第2話 無限ループの矛盾

 占いがそこで終わったというわけではなく、何かを言ったのは間違いないが、その日の夜に夢を見たことが原因なのか、目が覚めると占いで言われたことを忘れてしまっていた。

 翔子はその時、占い師から言われたことを思い出そうとしたのは間違いない。だから思い出せないということを意識したのだ。だが、思い出せないことをショックだとは思わなかった。

――まあいいわ。そのうちに思い出すでしょう――

 というくらいにしか感じなかったのだ。

 だが、翔子が肝心なことを思い出せない性格になったのはそれからのことだった。

「物忘れが激しくなっちゃって」

 と、友達と約束したことが次第に守れなくなり、最初はそう言って苦笑いをしていたのに対し、友達も、

「何よ。おばさんみたいじゃない」

 と言って、茶化していたのだが、物忘れが本当にひどくなり、笑い事では済まなくなると、まわりは誰も何も言わなくなった。

――どうせ翔子に言っても覚えていないんだわ――

 と思っているのだろう。苦笑いすらしなくなった。

 それでも、友達としての地位だけは確保できていたのは、ただの人数合わせだったのか、短大に入ってからは、合コンの人数合わせに利用されるくらいに、付き合いが減ってしまっていた。

 翔子は物忘れが激しくなってから、やたらと夢を見るようになった。その内容はほとんど覚えていないのだが、

――ひょっとすると、いつも同じ夢を見ているのかも知れない――

 と感じていた。

 普段であっても、毎日同じことを繰り返していると、

――あれっていつのことだったっけ?

 と、昨日のことなのか、一昨日のことなのか、はたまた一週間前のことなのかすら、はっきりとしない場合もあるくらいだ。

 ましてや、それが夢となると、余計に分からない。だからこそ、意識から飛んでしまっても無理もないのだろう。

――夢とは目が覚めるにしたがって忘れてしまうもの――

 というのは、本当は、

――覚えていることができない――

 とも言い換えることができるのではないだろうか。

 翔子はそんなことを考えていると、高校時代の占い師を思い出していた。

――あの人は当たり前のことしか私に聞かなかった気がするわ――

 と思った。

――当たり前のこと?

 それはつまり、誰にでも当て嵌まることであり、それを言われると、まるで他の人にはない自分だけのことを言われているような錯覚に陥ってしまった自分を思い出した。

――そうだわ。バーナム効果って言ったっけ?

 短大の授業で、心理学を受講していたが、この間の講義でそんな言葉が出てきたのを思い出した。

 普段は心理学の授業など、あまりまともに聞いていないのに、この時のバーナム効果という言葉が何となく気になったのだけは覚えている。

――どうしてなのかしら?

 なぜその言葉に反応してしまったのか分からなかったが、夢を一度経由すると思い出した。

 普段は意識していることではないが、急に何かの拍子に思い出すことのある占い師のこと。この時は夢を経由して、心理学の講義内容とシンクロしたことで思い出したに違いない。

 翔子は、人と同じでは嫌だと思っていることで、本当ならバーナム効果は否定的な考えのはずなのに、たまに、自分に言われたことが、誰にでも当て嵌まることだという意識があるにもかかわらず、どこか自分にも当て嵌まっていることに矛盾を感じていた。

――私は結局、誰にでも当て嵌まるような平凡な女なのかしら?

 と考えたが、すぐに否定した。

 前に彼氏だった近藤を思い出し、

――あのオトコは彼氏というよりも、自分の奴隷のような存在だったんだわ――

 と、まるで声に出せばセクハラ発言になりかねない言葉を頭に描いていた。

 近藤とはすぐに別れることになった。

 彼がもう少しで翔子のものになろうかという寸前だった。

 翔子は最後まで彼との肉体関係を拒否していた。彼の方では、オトコとしての性癖が露骨に表れていて、その表情はご馳走を目の前にして口から涎を垂らしているオオカミだった。

 翔子は、そのオオカミを手なずけていて、オオカミも従順であった。しかし、ぎりぎりまで性欲を溜めている相手は、爆発寸前でもあった。翔子は自分が危険に晒されていることを意識しながら、ハラハラした気持ちを味わってもいたのだ。

 もし、彼のオオカミが爆発し、翔子が蹂躙されることになっても、それは翔子の女としての魔力が彼を惑わせたのであって、果ててしまった後に残る彼の後悔の念は、その後の彼の運命を決定付けるであろう。つまりは、翔子の肉体が、まさしくアメとムチとして、彼を自分の奴隷として永遠に支配できることを確約できると思っていた。

 しかし、彼は一向に爆発しようとしない。

 翔子は知らなかったが、近藤には翔子の他に女がいた。その女は近藤が翔子にいいようにあしらわれているのも分かっていて、それで彼を手なずけていたのだ。

 近藤も、迷ったことだろう。

 自分は、女に服従するのが運命のように思っていたので、最初は翔子に対して従順だったが、あとから現れた女は、近藤に簡単に身体を許したのだ。

 翔子からはお預けを食らいながら、もう一人の女を貪る。ひょっとすると、近藤はその女の身体を貪りながら、翔子を想像していたのかも知れない。

 その女はそのことまで分かっていた。自分の身体を貪りながら、頭の中では他の女を抱いているという意識を彼が抱いていることをである。

 しかし、彼はそれが本懐ではない。あくまでも抱きたいのは翔子だったのだ。彼女は翔子の代替でしかない。そんなことを分かっているから、翔子にじらされることが余計に彼を追い詰める。

 近藤は、そんな自分の立場をどう考えていたのだろう?

 彼は元々のマゾヒストであった。じらされることで自分の性欲を満たそうとしていた。その思いを彼女は分かっていて、身体を許しながら、彼を蹂躙できることに満足していた。それが彼の本懐ではないと分かっていながらである。そういう意味では彼女もマゾの気があったに違いない。

 お互いにマゾの関係でもうまくいっていたのは、近藤には翔子というサディスティックな女がいたからである。

――翔子さんには感謝しなければいけないわ――

 と思いながら、どうして自分が近藤に惹かれたのか、彼女は分からなかった。

 彼女の名前は麻衣という。苗字が何なのか、近藤は知らなかった。麻衣が教えようとはしなかったからだ。

「あなたには、名前だけ教えれば十分よね」

 とまるで、自分がサディスティックな雰囲気で最初は話した。

 本性はマゾなのに、まるでサドのように接したのは、麻衣が翔子を意識していたからだ。

――あの女が相手では、これくらいの雰囲気ではまだまだダメだわ――

 と思ったことで、サドを装うのは得策ではないと麻衣は感じたのだった。

 麻衣は、翔子のことを影からいつも見ていた。翔子の方も時々、

――誰かに見られている気がするわ――

 と感じていたが、すぐに、

――勘違いだわ――

 と否定していた。

 自分が誰かに見られているということなどないと、完全に思っていたからだ。それは自分が人と同じでは嫌だという感覚があるからで、

――そんなことを感じている人に対して、誰が気にかけたりするものか――

 と思っていたからである。

 だが、翔子は麻衣の視線を意識していないわけではなかった。ただ、それは夢の中で感じた視線だと思っていたからで、夢の中の出来事はすぐに忘れていくのに、誰かの視線を感じたということだけは意識として残っていたのだ。

 普段から忘れっぽくなってきたのは、近藤と別れてからのことだった。

 近藤との別れは突然やってきた。別に翔子も近藤も、その時に別れが訪れるなど、想像もしていなかったはずだ。

 別れが待っているなど最初から感じていないその日の出会いだった。

 その日、近藤はなぜか苛立っていた。翔子に対しての苛立ちではないことは翔子にも分かっていたのだが、彼の苛立ちの正体が何なのか、まったく分からなかった。

――私の身体への苛立ちではない――

 というのは分かっていた。

 では、何かというと、どうやら、自分が翔子のことを慕っていることが疑問だったようだ。

 麻衣が近藤を惑わせたわけでもない。いつも麻衣は近藤をいなすように付き合っていて、彼を怒らせるようなことはなかった。ただ、自分の正体をなるべく悟らせないようにして、言い方は悪いが、

――身体だけの関係――

 に近かったかも知れない。

 麻衣は彼に身体を提供し、その見返りを求めようとはしなかった。近藤はそれを不思議には思わなかったが、翔子に対しての苛立ちを和らげてくれるのは嬉しかった。

 二人はいつも、貪るように愛し合った。

「麻衣」

 と、近藤が搾り出すような声を発すると、その声に発情した麻衣は、

「守……」

 と、吐息と同時に消え入りそうな声で悶える。

 そんな二人の情事は、とても口で表現できるものではなかった。まるで獣が愛し合うかのように激しいが、そこに感情が入っているのか分からないほど、淡々とした時間が過ぎていく。もしその場を見ていた人がいれば、湿気の激しさに息苦しさを感じるだろうが、空気は冷たく、極寒の中での二人は、ベールに包まれているように見えるに違いない。

 翔子はもちろん、他の誰もが、こんな情事信じられないと思うことだろう。実際に情事を繰り返している二人も、まわりにそんな雰囲気を与えるなどと想像もしていないに違いない。

 麻衣はともかく、近藤の方は、お互いに感情は入っていなくとも、熱く火照った身体は触っただけで焼けどしそうな感じだと思っているに違いなかった。

 では麻衣の方はどうなのだろう?

 麻衣は、近藤に対して、愛情というものを感じていなかった。

 元々麻衣は、オトコに愛情を感じるタイプではない。

――オトコなんて、欲情を満たせればそれでいいのよ――

 と感じていた。

 本来の麻衣はレズビアンだった。

――相手が女であれば、身体の関係がなくとも愛し合うことができる――

 と思っていた。

 それを親友だと思っていたようだが、親友という言葉を他の人と、かなり違った意味で解釈していたようだ。

 身体の関係がなくともというのは、あくまでも建前で、まずは愛し合うことから始まり、そして身体の関係になるのが親友だと思っていた。

 他の人に言えば、

「それが恋愛というものよ」

 と言われるだろう。

 相手が男女関係なくの恋愛である。

 だが、麻衣は今まで女性と身体の関係になったことはなかった。

「あなたとは親友の関係よ」

 と言って、相手と仲良くはなるが、麻衣が自分の身体を狙っていると露骨に感じた相手は、一気に麻衣への気持ちが冷めてしまい、さらに恐怖心が宿ることで、麻衣から去ってしまっていた。

 中には、トラウマとなって残ってしまった人もいた。その人は男性に走ることもできず、人を愛するということが分からずに、恋愛の中で彷徨ってしまうことになり、どこに着地していいのか分からない。女性ホルモンの平衡を保てなくなり、精神的にも肉体的にも参ってしまって、精神内科にずっと通っていることになった。結局入院も余儀なくされ、しばらく田舎での療養生活が続くことになった。

 彼女は、麻衣の前に二度と現れてはいけない女性で、彼女の中から麻衣の記憶を取り除かなければいけないのだが、それには、

「相手の女性があなたのことを忘れなければ、それは難しいかも知れませんね」

 そんな思いが麻衣の知らないところで進行していた。

 近藤が麻衣の前に現れたのは偶然ではない。彼女のために送り込まれたのが近藤であり、彼女にとっても、近藤にとっても、麻衣という女の存在は、良くも悪くも重要な存在であることに違いはなかった。

 もちろん、それは翔子のまったく知らないところで繰り広げられている問題で、ここまで大きな範囲で物事が展開しているなど、誰が知っているというのだろうか?

 翔子は、近藤に他に女がいることは、近藤が麻衣と知り合った頃から分かっていたような気がする。しかしそのことを近藤にいうわけでもなく、近藤に自分が知っていることを悟られないようにしていた。

 短大時代のことを最近は思い出すこともなかなかなく、思い出すのは近藤や中学時代の親友のことだった。就職してからの一人暮らしは、最初こそ寂しさがあったが、それは就職してからのそれまでとの立場の違いによる精神的な疲労によって促されるものだった。

 今では一人暮らしにも慣れて、一人の方が気楽でいいと思っているほどで、誰からも干渉されないことをよしとしていた。

 そんな翔子だったが、最近よく夢を見る。そして、その夢は覚えていないことがほとんどなのだが、覚えている夢というと、いつも近藤や中学時代の友達の夢だった。

――そういえば、私、どうして天然ちゃんなんて言われていたんだろう?

 人と同じというのは嫌だという自分のポリシーが、まわりからは天然に見えたのだろうか?

 もしそうだとすると、翔子にはありがたくないことだ。天然ということで、まわりが自分を気にするのは、バカにしている要素が強いからで、そんな状態に自分の自尊心がよくもったものだと思えたほどだ。

 しかし、天然と言われることで、まわりと結界が生まれ、そのことが翔子を、

――人と同じでなくとも、まわりに対して自分が孤独な性格だということを悟られないようにするには好都合だ――

 と感じた。

 まわりから孤立することは悪いことではないが、孤独だと思われることは自分の負けを認めることになるようで嫌だった。

 そんな翔子は、夢の中ではあくまでも上から目線になっている。

 この間見た夢では、大きな箱庭が机の上に置いてあり、そこには本当に人が生活しているエリアがあった。小人がまるで虫のように群がっているのが見えたが、それは普通の人間だった。

 いかにも夢だと感じさせる光景で、

――夢なんだから、何でもできる――

 とさえ思えた。

 実際の夢はそんなにうまくいくわけもなく、そのことは自分が一番よく分かっていると思っていた。

 夢だからといって、何でもできるわけではない。

 たとえば、

「夢の中なんだから、空だって飛べるだろう」

 と考えていたとする

 しかし、実際には空を飛ぶことなどできるはずもなく、地面から腰あたりまで浮くのが精一杯で、自由に動くこともできず、まるで空という海の中を抵抗を感じながら動くだけしかできない。

――夢とは潜在意識が見せるもの――

 という大前提が頭の中にあるからだ。

 翔子は、実際に空を飛ぼうとした夢を見たのを覚えている。その時に腰の辺りで浮きながらもがいていたのを覚えている。

 夢を覚えているということは、少なくともいい夢ではなかったことは確かだ。今までの覚えている夢というのは、かなりの確率で、怖い夢だったのは間違いないからだ。

 その時に見た箱庭も、夢であるということを感じたと同時に、

――怖い夢なんだ――

 とほぼ同時に感じたことだろう。

 怖いという前提の下に箱庭を見ると、その景色は不気味以外の何ものでもない。ただ、不気味さは夢の中では当たり前のことであり、自分の発想が潜在意識の中でしかありえないことが分かっているので、その怖さはホラーのようなものとは違っている。

 精神的な面でも怖さであり、

――どうしてこんな夢を見るんだろう?

 という潜在意識を疑ってみることが第一だった。

 ただ、夢の中でそこまでハッキリと意識できているものであろうか?

 夢を覚えているというのは、夢の中で意識できなかったことを、目が覚めるにしたがって、忘れる前に付加価値をつけることで、夢を忘れらさせないようにしていると考えると、何となくではあるが、辻褄は遭ってくる。

 つまり、夢の中で見た夢は、目が覚めるにしたがって、すべてを忘れようとしているのだ。

 しかし、その中でも怖い夢に限っては、怖いまま潜在意識の中に収めるのが怖かった。何かの理由をつけて、怖さを緩和し、再度潜在意識の中に格納しないと、また同じ怖い夢を見てしまうという意識が働くからだ。

 そのため、何とか理由をつけるため、現実世界に意識が戻る前に、夢を顧みることで、いかなる理由をつけて、夢を正当化しようと思うのかを考えた。

 ここでいう正当化というのは、

――自分を納得させる――

 ということであり、自分が納得できれば、その場は収まる。

 再度潜在意識に格納された時、最初に思っていた疑問は完全にとはいかないが、少なくとも自分で納得がいけるほどまでには回復しているに違いない。そう思うことで、怖い夢を怖くない夢として再度見せることに成功するに違いない。

 考えてみれば、夢の続きなど見たことがない。怖くない夢というのは、意識としては、

――ちょうどいいところで終わってしまった――

 と、まるで次週に続く連続ドラマのその日のラストシーンのようではないか。

 翌週への期待を膨らませたまま終わることで、翌週に期待させる。夢も同じようなものなのかも知れない。

 だが、いい夢に限って、その続きを見ることができない。本当であろうか?

 翔子はいい夢を期待を煽るところfr終わっているという意識を持ったことで、

――二度と夢の続きなんか見ることができない――

 と感じた。

  なぜなら、いいところで終わったという意識はあるが、肝心の夢がどんなものだったのか、夢から覚めると忘れているではないか。そんな状態で続きを見たとしても、これがいつの続きだったのかなど、本当に結びつくのかが疑問である。

 だが、目が覚めるにしたがって忘れていくのではなく、自分を納得させようとして記憶を改ざんしているのであれば、話は別である。

 ちょうどいいところで終わってしまえば、何とも消化不良の状態になってしまうことで、目が覚めるまでの間に自分を納得させようと、その続きを自分なりに想像で描いてしまうと考えると、夢を忘れてしまうという意識も分からなくもない。それは、

――夢を改ざんしてしまったことで、夢の続きを見ることができない――

 という意識が働いたことによるのだろう。

 そう考えると、夢というのは、何と不思議なものなのだろう?

 翔子は最近夢に対して、

――夢って、生き物なんじゃないかしら?

 と考えている。

 ただ、それはすべてを自分が凌駕できるだけのものであり、完全に限界のあるものだと思うと、果てしないものではないと考えれば、想像以上に身近なものだという解釈もできる。

 夢を忘れてしまうのは、そんな身近な感覚だと思うことを、自分が否定しようと考えているからなのかも知れない。

 現実世界とは隔絶した世界であることは誰もが認めるものだが、そこに限界があり、どこまで行っても自分の範疇であると思ってしまうと、夢を舐めてしまう感覚になるのを自らが抑えているのではないだろうか。

 自分を納得させる夢の考え方をしようとすると、どうしても、こういう考え方になってしまう。あくまでも自分中心に考えた自分だけの考えである。だから、人には話せない。皆が夢と呼んでいることは、翔子が感じている夢と同じものなのだろうか? 夢の中で自分の知っている人が出てきたとしても、その人と普通に会話しているという意識はない。もっともそれは、夢から覚めて感じることで、ほとんど忘れてしまった後のことであるから、意識が朦朧とした状態と同じ中での感覚に、信憑性などないのかも知れない。

 翔子は、箱庭の中にいる人の中に自分がいるのを分かっていた。ただ、あまりにも小さいので自分を発見することはできない。だが、意識の奥では、自分が空から誰かに見られているという意識も持っていた。だから、箱庭の中に自分がいるのを意識できたのだ。

――夢なんだから何でもできる――

 この思いは、起きている時に感じるものではなく、夢の中だけで感じるものだ。

 夢の世界にいる自分をそれが夢だと分かっていないと、夢の中では何も意識できないと翔子は感じていた。

 箱庭の中にいる自分が夢を見ている自分で、表から見ているのは、現実世界の自分だと感じていた。

 それが自分を納得させることだったのだが、その際に感じた矛盾は、夢から覚めて、かなり後になって思い出される。

――そういえば、箱庭を見た夢を見たことがあったっけ――

 と、何の前兆もなく、急に夢のことを思い出すことがあるが、それが夢の中で発生した矛盾を思い出す時であった。

 前兆もなく、唐突だからこそ、信憑性がある。翔子はそう思うと、

――思い出したこと自体、夢を見ている証拠ではないか?

 と感じた。

 そして、案の定、気がつけば目が覚めた場面である。

 それは、

――夢が堂々巡りを繰り返している証拠なんじゃないかな?

 夢には時系列など関係ない。

――これって、過去の夢だよね?

 と自分で思っても、果たしてそうなのか、自分でも自信がない時がある。

 今でも中学時代の夢を時々見るが、その夢で皆は中学生なのに、自分だけが就職していたり、逆に皆が社会人なのに、自分だけが中学生だという夢である。

 どちらも見たという意識はあるが、どちらも自分を納得させようとしていることで、思い出すことができるのだと思うと、おかしな意識ではあるが、思い出してしまった時、感慨深いものがあった。

 自分が中学生で、まわりが社会人になっているという意識は、今の夢を見ていて、夢の中で昔を顧みていると感じるが、逆に自分が社会人で、まわりが中学生の場合は、中学時代の夢を見ていて、将来を想像しているように感じるのだ。

 翔子派夢に対して不思議な感覚を持ち続けていることで、時系列に対しても感覚がマヒしているように思えた。

 この日の夢は、時系列が関係しているわけではないと思えたが、

――どこかで見た光景だ――

 と感じた。

 どこかで見ることなどできるはずもない光景なのに、そんな風に感じたのは、

――夢に対して感覚がマヒしているからではないか?

 と感じたことと同時に、実は、

――夢と時系列は切っても切り離せない関係にあるのではないか?

 と感じたことの両方だった。

 翔子が見たその夢は、何とも綺麗な光景で、本当であれば、

――こんな綺麗な光景、初めて見たわ――

 と感じさせることだった。

 見上げた空は真っ黒に最初は感じたが、次第に一箇所から紫に見える箇所が見つかると、次第にスターダストのような白い星の屑が降ってくるのを感じた。

「綺麗だわ」

 と、声に出した気がした。

 夢の中で声を出しても聞こえるはずないので、意識が教えてくれたのだろう。その光景に感謝するべきなのかも知れない。

 スターダストの向こうにさらに紫色が広がってくる。その広がりは、まるで天女の羽衣を思わせるもので、空がまるで生きているかのように棚引いている姿は、七夕の天の川を思わせるものだった。

――まさにミルキーウェイだわ――

 天の川は英語でミルキーウェイという。

 だが、実際に見えている紫は天の川よりもさらに棚引いていて、本当に生きているかのようだ。

「オーロラだわ」

 と最初に感じたのは、夢を見始めてから、かなり経ってからのことだっただろう。

 しかし、さらに時間が経てば、

――オーロラを感じたのは、最初からだったような気がするわ――

 と思うようになった。

 その時になって、

――初めて見たはずなのに、以前にもどこかで見たことがあったような――

 まるでデジャブである。

 しかし、オーロラなんて、北海道でもまず見ることができないものだ。翔子は北海道はおろか、青森にも行ったことがない。それなのに、オーロラを見るなどありえない。もし意識に残っているとすれば、それはどこかでオーロラの写真が絵を見た時の記憶が残っていたからであろうが、思い出すことができない。その思いが、夢の中だという意識とあいまって、

――時系列がマヒしているんだわ――

 と感じさせるに至るのだ。

――夢が堂々巡りを繰り返していると感じたことが、オーロラを意識させたのかも知れない――

 と翔子は感じた。

 堂々巡りと、オーロラとは一見結びつかないように感じるが、そのどちらかを歩み寄らせるのではなく、どちらも歩み寄らせることによって、妥協点を見つけるという発想を翔子は思い浮かべていた。

 オーロラは実際に見たことがないので、あくまでも想像でしかないが、翔子の中のオーロラは、天女の羽衣のように薄い膜が、天から垂れ下がっている雰囲気であった。それは七色の羽衣で、あたかも虹を思わせるイメージだ。

――いや、オーロラのように横文字を使うのであれば、レインボーというべきなのかも知れないわ――

 と思うことで、羽衣には膜の中が幾層にも重なって見えるものがあるのを感じていた。

 そこから思い浮かべる発想として、幾重にも重なったものという感覚を重視すると、

――まるで、木を裁断した時に見る年輪のようだわ――

 長い年月をかけて、時系列に、しかも決まった一定期間に刻まれる年輪。オーロラがどれだけの数があるのかは分からないが、いくつも発生しているのを感じた。

 さらにオーロラも、見る角度によって、その見え方が違っている気がした。年輪と言うのも、光が当たっている場所だけ発育がいいので、幅が広がっている。こちらも見る方向によって変わってくることで、オーロラの発想が年輪の発想と結びついてくるのは頷けるというものだ。

 では、堂々巡りの方はどうであろうか。

 翔子が堂々巡りを思い浮かべると、そこの感じられるのは袋小路のようなものだった。袋小路は、迷路に繋がる発想があり、どちらに行けばいいのかで、すべてが決まる。一度迷い込んでしまって、頭がパニックになってしまうと、自分が来た道すら分からなくなってしまうだろう。

 自分がいったいどこにいるのかも分からないそんな場所で、前も後ろも分からない。そんな状況になった時、太陽や星と言った、空を思い浮かべることだろう。

――あんなに空は広いのに、自分はこんなに狭いところを行ったり来たり、いったいどうすればいいのか――

 と途方に暮れるに違いない。

――このまま死にたくはない――

 迷い込んだ迷路は、死への列車が動き出した感じだ。

 乗りたくもない列車に乗せられて、どうして死ななければいけないのか、そう思うに違いない。

 だが、本当に迷路には、

――迷い込んだ――

 のであろうか?

 自分が無意識の中で死というものを受け入れる感覚になってしまったことで、何かの力が働いて、死への列車を動かしたのではないだろうか?

――自殺?

 そう思った時、最初に思い浮かんだのは、富士の樹海だった。

 自殺の名所として知られるその場所は、慣れた人でも入ることができないというほどのところで、迷い込んだら出てこれないという。

 しかし、冷静に考えれば、

――空から見れば大丈夫なんじゃないかしら?

 と思ったが、そうも簡単にはいかないようだ。

 どうやら、樹海というところは、コンパスも地図も役に立たない。地図など最初からあるはずもなく、頼れるものは、方向を表す方位磁石くらいのものだ。

 だが、それが役に立たないのだとすれば、あとは自然の力だけである。天体に広がった星の位置で方位を知るしかないのだろうが、ただ、考えてみれば、樹海に入り込んで迷った時点で、自分がどこにいるのか分からない。どう動けばいいのかが分からないはずだ。

 それよりも、もっと基本的なことは、夜しか星は出ていないので、夜にしか動くことはできない。夜が明けてから日が差してくると、それこそ、移動した分、さらにどこにいるのか分からないだろう。

 翔子はそんなことを一人考えていると、思わず吹き出してしまった。

――これこそ堂々巡りの発想だわ――

 と感じたからだ。

 ただ、樹海とは森になっているので、年輪を見れば、方位も分かるかも知れない。かなり薄い発想だが、できないことでもない。いきなり年輪の発想になった時、翔子はオーロラを思い浮かべた。ただ一瞬のことだったが、思い浮かべたオーロラのイメージが、夢に見たオーロラの原点になっているのは間違いのないことだった。

 夢から覚めて、夢を忘れていきそうになるのを、忘れないようにしようという無駄に近い努力を重ねている時、思い出したのが、堂々巡りから発想し、樹海を経て、一瞬だけだったが、思い浮かべたオーロラの発想だった。

 オーロラを思い浮かべていると、どうして堂々巡りに発想が結びつくのか分からなかったのは、

――夢から覚めるまではオーロラの意識が強かったのだが、夢から覚めるにしたがって薄れていくオーロラの記憶と、思い浮かんでくる堂々巡りの感覚が途中で重なったところに発想の原点があったような気がする――

 と感じていた。

「翔子は、人を見下すところがある」

 と、中学時代の親友から言われたのを、なぜかその時思い出した。

 親友だったので、その時はかなりのショックだったが、親友だからこその苦言だと思うと、ショックも次第に和らいでいき、そのうちに忘れてしまっていた。

――いや、忘れたわけではなく、記憶の奥に封印されてしまったんだわ――

 と感じた。

 記憶というのは、意識とは別物だということに、この時初めて気が付いた。

 意識し続けていたくない都合の悪いことではあるが、自分の中で、

――忘れてはいけないことだ――

 と思うことを記憶として封印してしまうのもありではないかと思っていた。

 記憶の中には、ただ単純に、

――忘れたくない――

 と感じることだったり、今度のように、

――忘れてはいけないこと――

 だったりと、いろいろな思惑が存在していることになる。

 ということは、記憶というのは、一口で片づけられるものではなく、いくつもの思惑が重なったものを総称して、記憶というのだと思うと、これほど曖昧なものもないと言えるのではないだろうか。

「そういえば、以前にもどこかで見たことがある気がする」

 と、いう話をよく聞く。

 翔子も自分で感じたことも何度かあったが、

――気のせいだわ――

 と、すぐに片づけていたような気がする。

 ただ、それを、

――デジャブ効果――

 というのだということは知っていた。

 デジャブというのは、科学的に証明されていないものであり、心理学的にも研究が進められているということも分かっている。だが、たまに翔子も自分の中でデジャブを、

――自分なりの解釈をしてもいいのではないか――

 と考えることもあり、実際にいろいろ考えたりもしていた。

 それでもなかなか自分を納得させる答えに結びつかないのも事実で、考えが中途半端に終わるのがいつものことだった。

――今回の夢が何かの結論を与えてくれるかも知れない――

 とも感じていた。

 ちょうど、夢から覚めるにしたがって、忘れていく意識を記憶に封印しようとしている時、記憶が意識を忘れないようにするためだけではなく、他にも存在している雑踏の中に放り込まれているのを感じると、

――記憶があいまいなのも、当然の気がする――

 と思うようになった。

 一つの記憶が似たような記憶と重なり合い、一つの仮説のような誤った記憶を思い起こさせるのだとすれば、それがデジャブではないかと思うのだった。

 人を見下すというのは、正直あまりまわりからよく思われていないことの証拠であり、翔子にとって、由々しきことだと自分で感じる中で、

――人と同じでは嫌だって思っているんだから、人からなんて思われようと、かまわないじゃない――

 と思ってしかるべきだった。

 それなのに、どうしても、後ろめたさが拭えない。それはきっと、意識を記憶として封印しようとした時の感覚がそのまま残ってしまったからに違いない。封印してしまったことは、その瞬間に消えてしまうと錯覚させるもので、そのことを思い起こそうとすると、その時の自分に戻ってしまうのは当たり前のことではないだろうか。

 翔子は、オーロラの夢を見たことで、自分がオーロラになったかのような発想で、上から見ることができないこと、そして、樹海に迷い込んだ時、

――空から見れば、自分の居場所なんて、すぐに分かるんじゃない――

 という発想をしておきながら、上から決して見ることをしない自分が、

――上から目線の自分を否定しよう――

 としている発想になっていることを感じていた。

――そういえば、空を見上げることもしなくなったな。それはいつからのことだったんだろう?

 と感じていた。

 子供の頃は星が好きで、よく空を見上げていたような気がする。星を見るのだがら、もちろん夜のことで、昼間に見上げることはあっても、すぐに目線を元の位置に戻していたものだ。

「空って広いでしょう? 空を見ていると、嫌なことなんか、すぐに忘れてしまうわよ」

 と、苛めに遭って、沈んだ気持ちになっている時、大好きだった祖母によくそう言われて、一緒に星空を見上げたものだった。

 まだ小さかった頃なので、疑う心など持ち合わせておらず、祖母の言っていることを全面的に信じていた。この思いは真剣に中学生の頃まで感じていたことであったが、親友ができたことで、

――こんなロマンチックな考えはしないようにしよう――

 と思い、意識から消した。

 要するに、記憶の奥に封印されたに違いなかった。

 ただ、それ以降も、無意識に夜空を見上げることはやめなかった。見上げたからと言って、何があるというわけではないのだが、見上げている間、まるで時間が止まったかのような感覚に陥り、嫌なことが忘れられるような気がしていた。

 夜空を見上げている時、いつも何か嫌なことがあった時だけということはない。ただ、意識しないまでも、なんとなく嫌な感覚になったことがあったのかも知れないが、そのことを翔子の意識として残っているわけではないので、本人は、

――嫌なことがあった時だけ、夜空を見上げているんだわ――

 と感じているようだった。

 空を見上げた時、

――この空を今、どれだけの人が見上げているんだろう?

 と思う時があった。

――人は人。自分は自分――

 といつも思っているはずの翔子が、なぜかまわりを意識してしまう時だった。

 その時の翔子は、他の人を意識したわけではなく、想像はできないが、空の上に自分の目線があって、その自分をどれだけの人が見つめているのかという意識だったのだ。

――ひょっとすれば、その中に樹海に迷い込んだ人もいるかも知れない――

 そんな発想もあったのかも知れないと感じたのは、樹海を思い浮かべるという記憶の奥に封印された意識がよみがえってきた時だった。

 この発想を思い起こさせたのは、他でもない。この日の夢の中で見た「オーロラ」だったのだ。

 オーロラは、空に黙って静かに封印しているわけではない。微妙に動いている気がする。そして、スターダストを絶えず醸し出して、見ている下々の人たちを魅了、いや、魅惑しているに違いない。

 虹に見えたというのは一瞬の発想で、やはり、

――オーロラはオーロラ――

 であった。

 オーロラからは、普段であれば聞こえないような何かの音を感じることができる気がした。

 その音は、キーンという音に近いのだが、実際にはそうではない。一瞬聞こえたかのように思えた音だが、空の遠くからしてくる音なので、かなり前に聞こえた音が今聞こえてきた気がした。

――オーロラって、本当に大気圏の中のものなのかしら?

 と感じた。

 調べたことはなかったが、もし、大気圏外であれば、かなり遠い空のかなたではないかと思えた。

 今見えているオーロラも、数十年前のものだったりするのではないかと思うと、音が聞こえてきたのは、本当ではなく、錯覚でしかないと言えなくもない。

 オーロラ一つだけで、これほどの発想ができてしまう翔子は、夢の中であれば、

――一瞬で感じたことなのではないか?

 と思うのだった。

 その日見た夢はオーロラだけを見た記憶を覚えているだけではなかった。最初に空を見上げたわけではなく、普通にその場所にいて違和感があったわけではなかったが、その場所は明らかに初めての場所で、旅行に来たわけでもなかった。

 それなのに、どうしてその場所にいるかなどということは説明のつくことでもない。夢というのは、説明のつくことばかりではなく、自分が納得できればそれでいいと思っている。

 ということは、その時、翔子はその場所に自分がいることに納得していたということになるのであろう。

 翔子にとって、オーロラを見たことも納得できていたはずだ。ただ、その場所というのは明らかに日本だった。絵画で見たことのあるその場所は、絵画の中ではアルプスの山々に挟まれた、もちろん、オーロラなど発生するはずのないという意味では日本と同じはずなのだが、最初からその場所を日本としか感じなかったのは、自分が海外に行ったことがなかったからであろう。

 翔子は海外に行きたいと思ったことはなかった。学生時代に皆が、

「西海岸はよかった。ヨーロッパにも行ってみたいわ」

 などと話をしているのを聞いても、完全に他人事だった。

――私は日本も知らないのに、海外にばかり目を向けるなんてナンセンスだって思うわ――

 と、口には出さないまでも、そう考えていた。

 実際に海外と聞いて思い浮かぶことは、食事や水が合わないということだったり、文化の違いや治安の悪さを考えると、日本が一番いいと思うのだ。

 翔子は実際に外国人を信じているわけではない。日本に来ている外国人のマナーの悪さなど目に余るものがあり、

――日本の風俗文化を守れないなら、自分の国に帰れ――

 と思っていた。

 特に都会の駅や街を歩いていると、聞こえてくるのは、聞いたこともない言葉で、

――みゃーみゃーと、何を言っているのか分からない――

 と不協和音にしか聞こえないその声に怒りすら覚えていたのだ。

 他の国に来て、我が物顔で渡り歩くなんて、非常識もいいところである。

 そういう意味でも、海外に自分から行こうとは思わないし、行って同じことを想われるのなら、自分が納得いくわけなどなかった。

 したがって、翔子がどんなに綺麗なところだと思っても、想像するのは日本としての景色であり、そうでなければ自分を納得させることができない。それが翔子という女性の本質でもあり、少なくとも夢に対しての定義であった。

 夢の中に出てきた光景は、小高い丘の上に小屋があり、その横には一本の大きな木がそびえていた。その向こうには標高にして数千メートルはあるのではないかと思うほどの高い山があった。ただ、実際に見えている山はそこまで高いとは他の人は感じないだろう。その理由は、その場所が遠近感をマヒさせる作用があるようで、それはきっと翔子が見た記憶にあるのが絵だったことにあるのではないだろうか。

 絵というのは二次元のもので、元々遠近感はマヒしてしまうものであり、マヒがそのままマジックとなり、絵の魅力に繋がっているのではないかと思うのだった。

 翔子は、山の頂に雪を見ることができた。

――北海道なんだわ――

 一度しか行ったことがない北海道であったが、その時に見た北海道の光景とは程遠いものだった。確かに日本にはない光景を無理やり日本と結びつけて見るのだから仕方のないことで、すぐに北海道という発想がなかったのも無理もないことである。

 翔子にとって北海道をイメージしたことで見えている光景が実際よりも狭く感じられた。その時に、

―ーこれは夢なんだ――

 と初めて感じたとすれば、それが最初だったとあとから感じた。

 ただ、実際には山への遠近感がマヒしていることが結果的にオーロラに気付くことになったのだとその時は感じなかった。

 絵の中に入り込む感覚は、実はこの時が初めてではない。以前に箱庭を感じたことがあったと書いたが、実際にそれも夢だったのではないかと今では思っている。

――箱庭は立体で、絵画は平面という違いがあるんだけなんだわ――

 と思う。

 平面と立体とでは比較できないほどの違いがあるのだろうが、それが夢であれば、混同してしまうことも仕方のないことだと思っている。

 平面と立体の大きな違いは、影にあるのではないかと翔子は思っていた。

 自分で絵を描くほどの造詣は深くないのだが、絵を見るのは嫌いではなかった。

――私には絵を描けるほどの才能があるわけではない――

 ということで、絵を描くという高尚な趣味に手を出すことはしなかったが、絵を見ながら、

――私なら、こうやって描くわ――

 と感じることが多かった。

 その時に感じるのは、まず絵を描く初心者が感じることと同じらしく、

「私が絵を描くのが難しいと思うのは、バランスと遠近感だと思っているのよ」

 と絵を描くのが趣味だという人と話した時に言ったことがあった。

「ええ、そうね。私も最初はそうだったわ。バランスというのは、たとえば風景画を描く時などに感じることで、空と陸地とのバランスなどを考える時ね。海を描くなら、水平線の位置などが問題になるわね」

 と言った。

「ええ、私は少し考えが飛躍しているかも知れないと思われるかも知れないけど、感覚としては天橋立の感覚なんですよ」

 というと、友達は笑顔で、

「天橋立?」

 と聞き返してきた。

 どうやら本人は分かっているような言い方だったが、これも彼女の特徴で、翔子も分かっているので、敢えて分かっていないように相手の素振りに合わせることにしている。

「ええ、天橋立というところは股の裏から覗くところでしょう?」

 日本三景の一つの天橋立は、股覗きというスポットがある、翔子も天橋立には行ったことがあり、皆がするように、股の間から眺めてみたものだった。

「ええ、そうね」

 彼女もどこまで分かっているのか分からないけど、翔子に合わせてきた。

「頭を逆さまにして下から見ると、空と陸地の境界が、普通に見るのとかなり違っていることに気付くのよね」

 そこまで言うと、彼女も黙っていなかった。

「そうなのよね。反対から見ると、こんなに空って広かったのかと思うほどだものね」

 と友達は言った。

 だが、翔子は少し違った感覚を持っているようで、

「私は少し違うの。あなたと違って感じるのは、陸地の方がこんなにも狭いところだったのかって感じるのよ」

「それは、ショックだった?」

「そんなことはないわ。ただ、こんなに狭いところに犇めいているのかって思うと、何とも滑稽で、逆に無駄にだだっ広い空がなんとなく無駄に感じられるというのも、同じように滑稽だったわ」

「なるほど、面白い考え方よね。私も絵を描いていて思うんだけど、空と陸地の境目を描く時は自分が思っているよりも、かなり空を大きく描くくせがついてしまったようなの。それってあなたの感覚に近いものがあるのかも知れないわね」

「そこでもう一つ引っかかってくるのが遠近感の問題なのよ。絵を描く時に、キャンバスを目の前にして筆を立てて、片目で先を見ている光景をよく見るんだけど、あれも遠近感を感じるためなのかしら?」

「そうね。ものさし代わりに筆を使っているという感じかしら?」

「でも、本当にそれで遠近感なんて分かるのかしら? 私には気休めにしか思えないんだけど」

 というと、

「そうかも知れないわね。私はしたことがないから分からないんだけど」

 と言って、彼女は少し考えたが、

「でもね。遠近感というのはさっきのバランスと切っても切り離せない関係にあると思うの。どちらかを優先すれば、どちらかがおろそかになるようなね。だから、どちらも大切なんだけど、おのずと絵を描いていると、無意識にどっちも大切にするものなの。それは玄人も初心者も同じことで、もちろん私もそうだったわ」

 と続けて話した。

「さっきの影の話なんだけど、私はその影という発想は、今のバランスと遠近感を考えていると、おのずと出てくる発想なんじゃないかって思うの」

「ええ、影というのは、平面である絵をいかに立体的に見せるかというところで重要なものなんだけど、それは私はかなりあいまいなものだって思うのよね。だって、真っ黒で影だけでは何も分からない。何しろ影というのは、太陽の光があって、被写体があって初めて存在できるものでしょう? それが真っ黒で実際には被写体から伸びているものだということが容易に分かるからですね」

「影というのは、実際に存在しているものも吸収してしまうものではないかって感じるんだけど、これは考えすぎなのかしら?」

 と翔子は自分の考えを述べた。

 実際に翔子は、ここまで自分の考えていることを人に話すことはない。よほど相手と同じ考えであると感じた時か、それとも考えは違っても、違う考えを納得しながら話せる相手だと分かっている必要があった。むしろ後者の方が、翔子としては自分の中で信憑性が高いと思っている。

「いいえ、そんなことはないと思うわ。あなたの言う通り、影は実際のものを吸収する力があると私は思うの。現実の世界で誰もが影を何も疑問を感じることなく見ているでしょう? 冷静に考えてみれば不思議な存在なのにね。私はそのことを考えた時、影の存在というのは、絵を描いている時こそ、しっかり意識してあげなければいけないと思うの。そのために、絵を描く時の基礎として、バランスの問題と遠近感の問題があると思っているのね」

「それは逆の発想だと思っていいのかしら?」

「ええ、私もそのつもりで話しています。もっとも、あなたにはそれが当たり前のことのように感じているんだと思うけど、他の人に話せば、意外と不思議に感じたり、納得するどころか、無駄話のレベルで聞き流してしまわれるくらいなんですよ」

「まあ、それはひどいわね。私は真剣に聞いているのにね」

 と、翔子は意味もなく怒りがこみ上げてきたのを感じた。

 それを見て彼女もニコッと笑ったが、それも翔子の気持ちを分かってのことである。

――ひょっとすると、この人は私が納得いくかいかないかということを重視していると感じているのかも知れないわね――

 そう思うと嬉しく思う翔子だった。

「ねえ、二次元と三次元の違いはなんとなく分かるんだけど、あなたは四次元の世界というのを信じている?」

「ええ、私は四次元を信じているわ」

「どんな世界だと思っているの?」

 と翔子が聞くと、

「あなたはどう思っているの?」

 と逆に聞かれた。

「私は、何となく歪んだ世界が広がっているように思うの。これは発想に限界があるからそう感じるのかも知れないんだけど、まるでダリの絵のように、時計が飴のように歪んでいる世界ね」

「なるほど、世間一般に言われている世界のことね」

「ええ」

 と言いながら、翔子は人と同じでは嫌だと思っている自分が、世間一般と言われる発想しかできないことに苛立っていた。

――それをこの人は看破しているのかも知れないわ――

 と感じると、何かむず痒いものがあった。

――まるで箱庭に入っている私が見られているようだわ――

 と、箱庭の夢を思い出した。

「じゃあ、あなたは、四次元の世界をどう感じているの?」

「私はね。左右対称の世界だと思うの」

「鏡の中の世界のように?」

「ええ」

「どうして?」

「鏡の中の世界って、左右が対称になっているんだけど、おかしいと思わない?」

「えっ? どうして?」

「だって、上下が対称ではないでしょう?」

 と言われて少しあっけにとられ、何といえばいいのか分からなかった。

 彼女は続ける。

「きっと少し考えれば、それも当たり前のことだって気付くと思うんだけど、でも、考えれば不思議なことなのよね。しかもその不思議だということにすら、誰も気付かない。二重に張り巡らされたトラップだと思うの。それは鏡の世界だけに限らず、私は四次元の世界にもあると思うのよ。だから、普通に考えただけでは、四次元を理解することはできない。普通は一つの発想には一つしか答えがないと思っているでしょう? 本当は一つなんかじゃない。縦に繋がった複数の答えが用意されるべきなのが、四次元の世界だって私は思っているの」

「じゃあ、三次元から二次元の発想や一次元の発想も同じことだっていうの?」

「少なくとも私はそう思っているわ。二次元という発想にたどりついても、それがゴールではない。四次元の世界だって同じことでしょう?」

 そう言われて翔子は自分が何を考えているのか、少し分からなくなっていた。

 彼女は続けた。

「四次元の世界って、私も実は半分は信じられない感覚なんだけど、世間一般には、立体に時間軸が加わったようなものだって言われているでしょう?」

「ええ、私もそう思っているわ」

「でもね、時間軸をそこに付け加えると、時間というものに対して考えられることの矛盾を看破しないと、四次元の世界を創造することはできないと思うの」

「矛盾というのは?」

「そうね。いわゆるパラドックスと言われるものじゃないかって思うの」

「パラドックスって、矛盾のことなの?」

「直訳すると、逆説ということになるんでしょうけど、時間軸の発想には矛盾がたくさんあるのよね。たとえば、タイムマシンを創造する上で、避けて通ることのできないものの発想として、『メビウスの輪』というものがあるのを聞いたことがあるかしら?」

「ええ、聞いたことはあります。何でも細長いたすきのような紙を捻るように重ねて輪のようにして、その上から真ん中にペンで直線を引いていくと、最後には重なるというものなんでしょう?」

「その通り。よく知ってるわね。実際には紙を捻っているのだから、直線が最後に交わるなんてことはありえないのよ。でも、それが交わる時というのがあるらしいという発想なの。それが異次元の入り口のように言われているわ。でも、元々は異次元の発想というよりも、無限ループや、数学的に不可能なものとしての発想の方が大きいので、パラドックスという意味での発想に近いと思ってね」

「ええ」

「私のいうパラドックスというのは、よく言われている話として『親殺しのパラドックス』という話があるのよ」

「それはどういうお話なんですか?」

「自分がタイムマシンを発明したか、あるいは、人が発明したタイムマシンを手に入れて、過去にも未来にも自在に行き来ができるとするわね」

「ええ」

「あなたは、過去にやってきました。そこであなたは、自分が生まれる前の父親と母親に出会ったとします」

「はい」

「そこで、あなたは自分の両親のうちのどちらかが死ぬことになるとしたら、どうなりますか?」

「でも、私は両親を殺すようなことはしないと思いますけど」

「それはあなたの主観的な発想ですよね。でも、あなたが過去に行ったことで、それだけで歴史というのは変わる要素を持ってしまうことになるんですよ。もちろん、タイムマシンが普及してあなた以外の人があなたの歴史に絡んでくるといえなくもないけど、この場合はそんなややこしいことを考えることはしないでね。あくまでもお話としてのプロセスなので、あなたの歴史の中だけのお話として聞いてほしいの」

「ええ、分かったわ」

「それでね。あなたが何らかの理由で両親のどちらかを死に至らしめてしまうと、あなたは永遠に生まれてこないことになりますよね?」

「ええ」

「あなたは生まれてこないわけだから、両親を殺すことはない。だったら、あなたの両親は結婚してあなたが生まれることになっちゅんですよ」

「そうですね」

「あなたが生まれてくると、タイムマシンで親を殺しに行く……」

「ちょっと待って、頭が混乱してきた」

「それはそうでしょうね。要するに発想としては、『タマゴガ先か、ニワトリが先か』ということになるんですよ」

「なるほど、今のたとえで何となく分かりました。無限ループを繰り返している中での矛盾というわけなのね?」

「ええ、そうなの。そういう意味ではさっきの『メビウスの輪』の発想とも似てくるんだけど、過去に行くということは、少なからず歴史を変えてしまうことになるので、危険を伴うことになるのよ。私は誰かが少しでも過去に関わると、歴史は変わってしまうものだって思っているの。それは過去に行くという行為を行っただけでも同じこと、誰かと関わることがなくても、歴史は変わってしまうと思うの。だから、この問題を解決しないと、四次元の世界なんて創造してはいけないのよ」

「難しいんですね」

「ええ、そうなるわね」

「私は今までに漫画や小説で、SFチックな話を見たことはあったんだけど、あまり深く考えたことはなかったわ」

「それはきっと、作者の中でいろいろな試行錯誤があった上での結論として物語ができているので、読者にはそれが伝わらないのよ。作者としては伝わってほしいと思っているかも知れないけど、その本心は、自分が試行錯誤を繰り返した部分が人知れずであってほしいと思っているんじゃないかって感じるの」

「どうして?」

「それが作者としてのプライドのようなものなんじゃないかって思っているの。だから、いろいろな難しい話をストーリーの中に紛れ込ませて、読みやすいようにしながらも、理論的な話も交えているんじゃないかって思うのよ」

「そういえば、私が昔見たアニメで、時間を飛び越えるという発想があったんだけど」

「いわゆるワープと言われるものね」

「ええ、そう。その発想が面白かったんだけど、時間軸というのは、数学でいうサインカーブのように中心線を対照にして、波目を打っているようなものらしいの。ワープの発想は、その波目をカーブせずに、頂点から頂点に飛び越えるものだというのよ。これには私はショックに近い衝撃を受けたわ」

「私も同じ。あなたが衝撃を受けたその時、私は矛盾や時間軸について興味を持ったといっても過言ではないと思っているの。SFアニメや小説は少年だけのものではなく、少女にも大きな影響を与えていたんじゃないかって私は思っているの」

「同感だわ」

 そう言って、翔子と友達は少し言葉を途切った。

 だが、言葉を途切ったのは、二人が同じことを考えていたわけではなく、どうやら少し違ったことを考えていたようだ。翔子は今の話を反芻しながら、納得できる部分を探していたようだが、彼女の方は、無限ループの矛盾について、その先を考えていたようだった。

 もちろん、お互いにそんなことは分からなかったが、ある程度の時間が経ってから、急に翔子の方が離し始めたことで、二人の発想がどこかから一緒になって結びついたようだった。

「私、夢を誰かと共有しているんじゃないかって思ったことがあったの」

 という翔子に対して、

「私もそれは感じていたわ。私の夢に誰かが出てきているという発想はあるんだけど、その人は決して私の思ったように行動してくれないようなの。目が覚めるにしたがって、夢に誰が出ていたのかすら覚えていないんだけど、それは、その人が私の発想以外の行動を取っていたからじゃないかって思ったの」

 と彼女は言った。

「そうなのかしらね。私も確かに誰かが夢に出てきたような気がするんだけど、その人は何も言わないし、何を考えているか分からないの。とても怖い存在で、怖いという意味があるので、夢から覚めても、その人がまったく無反応で存在していたという記憶が残っているんだって思っているの」

「翔子さんの発想は、きっと私が考えていることの先を行っているような気がするわ。私にはそこまでの発想はなかったから」

 と言われて、翔子は少し嬉しかった。

 さっきまでの話では、完全に自分の方が圧倒されていたが、今度の夢の話では自分の方が先を進んでいると感じたからだ。しかも、それを相手も認めてくれているということが翔子の自尊心をくすぐったのだ。

――彼女と話をしていると面白い――

 これが翔子の率直な気持ちだった。

 絵を見ていて、その時の話を思い出したのだが、

――本当に一日でこんなにたくさん話をしたんだろうか?

 と思った。

 それこそ記憶の奥には時系列があるようで、実際には時系列を無視したところでの意識が働いているのかも知れない。そんな時に思い出した、

――無限ループの矛盾――

 それこそが、彼女と自分を結びつけた会話の中での大きな理由なのではないかと感じたのだ。

 彼女との会話を思い出している時、なぜか麻衣を思い出した。

 麻衣は自分の奴隷に近いと思っていた守を奪ったと思っているが、果たしてそうだったのだろうか?

 翔子は少なくとも、親友であった麻衣に裏切られたという感覚を持っていたが、最近よく見る夢の多くは、麻衣だったような気がした。

 麻衣が出てくる夢の中では、麻衣はずっと親友だった。

 その夢の中に近藤守も出てきた。むしろ、麻衣を思い出す時、一緒に近藤も思い出すというのは、切っても切り離せない関係にあるものとして意識していることのように思えてならなかった。

 麻衣が出てくるのは夢だからだという意識があった。

「どうして、麻衣はそんなに私の夢に出てくるの?」

 と聞いたことがあった。

 麻衣に裏切られたという記憶はあっても、意識としては、それほど恨んでいるわけではないのに、なぜ自分の夢に出てくることへの違和感があるのか、翔子は自分の気持ちが複雑なのではないかと思った。

 しかし、夢の中の麻衣は、そうは思っていないようだ。

「あなたが、単純に私に会いたいと思ってくれたからなのよ。そうでないと、私はあなたの夢には出てこないわ」

「どうしてなの?」

「私自身があなたに会いたいと思っていないからよ。夢の中にわざわざ出てくるのは、私の方もあなたに会いたいと思わないと、なかなか成立しないの」

「でも、出てきてくれたじゃない」

「それは例外もあるということよ。こちらが嫌だと思っても、相手が純粋に会いたいと思っていたら、こちらも出て行かないわけにはいかなくなるのよ」

「そうなの? それって夢の世界の掟のようなものなの?」

「そうね」

「私が知らないことをどうしてあなたが知っているの?」

「それは、私があなたの夢に出てきているから。人の夢に出る方には、夢の世界の理屈や掟をしっかりと分かっていないといけないの。だから私は今は夢の世界の使いのようなものだと思ってくれればいいわ」

「でも、それは誰にでも言えることなの? 私も誰かの夢に今のあなたのように出たりすることがあるというの?」

「ええ、でも相手が目を覚ますと、人の夢に出た人の記憶はまったくなくなってしまうの。だから、人の夢に出ることができるんでしょうね」

「夢を覚えているかも知れない私に、そんなにベラベラと喋ってもいいの?」

「どうなのかしらね。そこまでは夢の掟にはないようなのよ。だから、他の人もきっとお話しているんじゃないかしら? 本当に夢を見た人が、目を覚ました時、何か不思議には思うけど、自分を納得させられないので、理解できないんだと思うわ」

「確かに不思議に思うことが夢の中にあったような気がすることがあるわ」

「そうでしょう。それでいいのよ。しょせん皆、目が覚めるにしたがって、夢というのは覚めるものだって思っているんだし、もし夢を覚えていたとしても、夢の世界は架空の世界で、潜在意識が見せるものだって分かっているので、自分が納得できないことは覚えていないと思っていて当たり前なのよ」

 という彼女の話を聞いて、翔子はふと感じた。

――こうやって麻衣と話をしているのも、ひょっとすると私の潜在意識の中にあることななんじゃないかしら?

 と感じた。

 麻衣が夢の中で語っているような演出になっているが、

――本当は自分の潜在意識が見せるものであって、それを自覚したくないから、一番話の中に信憑性を感じることのできる翔子を出演させただけなのかも知れない――

 と感じた。

 その発想は、当たらすとも遠からじではないかと思った。考えれば考えるほど、最後には同じところに却ってくる気がする。それこそ、

――無限ループの矛盾――

 を感じさせるものではないだろうか。

 ただ、翔子が友達と話した絵から連想して、異次元の話から結びついた「無限ループ」の発想は、現実にあったことである。

――でも、その友達のことが曖昧な意識としてしか残っていないのは、どうしてなのかしら?

 と不思議だった。

 麻衣ほどのインパクトがなかったわけではないのに、どうして麻衣ばかりを思い出すのか、翔子には無限に疑問として残るのではないかと思えてならなかった。

 上から目線になってしまうのは、翔子が普段から夢の世界と現実世界の区別を意識しているからではないだろうか?

 普段は上から目線だということを人に悟られたくないという思いを持っている。その思いが、人と同じでは嫌だと思う自分の気持ちを形成している。

「お前らのような連中とはデキが違うんだ」

 とでも言いたい気持ちだった。

 こんな気持ちになったのはいつが最初だっただろうか?

 本当は前から意識していたかも知れないが、一番序実に感じたのは、短大時代のことだった。

 その頃、ちょっといいなと思っていた男子がいた。彼とは付き合い始める要素があったが、まだハッキリと付き合っているとは言いがたい時期がしばらく続いていた。その男性はハッキリと自分の気持ちを相手に言うタイプではなく、引っ込み思案なところのある男性だった。

 翔子は性格的に、本当はそんな男性を好きになることはないと思っていたが、相手がなついてくる状況に、まんざらでもないと思うようになっていた。男らしい人に惹かれていたのは中学くらいまで出、高校生の頃は、彼氏を本当にほしいとは思わないようになっていた。もちろんいればいるで嬉しく思うのかも知れないが、引っ張っていってくれるようあ相手を望んでいる反面、あまり強引な相手だと自分とぶつかる可能性があると思い、敬遠もしていた。

――自分の理想と願望とでは、少し開きがあるのかも知れないわ――

 と思うようになった。

 理想は、引っ張っていってくれる人であり、願望は、強引ではない人という、矛盾を孕んだ考えに、彼氏を持つことの煩わしさを感じるようになっていた。

 しかし、短大に入ると、高校時代のような暗い自分の性格が一挙に明るくなった気がしたことで、自分の性格まで変わってしまったのではないかという錯覚を覚えたのだ。

 まわりに感化されたくないという思いがある反面、当てにされたりすると、調子に乗ってしまうこともあり、自分でもお調子者だという意識があった。おだてに弱い性格は時として損をすることがあり、その思いが人との接触に抵抗を感じさせたのだった。

 友達から合コンに誘われた時、断ることもできたが、

――一度くらい経験しておくこともいいかも知れないわ――

 と、勉強のつもりで参加した。

 しかし、せっかくの合コンだったのに、何を話していいのか分からず、輪の中から自分が浮いていることをすぐに悟った。三対三の合コンだったのだが、友達二人は自分たちが誘った翔子に目もくれず、目の前にいる男性との会話に花を咲かせていた。

――私はただの人数合わせなんだわ――

 よくあることなのだろうが、まさか自分がそんな立場に陥れられるとは思ってもいなかった。

 相手の男性グループにもその時の翔子と同じ立場の男性がいて、彼も一人、何を話していいのか分からずに途方に暮れていたのが分かった。

 そうなってくると、翔子は自分の方が立場が上だと思った。積極的に自分からその男性に話しかけたが、最初は彼は話しに乗り気ではなかった。

 だが、翔子が話し始めたタイムマシンの話をきっかけに、会話に火がついた。翔子としては、別に会話にならなければそれでもいいと思った。最悪、席を立って帰ってしまえばそれでいいと考えていて、

――残された人のことなど、誰が考えてやるものか――

 と思ったのだ。

 最初から甘い言葉に乗せられてやってきた自分も自分だが、誘っておいて、置き去りにしてしまう相手のことを誰が考える必要などあるというのか。それほど翔子はお人よしではなかった。

 むしろ、人に対してそんなに甘い方だとは思っていなかった。ただ、おだてに乗りやすいことで、利用されることが多いのだが、利用されたとしても、自分の気分が悪くならなければ、それはそれでよしとしてきた翔子だった。

 それがまわりを増長させるということに、それまでの翔子は意識がなかった。分かってはいたのかも知れないが、

「だから、何?」

 とでも言いたげだった。

 それこそ上から目線なのだろうが、本人には意識はない。ただの開き直りだとしか思っていなかったのだ。

 短大に入ってまで、暗いイメージを残したくないという思いは結構強かったはずだ。高校時代に自分を知っている人が誰も同じ大学にいないことも、翔子にはありがたかった。

 しかし、元々の自分の性格や、それまでに培われてきた、まわりから見られている印象、いわゆるオーラと言われるものを変えることは、そう簡単にできるものではないだろう。

 そんな彼と話が合うなど最初から思ってもいなかったので、話の共通点が持てたことは正直戸惑った。

――そんな、どうしよう――

 本当なら、相手に引かれて、その勢いを利用してこの場を立ち去るつもりだっただけに、完全に計算が狂ってしまった。

 翔子はそれでも、もっとマニアックな話を続けて、話の上でも相手に負けたくないという思いを持ち、自分の自尊心を最高にまで持っていこうと思った。

 それでも、彼のハードルは想像以上に高く、彼の話はもはや「オタク」の部類に近かった。

――じゃあ、私も話が合うということは、私も彼に負けず劣らずのオタクということになるのかしら?

 と感じた。

 そして、そう思って彼を見ると、彼の満足そうな表情がまるで勝ち誇ったように思え、癪に障ったのだ。

 翔子は、この場から立ち去りたいなどと思っていたことも忘れて、何とか彼に会話で勝ちたいと考えるようになり、自分も普段なら決して話をしようとも思わない自分の中でもかなりのマニアックな話だと思っていることを惜しげもなく口にした。

 すると、さらに彼は満足そうな顔をして、話を盛り上げようとする。

 彼がすべて、翔子の話に賛成であるならば、翔子も彼を突き放すこともできただろう。相手がこちらに話を合わせようとしているのだと悟るからだ。しかし、彼は翔子の話にすべて賛成するというわけではない。むしろ反対意見をたくさん持っているようだった。

 それだけに会話に膨らみがあり、話に花が咲くというものだ。

 翔子はそのうちに、彼の意見に引き込まれている自分に気がついた。

――どうしちゃったのかしら。私―-

 今までの自分からは信じられなかった。

 マニアックな話は自分の専売特許で、相手に立ち入る隙を与えることもないだろうと思っていただけに、戸惑いが自分にとってありがたいことなのか、それとも悔しさを醸し出すだけに終わってしまうのか、想像もつかなかった。

 しかし、結局は普段押し込めてきた考え方を表に出すというのは、それまで抱えてきたはずの無意識のストレスを発散させることになり、自分が人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していたことを、表から見る立場として、初めて分かった気がした。

 だが、その思いを嫌だと感じるわけではない。それも翔子の望んでいた自分だったからだ。その思いを知らなかった今までが、自分にとってなんだったのかを考えさせたこの男性に、翔子は次第に興味を感じるようになっていった。

「翔子さんって面白いですね」

「いえいえ、あなたの方が興味深い話をしてくださる」

 と、言葉を返したが、これは本心からだった。

「僕の話を興味深いなんて言ってくれた人、翔子さんが初めてです」

「私も、自分と同じような発想を持っている人がこんなに身近にいるなんて想像もしていませんでした。でも、同じ発想を持っているとしても、賛成なのか反対なのかは別問題ですよね。でも、反対意見を戦わせることでお互いにそれまで考えたこともなかったことを考えるようになれることに、私は興味深いと思ったんです」

 彼とはそんないきさつから、交際するようになった。

 ただ、お互いに彼氏彼女だという思いがあったのかどうか、定かではない。少なくとも翔子は彼に対して彼氏だという意識はまだ持っていなかった。

 時々待ち合わせて、どこかに遊びに行くという程度の付き合いだったが、

「それを交際しているっていうのよ」

 と、言われると、

「そうなんだ」

 と、まるで他人事のように感じる翔子だったが、デートと言っても、お互いに洒落た場所を望むわけでもなく、遊園地や植物園などの郊外施設に行ったりする程度のものだった。

「中学生のデートじゃないんだから」

 と言われるが、今までお互いに交際をしたことのない男女のデートなど、これくらいの初々しさがちょうどいいのではないだろうか。

 しかし、別れというのは、突然やってくるもので、翔子も彼も、まったく想像もしていなかったに違いない。

 それまでの彼は、喜怒哀楽をあまり表に出す方ではなく、逆に言えば、

――何を考えているのか分からない――

 と感じる時が結構多かった。

 遊びに行く時も、待ち合わせしてからどこに行くか決めるといういい加減さもあったが、翔子はそれを気にすることはなかった。むしろその時の精神状態によって、最初に決めていた場所に行くのが辛く感じられることもあるだろう。しかも、お互いに喜怒哀楽を表す方ではないので、その時の心境を思い図るのは難しかった。

 しかも、翔子の場合は、自分が人に気持ちを悟られることを嫌がる性格だったので、自分も無意識に相手の気持ちを悟ってはいけないと思うようになっていて、いざ相手の気持ちを考えようとした時、自分でストップをかけてしまい、考えたつもりになって、結局考えられなかったことを、自分が相手を深く考えていないという理屈をつけてその場を収めるように努めていた。

 その日は、朝から彼の様子が少し違っていたのに気付いていたが、なるべく相手の気持ちに触れないようにしていたことで、翔子も彼に対してどこかぎこちなく感じていたようだ。

 しかも、その日に限って、約束に遅刻したことのなかった翔子が、遅刻をしたのだ。

 もちろん、それなりの理由があったのだが、翔子は言い訳をしたくない性格だったことで、その場をごまかすよりも、先に進めることを優先してしまったことが、少し彼の頭の中で、カチンとくる思いにさせてしまったのかも知れない。

 その日は、電車に乗って、郊外の遊園地に行くことにしていた。それは珍しく最初から計画していたもので、もし、最初から計画していることがなければ、二人の間の不協和音のせいで、そのままその日はデートをせずに終わったかも知れない。

 そんなことになれば、二人の溝は決定的になり、坂を転げ落ちるようにそのまま別れてしまうことになると思った。

――予定があってよかったわ――

 と翔子は考えたが、やはり不協和音が漂っている様子に変わりはなく、何か打開するものがなければ、雰囲気としては最悪だった。

 電車に乗っても、お互いに無口なままだった。他の人が見れば誰がこの二人をカップルだと思うだろう。

 二人は、電車の四人がけの対面式の席に座った。窓際にはもう一人のカップルがいて、満員になりかかっている電車に、カップルが対面するように座っていたのだ。

 彼の隣には、もう一組のカップルの女性側がいて、翔子の隣に、彼氏がいた。どうしてそんな座り方になったのか、彼が最初に自分から座ったので、理由は分からないが、ひょっとすると相手の男と視線が合うのを避けたのかも知れない。

 翔子もその方がいいと思った。彼との会話が弾まない以上、目のやり場に困ってしまうだろう。それは彼も同じことで、彼の方からこのような座り方をしてくれたことに、感謝したくらいだった。

 窓際のカップルはそれなりに会話をしていた。男性のほうから一方的に話をしていて、彼女はどうやら、おしとやかな女性のようだ。だが、それが引っ込み思案なのではないかと思わせる事件がその後すぐに起きたのだ。

 二人の会話から、二人が自分たちよりも先に下りることは分かっていた。もう一組の男性の方が、次第に何かに苛立ちを覚えているのを、翔子は何となく気付いていた。なぜなら、この男性が小刻みに震えていたからだ。

 最初は貧乏ゆすりなのかと思ったが、どうもそうではない。貧乏ゆすりなら無意識なのだろうが、彼の震えが会話が途切れると止まってしまうことで貧乏ゆすりではないと感じた。

――会話している時震えが止まっているなら、貧乏ゆすりだって思うんだけどな――

 翔子にとっては、ただの思い込みだったのかも知れないが、的を得ていたようだった。

 そろそろ降りる駅が近づいてきたのか、窓際の男性が立ち上がった。そして翔子を避けるように小声で、

「すみません」

 と言って、通路に出た。

 それを見ていた彼女の方もゆっくりと立ち上がろうとした時、彼のお尻の下に彼女のスカートが引っかかっていたのか、彼は気付いていないのか、腰を浮かそうとしなかった。

「おい、お前」

 通路に出た男性が、彼に向かってそう詰め寄る。

「どういうつもりなんだ。ちゃんと腰を浮かせて、出れるようにせんか。席を立つのが礼儀ではないか」

 と言って、ここぞとばかりの罵声を浴びせた。

――この人の苛立ちはここにあったんだ――

 と翔子は感じた。

――彼が自分の彼女のスカートを尻に敷いているのを知りながら、何もしなかったことに苛立っているんだわ。それにしても、この怒りは何?

 と思わせるほどの厳しさに、翔子はこのオトコの彼女に対するパフォーマンスではないかと感じた。

 それは上から目線の片鱗を、翔子が見せたこともあるが、他人事のように見ていると、意外と当事者としてでは感じることのできない思いが見えてくるものだった。

 オトコとして、自分の彼女に、

――いいかっこ――

 を見せるというのは、彼女を持った男としては当然の心境ではないかと思うが、このやり方は、少し強引すぎるのではないか。

 いや、少しなんてものではない。露骨な姿勢は、却って卑劣さを露呈させることになり、―-自分が彼女なら、こんなオトコと付き合うなどありえない――

 と、翔子は考えた。

 このオトコのやっていることは完全に「因縁」である。言いがかりにもほどがあるのだが、自分の彼氏は、何とかその状況に耐えようとしているのが見て取れた。

――彼にも、このオトコの本性が分かっているに違いない――

 横から見ている翔子に分かるのだから、正面切って見ている彼に分からないはずがない。余計に腹が立つのも分かるというものだ。

 必死に耐えている彼の表情は完全に引きつっている。見ていて気の毒だが、今の翔子に何ができるというのか、声を掛けられる雰囲気でもないことは歴然としているからだ。

――それにしても、こんなにも露骨で陰湿なオトコが存在していたなんて――

 翔子は、彼女の方を見ていた。

 彼女は彼の影に隠れて、怯えている様子を見せていた。

――どういうことなのかしら?

 翔子は、露骨なこのオトコよりも、彼女の方に興味を持った。

――本当なら、彼をなだめようとするのが本当だろうが、彼のこの露骨さに手を出せないというのも分かる気がする。でも、彼女は怯えているのだ。何に怯えているというのだろう?

 オトコが自分のために怒ってくれているのは彼女としては当然分かっていて、何とかしたいと思っているのだとすれば、怯えに走るというのはおかしなことだ。

 しかも、彼女のその様子も露骨に見える。彼が正面に立って、露骨にカッコウつけているから彼女は目立たないだけだが、もし翔子のように彼女に注目する人がいるとすれば、彼女の様子に矛盾を感じる人が他にもいるのではないかと思えた。

――矛盾?

 それは、彼女が何に対して怯えているかということに対する矛盾である。

 彼女としては、ここまで露骨に彼に自分のためということで怒りをあらわにされれば、自意識の高い女性であれば、このオトコに対して自分が優位性のあることを前面に出し、怯えなど表に出すことはないだろう。

 彼の影に隠れて、目立たないようにしているのであれば分かる。それは彼女の女としての本性が現れているからだ。男を前面に出すことで、自分は彼の影に隠れて、自分の自尊心を守ってもらえるからである。

 しかし、怯えが表に出ているというのは、きっと、オトコに彼女の怯えが伝わっていると考えてもいいだろう。彼女の態度が彼のオトコとしての自尊心をくすぐり、まるで自分がヒーローにでもなったかのような錯覚を与えるテクニックだとすれば、何と末恐ろしい女だといえるのではないか。

 女の態度がまるで捨てられた猫が雨に濡れ手、洗いざらしのようになっているのを自分が救っているという男の自尊心である。

 しかも、彼女の中で、

――このオトコなら、簡単に自尊心をくすぐることができるわ――

 という理由から、彼氏に選んだのだと思えば、さらに魔性の女だといえるだろう。

 魔性の女というのは話には聞いたことがあるが、どんな女なのかよく分からなかったが、人を隠れ蓑にして、自分の自尊心を、相手の自尊心をくすぐることで現実化させ、自らの思いを成就させようという女のことなのだと思った翔子だった。

 ということは、この場面で一番割りの合わない状況に置かれているのは、翔子の彼氏である。

 相手のカップルの自作自演に近い演技に踊らされ、我を忘れかけているのだから、たまったものではないだろう。

 当然、頭には血が昇ってしまっていて、自制心を持つことなどできなくなっているだろう。自分をコントロールできずにどのように振り上げた矛を収めるようとするのか、翔子はハラハラしていた。

 彼の引きつった顔を見ながら、相手の男は満足そうな顔になっていた。

 女の方は相変わらず男にしがみつき、怯えの様子をあらわにしている。

 翔子は、同じ女として、

――こんな女が存在するから、女というのが魔性だって言われるのよ――

 と思った。

 魔性の女というのは、もっと自分の感情を表に出すものだ。しかも、それが本心からのものではなく、偽った感情であると思われている。目の前のこの女は、確かに自分の本当の感情を出しているわけではないが、少なくとも、本心から派生した感情であることは間違いない。そういう意味では、翔子の感じている魔性の女とは少し違う気がする。

 しかし、こういう女ほど怖いものはない。表に出す感情を押し殺していて、態度に露骨に出てくるものは、男心をくすぐるもので、自尊心をくすぐられたオトコは、自意識を過剰にさせられる。

――その時、オトコは自分が女から操縦されているということに気付いているのだろうか?

 翔子は気付いていると思っている。

 相手の男はそのことに気付いていて、どうしようもない状態にさせられているのだ。それこそが魔性の魔性たるゆえん、そしてこのことは女にしか分かる状況ではないと思っていた。

 女に操縦されることを分かっている男は、その時点で、冷静さを失っている。

――いつ捨てられるか分からない――

 という恐怖心が男の中に浮かんできて、自分の自尊心は、恐怖心に凌駕される。

 しかし、女としては、オトコの自尊心をくすぐらなければ、自分の自尊心を満足させられない。そこで取る態度が、

――彼の影に隠れて怯えてみせる――

 という態度なのだ。

 そこにわざとらしさが感じられるのは、男に対しての自分が上であるという優越感を持つことで、男に劣等感を植え付ける。しかも、その劣等感があたかも悪いことではないと錯覚させなければいけないことが難しいのだ。女の怯えはその錯覚を植え付けるためにも重要で、

――誰がこの男を操っているのかということを、男自身にも感じさせないと意味がない――

 とまで思っていた。

 密着して奮えながら怯えている女は、男の自尊心をくすぐるには最高だ。だが、この女の求めている男は、それだけではまだまだ足りない、洗脳することがこの女には必要不可欠な問題だった。

 洗脳された男は女の言いなりだった。ただ、それを女が男に強要しているというイメージをまわりに感じさせてはいけない。さらに相手の男にも、自分の影響力を意識はさせるが、洗脳というイメージを植え付けてしまってはいけないのだ。それだけ、この女の「怯え」という態度は、男を狂わせるだけの効力を持っているのだった。

――彼は、この二人のどこまで分かっているのだろう?

 翔子は、自分が感じていることが妄想であり、すべて本当のことだとは思っていないが、二人を見ていて、一番辻褄の合う考えだと思っているのは間違いのないことで、ひいては本当のことでなくても、辻褄さえ合っていれば、それは真実だと言ってもいいのではないかと思えるほどだと感じていた。

 翔子は、この欺瞞に満ちたカップルを見ながら、嗚咽にも似た感情を抱きながら、自分の彼がどう反応するかを考えなければいけない立場に置かれていた。

――こんなことなら、欺瞞に満ちたカップルの本性など、想像しなければよかった――

 と思うほど、彼の態度がどう変化するか、想像もつかなかった。

 ただ、尋常ではいられないことは分かっていた。

 顔はすでに真っ赤になっていて、赤鬼を思わせるようだった。はちきれそうな顔には怒りとも情けなさとも思えるような何とも言えない表情が浮かんでいて、口元が震えているのは、そのせいだと思えた。

 口元が震えていると、何も口から言葉は出てこないものだ。彼が何かを言いたいのかどうか分からないが、言いたいことがあっても、口から出てくることはないだろう。

 相手の男の顔には勝ち誇った様子が見て取れる。しかも、その表情は彼に対してのものと、さらには後ろで震えている女に対するものとが半々だった。彼はそんな男の表情に、少なからずの戸惑いを持っているように思えた。

――今の彼の精神状態で、私が感じたほどのことを感じることなど、できっこないわ――

 と翔子は感じたが、もしこれもこの女の計算にあるのだとすれば、ゾッとするほどの寒気を感じた。

 だが、さすがにそこまではなかった。この女にとって、翔子の彼氏は眼に入っていない。あくまでも自分の男の操縦で精一杯なのだ。

――待てよ?

 そこまで来ると、翔子は疑問に感じることがあった。

――この女の最終目的はどこにあるんだろう?

 という思いだった。

 男を操縦することで自分の自尊心を満足させることが目的であれば、何も男がまわりの人とトラブルを起こすような態度に出させる必要もないだろう。

 そんなことをすれば、自分が怯えた態度を男に見せなければならない。それを男に悟らせながらである。

 確かに、まわりから見れば、この女が怯えている姿だけを見れば、彼女がかわいそうな女に見えなくもない。そういう意味での自尊心をくすぐるというのであれば分かる気もするが、男に自分が怯えている心情を分からせなければいけないので、下手をすれば、男が我に返って、彼女の操縦から解かれる可能性もゼロではない。女にもそれくらい分かりそうなものだが、それでも自尊心をくすぐるために操縦しながら、男にトラブルを起こさせることを容認するのは、翔子にはその心境を図り知ることはできなかった。

 翔子が考えたのは、

――この女、自分の操縦する男のことなど、どうでもいいんだ――

 という思いだった。

 操縦する男が、もし我に返って自分から去っていっても、代わりは他にいくらでもいると思っているのかも知れない。

 ひょっとすると、翔子の彼氏など、その典型なのではないかと思っているのではないかとさえ思えるほどだ。

 だから、自分の男にトラブルを起こさせ、自分の言いなりになる男が他にもいるかどうか、確かめているというのは考えすぎだろうか?

 翔子は、この女を見ていると、考えすぎではないかと思ったとしても、考えすぎているということはないとまで思っている。それだけこの女は翔子の発想の先を行っているようで、追いつこうとすればするほど、逃げられてしまうような気がしていたのだ。

 翔子がそんなことを考えているなど、彼は知る由もないだろう、

――俺は、どうして今こんなに苛立っているんだ?

 もし、彼がそう思っているのだとすれば、まだマシではないかと翔子は思った。

 彼は翔子の方を見ようとしない。それは翔子がどんな表情をしているかということを知るのが怖いというわけではなく、余裕がないのだ。

 その余裕というのは、目の前の男女に対してしか考えが及ばないからで、まわりが完全に見えていない。そうなってくると、もう自制心などあったものではなく、怒りだけが彼の中で燃えあがってしまっていることだろう。

 翔子はそれを恐れてはいたが、

――それもしょうがないことか――

 とも感じていた。

 それだけ、この欺瞞に満ちた男女は彼の手に負える相手ではなかったのだ。

 翔子もこの男女をことを想像はできても、手に負える相手だとは思っていない。できれば、

――君子危うきに近寄らず――

 ということわざのごとく、相手をしなければいいのだろうは、彼がなまじっか関わってしまったために、どうすることもできなくなった。

 相手の本性を見抜こうとするだけで精一杯だった。それでも、翔子が感じたことに偽りはないだろう。しいていえば、翔子が思っているよりもさらなる欺瞞が隠されているかも知れないという思いこそあれ、二人に同情的な思いを抱くことはありえないと思ったのだった。

――昔行った、宗教団体を思い出すわ――

 翔子は、入信することもなく、一度連れて行かれただけで、それだけのことだったが、その時の印象は覚えていた。

 当時は、こんなにも記憶の中に残ってしまうことだなどと想像もしていなかった。教祖らしき人がいて、説法を施していたわけでもないし、宗教団体らしい儀式を見せられたわけでもない。ただ、会場で信者と思しき人たちが、思い思いに会話をしていただけだったのだ。

 ただ、それがまるで隠れ蓑のようなものだと思ったとすれば、欺瞞に満ちた男女の、女の方に宗教を感じさせる匂いがあるように感じさせた。

 だからといって、この女が何かの宗教に属しているというわけではないだろう。どちらかというと、この男の方が、宗教に属していそうな雰囲気がある。

 それは洗脳されやすいという感覚があったからで、

――本当に宗教団体に属しているのかも知れない――

 とも感じさせた。

 二人の男女の思惑とは別に、翔子の彼は震えが止まらなかった。

 翔子はそんな彼を見て、どうしていいのか分からなかった。二人の男女が去っていく姿を見ながら、それまで想像した二人の関係を、自分が彼の目から逃れるためであることに気づいたのは、二人が視線から消えてからだった。

 取り残された彼と翔子は、自分の居場所がどこなのか、まったく分かっていなかった、特に罵声を浴びせられた彼は、自分が何者なのかすら分からないほど、狼狽しているのではないかと思ったほどだ。

 翔子は翔子で、

――彼にどう接すればいいのかしら?

 という戸惑いに身を任せるしかなかった。

 相手がどのような態度を取ってくるかで、自分の態度も決まってくる。完全に自分主導ではいかない状況になっていたのだ。

 彼の体温が伝わってくるほど、興奮状態にあるのは分かっていた。

――このまま何も言わずに、今日は別れてしまった方がいいかも知れないわ――

 とすら思ったほどで、彼がどう出るか、それを待っているだけだった。

 彼は彼で、必死で平常心を取り戻そうとしていたに違いない。彼は実直なところがあり、それが不器用に見えて、

――まるで子供のようなところがある――

 と感じたのが、彼への好感の第一歩だったのを思い出していた。

 しかし、こんな状況になった時、彼がまわりのことを見る余裕などあるのだろうかと思うと、不安以外、何ものもないような気がしていた。

 案の定、彼はしばらく何も言わない。放心状態が続いていたが、翔子の方も、そんな彼を見続けるには限界があった。

 電車が自分たちの降りる駅に到着して、

「さあ、着いたわよ」

 と翔子が彼を促すと、彼はスックと立ち上がり、無言で出口に向かった。

 足取りは普通だった。

 よろけている様子もないし、放心状態に見えても、足取りだけはしっかりしていたのが、せめてもの救いに感じられた。

 しかし、足元が安定しているだけに、その時、彼の中で何らかの結論が出ていたような気がする。

「ごめん、俺、これ以上今日は一緒にいるのが辛いんだ」

 と言い出した。

 翔子は救われた気がした。

「ええ、いいわよ。好きなようにしていいのよ」

 と言って、下を向いていた目を彼に向けると、彼は熱くなった目頭を抑えるかのようにして、涙を堪えていた。

 目線は翔子の方を向かず、しっかりと前を向いている。

――どうやら、彼の中で一つの結論が生まれたようだわ――

 と思い、

「今日は、ここで別れましょう」

 と言って、彼の顔を見た目を、また下に逸らした・

「悪いな。そうしてくれ」

 と言って、彼はその場を足早に去っていった。

 翔子は、その日、不本意ながらそのまま帰宅したが、翔子の方としては、彼が取った態度で救われたと思ったこともあり、不本意だとは思わないようにした。

 彼からは、しばらく連絡がなく、

「ごめん、やっぱり俺、翔子と付き合えないや」

 というメールが来て、そのまま翔子は返事を出すこともなく、二人は破局するに至った。

 何とも後味の悪い別れ方にはなったが、翔子の中では分かっていたことのように思えた。彼からすれば、

「性格の不一致に気がついた」

 ということなのだろう。

 実は翔子の方も、あの日に性格の不一致は分かっていたような気がする。ただ、自分から別れを告げるという気にはならなかった。何といっても理由がなかったからだ。

 彼を情けなく思ったというのも本当だし、情けないと思いながらも、しょうがないところがあるという擁護の気持ちがあったのも事実だ。

 しかし、その矛盾した二つが翔子の中にある以上、自分から別れを切り出すことは不可能だと思っていたのだ。そういう意味では相手から別れを切り出されたことは、ちょうどいいタイミングでもあったのだ。

 翔子は、ホッとした反面、彼と付き合っていた時期のことを思い出していた。

 初めて付き合った男性であったが、男性と付き合うということをあまり想像したことのなかった翔子にとって、男性との交際とは、

――こんなものなんだ――

 というくらいの思いしかなかった。

 だが、一緒にいる時は、間違いなく楽しかった。まわりが自分たちを見る目が羨ましく感じられたのも、翔子の自尊心を高ぶらせることができた。自尊心を高ぶらせることの快感を知ったのは、この時が初めてだったので、彼にはそういう意味では感謝に値するものがあった。

 ただ、自尊心が快感に繋がるということを知ったのは、本当にこの時が初めてだったのだろうか?

 正確に言えば、

――知ったのが初めてであって、無意識に感じていた時期は今までにもあったのかも知れない――

 と感じていた。

 おちろん、確証があったわけではない。元々、自尊心という意識は、小さい頃からあった。ただ、それが快感に繋がることがなかったのは、そもそも快感というのがどういうものであるのかということが分からなかったからだ。

 翔子は彼との別れを思い出しながら、自分が彼を見下していたことに気がついた。彼に最後、別れを切り出させたのも、きっと彼が、翔子に見下されていることに気付いたからなのかも知れない。翔子は相手を見下すことで自分の目的を達成したことを意識していた。そして、

――これが私の本性なのかも知れない――

 と感じたのだった。

 そして、そんな彼が交通事故で亡くなったという話を聞かされたのは、就職してからすぐの二年前のことだった。

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