第3話 上下対照
翔子は、オーロラの夢を見てから数日後、彼女の会社に一人の男性が赴任してきた。
彼は、北欧のフィンランドに一年間赴任していたとのことだが、思ったよりも色が黒い人で、
――どこかで会ったことがあるような気がする――
という、一種の親近感があった。
――そうだわ。以前付き合っていた彼だわ――
二年前に自殺したという彼、その人に似ていたのだ。
顔や体格が似ているというよりも、雰囲気が似ているというべきだった。どこか人懐っこさがあり、それが彼の実直さを感じさせる。まさに最初に付き合っていた男性に好感を持った時のようだった。
その時は、中途半端な別れになってしまったことを後悔している。彼の精神状態を安定させてあげようと思ったことで、彼を放置してしまったと思った翔子は、自分が上から目線で相手を見ていることに気付かされた。だから、彼の本当の苦しみがその時分からずに彼を放置する結果になったと思ったのだ。
あの時の彼は、一人になりたいと思っていたのは間違いないのだろうが、その反面、一人になることを怖がっていたような気がする。翔子は彼の見えている部分だけしか見ようとせず、内面的なことに目を瞑ってしまったのではないかと思い、それが後悔に繋がっていた。
北欧帰りの彼は、名前を田村と言った。田村を見ていると、
――自殺した彼よりも、近藤の方に似ている気がするわ――
翔子は、近藤と一緒にいる時は、自分が付き合っていたと思っていたが、麻衣と接触したことで、付き合っていたという意識を、記憶の中に封印した。それで自殺した彼が最初の交際相手だと思ったのだが、今では、自殺した彼と近藤を頭の中で同一人物のように思うようになった。
麻衣や、近藤とはあれから会っていない。二人がどうなったのかも分からず、たまに夢に出てきては、
――これは夢なんだ――
という意識を持たせることで、夢から覚めても意識だけは残っているが、抜け殻の意識だった。
抜け殻の意識というのは、なかなか忘れることはない。その思いが、自殺した彼とシンクロしていることで、意識を抜け殻にしているのかも知れない。
翔子は彼が自殺したことで、自分の意識から抜けないことは分かっていた。無理に抜こうとすると余計に忘れられなくなってしまうので、
――意識しながら、無意識で行こう――
という一見、矛盾した発想になっていた。
北欧から帰ってきた彼は、翔子を意識しているようだ。
「新宮さんとは、初めてお会いしたような気がしないんですよ」
と彼から言われて、
「そうですか? 私のような人はたくさんいるので、そのうちの誰かと勘違いされているんじゃないですか?」
と言って微笑んだが、翔子の中で、
――こんな当たり前のことをいうような女だったかしら?
と苦笑いをする自分を感じた。
皮肉にも取れるこの言い回しは、ドラマのセリフとしては定番な気がした。そして、自分がそんなありきたりなセリフを口にしているのを感じると、
――人と同じでは嫌だ――
と感じている自分に反発してみたくなるのだった。
もっとも、人を見下すところのある翔子は、なぜ見下すような態度を取るのかというと、考えられるのは、
――上から見ることで全体を見渡せるからだ――
と思っていたのだが、もう一つ思い浮かぶことがあった。
それは、
――上からの方が、下からよりも距離を感じることができるからだ――
と思っていることだった。
いくら親しくなったからと言って、相手と一定の距離を保っていたいと思っている翔子が妄想の中で一定の距離を保てるのは、上から見た時だと感じたというのは、決して無理なことではないような気がした。
そんな上から目線の人を、本当は毛嫌いしているのが自分だということを、翔子は理解していた。
その思いがあるからだろうか。北欧から赴任してきた田村に対しては、
――素直で従順な女性を演じよう――
と考えた。
実際に、田村はそんな翔子に惹かれているようだった。会社では一番話しかける相手は翔子だったし、翔子の方でも、ほとんど他の社員とは接触のなかった自分に、赴任早々話しかけてくれる彼に、決して悪い気はしなかった。
「今日、仕事が終わったら、夕食など一緒にどうですか?」
そんなことを言ってくる人は誰もいなかった。
翔子の事務所では、少数にも関わらず、いくつかのグループが存在していた。少数なだけに誰かは必ずどこかのグループに所属している感じだったが、翔子はどのグループにも所属していない。
事務所の雰囲気から、最初にどこかのグループに所属しなければ、途中から所属することは難しかった。なぜなら、それぞれのグループが意識し合っていることで、一触即発の場合もあるくらいにピリピリしている時もあった。当然途中から参加するというのは、グループにとっても、本人にとっても、リスクを感じさせるもので、ぎこちなさがハンパないと思われるのだった。
翔子はそれでもよかった。一人孤独な中で、上から見ていると、下々の人がグループという箱庭の中で蠢いているとでも思ったからだ。
そうでも思わないと、孤独に苛まれるのだろうと最初は思ったが、上から見ていると、それほどグループというのもたいしたものでもない。
――上から見るに値するものでもないわ――
と、事務所のグループを見限っていた。
それでも、仕事は仕事、人一人一人を見限っているわけではない。翔子はそのあたりはわきまえているつもりだった。
それでも、まわりが翔子のことをどう思っているのか、想像がつかなかった。翔子はせめて一人一人を尊重しているつもりでいたが、まわりはどうだろう? どうしても上から見るくせは抜けていないだろうから、そんな視線を感じた人は、翔子のことを胡散臭く感じているに違いない。
そんな人が少なからず存在していることは分かっていたが、それが誰なのかまでは、なかなか分かるものでもなかった。
翔子が田村と話をする機会は結構早く訪れた。
「新宮さん、僕はまだこの会社に慣れていないので、いろいろと教えてもらいたいことがあるんですよ」
と言って話しかけてきたのだ。
その笑顔は前に付き合っていた彼の笑顔に似ていたが、彼を思い出すということは、別れのきっかけにもなったであろう電車の中で煮え湯を飲まされた時に感じた屈辱に震えていたあの顔を思い出すことにもなるのだが、田村の笑顔を見ている限りでは、そんな感情は無用のようだった。
「僕は久しぶりの日本なので、よく店とかも知りません。新宮さんのいいところでいいですよ」
彼の言い方は、どこか「教科書」的なところがあり、感情が籠っていないようにも聞こえたが、表情が豊かなので翔子はあまり言葉の抑揚は気にならなかった。しかし、人によっては表情が豊かなだけに、
「あんなに淡々と話されると何を考えているのか分からないわ」
と感じさせるかも知れないとも感じた。
翔子は、彼の言葉に甘えるような形で、普段行っている居酒屋に連れていった。かいっ外から帰ってきた人には、海外風の店の方がいいのかも知れないとも思ったが、海外帰りの人の中には、
「日本風が懐かしい」
と思う人がいるだろうと思ったことでの選択だった。
「居酒屋って大学時代が最後だったので、本当に懐かしい気がしますよ」
と言ってくれたので、ホッとした翔子だった。
「学生時代が最後って、就職してすぐに海外赴任だったんですか?」
「ええ、そうです。僕は実はハーフなんです。父親がアメリカ人で、母親が日本人なんですよ」
とニコニコしながら言った。
言われてみればそんな雰囲気も滲み出ているような気がするが、あくまでも、
――言われてみれば――
である。
最初から気付かなかった理由は、彼の笑顔が印象的だったからだ。彼の笑顔にはどこか癒し系を感じさせ、イヌのような雰囲気があった。
しかし、癒しの中に、相手への依存も隠されていた。
――いや、隠されていたというわけではないわ。ハッキリと表に出ていたと言ってもいいかも知れない――
と感じるほどだった。
翔子は、子供の頃、近所で迷子のイヌを見つけて、家に連れて帰って、
「このイヌ、飼いたいんだけど」
と言ったことがあった。
しかし、母親からは、
「ダメ、捨ててらっしゃい。そんなもの拾ってきてどうするの」
と、秒殺だった。
翔子は、正直その時の母親を見て、それから以降の母親への見方が変わったのだと思っている。どんな事情があるのかも知れず、いきなり話も聞かず捨ててこいというのは、あまりにもむごいと思ったのだ。
純粋な少女の心を傷つけたことを母親はどう思ったのだろう? 自分にだって少女時代はあったはずだし、同じように、捨てられている子犬がいれば、放っておくことなどできないはずだ。そう思うと、翔子は、
――本当に私はこの人の娘なのかしら?
とさえ思ったほどだった。
それからの翔子は、母親に逆らうことはなくなった。だが、その代わり、母親のいうことを聞くことはない。
――逆らわないことと、いうことを聞かないことは違うんだ――
と翔子は思っていた。
しかし、当の母親はそんなことは思っていない。
「あの娘は、まったく私のいうことを聞かないで、逆らってばかりなのよ」
と、近所の人に触れ回っていた。
――どうしてそんなことができるのよ――
と、母親に反発心を抱いているくせに、どこかまだ許容できるところがあると思っているのか、そんな風に感じていた自分に対して、後になってから矛盾を感じていた翔子だった。
結局、翔子はその時、さすがに犬を捨てることはできず、友達に引き取ってもらえる人がいないかを探した。実際に何人目かの友達に、
「いいわよ」
と快く引きうけてくれた人がいたので事なきを得たが、
「翔子ちゃんも、偉いわね。ちゃんと最後まで面倒を見ようとする態度は、おばさんはとても好感が持てるわよ」
と友達の母親に言ってもらえた。
テレる気持ちと裏腹に、
――この人がお母さんだったらよかったのに――
ちゃんと、相手の立場も分かって、行動を冷静に見ることができる人こそ母親にふさわしいと感じた。
ただ、それが他人の娘だから冷静に見れるとも言えなくもなく、翔子はテレながら、冷静な気持ちを失うことはなかった。
その犬は、友達の家でスクスクと育ち、子供たちの間で人気者になった。それから少しして、人命救助に一役買ったということで、警察から表彰されるまでになったのだが、まさかあの時のイヌがそんなことになろうなど、母親も思っていなかっただろう。それを聞いた時の母親の顔が思い浮かぶようで、翔子は溜飲が下がった気がして、スッキリした気分になっていた。
それでも、翔子は友達のところに行ってから、凛々しく育っていく犬はもちろんのことだけど、それよりも最初に感じた慕うような、情けなさそうな表情が忘れられなかった。たまに夢にも出てくるほどで、きっと夢に見ることが多かったことで、田村の顔を見てすぐにその時のイヌの顔を思い出したに違いなかった。
「僕は海外ばかりの赴任だったので、よく分からないんだけど、日本でも、事務所の中で結構裏表が激しかったりするんですか?」
と聞かれた。
「海外はどうなんですか?」
と聞くと、
「そうですね。ないとは正直言いませんが、ただ、比較になる対象がないので、それがどれほどの程度なのか分からないんですよ。何か具体的な例でもあれば説明できるんですが、私は海外赴任中にそのような具体的な事例に遭遇したことがなかったので、何とも言えないですね」
と答えた。
これがありきたりな話にも聞えて、どこまで彼の話を額面通り受け取っていいのか迷うところであった。
「それは私も同じことです。たとえ具体例が分かっていたとしても、ここでいうのは、先入観を与えることになって無理があると思うんですよ。だってあなたはこれからここで皆と一緒に働くわけでしょう? それを私だけの主観で話をして、あなたに余計な先入観を与えて、それが人間関係をぎくしゃくさせることになったら、私はそんな責任を負うことはできません」
とハッキリ言ってのけた。
少しツンツンした言い方なのかも知れないが、それくらい言ってもいいと思った。何しろ、赴任してきてからすぐに、いくら事務所の雰囲気を知りたいとはいえ、いきなり事務所の裏表について話してほしいというのは、あまりにも突飛すぎると感じた。
――これが海外経験者の感性なのかしら?
と、何か自分たちとの違いを感じさせられた。
海外赴任者というとエリートで、帰国後は確固としたポストが用意され、将来がある程度約束されているというイメージがあるが、目の前にいる彼からは、エリートという雰囲気は欠片も感じられなかった。
翔子の通っている会社は、確かに海外にも拠点を持っているが、全国的に有名な一流企業というわけではない。むしろ地元では大手なのかも知れないが、全国的にはさほど有名ではない会社だった。
だからこそ、翔子は就職したのだし、就職できたのだと自覚していた。
翔子は、やはり以前付き合っていた彼氏のことを思い出してしまった。
彼の屈辱的な顔を初めて見た時、そのイメージが脳裏から離れなくなり、それから別れまでは坂道を転がり落ちるようだった。
彼もぎこちなくなったのも事実だったが、避けていたのは明らかに翔子の方だった。約束を彼の方から取り付けようと連絡をしてきても、
「ごめんなさい。その日は用事があるの」
と、けんもほろろで断っていた。
何度も断るうちに、さすがの彼もさ所為を掛けてこなくなった。そのうちに、
「あの人、この間他の女性と歩いているのを見かけたわよ」
という話を他の女性から聞かされた。
その時はまだ完全に別れたとは思っていなかったが、その話を聞いた時、
「いいのよ、私たち別れたんだから」
と言ってしまった。
その話を聞いた友達は、
「そうだったんだ。知らなかったわ」
と本当に驚いていたが、翔子が彼と別れたという話はあっという間に、クラスで話題になり、自然と彼の耳に届いていた。
彼とすれば、
――どうして別れたことになんかなっているんだ?
と感じたかも知れない。
彼が一緒に歩いていた女性は、本当は彼女などではなかったからだ。
しかし、このことが彼の背中を押したのかも知れない。ぎこちなくなった相手と中途半端な気持ちで付き合っているのは彼としても微妙な気持ちだったからだ。
――これ幸い――
と思い、別れたという話に便乗したというのが、本当のところではないだろうか。
翔子としても、きっかけは自分が作ったとはいえ、相手もそれに便乗してくれたことでうまく別れられたのはありがたかった。
――人のウワサてうまく利用もできるのね――
と感じた。
本当はウワサなど、
――百害あって一理なし――
だと思っていた。
それなのに、こんなにうまくいくこともあると思うと、裏の世界にもひょっとすると利用価値のあるものがあるのかもしれないと感じていたのだ。
――裏の世界?
翔子は、いい意味ではないその言葉を聞いた時、最初に感じたのが、鏡の向こうの世界であった。
こちらの世界とまったく同じ行動しかしない鏡の向こうの世界だが、左右対称である。だが、不思議に感じるのは、上下対称ではないということだ。
――以前にも感じたことがあったような気がする――
と、鏡の世界に裏の世界を感じた時、上下対称をそんな風に感じた。
左右対称であるにもかかわらず、上下対称ではないことに、どうして誰も疑問に感じないのか不思議だった。
確かに上下対称だとものすごい違和感があり、絶対におかしな感覚を抱くはずだ。
そういえば、昔、サッチャー効果というのを聞いたことがあった。
「上から見た時と、下から見た時で、まったく違ったものに見えてしまうことを、サッチャー効果っていうらしいの」
と聞かされた。
「それって錯覚の類なの?」
「ええ、そうね。でも、それは錯覚を感じさせる人間の目に原因があるのか、私には分からないわ」
と言っていた。
――あの時、もっといろいろ調べてみればよかったわ――
と感じたが、サッチャー効果という言葉は頭の中に残っていて、
――ひょっとすると、何かのはずみに思い出して、調べてみようという気になるかも知れないわ――
と感じていた。
それがいつになるのかが分からないので、
――ひょっとして――
という感覚になったのだが、翔子としては、
――いつになるか分からないけど、やってくることは確定していることなんだわ――
と感じていた。
サッチャー効果の話は、高校時代に、学校から恒例の美術鑑賞の授業があったのだが、街の美術館に校外学習に行った時、その時サッチャー効果を思わせる絵があったのを思い出した。翔子はその時その絵の前からしばし離れることができなかった。ただ、その絵がサッチャー効果だったのかどうか、何も書かれていなかったので分からなかった。後になってから余計に気になって、
――どうしてあの時、聞かなかったのかしら?
と感じたほどだった。
――そういえば、サッチャー効果の話、他の時にも聞いたことがあったような気がするわ――
と感じたが、それがいつのことだったのか思い出せなかった。
ただ、高校時代の美術鑑賞よりも後だったような気はする。それなのに、どうして思い出せないのか、不思議だった。
いろいろなことが頭の中を走馬灯のように駆け巡っていたのだが、その場が田村と一緒に行った居酒屋であるということすら、意識として感じているわけではなかった。
「新宮さん、大丈夫ですか?」
と、田村に声を掛けられて、初めて意識が上の空になっていることに気がついた。
「ああ、ごめんなさい。なぜかいろいろなことが頭を巡ってきて、上の空になってしまったようなのよ。いったい私はどれくらいの間、ボーっとしていたのかしら?」
と彼に聞いてみた。すると、
「そうですね。十分くらいのものだったでしょうか? もっと早く声を掛けようかと思ったんですが、あなたを見ていると、そのうちに戻ってくるような気がしたんですよ」
その言葉に少し訝しさを感じた翔子は、
「戻ってくるというと?」
「あなたが、頭の中で発想を膨らませていることは分かっていました。それが次第に妄想のようになってきていたので、頭の中が混乱しているのかと思ったんですが、そんな表情ではなかった。頭の中で迷走しているように感じたんですが、いずれは戻ってくると思ったんです。ただ、戻ってくる相手を途中で遮ってしまうと、本来戻ってくるはずの道が閉ざされてしまって、もう一度同じ状況になると、元に戻ってこれないような気がしたので、黙っていたんです」
「じゃあ、また同じように迷走することがあると?」
「ええ、僕はあなたのように話をしていて迷走している人を今までに知っています。その人も何度か同じように迷走を繰り返していたようなんですよ」
「それは、まるで夢遊病のような感じなんですか?」
「少し違うだけど、同じようなものだと思ってもらった方がいいかも知れませんね」
「どう違うんですか?」
「夢遊病というと、いつも同じ夢を見ているわけではないんですよ。しかも、迷走しているわけでもない。どちらかというと、夢遊病の場合は気になっていることを確かめるために起こることが多いって僕は思っているんですよ。だから、時と場合によって違ってくることなんじゃないですか?」
「じゃあ、今の私の症状は夢遊病とは違っているわけではないんですか?」
「そうですね。少なくともあなたは睡眠状態だったわけではないでしょう? それに夢遊病に陥る時の原因の一つとして言われていることは、興奮状態のまま睡眠に至った時と言われています。今のあなたは少なくとも冷静だったし、興奮状態ではなかった。むしろ冷静だからこそ、意識の中で迷走していたんじゃないかって思うんですよ」
「というと?」
「何かを考えていて、発想が膨らんでいる時というのは、考えていることに対して余裕がなければ、発想が膨らむことなどないんじゃないかな? 余裕がない時は、堂々巡りを繰り返してしまって、自分では迷走しているつもりでも、いつの間にか同じところに戻ってきているという状況ですね」
「それは、時間を飛び越えて、元の位置に戻ってくるという発想ではなくて?」
「ええ、新宮さんもなかなか面白い発想をなされる。確かに時間を飛び越えて同じところに戻ってくるという発想は、堂々巡りに近いかも知れないけど、時間を飛び越えるというのはワープのような発想であって、決して同じところに戻ってくるわけではないと僕は思うんです」
「なるほど、確かにそうかも知れませんね。私は今の話を聞いて『慣性の法則』を思い出したんですが、走っている電車の中で飛び上がっても、電車の中という空間の中で着地することになるので、全体から見ると、決して同じ場所に着地しているわけではないからですね」
「まさしくその通りです。僕が時間を飛び越えるという発想が、同じところに戻ってこないという理屈を説明する時に使うのも、この事例なんです。よく思いつきましたね」
「ええ、この法則はいつも疑問に思っていて、気がつけば、そのことを気にしている自分がいるんですよ。田村さんの話を聞いていると、私もいろいろ思い浮かぶことがあるようで、どこか私たち、似ているところがあるのかも知れませんね」
と言って、翔子は微笑んだ。
田村も同じように微笑んでいるが、まだ親近感を感じさせる笑顔ではない。かと言って、何かを疑っているような雰囲気でもなく、さらには探りを入れている様子も感じられなかった。
「何となくタイムマシンの発想のようですけど、新宮さんはタイムマシンについてどう思います?」
「タイムマシンというのは、本当に開発できるものなのかって、疑問しかないです」
「どうしてですか?」
「さっきのように、時間を飛び越えると同じ場所に戻ってこれないという発想がまずありますよね。そして、時間を飛び越えることで歴史が変わってしまうって私は思っているんです。小説なんかを見ると、過去に行って、過去の歴史を変えるとそこで歴史が変わるというお話が多いですが、私は時間を飛び越えることそのものが歴史を変えることになると思っているんです」
「じゃあ、タイムマシンは妄想だけの世界だと?」
「ええ、そう思いたいですね。そのために時系列は存在しているんだからですね」
「僕もその意見に同じなんですけど、もしそうだとすると、大きな疑問があるんです」
「どういう疑問なんですか?」
「たとえば、歴史が時系列の積み重ねだったとしますよね。時間が経てば経つほど、新しいものが生まれる。じゃあ、過去に存在していたものというのは、歴史から消えてなくなるということになるんでしょうか?」
「私はそう思っています。そうじゃないと、無限に増え続けていくわけですよね。物事には必ず限界というものがあって、それ以上は増えないようになっているんだって思いますよ」
「それは、この世の理屈ですよね。人が生まれて、そして死んでいく。だから人口も増えないし、安定して発展ができてきたんだって普通に考えていますよね。でも、死んだらどうなるんだって考えたことありますか?」
「ありますけど、必要以上には考えないようにしています」
「どうしてですか?」
「何となく、神への冒涜のような気がしてですね」
と翔子がいうと、田村は興味深い声で、
「へえ、新宮さんは神を信じているんですか?」
「信じているというわけではないんですが、神と呼ばれるような存在を否定しようとは思わないんですよ。ただ、一口に神という存在を信じているのかと聞かれると、その時は信じていないと答えるんですけどね」
「なるほど、その気持ち分かる気がします。僕もね、神なんて信じていないんですよ。でも、実際に神掛かったといわれるような出来事が起こることがある。それは否定できない事実だったりしますからね。そういう意味では新宮さんの話に同意ですね」
「私は、占いも宗教も信じたりしていないんですが、なぜか、私を誘う人は結構いたりするんですよ」
と言って、以前に連れて行かれた宗教団体の会場の話や、友達と行った占いの館の話をした。
「どっちも、新宮さんには似合わないような気がしますけど、でも、新宮さんのような人が宗教に入信したら、きっと嵌ってしまうような気がしますね」
「どうしてですか?」
「自分の考えをしっかりと持っているからだって僕は思います」
「えっ? そうなんですか? 私は逆だって思っていました。宗教に嵌る人は、自分の意見がなくて、神頼みのような発想から入信するんだって思っていました」
「それは、宗教に嵌る人ではないと思います。宗教に溺れる人なんだって思っていますよ」
と、田村は言った。
翔子の中では半分分かっていると思いながらも聞きなおした。
「嵌るのと溺れるのとではそんなに大きな違いがあるんですか?」
「ええ、そうですよ。嵌るというのは、目の前にあるものに危険があるということを分かっていて、遭えて入ってしまう場合もあるということで、溺れるというのは、そこが溺れたりする場所ではないという自覚を持っていながら、気がつけば入り込んでしまっている場合をいうんじゃないかって思います。どちらが抜けにくいかと言われると難しいですが、僕の中では溺れる人の方が抜けやすいと思います」
と田村が言った。
「そうですか? 私は嵌った人の方が抜けやすいと思っていました。溺れている人は抜けることはできないと思うからですね」
「僕は違います。溺れている人は、他から助けようとする力が働けば、その人から救ってもらえると思うんですよ。助かりたいという気持ちを持っていればの話ですけどね。でも、嵌っている人というのは、自ら入り込んだ人であって、最初に抜けようと思えば抜けれたはずなんですよ。それをしなかったということは、宗教には自分の意思で入ったんだっていう思いが強くなっているはずなので、人が何を言おうとも、嵌ってしまった人は抜けようと思わないんですよ」
「言葉と、それを使う時のニュアンスによっても違ってくる発想ですね。一人一人意見が違っているかも知れませんね」
と翔子がいうと、
「それはそれでいいと僕は思っています。一つの団体にはたくさんの思いや考えを持った人がいてしかるべきですからね。それが宗教団体だというだけで、世間から非難されたりするのは、少し違うんじゃないかって思うんですよ」
と田村が答えた。
「でも、今の世の中、ロクな宗教団体がないんじゃないですか?」
「それは偏見じゃないですか? 表に出てきているのは、反社会的な宗教団体ばかりで、それもそのすべてが悪いと言い切ってしまうのは、乱暴ではないかと思うんですよ。たとえば、喫煙する人が今は白い目で見られる世の中になってしまったけど、喫煙者はすべてが白い目で見られるような人ばかりではない。一部のマナーの悪い連中のために、喫煙者が悪く見られるという風潮にあるんじゃないですか?」
「でも、それを言うなら、喫煙者の中には自分たちが迫害されているという被害妄想を強く持っている人がいて、禁煙者に対して恨みつらみを強く抱いている人も少なくはないと思うんですよ。どちらかに優位になれば、結果的に軋轢を生むことになって、その壁は決して埋めることのできない角質になるんじゃないですか?」
「そのことは、最近よく話題になっている『パワハラ・セクハラ問題』とも似ているんじゃないかって思うんですよ」
と翔子がいうと、
「そうなんですか? 海外にいたので、よく分からなくて」
と田村は言ったが、それが本心からなのかどうか、翔子には諮りかねていた。
「この問題は、数年前から大きく社会問題になってきているんですが、最初は受けた方が訴えることで、訴えられた方が悪だという構図ができあがっていたんですよね」
と翔子がいうと、
「それはそうでしょうね。今まで我慢してきた人の不満が爆発したわけですからね」
「ええ、だけど、最近は問題が頻発しすぎていて、本当にセクハラなのかどうか疑問に思うようなことも、訴えさえすれば、こっちが正義だとでも言わんばかりの人もいるようなんですよ。
「逆セクハラというわけですか?」
「ええ、そうです。本来ならセクハラにならないことでも、セクハラだと言って訴え出れば、少なくともまわりは、そういう目で見ますからね。訴えられた方は社会的な立場も微妙になりますよね。今まで訴えられなかった人は、きっと恥ずかしくて訴えることができなかったんでしょうけど、今のような世間の目は、訴える方が正義だという目で見ていますからね」
「そうなんですね。そうなってくると、何が正義なのかって分からなくなってきますよね。世間の風潮に乗っかって、加害者ではない人が加害者のレッテルを貼られ、被害者面している人が、まんまと相手を陥れることができるんですからね。世間というのは恐ろしいものだ」
「ええ、個人的な恨みをセクハラ問題に摩り替える人が増えてきて、今度はそれが世間で分かってくるようになると、セクハラで訴えた方が、加害者ではないかと思われるようになって、訴えることができなくなる。それも前の時代に戻ることになるわけですよね。だから、もし世の中が今の理屈を分かってきたとしても、簡単にそれを受け入れることができないと考える人もいるでしょうね。それが政治家だったり、権力者だったりすると、厄介なことになるかも知れませんね」
翔子は、自分の考えていることを言った。女性の立場からだと、セクハラなどは、訴える方の味方をするのだろうが、翔子の場合はそうでもないようだ。冷静な目線で見つめていることは田村にも分かった。
「そういう意味でも、さっきの『慣性の法則』に繋がる部分があるんですね。時間が経過していれば、同じ場所に着地しても、そこは前の場所ではないんですよね」
と田村がいうと、
「そうですね。時間が経過するということは、少なくともそこに歴史が積み重ねられているということですからね。しかも、未来なんて事情が変われば、いくつもの無限の可能性がある。それは天文学的数字になるんじゃないかって思います」
と翔子がいう。
「いわゆる『パラレルワールド』の発想ですね」
「ええ、そうです」
話は、飛躍しすぎるところまで来ているようだった。
「でも、どうして私が宗教に嵌ると思ったんですか?」
「新宮さんは、心のどこかでカリスマ性を持っているような気がするんです。宗教に入信するというよりも、自分で宗教を起こそうとするくらいの気持ちがあるのではないかと思ってですね」
「言われてみれば、私のまわりに寄ってくる人は、なぜかおかしな人が多いんですが、私にすがるような雰囲気を感じさせる人が多かったような気がします」
以前付き合っていた男性もそうだった。
電車の中で極度の屈辱を味わわされて、その時はどうしていいのか分からぬまま、翔子と別れることになったのだが、自分からぎこちなくなっておきながら、途中から翔子に対してストーカーのように影から見つめていることがあった。
翔子は気持ち悪いと思いながら、彼を一喝することで、彼は二度と自分の前に現れることはなかったが、しばらくしてから自殺したと聞かされた時、その時の彼の目が忘れられなかったのを思い出した。
――あれは私にすがるような視線だったんじゃないかしら?
と今なら感じることができる。
宗教というと、胡散臭いものだという意識しかなく、教祖などと呼ばれているのは、自分とは別次元の世界の人のことだと思っていた。それは尊敬からではなく、関わりたくないという他の人と同じような感覚だったのだ。
翔子は占いの館で占い師から言われた
「誰にでも当て嵌まること」
を思い出していた。
いっぱい当て嵌まることを言われた気がしたが、そのほとんどを覚えているわけではない。
――どうせ誰にでも同じことを言っているんだわ――
と感じたからだ。
ただ翔子は、その時の占い師を見ていて、目の前に鏡でもあるかのような錯覚に陥っていた。目の前にいるはずの占い師が見えなくなり、そこにいるのが自分であり、左右対称に見えていることに違和感がなかった。
――占い師も、私を見ながら、左右対称の自分を見ていたのかも知れない――
などと考えると、声だけは聞こえているのに、目の前にいるのが鏡に映った自分であると感じると、自分に対してかけている自己暗示のように思えてきた。
――占い師は、裏の自分を代弁しているだけだ――
と思うと、占い師が顔を見せずにベールに包まれているのも分かる気がした。
その人がありきたりな当たり前のことを言っているように感じたのは、自分にとって当たり前と思っていることであって、他の人に当て嵌まることではないのではないかと思うと、占いをバーナム効果のように感じることこそ、占いにおけるトラップのようなものではないかと思うのだった。
――だから、占いに嵌る人がいるんだ――
と感じた。
占いに嵌る人は、本当は相手がありきたりなことを言っているわけではないことを分かっている。占いを信じているというわけでもなく、占いが自分を本当に救ってくれるとも思っていない。ただ、裏の自分を見たいがために占いに来るのだと思うと、翔子は占い師の存在意義が分かった気がした。
――じゃあ、どうして他の人の前では占いを信じていないように言うのだろう?
それも簡単なことだった。
自分が裏の自分の存在を認識していて、その代弁者が占い師だということを悟っているのを、他人に知られたくないからだ。裏の自分が本当の自分であり、まわりに対して偽っていることがまわりに対しての気遣いであり、肝心な時にだけ、本当の自分を表に出せばいいと思っているのではないだろうか。そのことを自覚している人が占いに嵌っていて、占い師は、誰にでもなれるという意味で、
――自分を持たない人だ――
といえるのではないだろうか。
だから、占いを信じている人は、決して占いを信じているとは言わない。それを言ってしまうと、占い師は二度と裏の自分になってはくれないと思うのだろう。この発想は宗教に似ているのかも知れない。
――マインドコントロール――
という言葉を聞くが、宗教では教祖によってもたらされることだと思って、皆宗教を毛嫌いしているが、占いの場合は、マインドコントロールを掻けるのも、掛けられるのも、裏表の違いこそあれ、自分自身なのだ。
「新宮さんが考えていること、今の自分には分かる気がします」
「どうしてですか?」
「実は、僕は大学で占いについて勉強したことがあったんですよ。専攻は心理学だったんですが、その時の先生が、相手を見て、その気持ちを読み取るということを研究している人だったんです。でも、さすがにそんなことが百パーセントできるはずもなく、ある程度までは読み取ることができるようになったらしいんですが、それでも、半分も行っていないというんです。それだけ奥が深いんでしょうけど、人間には裏表が存在しているということを絶えず認識していれば、教授の至ったある程度のところまでは行くことができるといわれたんです」
「じゃあ、私の考えていることが分かるんですか?」
「何となくですけどね。新宮さんの裏の部分を見つめることはできたような気がします」
「でも、そのすべてを見ることができるようになるには、どうすればいいんでしょうね?」
「教授がいうには、そこにサッチャー効果が大きな影響を与えるというんですよ」
「それって、上下逆さから見て、まったく違ったものに見えるという錯覚のことですよね?」
「ええ、そうです。鏡を見て、左右対称だけど、上下が対照ではないということを誰も不思議には感じていないでしょう? 本当なら感じても不思議はないのに、それを感じる人がいないというのは、鏡を見た瞬間に、それを考えないようにさせる魔力が、鏡の奥の世界には存在しているように思うんです」
「じゃあ、それを感じることができれば、相手の気持ちも分かるようになると?」
「あくまでも理論的にというだけのことで、教授はそう言っていましたね。だからある程度までは分かっても、そこから先は決定的な結界のようなものがあり、飛び越えることもできないんですよ」
翔子は、別れた彼を思い出した。
彼は何かを悟ったような顔をしていた。ひょっとすると、サッチャー効果を悟ったのかも知れない。ただそれがどうして自殺に結びついたのか分からないが、そういえば、彼が翔子とぎこちなくなってから、占いに嵌ったというウワサを聞いたような気がする。
翔子が彼を避けた理由の一つに、占いに嵌った彼を見たくないという思いもあったからだ。
「占いや、宗教なんて、クソッ食らえだ」
とまで言っていたのは、付き合っている時、彼は自分に対して屈辱を味わわせたその男に上下対象を見たのかも知れない。
――本当に彼は自殺だったんだろうか?
翔子はそう感じると、目の前の田村が上下左右と対照になっているように見えた。その顔は翔子をぎこちなく眺めていて、屈辱に顔を紅潮させていた彼を思い出させた。
「オーロラってね」
といきなり、田村が口を開いた。
「えっ?」
「オーロラって、股の間から覗くと、左右対称にも見えるらしいんだ。あれこそ、サッチャー効果の代表的なものなんだよ」
と言って、ニヤッと微笑んだ。
その顔が、自殺した彼の顔にソックリで、今が夢の世界にいることに気がついた。
――左右対称が、私と麻衣で、上下対照が、近藤と彼だったのかも知れない――
そう思うと、彼の存在はおろか、麻衣の存在まで、裏の自分が作り出した虚栄だったのかも知れないとも感じられた。
――左右対称には見えても、上下対照を感じることができないのは、別の次元のなせる業なのかも知れない――
翔子の発想は、果てしないものだった。
気がつくと、自分の部屋にいて、夜更かしをしていたことを次第に思い出していた。
「夜更かしをしているうちに夢の世界に入り込んでしまったのかしら?」
誰もいない部屋でそう呟いた。
時計を見ると、深夜の三時、テレビからはシンフォニーが流れていた。その映像に写っているのはオーロラで、映像は上下逆さまに写っているかのように見えていたのだった……。
( 完 )
オーロラとサッチャー効果 森本 晃次 @kakku
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