしようと思っているんですか?」

 ここが一番気になるところだった。

 香月はジャーナリストである。記事になることであれば何でもする人種である。逆に記事にならないことであれば、何もしないに違いない。

「私は、彼の死について真相を掴んだとしても、それを記事にするつもりはありません。ただ、彼の死の奥に何か裏があるのだとすれば、そこを記事にしようと思っているんですよ」

「ではあなたは、正樹さんの死の裏に何かがあるとお考えなんですか?」

「ええ、死を装うなど、一人の考えで、そして一人の力でできることではありませんからね。それに、彼は火葬場で荼毘にふされています。ただ、その時に見つかった肉の破片。こんなものは普通はありえないことですよね。実は、投書にもそのことは書かれていました。知っているのは、私たちだけではないということなんですよ」

「じゃあ、何かの組織がそこに暗躍しているのだと?」

「そうかも知れません」

「そんな、推理小説のようなことが……」

「何を言っているんですか。火葬された後に肉片が残っていた方が、よほど小説の世界の出来事のようではないですか。まるでSFかホラーのようなですね。そのことに目を背けてはいけませんよ」

 あすなは、生前の正樹を思い出していた。

 あすなは敢えて研究員としての正樹を見ていなかった。研究所での仕事をしている時は、

――私が一番なんだわ――

 という気持ちでいつも研究に向かっていた。

 そうすることが、自分にとっての研究を成就させる近道だと思っていたからだ。

 実際に女性研究員の中では一番と目されるようになり、彼女の提唱する学説も発表できるまでに至った。

 次回の学会で発表できるだけの資料もほとんど整っていて、この日は、その報告も兼ねて正樹の墓前を訪れたのだ。

 正樹はあすなにとっての

「オアシス」

 だった。

 研究員としての尊敬の代わりに、彼には癒しを与えるという力があった。そのことを他の女性は気づいていないのかも知れない。彼は研究所では

――冴えない研究員――

 として皆から見られていて、

「誰かの役に立つことだけが彼の存在意義だ」

 とまで言われるほどだった。

 彼は研究所以外でも友達が数人いたようだ。

 合コンにも何度か誘われていたのだが、それはあくまでも人数合わせが目的だった。本来なら、

「彼は研究所勤務なんだ」

 というと、女性は興味を抱くだろう。

「わあ、すごい。どんな研究をされているんですか?」

 正樹には、女性に対しての免疫がない。あるとすればあすなにだけである。

 あすなは同じ研究所の人間で、距離もかなり近いからだ。

 実際に、香月の言ったように、正樹は研究員と言っても、彼が具体的に自分が発案して研究していたことは皆無だった。誰かの研究の補助をしたりしていただけだった。

 しかし、今のあすなは知っていた。言われているようなことがすべてではないことを。

 確かに、冴えない研究員の正樹は、他の研究員の助手を務めるばかりだったが、中には、自分が提唱した研究もあった。そして表向きは自分が助手のように見えるのだが、実際には研究内容は明らかに正樹の提唱しているものだというものもあった。

 それでも正樹は黙っていた。他人に研究を横取りされた形になっていたが、なぜ彼が黙っていたのか、今考えればあすなには信じられない。

 どこか瞬間湯沸かし器のようなところがあり、カッとなったら何をするか分からないところのある彼が、自分の研究を横取りされて黙っているのだ。かなりのストレス、いや、トラウマになっていたことだろう。

――これが彼の死に、何か関係しているのかも知れない――

 そう思ったあすなだったが、それを証明することもできない。

 いや、もし彼が何かの復讐をしようとしているのだったら、

――やらせてあげてもいい――

 と思っていた。

 彼の研究が他の人によって発表されたことを知った時、あすなは自分のことのように怒りを感じていた。

 あすなは今、香月を目の前にして、その時の怒りがこみ上げてきた感情を抑えることができなかった。むしろ、彼に今の心境を分かってほしいと感じるほどで、そのことを分かったのか、香月は何を言わずに、一人黄昏れている時間の狭間に嵌っていたあすなを無表情で見つめていた。

「あすなさんは、今までにも正樹さんの死に対していろいろな感情を抱いていたんでしょうね。でも、それを誰にも言うことができず、悶々とした日々を過ごしていたような気がします」

「確かにそういう時期もありましたね。でも、ずっとそうだったわけではないんですよ」

「ええ、分かっています。でも、何度もいろいろ考えているうちに、考えていることが日常になってしまって、考えていない時期との境目が分からなくなっていた時期があったんじゃないですか? 今は分かっているようなんですが、あなたを見ていると分かる気がします」

「あすなさんは、今度学会で何かを発表されるそうですね。その資料はすでに出来上がっているんですか?」

 あすなは身構えた。

「その手の質問にはお答えしかねます」

 というと、口を閉ざしてしまった。

 香月にもあすなに今この質問をすれば、彼女が口を閉ざすことくらい、分かり切っていたことだろう。別に慌てることもなく、

「そうですか、そうですよね。では今日はこれくらいにして、私は退散することにしましょう。また近いうちにお会いすることになると思いますので、その時は、またよろしくお願いします」

 と言って、腰を上げた。

 香月が視界から消えると、あすなは一人取り残された。

 いや、元々一人で来て、一人で帰るつもりだったのだ。香月がいた時間だけが「余計な時間」だったのだ。

 あすなも、一度墓前に頭を下げて、踵を返すとその場から立ち去った。

――こんな話、まさか正樹さんの墓前の前でするとは思わなかったわ――

 と、頭の中で、正樹に詫びたのだ。

 あすなは、そのまま駅まで向かうと、他のどこにも立ち寄る気分にはなれず、家路についた。家に帰りついた時にはすっかり疲れ果ててしまっていて、シャワーを浴びるのがやっとだった。

 お腹が空いていたのも事実だったが、それよりも睡魔の方が強く襲ってきて、気が付けば睡眠に入っていた。その睡眠が浅かったのか深かったのか分からないが、気が付けば真夜中の二時だった。

 今までのあすなであれば、疲れ果てて帰ってきた時は、どんなに空腹でも朝まで目が覚めることはなかった。完全に深い眠りに就いていて、目覚めは重たい頭を起こすのに少し時間が掛かったが、起きてしまえば、スッキリとしたものだった。前の日からの疲れはすっかり消えていて、リフレッシュされた気分で、朝を迎えるのだ。

 その日のあすなはリフレッシュなどされていなかった。目が覚めたのがいわゆる、

「草木も眠る丑三つ時」

 こんな時間に目が覚めるというのは、何か気になることがあって、眠りに就くことができず、目が覚めてしまっていた。その時には時刻が、

「午前二時だ」

 ということは分かっていた。

 しかし、この日は、夢を見ていたような気がするくらい深い眠りだと思っていたので、目が覚めた時はてっきり、朝になっていたと思っていたのだ。それなのにまだ午前二時だったということは、それまでに経験したことのない感覚で、目が覚めてからしばらく、

――前後不覚に陥ってしまうのではないだろうか?

 と感じたほどだった。

 三十分くらいボーっとしていた。その間は眠っているのか起きているのか、自分でもハッキリとしなかった。

――ひょっとしたら、このまま眠ってしまうかも知れない――

 と感じたほどだが、結局は目が覚めていた。

 もちろん、スッキリとした目覚めであるはずもなく、

――まだ夢の中にいるようだ――

 としか感じることができず、

――このまま眠り込んでしまわなくてよかった――

 と感じたのだが、それは、

――ここで寝てしまうと、二度と目が覚めない世界に落ち込んでしまうかも知れない――

 と感じたからだった。

 正樹がここで眠ることを躊躇したのは、眠ってしまって夢を見ることを恐れたからだ。

 その夢の内容というのが、自分にとって目覚めの悪いものであることが分かってしまったからだった。

 今までにも怖い夢を見るかも知れないという思いを感じたこともあったが、実際に怖い夢を見たという記憶はなかった。

――思い過ごしだったんだ――

 と後から思うのだが、この日は少し違っていた。

 怖い夢を見る時というのは前兆があって、その前兆は眠る前に意識することはなかったのだが、この時は最初から前兆を意識していた。だから、必ず怖い夢を見るという予感があったのだ。

 しかも今回の怖い夢を見るのではないかという予感の中には、具体的な夢の予感があった。

「夢の中に正樹さんが出てくるんだわ」

 今一番会いたい人、夢であっても会いたいと思っている人の夢を見るという予感があるのに、それが怖い夢だと思ってしまうというのも皮肉なものだ。それがどうして怖い夢だと感じるのか? あすなは二つ考えていた。

 一つは、夢の中に現れる正樹が、まるでゾンビのように変わり果てた姿になっているのを想像するからだった。最初は、いつもの笑顔の正樹であり、途中から豹変してしまうという思いは、

「ホラー映画の見すぎではないか?」

 と言われるかも知れない。

 もう一つは、最初から最後まで笑顔の正樹であり、正樹がまるで生まれ変わったかのような感覚に陥ることで、それが夢だと思えない気持ちになってしまい、夢の中で、

「これは夢なんだ」

 と感じてしまう瞬間が訪れる。

 そうなると、夢から覚めることを怖がってしまい、

「別れたくない」

 と言って、彼にしがみつくに違いない。

 その時に夢から戻ってくることができなくなるという発想が生まれ、それが眠りに就くことの本当の恐ろしさだということを意識させるのだった。

 それからどれくらいの時間が経ったのだろう。表は明るくなっていた。

――もう、夜明けなのかしら?

 と思ったが、カーテンから洩れてくる日差しは、どこかが違っていた。

 枕元の時計を見たが、時刻はまだ三時過ぎだった。いくら何でも夜明けであるはずはなかった。

 カーテンの向こうの光に目を奪われていたが、ふいに横を見ると、そこには正樹が座っていた。

「あすな」

 あすなは、自分が夢を見ていることを自覚した。

「はい」

 夢であっても、目の前にいる正樹は自分に語り掛けてきたのだ。返事をするのはいつものことである。

「君は、そのうちに真相を知ることになるかも知れないけど、今はそのことを探ろうなんてことはしない方がいいと思うんだ」

「どうしてなの?」

「僕は君のことが心配なんだ。だから余計な詮索をしてほしくない」

 あすなはその言葉を聞いて、戸惑ってしまった。

 死んでしまったはずの正樹。いくら会いたいとずっと思っていたとしても、そんなことができないことくらい、百も承知である。

――会えるとすれば、夢の中だけ――

 分かり切っていることではないか。

 夢の中というのは、本当であれば、自分の潜在意識が見せているものなのだから、自分に都合よく見るものだと思われがちだが、実際には、自分に都合のいい夢などあまりないことだ。

 都合のいい夢ばかりだということであれば、怖い夢など存在しないだろうし、目が覚めてから夢の内容を忘れてしまうというのも、どこか違っているような気がする。

 確かに夢の世界と現実の世界では次元の違いに匹敵するほどの違いがあるのかも知れない。

 例えば、以前見た映画で、四次元世界を創造したSFだったのだが、四次元の世界というのは、時間という次元が違うだけで、実際にはすぐそばにいるものだという。本来であれば時間が違うので接点があるはずのないのに、何かの拍子に違う次元の人の声が聞こえることがあるというものだった。

 姿が見えないのに、声だけがするという現象に、主人公はすぐに、「次元の違い」を感じ、どうしてそんなことが起こったのか映画では暈かしていた。

「次元の歪」

 という表現でしか語られていなかったが、ストーリーは、最初から最後までお互いに見えない相手との交流から、相手の世界の矛盾を解決するというものだった。

 こちらの次元の人には決して見えないものが、異次元世界の人には見える。逆に言えば、こちらの世界の人に見えるものが、あちらの世界の人には見えないのだ。

 もっとも、それは異次元を意識しなければ見えてくるものではないので、いきなりたくさんのものが見えてくることになるという、常人であれば、頭が混乱してしまうことだった。よほど「次元の歪」を理解しているか、素直な気持ちで受け入れることができるかでなければ、耐えられないことだろう。そういう意味では、異次元を意識できる人というのは、本当に限られた人しかいないのだ。

 しかも、理解できた人が他の人に他言することはありえない。

 他言してしまうと恐ろしいことが起こるという感覚は、子供の頃に諭された「おとぎ話」で、嫌というほど分かっている。おとぎ話を信じられない人には、異次元の発想など理解できないことでもあるのだ。

 異次元を理解できる人、つまりは異次元を感じることのできる人は、おとぎ話など必要はなかった。おとぎ話を信じられない人には異次元を感じることができないのだから、考えてみれば、おとぎ話の教訓など、まったく無意味だと言ってもいい。

 それでも、昔から受け継がれてきたおとぎ話が本当に正しく伝わっていたのかというのも疑問である。

 伝言ゲームというのを思い出す。

 正しく伝えているつもりでも、そこに何人もの人が絡むと、歪んで伝わってしまう。そこには人それぞれの感じ方があり、理解度も異なってくる。

 一つが違えば、次には二つになる。次第にアリの巣のように穴ぼこがたくさんできてくるのだが、そのうちに地盤が崩れ、大きな一つの穴が出来上がることだろう。

「それこそ、次元の歪」

 と解釈した人もいたようだが、その人も異次元の世界を覗くことができ、覗いてしまうと、それ以降、一切の異次元の話をしなくなった。事情を知らない人は、

「あれだけ異次元の話題ばかりしていた人が急にしなくなったんだ?」

 と疑念を抱くことだろう。

 そのことを本人は誰にも知られてはいけないと思っている。一度垣間見た異次元の世界というのは、この世界とはまったく違ったもので、

「それを口にすると、よくないことが起こる」

 というよりも、

「異次元世界のことは、犯してはならない神聖なものなのだ」

 という感覚に陥らせるに違いない。

 あすなは、自分が異次元世界に興味を抱いた時のことを思い出していた。

――きっとそのうちに、私は異次元世界のことを垣間見ることができるんだ――

 と感じていた。

 その思いに信憑性はなかったが、予感だけは強かった。

 なぜなら、普段であれば、

――異次元世界のことを思い浮かべるということは、怖い発想にしか結びつかないことを意味している――

 と感じていた。

 下手に感じてしまうと、異次元世界に落ち込んでしまって、戻ってくることができないと思ったからだ。

 しかし、それ以上に怖いのは、次元と次元の間にある「溝」に嵌ってしまうことだった。次元と次元の間に溝があると感じたのは、いきなりだった。四次元の世界というのは、テレビドラマやSF小説などでしか想像することができなかったはずなのに、一人で瞑想している時に異次元を感じている時に、

「溝というものがあるんだ」

 と勝手に想像されたのだ。

 しかも、初めて感じたはずなのに、

――以前から感じていたような気がする――

 という思いの下、違和感を与えないようにしていた。

 溝に嵌ってしまうと、抜けることができない。SF小説などで出てくる宇宙の墓場と言われる「サルガッソー」のようなものや「ブラックホール」などは、その最たる例である。

 ここまで感じてくると、

「異次元の世界が怖いと思っていたのは、実際の異次元を怖がっていたわけではなく、本当はその間に存在している溝に対して恐怖を抱いていたのではないだろうか?」

 と思えてきた。

 どこまでが三次元で、どこからが四次元なのかも分からない中、何が溝と言われても分からない。ただ、SFの発想として、誰かが「サルガッソー」や「ブラックホール」を創造したのは間違いのないことであって、あすなは、今その発想の域に達しようとしていることを、決して喜んでいるわけではない。

――こんな余計なこと、発想なんかしたくない――

 というのが本音であり、

――勝手に自分の頭に浮かんでくるんだ――

 という思いを、自分の性であったり、運命さえも考えるようになっていたのだ。

 しかし、あすなはその域まで達してくると、

――ここまでくれば、自分で納得できる――

 というラインに達するまで、あと少しであることを自覚していた。

 それでもなかなか届かない。ここから先が本当の正念場というべきであろうか。そう思うと、夢を見るのも怖いと思うようになってきたのだ。

――どうせなら、いっそ、異次元の発想など、頭から消えてなくなってほしい――

 と感じるほどで、

――異次元の発想って、どこからだったのかしら?

 と自分の頭の中から引っ張り出したくなってきたのも事実だった。

 男ならまだしも、女性ではなかなかここまで発想しないと思っていたが、それは間違いだった。異次元の発想するようになってから、道を歩いていても、異次元の発想を抱いている人が分かるようになってきた。

「この人は、そうだわ」

 目を見ていれば分かった。

 以前も同じように人を見ると、まずは目に視線が行っているのは変わっているわけではなく、見る角度も変わったわけではないし、感じるものも変わりはない。変わったとすれば、相手が異次元の発想を、今抱いているかということが分かるということだけだった。

 そう思うと逆に、

――相手からも、私が異次元の発想をしている人だって分かるのかしら?

 と思ったが、それなら、どうして話しかけてこないのか考えてみた。

 確かに自分も相手に話しかける気はしないのだが、それはどうしても相手から話しかけられるのを待っているからだった。あすなは、元々人に話しかける方ではなく、相手に話しかけられるのを待っているようで、

――ひょっとすると、異次元を意識している人というのは、自分から誰かに話しかけられるような積極性のない人ではないだろうか?

 と思えてきた。

 そうやって考えてみると、今までにもいくつか異次元のことを感じている人の特徴がいくつか集まってきた。それを組み立てると、一つの仮説が生まれてくるのではないかと思ったが、実際組み立ててみると、意外と組み合わせるのが難しかったりする。

 組み合わせを考える時の一番難しいのは、最後から二番目だった。最後から二番目が組み合わないということは、最後が合うわけはない。それ以前に遡っていくと、そこに法則性があることに気が付いた。

「まるでカエル飛びのようだわ」

 二人の自分がいて、その自分が交互に遡っていく。お互いに平行線であり、交わることはない。つまりは、その存在を知ることはない。この発想が、実はあすなのいまだ知られざる大きな発見に結びついていくわけだが、その最初は夢を見るという発想から結びついてきたことなのだ。

 あすなは、目が覚めた午前三時にカーテンから洩れてくる光を漠然と眺めながら、さっき眠った時、夢を見たような気がした。

 普段であれば、思い出すことはないのだが、その時は思い出すことができた。

「そうだわ、昼間に会ったジャーナリストだと言っていたあの香月という男が夢の中に出てきたんだわ」

――なぜ、あの男が?

 確かに意識はしていた。

 今までに会った人の中で、

――二度と会いたくない――

 と感じている人の中で、初めて意識が頭の中に残ってしまった人なのかも知れない。それは彼の存在が、これからの自分に、あるいは、気づかないうちに今も自分に大きな影響を与えていて、運命を感じさせる人なのではないかと思わせた。

 あすなは、自分が今、タイムパラドックスについてものすごい発想を抱いていることに気が付いた。しかし、それは過去にも誰かが思いついたことである気がして仕方がない。

――確かに今思いついた発想は、私が知っている限りではオリジナルのはずなんだわ――

 と思っていたが、よくよく考えると、自分が思いつくくらいなんだから、他の人だって思いついていいはずなのである。

 それなのに、どうして自分なのかを考えてみると、最後のパーツがうまく噛み合うか噛み合わないかというそれだけの違いが、大きく影響しているような気がしていた。

 あすなの発想は、確かに繋がってみると、誰もが思いつきそうに思えることだが、最後に結びつかなければ、それ以上はない。複雑な思いを巡らせることで、遠回りしているにも関わらず、辿り着いた先には、最短距離の道しか見えていない。つまり、辿り着かなければ、途中までいくら想像を巡らせたとしても、まったくの無駄な努力に終わってしまう。この発想に、「後戻り」はないのだ。

 元々の発想は、タイムマシンから始まった。

――タイムマシンに乗って、自分が現在の世界からいなくなると、本当に自分のいた世界に自分がいないのだろうか?

 という発想が出発点だったのだ。

 この発想は今に始まったことではない。たまに気が付いた時に、この発想をしているのだが、何かの結論が産まれたことはない。この発想の行き着く先は、今までの学説や一般論を覆すものになるかも知れないと感じていたほどで、そう簡単に解ける謎ではないはずだった。

 あすなには、

――いなくなっても、その場所には自分がちゃんと残っている――

 という発想があった。

 その時に改めて考えるまでは、

「同じ世界にもう一人の自分は存在することはない」

 という発想から、

「自分はその世界から消えてなくなることになるのだが、自分がいなくなったことで、元いた世界に変化があってはいけないので、まわりの人の記憶から、自分が存在していたという意識を削除する力が働くのだ」

 と考えていた。

 しかし、自分のことを知っている人の記憶から消すにしても、それだけの人が自分に関わっていたのか、それを探すだけでも大変だ。

 また、それよりも、自分のことを知っている人の記憶には、関連性があるはずである。

 それが、時系列を司るだけなのか、それとも、人との関わりに関してなのか、どちらにしても、一人の人の記憶を完全に抹消するには、その時に関わったすべての人に対しての記憶も操作する必要が生じる。

 たった一人の人間の記憶に対しても、これだけの操作をするためには、その人の中の自分だけの記憶だけではなく、もっと大量でデリケートに関わっている部分にまで、辻褄が合うように消さなければいけない。それを考えると、自分一人をその世界から抹消するということがどれほど大変なことなのか、抹消することを考えれば、その人がその世界に留まっているということを正当化する方が、はるかに辻褄を合わせるには簡単ではないだろうか。

 ただ、そうなってしまうと、次元を超えて飛び立った人が戻ってくる世界はないということになってしまう。別の人間として戻ってくるとすれば、今度はまたしても記憶の操作が入ってしまう。そういう意味で、

「タイムトラベルというのは、架空の発想で、タイムマシンが開発されたとしても、実際に自由に時代を行き来することなどできっこないんだ」

 という発想の裏付けになってしまう。

 一般論として、タイムトラベルは架空の発想であり、実際にはできっこないという説は有力であろう。

 あすなも、その発想だった。

 想像することは自由なので、いくらでも発想は思いついた。しかし、どんなに奇抜と思えるような発想であっても、最後にはどこかで引っかかってしまい、タイムトラベルを架空の発想だとしてしか考えられないという結論に導かれる。そう思わなければ、自分を納得させることができないのだ。

 何かを発想して、それを覆すことなく結論付けるためには、少なくとも自分を納得させなければならない。

「自分一人すら納得させられないのに、偉い先生方を説得できるはずもない」

 と思っていた。

 ただ、自分を納得させることができれば、偉い先生を納得させるまでの道のりは、さほど遠くないとも思っている。

 一つの山を越えれば、そこから見える光景も変わってくるはずなのだろうが、タイムトラベルの発想に関しては、一つの山を越えても、そこから見える光景は、元々見えるはずのものが見えていなかっただけで、変わりのないものだと思えてならなかった。

 あすなは自分を納得させることさえできれば、まわりの人を納得させるまでには、さほど遠いものではないと思っていたが、そうでもなかった。

 あすなの発想としては、時系列の中に表と裏が存在し、定期的に表が裏になり、裏が表になっているという思いを抱いていた。

 そこには、もう一人の自分が存在し、まわりには、表と裏が存在していても、まったく分からない。まわりはおろか、本人にも分かっていないのだ。だが、本当に本人には分かっていないのだろうか?

 表と裏が入れ替わる瞬間に、それまで考えていたことが、自然に乗り移り、元々裏だった自分が、最初から表にいたような感覚になっているだけなのかも知れない。

 では、裏にいる時の自分はどうなのだろうか?

 裏にいる自分は、じっと眠っているという思いにはなれない。裏は裏でいつも何かを考えているのではないかと思うと、

――裏の自分こそ、潜在意識といわれる自分なのかも知れない――

 そう思うと、夢を見るということの説明も付くではないか。

 夢を見ている時の自分は、裏の自分が意識している時間である。表の意識を引き継ぐことはなくとも、表の自分がずっと引き継いでいる気になっていることなどが、裏の自分に回されて、夢となって見てしまう。それは、

――忘れてはいけない――

 ということに繋がるのだろう。

 タイムトラベルで別世界に旅立った自分の意識は、その時に裏の自分に受け継がれている。

――裏の自分がいるから、タイムトラベルができるのではないだろうか?

 と感じていた。

 つまりは、タイムトラベルで別世界に飛び出した自分が戻ってくる場所があるとすれば、裏の自分でしかありえないのだ。

 裏の自分に戻ってきた自分が、果たして表の自分に帰ることができるかということは、あすなにも分からない。あくまでも、

――別の世界や別の次元に飛び出すことができるのか?

 という可能性を解いただけである。

 あすなは中途半端になっているこの発想を、誰にも話していなかった。だが、本当はこの発想、最初に考えたのはあすなではなかったのだ。

 最初に考えたのは、実は正樹だった。正樹は、あすなよりも少し先の発想をしていた。

 以前、正樹があすなに話した内容が、この発想に結びつくものだった。直接的に結びつく発想ではなかったが、あすなの中で燻っていたのだが、ひょっとすると、その燻っていた場所というのが、

「裏のあすな」

 だったのかも知れない。

「あすなは、もう一人の自分の存在を信じるかい?」

「ええ、信じているわよ」

 その時、一瞬訝しそうな表情をした正樹だったが、次の瞬間から、嬉しそうな笑みを浮かべていた。その笑みには

「自分の思った通りだ」

 という満足げな表情を醸し出していて、そんな顔をする時の正樹は、嫌いではなかったあすなだった。

「もう一人の自分を感じたことがあるかい?」

「感じたことはないんだけど、夢で見たような気がするの」

「夢の自分をどう思った?」

「夢って、自分は主人公でありながら、客観的に自分を見ているような気がするの。でも、自分は目だけの存在で、客観的には思えない。でも、もう一人の自分がいることで、それが正当化されるはずなのに、もう一人の自分が出てきた瞬間、なぜか怖い夢に変わってしまうの。しかも、そんな時に限って、夢というのを鮮明に覚えているものなのよ」

「じゃあ、もう一人の自分が夢に出てくる時というのは、自分で正当化しているのに、怖い夢だという認識でいるということなの?」

「そうなの。怖い夢ばかりを覚えているんだってずっと思ってきたけど、こうやって考えてみると、怖い夢だから覚えているわけではなく、自分の中で正当化できた夢だから覚えているということなのかも知れないわ」

「でも、正当化できた夢なのに、どうして怖いって感じるんだろうね?」

「そこまでは分からないけど、正当化というのを夢の中の自分が怖がっているということで、ひょっとすると、夢に出てきたもう一人の自分が本当の自分で、夢を見ている自分がもう一人の自分だと感じたんじゃないかって思うのよ」

「というと?」

「本当の自分が、自分の夢の中に入り込んでしまっている。客観的に夢を見ている自分と入れ替わってしまったのだとすれば、見ている夢から抜けられないんじゃないかって感じているのかも知れないわ」

「なるほど、とても興味深い話だと思うよ。実は僕ももう一人の自分という発想は常々持っているんだよ。あすなの話を聞いていると、僕も目からうろこが落ちてしまいそうに思えてきたよ」

 その時は、それで話が終わった。

 その日の夜、あすなは夢を見た。

 その夢は怖い夢だった。いまだに忘れることのできない夢で、ひょっとすると今までに見た夢の中で一番怖い夢だったのかも知れない。

 あすなが歩いている前を正樹が歩いていた。

「正樹さ~ん」

 と大きな声で叫んでみたが、彼は気づくこともなく、ひたすら歩いている。

 あすなは何とか追いつきたいと思い、早歩きになったが、それでもなかなか追いつくことができない。距離は縮まるどころか、遠ざかっているかのように見えるくらいだ。

 小走りになっても同じだった。どんなに急ごうとも、追いつけるはずはないと次第に思うようになった。

 目線は正樹の後姿にしかないので気づかなかったが、歩いている道は果てしなく一直線の道だった。交差点もなく、曲がる道も存在しない。果てしなく一直線に続いているだけだった。

 あすなは、そのうちに、自分の後ろに視線を感じた。

――誰かしら?

 その時には、自分が夢の中にいるのだということを意識していた。

「夢の中というのは、何でもありだと思われがちだけど、実はそんなことはないんだ。例えば空を飛ぼうと思っても、実際には宙に浮くくらいのことしかできずに、自由に飛び回るなんて不可能なんだ」

 という話を正樹から聞いた。

 それくらいのことはあすなにも分かっていたが敢えて、

「どうしてなの?」

 と聞いてみた。

「だって、夢というのは潜在意識のなせる業だって聞いたことがあるけど、潜在意識というのは、無理なことは無理だって思っている理性のようなものだって僕は思うんだ」

 と言っていた。

 この発想にはあすなも賛成だった。そうでなければ、自分を納得させるなどできっこないからだ。

 夢の中にいると思ったあすなは、後ろを振り返ることをしなかった。

――このまま後ろを振り返ると、夢から覚めてしまうかも知れない――

 と感じたからだ。

 それに、心の声で、

「決して振り返ってはいけない」

 と、まるで、おとぎ話に出てきた浦島太郎の玉手箱や、ソドムの村で言われることのような気がして、振り返ることの恐ろしさを感じた。

 振り返らずとも、あすなには、その視線が誰のものだか想像はついた。しかし、その想像を自分で認めることは怖かった。当然、納得させることもできるはずがない。

――もう一人の正樹さん――

 あすなには、目の前を歩いている正樹と同じ人間には思えなかった。

 確かに外見上は同じ人間なのに、まったく別の人間であるという発想は、恐ろしさしか感じさせない。

――どんなに頭を巡らせても、自分を納得させられるはずなどないんだわ――

 と感じるからだった。

 あすなが前を歩いている正樹に追いつけないのと同じで、後ろの正樹もあすなに追いつけるはずはなかった。そこには時系列が存在し、交わることのない平行線は、時間軸を中心に回っているのだ。

「もう一つ言えることは、堂々巡りは矛盾を感じさせないようにするためだということなんだ」

 正樹は呟いた。

「どういうことなの?」

「タイムマシンで元の世界に戻ろうとすると、そこにはもう一人の自分がいる。その自分はもう一人の自分であってはいけないと思うんだ。堂々巡りを繰り返しながら存在している『蛙飛び』の自分。つまり、飛び出した時と、戻る時の自分は、正確には別の自分なんだ。そこに矛盾が生じるんだ」

「もしかして、タイムマシンで飛び出したのが一回だから、自分がもう一人できたということなんだけど、もう一度タイムマシンで飛び出せば、自分は三人になってしまうということ?」

「僕は、最初、そう考えていた。でも、実際には二人しかいないと思うんだ。だから、二回目に飛び出した時に戻る自分は、最初の自分なんじゃないかって感じるんだよ」

「じゃあ、元の自分に戻ろうとすると、二度タイムマシンで飛び出さないといけないということよね?」

「もちろん、これは仮説なので、何ら信憑性はないんだけど、これが僕の考え方なんだ」

「私も正樹さんの発想に賛成だわ」

「正樹さんはタイムマシンに乗ってどこかに行くの?」

「ああ、近い将来、そうなると思う。その時はきっと、僕は死んだことになるんじゃないかって思うんだ。でも実際にはどこかに存在している」

「人が死ぬというのも同じようなものなのかも知れないわ」

「どういうことだい?」

「人が死ぬと、魂と肉体が分離して、魂だけの存在になるっていうでしょう? そして魂だけが行くことのできる世界にいくというのが、よく言われる『死』という考え方ではないかと思うの。でも、魂が存在しているということで、いろいろな小説のネタになったりしていますよね? 例えば、同じ時に死んだ人の肉体に入り込むとか、同じ時期に死産になるはずだった人の肉体に入り込むとかね。それは人間の願望と、魂だけが残るという発想とが結びついて、出てきた発想なんですよ」

「そうだね」

「タイムマシンで飛び立つというのも、ひょっとすると、魂だけが飛び立つことができて、肉体はそのまま残ってしまうんじゃないかって思うんです。そういう意味では、タイムマシンで飛び出した世界で、入ることのできる肉体が見つからなければ、そのまま彷徨ってしまうんじゃないかってね」

「じゃあ、あすなの考え方は、タイムマシンで飛び立てば、出てきた世界では、自分とはまったく関係のない人の肉体に入り込むということ?」

「私は、最近そうなんじゃないかって思うようになったの」

「じゃあ、僕の考え方とはかなり違っているよね。堂々巡りの発想も、もう一人の自分の発想も、あくまでも着地点を自分だと考えた時の発想なんだからね」

「でも、私の考え方の方が、十分に信憑性があるような気がするの。確かに、まったく違う人の肉体に入るんだから、その人のそれまでの記憶が分からないままなので、矛盾も出てくるでしょうね。でも、それも死にかけたことでのショックから、記憶を失ったと思えば、理屈には合っていて、あまり疑われることはないと思うの」

「言われてみれば、確かにあすなの発想にも信憑性はある。でも、もしそうだとしても、僕は入り込む相手がまったく自分とは無関係の人ではないような気がするんだ。どこかに因果関係のようなものがあるんじゃないかってね。それがいい方に作用するか悪く作用するかは分からないけどね」

「そこまで来ると、小説のネタになってしまうような気がする。でも、発想というのは果てしないもので、末広がりに広がっていくことで、その中にある真実が見えなくなりそうな気もするわね」

「でも、真実って本当に一つなんだろうか?」

「パラレルワールドの発想を考えれば、真実が一つだとは限らないわね」

「そうだね、だから一つ一つを解明していくことが、僕の使命なんじゃないかって思うんだ」

 あすなは、その時の使命感に帯びた正樹の顔を見ながら、意識が遠のいていくのを感じた。

 正樹が目の前から消滅していく。

「待って」

 と言うだろうと思ったのに、その様子を笑顔で見送っている自分がいた。

――もう一人の自分だ――

 と感じた時、あすなは、自分が夢の中にいて、今まさに目が覚めようとしているのだと気が付いた。

 時計を見ると六時前を示していた。そろそろ起きてもいい時間だった。

 あすなは、今朝の夢を特殊なものだと思っている。その理由は、

――正樹さんが出てきた夢は、最初に見ていた夢の中で、さらに見た夢の世界の出来事なんだ――

 という意識を持ったからだ。

 途中からこれが夢であることは分かっていたように感じた。だが、まさか夢の中の夢で見ているものだという意識まではなかった。一気に夢から覚めたことで、

「夢の中の夢」

 を感じたような気がした。

 しかも、正樹とした会話は、今までにもしたことがあったような気がした。

 ただし、その時は話をしていたのは正樹の方で、一方的な話を、あすなは黙って聞いているだけだったのだ。

「夢の中で見た夢だったからこそ、前に正樹と話をした内容を覚えていて、自分なりの考えが口から出てきたのかも知れない」

 と思った。

 夢でもなければ、正樹に意見など言えるわけはなかった。正樹の前に出れば、金縛りに遭ったかのように、ただ彼の話を聞くだけになってしまう。普段は他の人が相手であれば、逆説ばかりをいつも考えていて、まわりからは疎まれているかも知れないと思いながらも自分の意見を吐いていた。それがあすなであり、あすなを敵視する人もいたが、あすなを慕っている人もいるのだ。

 あすなは、正樹の死を信じていない。香月が現れようが現れなかろうが、正樹はいつか自分の前に戻ってくると思っていた。

 しかし、さっきの夢の中での自分は、明らかに正樹が自分のところに帰ってはこないという意見を話していた。

 自分の信念と、自分の願望、この二つの究極の選択は、あすなにとってどのようなものなのか、夢から覚めてまだ頭がボーっとしているが、そのあたりの理屈は分かっていた。

 それでもあすなは、

「正樹さんは戻ってくる」

 と感じている。

「それにしても、あの香月という人はどういう人なんだろう?」

 香月のところにあったという投書も気になるところだった。

「本当にそんなものが存在するのだろうか?」

 あすなの中には、その投書が存在するのだとすれば、それを出したのは、正樹本人か、あるいは、正樹の理論から行けば、存在するとされている、

「もう一人の自分、つまりは、もう一人の正樹さんの仕業ではないんだろうか?」

 という思いが、あすなの中にはあった。

 あすなは、今、自分の左右に鏡を置いて、そこに写っている自分の姿を思い浮かべた。

無数に自分の姿が映し出される。どんどん小さくなっていくのが分かるが、最後には見えなくなってしまうだろう。それでも存在はしているのだ。

「限りなくゼロに近いが、ゼロではない」

 数学の発想を思い出していた。

 ただ、あすなは、自分の目を信じてはいなかった。

 確かに無数の自分の姿が写っているのだが、そこにいるのは二人だけしか存在しないように思う。一人は今考えている自分であり、もう一人は、鏡の中に一人いるであろう、もう一人の自分だけだった。

 無数に写っている自分の中のどこに、もう一人の自分がいるのかは分からない。

――そういえば、正樹さんも「真実は一つではない」と言っていたではないか――

 と感じていた。

 それにはあすなも同意見であった。しかし、これも、

――真実がいくら一つではないと言っても、無限に存在するわけではない。では、一体いくつ存在するんだろう?

 この思いは以前から自分の命題のように思っていた。いくら考えても、途中で行きどまってしまい、最終的に、堂々巡りを繰り返してしまう。それが、いつものあすなだったのだ。

 あすなが最近感じているのは、

――結局、すべてのものは二つに凝縮できるのではないか?

 ということだった。

 一つだと思っていたことも実は二つであり、無数に存在すると思っていることも、実は二つに凝縮できる。これも、忘れてしまってはいたが、正樹の夢を見た時に感じたことだった。

――でも、この夢は、正樹さんが死ぬ前に見た夢だったような気がする――

 というのも、この時に、

――正樹さん、何もなければいいけど――

 と感じた時だったのを覚えているからだ。

 ただ、この思いはまだまだ漠然とした思いだった。それをある程度固める結果になったのは、香月の出現だったのだ。

――何とも皮肉なことだわ――

 とあすなは感じた。

「表があれば裏がある。光があれば影がある。昼があれば夜がある。世の中というのは、すべて何かの対になっているものなんじゃないかって思うんだよ。生きている俺たちだって、男がいて女がいるわけだろう?」

 これは、香月のセリフだった。

――この人、私の性格を分かっているのかしら?

 あすなは、自分の性格や考えていることが分かるのは正樹だけだと思っていた。

 今まで誰も信じることなく生きてきたあすなが、やっと信じられることのできる相手を見つけた。それが正樹だったのだ。

「でも、俺はすべてのものを二つに分ける考え方は、あまり好きじゃないんだ。どこか縛られているような気がしてね」

 香月はそう言っていた。

「私もそれは思っているわ」

「でも、君は最後にはすべてを二つに分けて考えないと、自分を納得させることができない人なんだって思うよ。それが分かるのは、限られた人間だけなんだろうけどね」

 自分もその一人だと言いたげだ。

 悔しいがその通りだった。一度自分を納得させる結論を導いてしまうと、それを覆すことができる発想を思い浮かべることは至難の業だった。

「そんなに私は分かりやすいの?」

「分かりやすいかどうか、相性によるんじゃないかな? 俺は君を見ているだけで分かってくることが多いので、思ったことを口にしているだけだけど、君だって、自分が自信を持って相手が見えていると思えば、かなり饒舌になるんじゃないかな?」

 あすなは、正樹との会話を思い出していた。

――確かにその通りだわ――

 あすなは、香月という人間に対しての警戒心が次第に解けてくるのを感じた。最初の身体の硬さはどこから来ていたのか、ガッチガチだった自分が恥ずかしいくらいだ。

 香月は、改まった顔になり話の矛先を変えた。

「例の投書のことなんだけど」

「ええ」

「あれは、俺が書いたものなんじゃないかって思うんだ」

「どういうことですか?」

「三十分前を歩いているもう一人の自分がいて、その自分が知りえた情報を元に投書を書いた。つまり、調査をしている自分がいて、その情報を元に行動する自分がいるということだよ。今の自分は、行動する自分なんだろうね」

「同じ自分でも役割が違うと?」

「そうだよ。それが君も考えている『もう一人の自分』の発想に結びつくんじゃないかな?」

 言われてみれば、もっともな気がした。

 しかし、簡単に認めることは、あすなにはできなかった。それはプライドや警戒心というものではなく、根本的に相容れない発想が元になっているからだと思えてならないからだ。

「もう一人の自分って、何なんですかね?」

 思わず、投げやりな言い方になったが、これもあすなの性格の一つで、投げやりな言い方をすることで、相手の警戒心を解き、自分が張り巡らせたバリアの一部に「抜け穴」を開けたのだ。

 それに気づくかどうか、そして気づいた上で、抜け穴を通り抜けることができるかどうか、二段階必要だった。

「もう一人の自分にももう一人の自分がいて、それが一体誰なのか? この発想が俺とあすなさんの発想の違いなんじゃないかって思うんだ。そして、この発想は正樹さんにも通じることで、彼は彼なりの発想を持っているような気がする。だから、本当なら、彼の意見を生で直接聞いてみたいんだ」

――この人は、正樹さんの死を信じていない――

 この時、それまでの疑惑が確信に変わった瞬間だった。

「香月さんは、やけに投書にこだわってるんですね?」

「ええ、元々のきっかけは投書だったからですね。でも、考えれば考えるほど不思議なんですよ。いくら僕がジャーナリストだとしても、どうして投書の相手が自分だったんだろうってね。だってそうでしょう。ジャーナリストは他にもいっぱいいるんだし、そもそも投書がジャーナリストである必要があったのかと思ってですね」

「確かにそうですよね、私たちの身内に対しての手紙でもよかったわけですよね。相手が香月さんだったから、『投書』という言葉になっただけで、身内だったら、そんなことはない。どうしても投書というと、『密告』というイメージが強くなって、あまりいいイメージにはなりませんからね」

「そうです。ジャーナリストと言っても、ピンからキリまでいますからね。人によっては、面白おかしく書くだけの人もいる。信憑性も何もなく、ただ面白さだけを求めて記事にする人もいる。また雑誌社の中には、そんな話題性だけを元に、売っている会社もあるんですよ。信憑性なんて二の次で、ただ面白さだけを追求するあまり、読者を煽るだけ煽るんですよ」

 確かに、雑誌に限らず新聞の中にも、

「〇〇氏、電撃離婚か?」

 などという根も葉もない話題を拍子に大々的に持ってきて、最後の「か?」という文字だけ、ものすごく小さく書いている。

「新聞や雑誌に対して、読者の誤解を受けるような表記を欺瞞として捉える法律があればいいのだが、食品や日用品などの必需品とは違い、報道にまで法律での規制は掛かっていないですからね。どうしても、『報道の自由』というのが憲法で規定されている以上、報道は別格になってしまう。さすがに人権を脅かすものだとまずいでしょうが、なかなか難しいところですよね」

 香月はそう言って、神妙な顔になっていた。

「香月さんは、どうしてジャーナリストになろうと思ったんですか?」

 最初の印象があまりよくなかっただけに、香月のことをいいイメージで見ていなかったあすなは、今まで香月に対して一定の距離を保っていたことに気が付いた。今話をしている相手に対してではなく、相手が自分に対して危険な存在であるという意識を持っていたことで、ひたすら避けていたのだ。

 しかし、その警戒心が次第に解けてくると、最初に考えるのは、

――相手のことを知りたい――

 という思いだった。

――自分の抱いていたイメージが間違いだったかも知れない――

 と思ったことで、

――誤解を解くには、相手のことを知ることだわ――

 という基本的なことに気づいたのだ。

 香月もそのことを理解したのだろう。最初の頃から比べれば、随分と表情が柔らかくなったものだ。疑念だらけの表情にしか見えなかったのは、自分も疑念でしか相手を見ていなかったからだということに気づくと、香月の表情に、懐かしいものを感じたのだ。

「ジャーナリストになりたいと思ったというよりも、本当はジャーナリストという言葉、僕は大嫌いなんだ。ジャーナリストというと、政治的なイメージが強いし、自分が知りえた情報を記事にするのに、読者が興味を引くような内容ばかりを優先してしまうのがジャーナリストだって思っていたんだ。確かに、社会に対して敢然と立ち向かう記者もいるけど、ほとんどが潰されてしまう。そのうちに自分がやっていることは、会社の利益のために、事実を捻じ曲げてでも、読者に対して面白おかしく感じる記事を書くことに専念してしまっているって気づいたんだ。いつの間にか、感覚がマヒしていたんだね」

「分かるような気がします」

「プロパガンダという言葉を聞いたことがあるかい?」

「ええ、政治的な宣伝という意味に聞こえるんですけど」

「そうだよね。かつてはこの国もそんな時代があったんだ。きっと世界の先進国のほとんどは、今までに一度は通り抜けなければいけない壁のようなものだったって思うんだけど、そのプロパガンダが強すぎると、独裁になってしまう。でも、今のように民主的な世の中と言っても、プロパガンダってなくならないんだよ。むしろ、いかに国民に洗脳されているという意識を持たせずに思想をその人に植え付けるかというのが、ある意味大事になってくる。だけど、面白おかしく記事を書いている会社の存在というのは、決してプロパガンダのように、一つの考えに凝り固まっているわけではない。逆にプロパガンダからすれば、敵になるんだよ」

「まるで必要悪ですね」

「そうなんだ。だから、僕は今の面白おかしく記事を書いていることに疑念を感じてはいるんだけど、プロパガンダの敵という意味で、今の社会体制に絶対に不可欠なこの会社での仕事を辞める気はないんだよね。最初は僕だって、もっと理想に燃えていたさ。でも、その理想を一直線に追及すると、どうしても一つの考えに凝り固まってしまう。本当はそれでもいいんだろうけど、ジャーナリストはそういうわけにはいかないんだ。だから僕はジャーナリストと名乗りながらでも、本来の意味のジャーナリストを自分の中から捨てて、自分個人の新しいジャーナリストを探したいって思うようになったんだ」

 香月の話は、自分がジャーナリストの中でも異端児で、何とかその異端児な自分を正当化させたいという風に言っているようにも思えた。

 だか、それは香月という人間を第一印象だけで見ていた時に感じることだったであろう。いろいろ話をしているうちに、誤解も解けた気持ちになった上で聞いた彼の話には、十分な信憑性が感じられ、あすなにも納得できる内容であったのだ。

――この人なら、正樹さんの気持ちが分かるかも知れない――

 あすなは、正樹の気持ちが分かるのは自分しかいないと思っていたが、果たしてそうなのだろうか?

 香月の話を聞いていて、彼が自分の持っていた信念、あるいはプライドを捨ててまで、今の仕事に情熱を燃やしているのは、ただ面白おかしい話を書くだけのためではないことは分かった。

――では、この人の本当に目指している何なんだろう?

 と思って、香月を見つめていたが、彼が考えている心の奥までは覗くことができなかった。

 これまでも、すべて彼の言葉から発せられたことに信憑性を感じ、信じようと思ったあすなだった。それを思うと、正樹に対して感じていたことに対して、ハッとしないわけにはいかなかった。

――私は、正樹さんの何を見てきたというのだろう?

 正樹と話をしていて正樹に感じたことは、すべて正樹の口から発せられたものだった。

 あすなはそのことを思うと、急に顔が真っ赤になってくるのを感じた。

――いつも相手から話してくれたことばかりを信じてきた自分なのに、気持ちとしては、相手の気持ちを読み込んだ思いを抱いていた自分が恥ずかしい――

 と感じていたのだ。

 香月はその表情を見ながら、優しそうな笑みを浮かべた。

「あすなさんは、自分が相手の心を読めないことを恥ずかしいと思っていますよね?」

 またしても、あすなはビックリさせられた。

「どうして分かるんですか?」

「そこがあすなさんのいいところなんですよ。あなたは気づいていないんでしょうけどね。でも、考えてみると、その人のいいところというのは、案外と本人は自覚していないものだったりしませんか?」

 香月のいう通りだった。

 あすなは、自分がよく話をする相手に対して、その人のいいところを理解しているつもりだった。何しろ、あすなは人と仲良くなる時、まずはその人の長所を見つけようとするからだった。

 そのことに関しては、あすなには自信があった。

 相手の気持ちを分かると思っていたのも、相手の長所を見つけたことで、、相手の気持ちを分かったような気がしたからだった。相手の長所と考えていることが必ずしも同じであるということはないが、錯覚してしまうのも無理のないことであった。

「長所と短所は紙一重」

 と言われる。

 あすなはそれも分かっているつもりだった。実際に最初に相手の長所を見つけると、一緒に短所まで見えてくることも稀ではなかったからだ。

――本当は長所だけ見えればよかったのに――

 と学生の頃は考えていた。

 まずは相手と仲良くなることが先決だと思っていたあすなは、学生の頃は大人しい性格で、人と話をすることも珍しかったくらいだ。特に高校生の頃まではその性格は序実であり、その頃は人から話しかけられても、何も答えることができないほど、閉鎖的な女の子だったのだ。

 大学に入ってから、人の長所を見つけることを最優先に考えるようになると、自然とまわりから人も寄ってくるようになった。話も少しずつできるようになり、会話だけで、相手の長所が見えてくるようになった。

 大学時代までは、相手の長所しか見えてこなかったのだが、大学院で正樹と知り合ってからは、相手の短所まで見えるようになっていた。

――こんなの、いやだわ――

 と思っていたが、実際に見えてくると、長所と短所が紙一重だったことに気づく。

 そのことに気づくと、短所も決して悪いことばかりではないかのように思えてきた。

――一緒に考えればいいんだわ――

 そう思うことがお互いの気持ちを接近させるカギになることに気づいたのだった。

 その思いがあったから、香月が話してくれた、

――「必要悪」としての自分の存在を自分自身で納得させ、正当化させようという考え方――

 に賛同できる気持ちになったのだ。

――同じじゃない――

 と感じたことで、さらに香月との距離が急接近してきたのを感じた。

 しかし、それでもその途中には大きな結界が設けられていることに気づいていた。その結界はあすなが作ったものではない、香月が作ったものだった。

――この期に及んで、この人の中にどんな結界があるというのかしら?

 それは、知られてはいけない何かがそこにあるのだということである。

 しかし、あすなはその思いに対して、大きな障害だとは思っていない。

――今は大きく立ちはだかっている結界だけど、時期がくれば自然に消えてなくなっているものなんじゃないかしら?

 と感じていた。

 何しろ近づいてきたのは香月の方である。彼には自分の中に結界が張り巡らされていることは分かっているはずだ。それは、

――相手があすなだから――

 ということではないはずだ。

 他の人に対しても、途中に大きな結界を築いていて、その結界がいつの間にか溶けてなくなっていれば、初めてその人に心を開くと感じているのだろう。

 ということは、まだ彼は完全にあすなに対して心を開いているわけではない。まずは自分を納得させて、相手との距離を縮めることで、お互いに知り合っていく……。

 このことは、香月だけではなく、他の人も同じ過程を経て、人との関わりを持っていくものではないだろうか。

 あすなは、自分が正樹と知り合った時も、似たような経験をしたのを思い出した。香月を見て、

――懐かしい――

 と感じたのは、そのあたりの自分の感情の変化が影響していたに違いない。

 正樹の長所を思い出してみた。だが、思い出すことができたのは、短所の方が最初だった。

――正樹さんは、一つのことを思いこむと、まわりが見えなくなる方で、相手がどんなに大切に思っている人であっても、自分が納得しなければいけないことを邪魔すると、あからさまに嫌悪の色を見せる人だったわ――

 自分中心主義の人だったと言えるのではないだろうか?

 そんな人を、どうして自分が好きになったのか、あすなはいまさらのように疑問に感じていた。

 しかし、それがある意味彼の長所なのだ。

――自分中心主義のくせに、いつの間にか、それを分かっている人を惹きつけてしまう――

 言葉では言い表すことのできない魅力が彼にはあるのだ。それが彼の長所だと言ってもいい。だから、彼を見る時は、最初に短所が見えて、そこから長所に結びつけるという見方をするので、長所を見つけることができない。

――こんな人は初めてだわ――

 あすなは、正直今でも彼のような人の存在が信じられない。特に、この世からいなくなったことで、余計に、

――正樹さんという人は、本当に存在したのかしら?

 と、疑いたくなってくるのだ。

 最初は、

――無理に彼の話題に触れることがタブーなんだ――

 と思っていたが、そうではない。

 本当に彼がこの世に存在していたということを忘れてしまっているかのような人もいるように思えてならなかった。

 一番ショックだったのは、彼の座っていた研究室での机が、半月もしないうちに整理されていたことだった。あすなはそのことを抗議する気にもなれないほど、あっけに取られている自分を感じていたのだ。

 ただ、彼の机が整理されていると言っても、それは机の上だけのことで、机の中を整理したわけではない。彼の席を使う人は誰もおらず、たぶん、人員が補充されても、彼の席に座ることはないだろう。

 これは研究室と他の会社の違いであった。

 確かに彼の存在について、誰も触れることはないだろうが、机の中の資料まで扱うという人は誰もいない。これは研究者全員の暗黙の了解で、

――自分が同じことをされると嫌だ――

 という思いが働いているからに違いない。

 したがって、机の中には誰も入り込むことはできない。帰ってくるはずのない彼の机なのに、彼の机はずっとそのままになっているだろう。それが何年続くのか、前例がないので、誰にも分からなかった。

 彼の机には、しっかりとロックが掛かっていた。そのカギを持っているのは、正樹本人であり、中を知ることができるのも、正樹しかいないはずだった。

「実はこれ」

 と言って、香月は自分のカバンの中から、一つのカギを取り出した。

「このカギは?」

 と聞くと、

「これは、正樹さんの机のカギなんですよ。正樹さんは自分の身に何かが起こるのを知っていたのか。合鍵を作ったようで、それを僕に渡してくれたんです。僕には、彼の身に何かが起こるかも知れないことを検知できていたのに、何もしてあげられなかった。だから、その悔しい思いもあったし、自分が『必要悪』なんだという自覚もあったことがジレンマとなって、しばらくどうしていいのか分からなかったんですよ」

「じゃあ、投書というのは?」

「それは本当です。ただ、一番彼の死に疑問を抱いていたのは、自分かあすなさんだということは分かっていたのですが、他の人にはそのことが分かるはずはないですよね。それなのに、どうして投書の相手が自分なのか、それが疑問だったんです。だから、すぐにはあなたの前に現れなかった。あなたに迷惑が掛かるかも知れないと思ったからですね。でもそれ以降、投書してきた人から何も言ってこない。そうなると、今度は投書の相手が誰なのか、再考しないといけないと思ったんです」

 あすなは、少し考えて、

「まさか、その投書の相手が私だと思われたんですか?」

「ええ、そう思ったからこそ、あなたの前に現れる気になったんです。そして最初からカマを掛けることで、あなたの様子を見ようとした」

「でも、その投書が私ではないと思ったから、あなたの心情を私に話してくれる気になったんですね」

「その通りです」

「あなたは、手にしているそのカギが、文字通り、何かのカギを握っていると思っているんですね?」

「ええ、じゃないと、僕に合鍵なんか持たせてくれるはずないからですね。しかも、カギを渡したのはあなたではなく僕だったということは、あなたに危害が加わらないように配慮したこと、それはある意味、彼の死に誰かが関わっているとすれば、それは研究室の中の人ではないかと思ったからです」

「香月さんの言いたいことはよく分かりました。でも、私にはまだ何か信じられないものがあるんですよ」

 あすなは、虚空を見つめた。

「あすなさんの発想は、僕の考えていることと少し違っているようですね」

「ええ、私は彼が死んだということ自体が信じられない気がするんです。確かに私の立場で、彼の死に疑問を抱いているといえば、それは人情的に仕方がないと思われるかも知れない。私も、確かにそれも少なからずあるとは思うんですが、それを差し引いても、どうしても疑問が残るんです」

「それは口で言い表せることのできないものだと思われているんですね?」

「ええ、そうなんです。その気持ちを分かってくれる人がいるとすれば、今は香月さんしかいないと思っています」

 あすなは、香月に対して、どこか頼りがいのようなものを感じていた。

 それは、かつて正樹に感じたものと同じものかどうか、ハッキリしないが、少なくとも今頼れるのは香月しかおらず、彼が敵ではないと分かった時点で、何でも話せるような気がしていたのだ。

「とりあえず、せっかく正樹さんが残してくれたこのカギ、あなたに預けまずので、よろしくお願いします」

「はい、分かりました」

 あすなは翌日、正樹の机の中の一番上にあった自分の研究の論文を見つけ、そこに何か秘密があるのではないかと思い探ってみた。そこで発見したのは、あすなが自分の研究の最後のまとめが書かれていた。

「あと少しで完成なのに」

 と思い、その最後の道の遠かったことがまるで嘘のように、完璧なまでに結論が書かれていた。思わず、

「やられた」

 と口に出してしまったほどの内容に、あすなは自分の研究者としての魂が覚醒したのだ。

 そのことを知っている人が誰もいない。香月がどういう思いでカギをあすなに渡したのか、今となっては、

――遠い過去になった――

 と言っていいほど、この瞬間、研究室の空気の流れが変わってしまい、まわりの立場関係は一変した。

「この部屋に空気が流れていたなんて」

 あすなは、そう感じたことだろう。

 ただ、こうなることを果たして誰が望んだというのか?

 一変してしまった状況の中で、最初と気持ちの上でまったく変わっていなかったのは、香月だけだったのだ。

――あすなの思いは、どこに行ってしまうのだろう?

 香月のその危惧に答えてくれる人は、誰もいなかった……。

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