オーロラとサッチャー効果

森本 晃次

第1話 結界

この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。


 新宮翔子はその日、久しぶりに夜更かしをした。翌日が休日であるということもあってか、テレビを見ているうちに、それまであった睡魔がいつの間にか消えていた。翌日が休みだと言っても、今までは夜更かしすることなく寝ていた。つまり、

――眠たい時に寝る――

 という、ごく自然な生活をしていたのだ。

 その日は、何か寝るのがもったいないような気がした。眠たくなかったというわけではない。いつものように、午後十時には睡魔が襲ってきた。いつもと変わらぬ夜だった。その時間までには入浴も済ませ、軽い夕食も摂っていた。眠くならない方がウソだった。それなのに起きていた理由は、自分でもハッキリとしなかった。

 一人暮らしを始めてそんなに経っていないわけではない。さすがに毎日がマンネリ化してきていた翔子は、一人で部屋にいても、家事に追われるだけで、何もやる気は起こらなかった。

――もう、三年も経ったんだわ――

 短大を卒業して、都会に出てきての一人暮らし。

 彼氏いない歴は年齢と同じで、まわりからはきっと、

「つまらない女」

 とでも見られているのだろうと思っていた。

 それはそれでかまわない。自分の気に入らない相手から好かれたいとも思わず、そんな人を相手にしなければいいだけだった。だが、そう思っているうちに気がつけば一人だけ浮いてしまっていて、会社でも話をする人はほとんどいなかった。

 それでも短大時代には数人の友達がいて、中には今でも交流のある人がいたりするが、彼女にはれっきとした彼氏がいて、最近は翔子よりも彼氏の方が大切なのか、メールしても、返事が返ってこないことが多くなっていた。

 短大に進んだのは、単純に勉強が好きではなかったからだ。高校を卒業してすぐに就職するというのは、翔子の考えにはなく、専門学校と短大を悩んだが、専門学校を決められるほど、何をやりたいのか決まっているわけではなかった。要するに、中途半端な考えしか持っていなかったのだ。

 高校時代は、それでもまわりからは、

――天然ちゃん――

 と言われて、結構相手にされていた。

 他の女の子だったら、天然ちゃんなんてあだ名をつけられると、ショックに感じるのだろうが、翔子は別にショックに思うこともなかった。それがそもそも天然のゆえんでもある。

 天然だと言われるようになってから、それまであまり交流のなかった友達が話しかけてくることが多かった。どうしてなのか、翔子には分からなかったが、どうやら、翔子には感性が強く備わっているようで、翔子の感性に魅せられた友達は少なくなかったようだ。

 ただ翔子自身、自分に感性が備わっているなどと思ったこともなく、どういう意味での感性なのか、実はまわりもハッキリとしているわけではない。友達も敢えて翔子に感性が備わっているということを言ったことはない。友達としても、翔子は自分で自分に感性が備わっていることを知っていると思っていた。だからこそ、それをひけらかそうとしない翔子を見て、

「何て、謙虚な人なのかしら」

 と、感心していたのだ。

 実際には感性を感じていない翔子の、天然と言われることになるとは、まわりにとっては皮肉なことだった。

 翔子の感性は、その発想にあった。

「翔子を見ていると、天然と感性は紙一重って感じがするわ」

 と、まわりが翔子の知らないところで、そんな噂話をしていた。

 この話が翔子にとって褒められているのかどうかは微妙なところであるが、決して浅はかに見られているわけではない。翔子を見ていると、天然も悪いことではないと思わせるだけの力がその頃の翔子には確かにあった。それなのに、短大を卒業してからの翔子のまわりからは、人がいなくなり、それが自然に見えてくるから不思議だった。

「天然ちゃんって、これほど人によって見え方が変わってくるなんて思ってもいなかったわ」

 と、短大時代の友達が翔子に話をしたが、その時の翔子は、それが自分に向けられて言われたことだということに気付いていなかった。

 就職してから、夜更かしをしなくなった。短大時代には、翌日学校が休みの日などは、テレビを見たり、ゲームをしたりして夜更かしをしていたが、就職してからの三年間は、翌日が休日でも夜更かしをせずに、規則正しい生活を送っていた。

――では、どうしてその日は夜更かしをしてみたくなったのか?

 その理由は分からない。

 確かに、夜更かしをするのが最初の目的ではなく、テレビを見ているうちに目が冴えてきたというのが直接の理由だったのだが、それだけではないような気がする。

 その日の夜更かしは、何かワクワクしたものがあった。休日のその日に、何かがあるというわけではない。むしろ何か予定があれば、早々と床に就いて寝てしまえばよかっただけだ。横になることもせずにテレビを見ていたのは、何かを待っていたように思えてならない。

――では何を待っていたというのだろうか?

 ハッキリとした形になっているものがあるわけではない。ただ、眠くならないことに苛立ちがなかった。今までの翔子であれば、眠らなければいけないわけではなくても、眠れない時は、精神的に苛立ちを覚えるのが普通だったからだ。

 ただ、今までの翔子は、

――気がつけば眠ってしまっていた――

 ということが多かった。

 眠ってしまうまでの意識は残っていないが、眠りに就くまで、心地よい感覚に襲われているということは感じていた。

――感覚が心地よいのに、襲われていると思うのはどうしたことなんだろう?

 自分が感じている感覚に、矛盾を孕んでいることに気付いている翔子は、この日もいつものように気がつけば眠ってしまっているという予感があった。

 実際に、睡魔が襲ってきた感覚はあった。

――このまま眠ってしまうんだわ――

 と感じると、それまで無意識に力が入っていた眉間が、こそばゆい感覚になってきていることに気付いた。

 この感覚が睡魔を呼ぶことは前から分かっていたが、意識しても、眠ってしまえば、夢と同じように、目が覚めるにしたがって、せっかくの感覚を覚えていない。

 睡魔に襲われながら、表にバイクが近づいてくるのを感じた。思わず、カーテン越しであったが、窓の方を見ると、少し表が明るくなってきていることが分かった。

――新聞屋さんが来る時間なんだわ――

 あまり夜更かしをしない翔子だったが、たまに夜中に起きることがある。

 目が覚めると、今度はなかなか眠れなくなってしまうのも今に始まったことではなかった。

 夜中の二時頃に目が覚めて、気がつけば、四時を回っていたというのも珍しいことではない。そんな時、バイクの音が聞こえてきて、

――新聞屋さんだわーー

 と感じたものだった。

 しかし、ずっと夜更かしをして、朝方近くになるということはなかった。夜中に目が覚めてから、なかなか眠れない時間が二時間近くあろうとも、眠りに就いてしまうと、起きていた時間はあっという間だったような気がしている。

 今回のように夜更かしをしてくると、同じ四時でも、本当なら寝ようと思った時間が、かなり前に思えて仕方がない。それなのに、バイクの音を聞くと、あっという間に時間が過ぎてしまったという感覚に陥るのは、きっと我に返ったと自分で感じるからなのかも知れない。

――そろそろ寝ないと――

 さすがに眠くなってきたのを感じていた。

 徹夜をしたことがないわけではない。高校時代に受験前に何度か徹夜も経験している。

 勉強をしている時の時間の感覚は、あってないようなものだった。どれほど時間を使っても、頭に入っていなければ、時間が経ったという意識はない。

――まるで、同じ日を繰り返しているかのようだわ――

 と感じたのは、ちょうど時計を見た時、午前零時に差し掛かろうとしていた時間帯だった。

――このまま日付がまたぐのを見ていようかしら?

 と感じた。

 時計のデジタルが、ちょうどの時間を指した時、

――なんだ、別に何も変わったことなんてないんじゃない――

 と、それまで日付をまたぐところを意識したことがなかったので、意識することによって、それまで感じたことのない何かを感じることができるのだと思った。

 だが、午前零時をまたいでも、それ以前もそれ以降も、一秒に変わりはなかった。少し期待しすぎた自分を恥ずかしく思った高校時代、本当は他の人も同じことを考えたことがあって、その人たちは、もっと小さな頃に、

――なんだ、何もないじゃない――

 と、翔子が感じたのと同じ感覚を、味わっていたに違いない。

 そういう意味で、いまさら高校生になって感じるということが、他の人に対して遅すぎる自分を恥ずかしいと感じたのだ。

 日をまたぐ感覚と同じように、誰もが避けて通ることのできない感覚というのがどれほどあるのか分からない。誰もそのことについて語る人はいない。皆はそれぞれ意識をしていて、敢えて話さないようにしているのか、暗黙の了解として、何かを話すと、一人だけ浮いてしまうと恐れているのか、ただ、その思いは皆が共通しての思いであろう。

 しかし、翔子はそのことを暗黙の了解だとは思っていない。何も誰も言わないのは、言葉にしようとした時、何かの力が加わって、話をしてしまうと、自分に災いが降りかかるという思いを抱かせることで、何もいえなくなるのではないかと思うのだった。

 この二つの考えはまったく違っているようで、実は根底で繋がっているのかも知れない。翔子はそのことを思うと、自分が無意識に、

――他の人と同じでは嫌だ――

 と感じていることに気がついた。

 あまり人と関わることが好きではない翔子は、人と同じ考えにホッとすることもあるが、ほとんどは、同じ考えを持っているとすれば、自分がガッカリするのではないかという思いを持っていた。

 人が集団を作っているのを見て、自分ならどの場所が一番ふさわしいのか考えてみたが、見つからなかった。真ん中にいる自分など想像もできないし、端っこにいる自分を見たとすれば、何か屈辱感のようなものがくすぶっていることに気付かされた気がしたのだ。

――私が、人と同じでは嫌な性格だって、本当に感じたのはいつだったんだっけ?

 と時々思い起こすことがあった。

 そんな時に思い出すのは、高校生の頃に友達と興味本位で立ち寄った占いの館だったのだ。

 人と関わることがあまりないとはいえ、友達がまったくいなかったわけではない。集団で行動することは好きではないが、数人であれば、嫌ではない。むしろ三人くらいがちょうどいいと思っていた。ただ、偶数では嫌で、なぜか奇数にこだわった。そのため、五人というと少し多すぎるように思え、三人がちょうどいいのだ。

 翔子は、奇数と偶数という感覚には少しうるさいところがあった。

「初詣なんかは、奇数しかだめなのよ。一社か三社、四社になるようなら、五社を回らなければいけない」

 迷信の類なのかも知れないと思ったが、昔から言い伝えられていることを無視してはいけないという思いも持っていた。

 知らないのであれば、しょうがないことだが、知ってしまったことなら、その言い伝えには従わなければいけないというのが、翔子の基本的な考えだった。

 そういう意味では数が偶数なのか、奇数なのかにこだわりがあった。そんな翔子のこだわりを知っている人はあまりいるわけではない。そのこだわりを理解してくれる人は少ないと感じている翔子は、自分の考えや発想をあまり気安く人に話すことがないようにしていた。

 高校生だった頃には特にその思いは強く、今もその考えが貫かれている。

――考えを貫くことは、私の理念なんだわ――

 と思うようになったのもこの頃で、占いの館に友達と入ろうと言い出したのも実は翔子だった。

 その時の友達のリアクションは、まるで、

――ハトが豆鉄砲を食らった――

 と言ってもいいくらいのものだった。

「いったいどうしたの? 翔子らしくないわね」

 と、少し間をおいて、一人の友達に言われたが、そういいながらその友達の表情にホッとしたものが感じられたのが、翔子にはおかしかった。

「私らしくない?」

 と聞き返し、

「ええ、翔子がまさか占いなんて信じているなんて思わなかったわ」

 と言われ、

「そんなことはないわ。別に占いを信じているわけじゃないの」

「えっ、じゃあどうして?」

「どうしてなのかしら? ただ、占ってもらいたくなったというのが今の気持ちというのかしら」

「至極全うな答えなんだけど、翔子には似合わない気がするわ」

 というと、もう一人の友達は、

「そうかしら? 翔子らしいと思うわよ」

 と言って笑っていた。

 翔子は、この意見が一番嬉しかった。

 占いの館に入ろうと思ったのは、ただの気まぐれだった。確かにそも頃、少し自分の将来について考えたこともあり、

――占いにでも頼ってみようか?

 などと、本当に自分らしくもない思いに駆られたことがあった。

 しかし、すぐにそんな思いを否定し、

――私らしくない――

 と思い返すことで我に返り、誰もが将来に不安を感じていることだと思うと、別に必要以上な意識はしなくてもいいと思い返したのだった。

 だが、占いにまったく興味がないわけではない。世の中のことを何でも、

「科学で証明できないことなどない」

 と言っていた男子のそばで、

「本当にそうよね」

 と相槌を打っている友達がいるのを見て、

――何をバカバカしいことを言っているのよ――

 と、心の底で笑っている自分に気が付いていた。

 だからと言って、非科学的なことを信じているわけではない。特に宗教の類は、胡散臭いとしか思えない。マインドコントロールという言葉が流行ったのは、翔子が小学生の頃だったか、あの頃に宗教団体による犯罪が多発していた時期があった。

「入信させられると、お布施という名目で、多額のお金を搾り取られるのよ」

 という大人のウワサをよく耳にした。

 ニュースでもやっていて、社会問題になっているのは小学生にも分かった。

 そんな時、よく目にするコメンテーターのおばさんがいた。

「彼らは自分たちの閉鎖された世界の中で、教祖によるマインドコントロールで、外の世界から隔絶されているんです」

 と言っていたが、それをテレビで見ていた両親は、

「そんなこと分かってるわよ。世間に失望した人が救いを求めて入信するのが宗教団体じゃないの。そこにつけこむから、彼らのような宗教団体は大きくなってきたのよ」

 という母親の意見に、

「それじゃあ、まるで残飯に群がったノラ猫やノラ犬が、大きくなっていくのと同じ原理じゃないか」

 と父親が言った。

 二人の表情は見るからに汚いものを見ているかのような何とも言えない表情になっていて、

「自分たちは、一切そんな連中にかかわることなんかないんだ」

 と言いたげであった。

 翔子は、そんな両親を見ていて、もっともなことを言っていると思いながらも、その顔に浮かんだ何とも言えない表情が嫌いだった。

 宗教団体への嫌悪はそのまま集団というものへの嫌悪にも繋がっていた。

――人と同じでは嫌だ――

 という発想は、宗教団体に対してのものだというよりも、まわりの宗教団体に対しての勝手な意見を言いながら、それでいて、どこか集団意識を持っている人たちに向けられていたのかも知れない。

 少数派意見を支持する考え方は、他の人にはあるのか疑問だった。日本人は判官びいきだと言われる。弱い者、つまり本人が悪いわけではないのに、弱者になっている人に対して同情的だ。そのくせ、強い者に靡くという習性も持ち合わせている。つまり、表向きは判官びいきなのだが、自分の本心とすれば、

「長いものには巻かれと」

 という言葉に集約されているのかも知れない。

 そのことが分かってきたのは最近になってからだった。

――負け組、勝ち組――

 という言葉は以前からあるが、その言葉の意味を深く考えたことはなかった。

 勝ち組というと、世間で成功している人のことをいい、負け組というと、成功できなかった人のことをいうのだと単純に考えていた。

 そんな単純な考えだけでその二つを考えてみると、勝ち組が世の中での多数派を意味し、負け組が少数派を意味しているかのように意識していた。

 この感覚は無意識の中の意識が感じさせるもので、深く考えていない証拠だった。

 確かに考えてみれば、世の中のどこに成功者が多数派だという理屈にたどり着ける根拠があるというのだろう?

 勝ち組が多くいれば、世の中はもっと潤っているはずだ。過去の歴史を考えても、符号層であったり、支配階級の人間はわずかな人たちではないか、試合階級の方が多ければ、支配される人は少ないことになり、支配する相手もいないのに、支配階級などありえない。支配階級を勝ち組というのであれば、勝ち組が多数派だという考えは明らかに矛盾している。そう思うと、翔子は今までの自分の浅はかさに苦笑するしかなかった。

――そうよね、世の中って、ピラミッド構造なんだわ――

 いまさら何を納得しているのかと言われるが、物事をインスピレーションだけの感覚で見ていると、錯覚してしまうことというのは、えてして多かったりするものなのかも知れない。

 宗教団体のいうように、

「ここに入信した人は、必ず神の御心に預かって、幸せになれる」

 という言葉を吐いていることが多い。

 ただ、宗教団体によっては、

「この世では報われないかも知れないが、今功徳をしておけば、あの世に行った時に幸福になれる」

 という謳い文句がある。

 そうやって、信者から巻き上げるという宗教団体が、当時社会問題になったのだ。

 ただ、考えてみれば、そんな宗教団体が蔓延るというのは、それだけ社会情勢が不安定で、現実世界で貧富の差が激しかったり、一部の支配階級の自己中心的な考えで、世の中の秩序が乱れたことで、世間が混乱し、不幸な人が増えたとも言えなくもない。

 一部の支配階級を勝ち組と称し、不幸になった多数の人たちを負け組と表現するのは、少し乱暴で軽率なのかも知れないが、翔子はそんな連中に対し、今では一刀両断に分けることはできないと思ったのだ。

 宗教団体は、そんな彼らに、

「あの世での幸福の約束」

 として、その見返りを求めた。

 考えてみれば、これほどたやすく金儲けできることもないだろう。

 しかし、実際には自転車操業のようなものだった。元々、生産性のある事業ではない。やっていることは単純で、

――いかに、不幸な人を説得して入信させるかというのが、最初の段階で、入信すれば、彼らの心を常ぎとめながら、彼らにはさらに自分たちと同じような人を団体に引き入れる活動をしてもらえばいい――

 というものだ。

 入信した人を使って、人づてで入信者を増やしていくのは一番楽な方法なのかも知れない。他の会員制も事業と違って、宗教団体というのは、おおっぴらな宣伝活動ができるわけではない。どんなに宣伝したとしても、宗教団体には普通に人を説得できる信憑性がないの、

――さらに最初から宗教団体というのは、胡散臭いものだ――

 という意識が根付いている人が多いことから、宣伝では効果がないことは必然のことであった。

 だからこそ、宣伝以外で人の募集を掛ける必要があるのだが、それには信者に任せるのが一番よかった。

 彼らは、元々同類だったはずだ。一部の支配階級から締め出されたことで世の中に失望していた人から、

「私は、ここで救われたのよ」

 と言われれば、これ以上の説得力はない。

 少々胡散臭いと思っていても、精神的に正常ではなくなっている人が多いことから、錯覚も起こしやすいというものだ。特に宗教団体の中で布教活動にはマニュアルがあるようで、どんなことを言えば説得力があるのかが、明記されている。説得力を感じさせる人に言われると、したがってしまうのも人の弱さだが、藁にもすがる思いだとすれば、それも仕方のないことだろう。

 宗教団体というのは、絶対的な教祖がいるのが前提だが、翔子から見ると、

――どうしてこんな人が絶対的な教祖なの?

 と思えた。

 確かに白衣のようなものを着て、髭を生やした、少し小太りの男なら、教祖としてふさわしく見えるのかも知れないが、入信してきた人には、教団の方針としてあまり食事も与えられていない人から見れば、普通ならおかしいと思うのだろうが、そこは完全なマインドコントロール。感覚がマヒしているのだろう。

 翔子は、宗教団体に一度勧誘されたことがあった。

 あれは高校時代だったが、最初は宗教団体だとは思わずにつれていかれた場所が、道場のようなところだった。その場所では別に武道のようなことをしているわけではなく、好き勝手に座っていて、話をしているだけだった。

「今日は先生がいないので、皆好き勝手にガイダンスをしているだけなので、気軽に入ればいいわ」

 と言って、彼女は知り合いがいるようで、その島にやってきた。

「こんにちは」

 とお互いに挨拶をしている。

 そのうち一人が、

「あれ? 新人の入会者さん?」

 と聞かれ、翔子が躊躇っていると、

「いいえ、今日は見学なんです。今日は先生がいらっしゃらないので、皆さんとお話できればいいと思ってですね」

「そうなんですね。何でもお話ください。ここでは、肉親や知り合いにはお話できないことでも、何でも話せる場所なんです」

 と言って、微笑んでいる。

 翔子は、本当は話したいことが山ほどあるのだが、それだけに、何を話していいのか戸惑っていた。ありきたりなことだと笑われるかも知れないし、もしここで笑われてしまったら、翔子のショックはかなりなものだと想像できた。

「じゃあ」

 と翔子は、それを敢えてありきたりな話をしてみた。

 すると、相手は質問に対してのリアクションはなく、淡々と自分たちの話をしてくれた。その内容はありきたりな質問に対してありきたりに答えてくれたのだが、

――ここまでありきたりな質問に対してでも、いくらありきたりとはいえ、ちゃんと答えてくれるのなんて、嬉しいわ――

 と感じ、彼らに暖かさすら感じた。

 だが、その思いはその場にいる時だけだった。話を終えてその場所から出てしまうと、自分が途端に我に返ってくるのを感じた。そう、我に返ってくる思いである。

――どこか冷めてきたわ――

 と思うと、後になって彼らのことを思い出すと、自分とは住む世界が違う人たちだということに気付かされたが、

――でも、あの時確かに私は暖かなものを感じたはずだわ――

 と思い返してみた。

 暖かな思いを感じたことは、あとから思い返しても感覚的に残っている。しかし、それはあくまでも感覚的なものであって、頭の中では冷めきっていたため、その思いが錯覚に近いものに思えてならなかった。

 その時、翔子は初めてさっきの団体が、

――宗教団体だったんじゃないか?

 と感じた。

 そして、もう少しで暖かさに惑わされて、そのまま彼らのことを同志のように感じてしまうのではないかと思ったのだ。

 ただ、彼らを宗教団体だから毛嫌いしたというわけでもなかった。本当の理由は、彼らが、

――皆当たり前のことを言っているだけであって、多数派意見なんだわ――

 と感じたことだった。

 しょせん、人を説得する言葉なんて、たかが知れていると思っていた翔子だったが、あの場の雰囲気の中では、彼らが多数派ではなく、少数派であるかのように錯覚してしまっていたことに翔子は衝撃を受けていた。

――どうして、そんな思いになったのかしら?

 その思いは、自分をその場につれていった友達に向けられた。

 翔子は、彼女とはそれからしばらくは一定の距離をおいていた。すると、彼女はその間に他の友達を例の道場につれていき、まんまと入信させることに成功したようだった。

 彼女たちは多数派になっていた。そんな彼女たちに対して自分が少数派であることに、翔子は喜びさえ感じていた。

――やっぱり、少数派というのは、人と同じでは嫌だという私の考えを裏付けているものなんだわ――

 と感じたのだった。

 それから少しして、

「この間のところなんだけど、今度先生がいらっしゃるので、一緒に行かない?」

 と友達から誘われた。

 その様子がこちらを探るような雰囲気だったことと、誘いが最初に行ってから少々時間が経っていたことから、

――ほとぼりが冷めるのを待っていたかのようだわ――

 と感じ、白々しさを見て取ることができたので、

「いいえ、宗教団体と関わるのは、真っ平ごめんだわ」

 と、けんもほろろに相手にしなかった。

 それでも相手は申し訳なさそうな表情でこちらを見ていた。まるで捨てられた犬のような表情が、さらに白々しさを増発させ、

――その手には乗らないわよ――

 と、睨み返してやったものだ。

 その頃から翔子は宗教団体というものに嫌悪を感じ、自分に寄せ付けないものだという判断だった。

 翔子が占いの館に入ろうと言ったのは、宗教団体を本当に毛嫌いするようになってからだったのかどうか、今では思い出せない。ただ、入ってみようと思ったのはただの気まぐれと言ってもいいくらい、深い意味はなかった。

 中に入ると、手相占い、タロット占い、さらには占星術と、いろいろあった。翔子はその中で、タロット占いの部屋に入ってみることにした。

 中には、ベールをかぶった、あたかも怪しげなおばさんのような人がいて、翔子を待ち構えていた。その時、他の友達は、

「私はいいわ」

 と言って、皆帰ってしまった。

 それでもその日の翔子は、一人であっても占ってもらいたくなり、中に入った。もっとも他の人に占いの内容を知られたくないという思いもあったので、一人というのは好都合でもあった。

――どうせ、明日になったら、誰も占いの話なんかしないわよ――

 高校時代の一日一日というのは、あっという間に過ぎるようで、それだけに、昨日のことであっても、かなり前だったような錯覚に陥ったりするものだ。実際に翌日には誰も占いのことを忘れてしまったかのように、誰も翔子に昨日のことを聞く人はいなかった。

 翔子はベールをかぶったおばさんの前に座り、

「何を占いましょうか?」

 と聞かれた。

「何を占ってほしいかは、占い師のあなたなら分かるんじゃないかしら?」

 と、翔子は最初から挑発的だ。

 おばさんは、ニコッと笑って、

「おっしゃるとおりね」

 と一言言って、静かにタロットを捲り始めた。

 こういうことをいう客は珍しくないのか、それともうなくいなす方法を分かっているのか、相手は平然としているのが、翔子を少し苛立たせた。

 手際よく捲っていくタロットだったが、時々おばさんは露骨とも思えるような手際の悪さがあった。しっかりと注目している翔子でなくても分かるレベルのもので、

――この人、大丈夫かしら?

 と相手に思わせるほどだ。

 しかし翔子はその態度を見て、

――これってわざとなのかも知れないわ――

 相手の緊張を和らげるためだとすれば、なかなかの策士に思えた。

 元々、占いを頼りにくる人は、緊張しているからだ。しかし、藁にもすがる思いであるだけに、しての不手際が次第に、不安を煽る結果になりかねない。

 だが、よくよく考えると、そんな不安の中始まる占いの中で、相手が少しでも自分のことを言い当てれば、却って信頼が強くなるとも言える。相手の気持ちを読んでいるとすれば、それは占いの力というよりも、心理学の範疇ではないだろうか? 翔子は自分がしっかり見定めるつもりで、相手に正対していた。

「あなたは、将来に深い不安を抱いていますね?」

 占いのおばさんは、一言口にした。

 翔子はその言葉に返事をすることもなく、ノーリアクションだった。おばさんは言葉を続ける。

「あなたは、自分が他の人と同じでは嫌だという意識を持っておられる。しかも本当は占いなど信じているわけではないのに、ここに来てしまった」

 翔子はズバリ指摘されて、少しビクッと身体が動いたような気がしたが、それでも何とか平静を装い、目を瞑って聞いていた。

 目を開けると、相手に自分の気持ちを見透かされてしまうようで怖かったからだ。占い師に指摘されたことは図星だったが、心の底を読まれたわけではないと思っている翔子は、まだまだ自分の気持ちを表に出すまでには行かなかった。

――これは私と占い師の戦いのようなものだわ――

 と感じた。

 お金を払ってまで、本当であれば救いを求めてやってくる相手に戦いを挑もうなど、滑稽もいいところだが、翔子は至極真面目なつもりだった。

 さらに占い師は続ける。

「あなたの将来は、正直決していいものではないかも知れません。でも、自分の気持ちに正直になっていれば、必ずいいことがあります」

 それを聞いて、

――藁をも掴みたいと思ってくる人は、この言葉を聞いて嬉しくなるんだわ――

 と、翔子は感じた。

 では翔子はどうだろう?

――以前の私だったら、きっと喜んでいたに違いないわ――

 と感じた。

――以前の私?

 それはいつのことだろう?

 中学時代のことか、それ以上前のことだろうか?

 翔子は子供の頃は、人を疑うことのない素直な少女だった。

――素直って何なのかしらね――

 そう思うようになったのは、確か中学時代ではなかったか。

「人のいうことを素直に聞きなさい」

 判で押したような言い回しは、親からも学校の先生からも言われた。

 一度ではなく何度でもである。

――しつこいわね――

 と感じたこともあったが、子供の頃の翔子は、しつこくても素直だといわれたことが嬉しくて、しつこいと感じてもすぐに忘れていた。

 素直という言葉は、どこをどう切ったとしても、悪い意味であるはずがない。

――もし素直という言葉を悪くいう人がいれば、それはその人がひねくれているからだ――

 とさえ思っていたほどである。

 そんな翔子が素直という言葉に反発するようになったのは、先生の言葉に矛盾を感じた時だった。

 翔子が小学四年生の時、学級委員をさせられたが、その時、先生に言われる前に、教材の用意をしておいたことがあった。先生は、

「新宮さんありがとう。あなたはよく気が利くわね」

 と言って褒めてくれた。

 だが、今度は別の機会に、同じように教材を用意しておくと、

「新宮さん、そんなことまでしなくてもいいの」

 と、同じ先生なのに、まったく違ったことを言ったのだ。

 どうやらその時の先生はプライベートでいろいろ問題を抱えていて、精神的に参っていたようだったが、子供の翔子にそんなことが分かるはずもない。先生としては、自分なりに優しく言ったつもりらしかったが、どんなに優しく言われても、同じ人間に対して同じことをして、最初は褒めてくれたのに、次には正反対のリアクションでは納得がいくはずもない。

 しかも、最初は翔子としてももっとものことだと思っていることだったので、余計に確信を持ったことだっただけに、手のひら返しは完全に裏切りでしかないと思わせたのだった。

――もう信用できないわ――

 と、それからその先生のことは毛嫌いするようになり、その先生のいうことに従う気はしなくなった。

 その頃から、少しずつ素直という言葉に嫌悪を感じるようになり、

――自分で納得のいかないことは、いくら人に言われても絶対にしない――

 と思うようになった。

 そういう意味ではその時の先生は、何とも罪作りなことをしたと言えなくもなかった。

 その頃から、

――長いものには巻かれろ――

 という意識を少しだけ持つようになった。

 その考えは、少数派でいるよりも、多数派に属さなければありえないことで、しばらくの間多数派に属し、その中の端の方にいるような女の子だった。

 しかし、多数派で行動していると、よく写真を撮られるのだが、その写真に写っている自分は、いつも端の方にいて、最初は、

――私どこに写っているんだろう?

 と、自分を探していたが、途中から端の方を探すようになって、

――ああ、ここだ――

 と、すぐに見つけることができるようになると、急に自分が虚しくなってきたのだ。

 しかもまわりの人を見ていると皆それぞれいい笑顔を見せているのに、自分は無表情だった。さらに、自分のまわりにいる人も皆無表情で、完全に中央の人と、端の方の人とで表情が違い、同じ団体でありながら、まったく違う人種であるかのように写っていた。

 その思いが翔子に、虚しいという思いを植え付けたのだろう。翔子は次第に団体の中から少しずつ距離を置くようになり、気がつけばいなくなっていた。

 しかも、翔子がいなくなったことを誰も気にしていない。翔子一人くらいいなくなったとしても、誰も意識すらしないのだ。

――なるほど、これじゃあ、意識もしないわ――

 と、再度写真を見直すと、そう思うのだった。

 団体から離れてみると、団体の中にいても端の方にいるのであれば、これほど情けないものはないと思うようになった。その頃から

――人と同じでは嫌だ――

 と感じるようになっていた。

――結局私は、素直ではないということなのかしら?

 それまでの翔子の考え方が、団体に所属しなければ、素直ではないという考えだったことに気付いた。団体を離れたことで自分が素直ではなくなったと思うと、複雑な気分だったが、

――あんなに虚しい思いをするくらいだったら、素直じゃない方がいい――

 と感じたのだ。

 それを確信したのが、中学に入ってからのことだった

 中学に入ると、完全に皆どこかのグループに所属しているような雰囲気になった。グループに所属していないと、完全にクラスから浮いてしまい、そんな生徒が一クラスに数人はいた。翔子もその一人だったが、翔子はその人たちとつるむ気にはならなかった。

 他の無所属の人も同じ思いのようで、皆一人で満足していた。

――私も一人で満足だ――

 と思っていたが、本当にそうだったのだろうか?

 よくよくまわりを見ると、無所属の人たちは、いわゆる

――オタク――

 と言われるような連中で、

――いくら私が団体が嫌だといっても、オタクに見られるのは、もっと嫌だわ――

 と思うようになった。

 じゃあ、どうすればいいのか考えたが、なかなかいい考えが浮かぶはずもない。ただ、そんな中で一人だけ浮いている女の子が翔子を意識しているのに気がついた。

 彼女はオタクではなかった。話をしてみれば、翔子と同じような考えを持っている人のようで、

「私、どうしていいのか分からないの」

 と言っているのを聞いて、

――彼女のような人を素直っていうのかも知れないわね――

 と感じ、感じたことをそのまま彼女にぶつけてみた。

 すると彼女は、

「そんなことはないわ。私は素直じゃないと思うの。もっというと、私は素直って言葉、本当は大嫌いなの」

 素直に見えた彼女が、素直という言葉に過剰に反応していた。翔子の知らない間の彼女に何があったというのだろう。

「私、小学生の頃、苛められていたの」

――なるほど、苛めに遭っていたというのなら、この雰囲気は分かるわ――

 と感じた。

「今は、苛められていないようだけど?」

「ええ、小学生の終わり頃に、急に苛めはなくなったの」

「よかったじゃない」

 というと彼女は寂しそうな顔をして、

「違うの。いじめのターゲットが、他の人に移っただけなの」

 という。

 翔子は、その状況を思いうかべてみた。今までに苛めというものに遭ったことはなかったが、クラスに苛められている子がいたのは小学生の頃だった。自分は端の方にいるとはいえ、団体に所属していたので、苛めに遭うことはなかったが、今から思えば、自分が苛めに遭いたくないという理由も、団体に所属する言い訳のようなものだったように思う。団体というのは、存在しているだけで、団体を構成している人を守ってくれるような気がしたのだ。そしてその思いに間違いはなかった。確かに翔子の目論み通り、苛めに遭うことはなく、平穏な時間を過ごすことができた。

 しかし、それは自分の存在を消すことで、人から苛めに遭わないようにしていただけのことだった。そのことを翔子は理解していたはずなのだが、理解はしていても、認めたくないという思いから、敢えて意識しないようにしていたのだった。

 彼女は、どんな思いで苛めに遭っていたのだろう?

 本人の気持ちを察すると、直接聞くわけにはいかない。しかし、聞いてみたいという思いも正直な思いで、聞くことで彼女との仲に亀裂が入るかも知れないという思いとの間に生じたジレンマを、翔子はしばらくどうしていいのか考え込んでいた。

「苛めって、一番何が辛いのかしら?」

 翔子は呟くように言った。

 彼女は少し寂しそうな顔になったが、それは翔子の言葉に反応したというよりも、寂しそうな表情が彼女の顔に染みついていて、何を考えているか、読みにくいところでもあった。

 しかも、寂しい表情がデフォルトになってしまったということは、それだけ苛めが終わった今でも彼女に苛めの爪痕をしっかりと残している証拠ではないだろうか。

「そうですね。一番辛かったのは、苛めということよりも、まわりで傍観している人を見るのが辛かったですね」

 と彼女は言った。

「傍観者の方が辛い?」

 翔子は言葉の意味を理解できなかったので、正直に怪訝な表情をしていたことだろう。

 その様子を見て、彼女の表情が少し変わった。それまでの寂しそうな表情に、どこか反抗心のようなものが感じられた。ただそれは、ない牙をあるかのように装いながら、こちらを睨みつける牙の折れたオオカミのようだった。虚しさが全体を支配しているにも関わらず、必死になっている様は、情けなくも移るが、その情けなさを少し怖いと感じる自分がいることを翔子は感じていた。

「ええ、傍観者って、苛める人と苛められている人以外の、その場にいるすべての人々のことなの。皆それぞれにリアクションが違っているの。あからさかにかわいそうだという表情をする人、見えているのに、見えないふりをしている人。自分がああならなくてよかったわと感じている人。それぞれなんだけど、結局皆、自分に火の粉が飛び散るのを怖がっているだけなの。恐怖の表情は、それぞれ隠しているんだけど、私から見ると、ハッキリと分かるのよ」

 と、折れた牙をむき出しにするかのように、彼女は話した。

「そうなのね。私にはよく分からないけど、大変なのね」

 というと、さらに彼女の眉間がピクピク動いているかのようだった。

「私は苛めがなくなってから、私を苛めていた人と、仲良くなったのよ。これって結構レアなことなのかも知れないけど、その時にその子から聞いた言葉が私には衝撃的だったわ」

 と言った。

「どういうことなの?」

 翔子は彼女が何を言いたいのか、よく分からなかった。

「その子たちは、傍観者の様子も分かっていたっていうの。それも、私が感じていたのと同じ意識だったんだって。でもよく考えればそうよね。苛めている方も、自分たちが苛めをしているという意識があったというのだから、当然のことなんだけど、それが苛めを受けていた私と正反対の立場にありながら、考えていたことが一緒だということに気が付いて、ひょっとすると、当事者の私たちの方が立場としては近くて、傍観者が遠い存在なんじゃないかって思ったの」

 翔子は、まだ彼女が何を言いたいのか分からなかった。

 少し考え込んでいると、

「あなたには分からないようね。要するに、苛める方と苛められる方は当事者として、それぞれにその場に責任があるの。でも、傍観者は責任がないのをいいことに、誰も止めることもなく、ただ黙っているだけ、つまりは、傍観者が一番罪深いということを私は言いたいの」

 と、彼女は言った。

 その言葉はさすがに翔子には衝撃だった。何も言い返すことができない。確かに翔子一人が傍観者の代表として叱責を受けることはないのだが、面と向かって苛められていた人に言われると、自分だけが叱責を受け、その責任を一身に受けなければいけないような気分になったからだ。

「別に私はあなたに何かをしてほしいと思っているわけじゃないの。もう苛め自体は終わったことなんですからね。でも、傍観者がどれだけ罪深いものなのかというのを知っておいてほしいと思ってるんですよ」

「どうして、私にそこまで?」

「翔子さんは、自分のことを素直だと思っているでしょう? 私はそれが許せないの。確かにあなたは、正直なのかも知れないけど、あなた自身、自分に正直なのかどうかというと、決してそんなことはないと思うの。素直だ、正直だというのであれば、少なくとも自分に正直であってほしいの。苛めを受けている時の私も、そして、苛めている方も、その時は自分に正直になりたいって思っていたのよね」

 翔子は彼女に完全に圧倒されていた。

――何も言い返せない――

 これが、翔子の本音だった。

「ねえ、翔子さん。あなたは私と仲良くなってくれたんだから、きっと私に対して何かを感じたから近づいてくれたのよね。私はそう思っているわ」

 翔子は、彼女とどうして仲良くなったのか、最初の頃を思い出していた。

――そうだわ、彼女の中に、自分がいるような気がしたんだった――

 と思い返してみた。

「私はあなたの中に、自分を見た気がしたのよ」

 と正直にいうと、

「そうなのね。私もそんな感じじゃないかって思ったの」

「どうして分かったの?」

「だって、翔子さんの視線を感じた時、私も翔子さんを見つめていたの。だから、私は翔子さんから見つめられたという意識を持ったことがないのよ」

「そうなの? それは私も同じだった。でも、それがどうしてなのか分からなかった。今は最初にあなたと出会った時のことを思い出したから、分かったようなものなんだけどね」

 と、翔子は自分の考えていることを相手も考えていたことが分かり、嬉しく感じた。

「私はさっき、翔子さんにとても厳しいことを言ったんだけど。それは翔子さんに本当の自分を分かってほしくて言ったのよ。私も翔子さんと仲良くなりたいという気持ちは同じなのよ」

 彼女のその言葉を聞いて、翔子は救われた気がした。

「ありがとう。私もあなたともっと仲良くなりたいわ」

「そう言ってくれると嬉しい。翔子さんも以前はグループに所属していて、その中で端の方にいる自分を感じた時、我に返ったんでしょう?」

 またしても、見透かされているのを感じた。

「ええ、そうだけど、どうしてそんなによく分かるの?」

「それは私が翔子さんの立場になって考えることができるというのが一番なんだけど、苛められていた時というのは、思ったよりも冷静にまわりを見ているものなの。あなたの様子を見ていると、あの時の傍観者の中で、どんな立場の人が翔子さんのような視線を浴びせる人なのかって思うと、おのずと分かってきたというものなの」

「そうなんですね。あなたのような人とお友達になれると思うと、少し安心感が湧いてきたわ」

 翔子は、彼女が自分を見透かしていると思うと、

――話す時に、言葉を選ばなければいけないわ――

 と感じた。

 しかし、相手に見透かされているからと言って、言葉を選んでいると、何も話せなくなる自分を感じた。

――それだけは避けなければ――

 と翔子は感じた。

 だからと言って考えながら話をしていると、何を考えて話始めたのか分からなくなり、言葉がしどろもどろになることで、結局、支離滅裂な会話にしかならないことは分かっていた。

 しかし、そんな危惧を抱くことはない。なぜなら、翔子の話したことに対して、彼女は的確な言葉を返してくれるからであった。

――これが真の親友というものなのかしら?

 と感じた。

 知り合ったのが、ついさっきだというのに、もうすでに親友の域にまで感覚が及んでいるなど、それまでの翔子には考えられないことだった。

 それだけ、今まで翔子には心の通じ合える人がいなかったということで、そんな人に出会えたことが嬉しかった。

――一生を通じても、なかなかこんな人に出会えないのかも知れないわ――

 そう感じた翔子は、自分の親を思い浮かべてみた。

 家族のためという言葉を盾に、両親は忙しそうにしている。

 父親は毎日仕事で遅くなり、母親も昼間はパートに出かけ、朝夕は家事に追われている。両親とも、それぞれの立場を理解しているような言葉を吐いているが、実際にはどうなんだか分からないと、翔子は思っていた。

 その証拠に、両親は結構喧嘩をしている。

 しかも、その喧嘩の理由は些細なことだった。些細なことのはずが、途中から意地になってしまうような喧嘩に発展する。その理由が翔子にあった。

 翔子のことを必ず、両親のどちらかが話題にする。それは最初から約束されていたストーリーであったかのように、毎回のシナリオだった。

――どうして、ここで私が出てくるの?

 翔子は、聞き耳を立てなくても聞こえてくる、両親のお互いへの罵声に、いつもウンザリさせられていた。

 そして、自分の話題が出ると、収拾がつかなくなるのもいつものことで、自分の話題が、喧嘩をこじらせることになるのは分かっていたが、最近になって、

――私の話題を出すことが、自分たちのストレスを相手にぶつけることになるんだわ――

 と感じるようになった。

 子供の話題になると、お互いのことではなくなる。教育方針の問題にすり替えようとしているのだろうが、自分のことでなければ、相手に責任転嫁することは実に簡単なことだった。

 ただ、話題が翔子に移ると、そこから先は一気に喧嘩が収束に向かうのだった。

 一度収拾がつかなくはなるが、それだけに、鉾の納めどころも見えてくるという一見矛盾しているかのような状況を生み出していた。

 そんな夫婦喧嘩を思い浮かべていると、大人の世界の薄っぺらさのようなものが感じられた。

――あんな大人になんかなりたくない――

 と思うと、思い出すのが、小学校時代の団体だった。

 長いものに巻かれるのが、大人の世界だと翔子は思っている。本当にそれだけなのか考えていたが、もっと深いところも考えなければいけないと感じた。

 翔子は親友ができた時、大人の世界を単純に見てはいけないと思いながらも、その反面で、

――あんな大人にならなりたくない――

 と感じたのも事実で、翔子は大人と子供の境目がどこにあるのかを考えるようになっていた。

 中学時代にできた親友とは、中学時代は文字通りの親友だったが、高校に進学すると、別々の学校になってしまった。

 翔子の方から最初は連絡をしていて、彼女の方から連絡をくれることはあまりなかった。それでも、翔子はいいと思った。高校に入学してから友達も数人できたが、親友と言えるような相手に出会ったことはなかった。

――皆、自分のことで精いっぱいなんだわ――

 と感じたが、そう思って友達を見ると、今度は自分を顧みて感じたこととして、

――私だって、同じなのかも知れない――

 と感じた。

――この人のためなら――

 と思える人が現れれば別だが、結局は自分が一番かわいいのだ。

「彼氏ができても、お友達だよ」

 と、高校になってできた友達に言われた。

「何言ってるの。当たり前じゃない」

 と翔子は答えたが、その言葉に偽りはなかった。

 正直そう思っていたし、彼氏ができるなど、想像もしていなかったからだ。

――この人のためなら――

 と思える人ができるとすれば、それは彼氏だということに、その時の翔子は気付いていなかっただけなのだ。

 高校生になって、最初の頃は彼女と疎遠になった理由は、別々の高校に通い始めたからだというのは表向きの話で、二人の間に連絡したりしなかったりと、中学時代までにはなかったぎこちなさが生まれてきた。

 そこには、最初からしこりのようなものがあったのかも知れない。それは翔子の方で感じていたものではなく、彼女の方が感じていたものだった。

 高校に入学すると、翔子は相変わらず人に馴染めなかった。

――人と同じでは嫌だ――

 という発想があったからであるが、ぎこちなさはそのうちに溝になって現れた。

 最初はそれでもいいと思っていた。友達なんかできなくても、一人でいればいいと思っていたのだが、そんな思いはまわりに伝わるもので、自然と人が相手にしてくれなくなった。

 それは、クラスメイトだけではなく、先生も翔子を避けているようだった。翔子はそれでもよかっ。しょせん先生も公務員、触らぬ神に祟りなしだと思っていたのだろう。

 ただ、彼女は違った。

「翔子は、高校に入って新しい友達を作って、私のことなんか忘れてしまうんでしょうね」

 と、言っていたが、

「そんなことないわよ。私たちは別々の学校に入っても、ずっと親友よ」

 と答えた。

 翔子とすれば、自分が高校で浮き上がっているのが分かっていたので、彼女を引き止めておくことに必死になっていた。本人は気にしていないようだが、やはり高校生活で浮いてしまっていることは、少なからずショックだったに違いない。

 そんな翔子の態度が必死すぎるのは、彼女にも分かっていた。今までの翔子からは考えられないようなうろたえぶりに見えたのだろう。

 そんな翔子を見て彼女は、一気に冷めてしまったかのようだった。

――翔子って、こんなんだったんだ――

 一度冷めてしまうと、修復は不可能だった。

 ずっと一緒にいても、一気に冷めてしまった思いを元に戻すのは至難の業に違いないのに、学校が別々であると、ほとんど無理であろう。なぜなら、それぞれに新しい世界を形成していて、相手のことを考える余裕が本当にあるのかどうか、難しいところだからである。

 そんな翔子のことを気にかけている男の子がいることに翔子は気付かなかった。

 学校にいても、まわりを避けるようにして、なるべく気配を消している翔子だった。普通にしていれば、浮いてしまった自分の存在が却ってまわりに対し、保護色を使っているかのような状態になり、意識しなくても、存在感だけはどこかにもたれているのではないかと思えたのだ。

 だからと言ってまわりを避けていると、翔子を毛嫌いしている人は別にして、それ以外の人には、どこか胡散臭さを感じさせる存在として印象に残ってしまう。それはまるで移動した後に、影のようなものだけがその場所に残ったことで、その人がこの世から消えてしまったかのような錯覚に陥るのに似ている気がした。

 翔子のクラスには、男子の中で浮いてしまっている存在の男の子がいた。彼の場合は翔子と違って、まわりを必要以上に意識しているようで、翔子にもその意識が伝わってきていた。

――一人になることが怖いのかも知れないわね――

 と思って見ていたが、彼の様子を見ている限り、どこか男らしさを感じるところがなかった。

――だから、まわりから浮いてしまっているのね――

 と思ったが、実際に彼のどんなところに男らしさを感じないのかという具体的なことは分からなかった。

 ただ、漠然と男らしくないと思うだけだったが、この思いは、

――まわりが自分を見つめる目と似ているのかも知れない――

 と感じた。

 そのうちに、彼の視線が翔子に向けられているのを感じた。

 最初、彼がまわりを意識している目が必要以上に感じられたのと同じ目で翔子を見ていたのだ。

――気持ち悪いわ――

 と感じた。

 彼は翔子を意識している姿を隠そうとせず、露骨に見ている。気持ち悪く感じたのはそのせいであった。

「なんで、そんなに私のことを見ているの?」

 痺れを切らした翔子は、自分から詰め寄った。

 すると彼は、視線は露骨だったにも関わらず、問い詰めるとしどろもどろになり、

「あ……、え……」

 としか言わない。

「そんな母音だけの言葉じゃあ、何も伝わらないわよ」

 と、罵声にも似た声を挙げた。

 実際に怒りがこみ上げてきていたからだった。

「ごめんなさい。そんなつもりじゃあ……」

 というので、

「何は、そんなつもりじゃないって言うの? 私を露骨に見ていたでしょう? 私に何か言いたいことでもあるんじゃないの?」

 と聞くと、

「あ、いえ、そんなことはありません。ただ……」

「ただ、何なの?」

「ただ、あなたが強い人だと思って、羨ましく見ていたんです」

 どうやら、気持ち悪い目で見ていたわけではないようだ。

――私のことを意識して見ていたのは、羨ましく思っていたからなんだわ――

 と思うと、翔子の方も、悪い気はしなかった。

「そう、私はてっきり気持ち悪い目で見られていると思っていたわ」

 というと、

「いいえ、そんなことは断じてありません。僕はあなたのその強さに憧れているんです」

 と、早口でまくし立てた。

 彼のように必死に言われると、それが言い訳なのか、それとも本当に自分の言いたいことなのかが曖昧な感じがした。しかし、その時話をしていて、曖昧に思えなかったのは、翔子の中に、彼に対して少し見直した部分があったからだ。

 しかし、彼の態度を許せるほどではない。ただ、彼を見ていて苛めたくなる気持ちになったのは、翔子にも不思議だった。まわりから干されていることを納得していた翔子だったが、彼を見ていて苛めたくなる気持ちになるのは今まで翔子に向けられていた視線に近いものだと感じた。

――何とも不思議な感覚だわ――

 そして、

――自分がまさか人を苛めたくなるような衝動に駆られるなんて――

 と、自分の本性がそこにあるかのようにも感じたのだ。

「確かあなたは、近藤君よね?」

「ええ、近藤守といいます」

「そうそう、守君ね。君は、私のどういうところが羨ましいの?」

 と聞くと、

「僕は、昔からずっと苛められてきたので、苛められっこの目からいつもまわりを見ていました。なるべく人に近づかないようにしようと思っていて、それは近づくと、反射的に攻撃されるという無意識の思いが働くからなんです。だから、人が横を通っただけで、足を避けようとする態度を取る。それがまわりにはナヨナヨした態度に見えるようで、女の腐ったようなやつだなんていわれたりもしていました」

 と近藤は言った。

「女の腐ったようなって表現、ちょっとカチンと来るわね」

 と言い返すと、

「ごめんなさい。そんなつもりはなかったんです」

 と、またうろたえていた。

「分かっているわよ。あなたは、言われたことをそのまま私に言っているだけなんだってね。でもね、少しでも何かを考えながら話しているのなら、もう少し違った雰囲気になると思うの。あなたは言葉を選んで話しているように、言葉の間に少し間をおいているようだけど、それは私から見れば、わざとらしさしか感じないわ」

 と、痛烈な言葉をぶつけた。

 彼は完全に固まってしまっていた。

――ちょっと言い過ぎたかしら?

 と感じたのは、彼の顔が真っ赤になって、まるでりんごをワセリンか何かで磨いて、ピカピカになっているような雰囲気だった。

――針でつつけば、パンっと割れてしまいそうだわ――

 と感じさせた。

「ごめんなさい」

 と言って、顔を上げることのできない近藤を見ながら、

「ねえ、守君。私はあなたが嫌いじゃないのよ。むしろ好きなタイプなのかも知れない。だから、私は少しきつくいうこともあるかも知れないけど、勘弁してほしいと思うの。でも、あなたのような人と話をする人がいるとすれば、きっと私のような言い方になるのかも知れないわね」

 と、近藤に向かってそう言った時、翔子はハッとした。

――そうか、彼が内に篭っているのは、ひょっとするとそこまで分かっているからなのかも知れないわ。自分から誰かに話しかけても、結局自分が口撃されて、それでまた内の篭ってしまうという堂々巡りを繰り返すということが分かっているのね――

 と感じた。

 しかも、その堂々巡りが、元の場所に戻ってくる堂々巡りではなく、次第に構成している輪が、どんどん狭くなってくるのを感じているのだろう。そこまで考えてくると、翔子は不思議な感覚に見舞われた。

――ヘビが自分の尻尾に齧りつき、ずっとそのまま食べ続けると、どうなるのかしら?

 何とも不思議な発想である。

 中学の時に、彼女との話の中で、異次元への思いについて話をしたことがあったが、その時に出てきた「メビウスの輪」の話、その時翔子が頭に描いたのが、その時に感じた、

――ヘビが自分の尻尾から飲み込み続けたらどうなるか?

 という発想であった。

 その時に思い浮かべたのは、白ヘビだった。

 実際に白ヘビというのはあまりお目にかかったことはない。希少価値であろうし、動物園でも見たこともなかった。

 しかし、白ヘビへの思いは、不思議と昔からあった。子供の頃に見たおとぎ話の中に白ヘビが出てきたという思いも強かったし、なぜか頭の中の発想として、瓶詰めにされている白ヘビの発想があったのだ。

 それを一度祖母に話したことがあった。もちろん小さい頃のことであったが、

「標本の中に、そういうものを見たことがあった記憶があるんじゃないの? たとえばどこかの展示か何かで」

 と言われて思い出してみたが、その時には思い出せなかった。

 だいぶ後になって思い出すことになるのだが、それを見たのは、確か百貨店の催しもの会場だったように思う。

 世界の動物たちという催しものだったと思ったが、その中に確かに白ヘビ以外にも瓶詰めの標本が飾ってあったようだった。

 それを見たのは、まだ十歳にもなっていなかった頃だったように思う、その時の思いが強かったのか、おとぎ話の中でヘビが出てくると、思い浮かぶのは白ヘビしかなかったのである。

――白ヘビって、妖女の化身なんだわ――

 と感じた。

 白く艶のある滑らかさが、女性の肌を思わせたからなのか、それとも、おとぎ話で出てくる女性の多くが白装束だからなのかであろう。

 特におとぎ話としては、「天女の羽衣」であったり、「雪おんなの白装束」であったりと、どうしても、白い色というと、女性の妖怪を思い浮かべるのだった。

 だが、この時の翔子は、近藤守に白ヘビを思い浮かべた。

 確かに彼はナヨナヨしていて、

――まるで女の腐ったような――

 と言われているというのも頷ける。

 ただ、それを自分の口から言うのは、翔子には許せなかった。まるで自分が非難されているかのようにも聞こえ、そうではないと分かってはいるが、気分的にあまりいいものではない。

 翔子は、

――こいつ、私の思い通りにできれば、気持ちいいだろうな――

 と、目の前にいる彼を品定めしているかのように感じた自分が、頼もしく思えるほどだった。

 実際に、それからの近藤は、翔子の言いなりだった。

 お互いに肉体関係は結ばないが、

――男なら、我慢できないくらいまで、彼の欲望を引き出してみたい――

 という、もはや悪戯心では済まないところまで来ている自分を、怖いとは感じなかった翔子だったが、後になって思うと、顔が真っ赤になったり、真っ青になったりと、羞恥と怖いもの知らずだった自分の浅はかさに、まるで信号機のように色が変わっていたに違いない。

 だが、彼には男としての欲望が欠如しているようにしか思えなかった。翔子に欲情していると感じたことはない。

――こいつは本当に男なんだろうか?

 と感じていた。

 その時、自分が尋常ではないことに翔子は気づいていなかった。それまで人と同じでは嫌だというのを意地だと思っていたが、意識している感覚は間違っていないと感じていた。しかし、近藤を見ていると、何かむしゃくしゃした感覚とは別に、ムラムラしたものを感じた。このムラムラは、相手を異性として見ているものではないにも関わらず、欲情が篭ったものに思えてきた。

 最初はまったく感じなかった欲情なのに、相手が欲情を自分に感じていないと分かっていながら、相手に対して自分の方が感じてしまうことは、何となく悔しさがあった。

 まるで負けたかのような感覚に、

――意地でも私が支配してやる――

 という思いが募ってきたことで、近藤に対して自分が優位でなければ我慢できない思いに至った。

 近藤の方は、そんなことはまったく意に介していないかのように平然としている。ただ、近藤は翔子の言うことは何でも聞いた。もちろん翔子としても、無理なことは言わない。彼の自尊心をくすぐるような命令であったり、自分の優位性を感じたいための命令であったりと、翔子主導の命令だったが、それを彼はどう感じているのか、抗う素振りはなかった。

――こいつ、何を考えているんだろう?

 最初こそ、自分の命令に従う相手に優越感を持ち、自分の自尊心を満足させていたが、ここまで相手が抗おうとしなければ、まるで自分が悪いことをしているかのような錯覚に陥り、自分を納得させることができず、却ってストレスを溜めることになってしまった。

「あなたは、どうして私にそんなに従順なの?」

 と思い切って聞いてみると、

「その方が安心できますからね」

 という返事が返ってきた。

「あなたには自尊心やプライドというものがないの?」

「そんなものあったって、何の得にもなりませんからね。相手を満足させれば自分は安全だと思えば、これほど楽なことはない。自尊心なんて、百害あって一理なしですよ」

 と、サラッと言ってのけた。

 翔子があっけに取られていると、

「翔子さんだって、僕が言うことを聞いていれば満足なんでしょう? 自尊心をくすぐられて嬉しいんじゃないですか?」

 と言って、ニヤッと笑った。

 その表情が気持ち悪くて、ゾッとした翔子だったが、

――こいつは、どこまで相手のことを分かっているのかしら?

 まるで千里眼でもあるかのようなその目に、翔子は自分が丸裸にされているようだった。

 そして、その場所は針のむしろであり、誰からも見られていないのだけが不幸中の幸いだと思っていたが、気がつけば、無数の人がこちらを見ている。

 どれも見覚えのない顔で、何よりも彼らには精気がなかった。白装束を着ていれば幽霊だと分かるような雰囲気だが、そのみすぼらしいいでたちは、幽霊にもなりきれなかった浮遊霊のようではないか。

 浮遊霊などという言葉が存在しているのかどうか分からないが、存在しているという確証がないのに、目の前にいる人たちは、存在できるスペースをはるかに越えて、他の人と重なった空間に存在しているように見えた。数が無数に感じられたのは、かぶって見えたからに違いない。

 彼がそんな連中の仲間だというわけではない。無数の人たちを感じたのは一瞬であり、すぐに見えなくなった。見えなくなってしまうと、。その連中がどんな雰囲気だったのかということも意識の中から飛んでいた。一瞬だけ浮かんで消えた衝撃的な光景は、

――夢だったんじゃないか?

 という、いつもの納得できない自分を納得させるための言い訳に収まっていた。

「私は、あなたに対して自尊心を感じたことはないはずだと思うわ。ただ、あなたが私を頼ってくるから、私が助けてあげているのyp」

 そう言いながら、

――なんて上から目線の言い方なんだろう?

 と自覚していたが、それ以外に彼に対しての言葉は思い浮かばなかった。

 あくまでも翔子は近藤に対して高飛車だった。相手が上を見上げるような視線をしているから、翔子も上から目線になるだけだ。

――自分が悪いわけではない、悪いとすれば相手の方だ――

 と翔子は、自らに言い聞かせていた。

 その時、

――これが本当の私の姿なんじゃないかしら?

 人を見下すという性格が、自分の本性ではないかと思うようになったのは、この頃からだったように思う。

 近藤とは、性的な交渉はなかった。翔子は別に処女でいることが重たいとも、処女を失うことが怖いとも思っていない。

――来る時が来れば、その時に失うだけのものだわ――

 と、楽天的に考えていた。

 翔子は中学を卒業するまで男の子を好きになったことはない。相手を男性として意識したことがないというべきであろうか。まわりの女の子が彼氏ができたといって騒いでいるのを見て、ただ冷めた目で見ていただけだった。

 学生服にニキビ面の同級生の男の子たちを見て、気持ち悪いという思い以外には何も感じなかった。しかも、彼らからは特殊な臭いがする。独特な臭いで、正直、吐き気しかしなかった。

――こんな連中に何を恋愛感情なんか抱いているのよ――

 と、他の女子を見ていて、彼女たちに対しても気持ち悪く感じる。

「この間、初めて彼としたの」

 などという言葉を聞いただけで、嘔吐を催しそうになる。

 まるで動物としか思えないオスと身体を重ねるなど、信じられなかった。

 そういう意味では近藤にはオトコとしてのフェロモンを感じない。肌は本当に白ヘビのように白いし、きめ細かさはその辺の女性に比べても、

――女らしさ――

 を感じるほどだった。

 翔子は彼に、マッサージをさせたことがあった。身体が疲れていたというのもあったが、彼にマッサージをさせたのは、彼の指の動きを感じたかったからだ。

 正直、マッサージは気持ちよかった。身体が浮いてしまうほどの滑らかさが彼からは感じられた。さらに彼の指の動きからは、指の中の鼓動すら感じられた。

――指が脈打っているようだわ――

 その打っている脈と、自分の胸の鼓動とがシンクロして、さらに心地よさを増幅していた。

――なんて気持ちいいのかしら?

 相手が男性だという意識は完全に飛んでいた。

「彼にこんなことをさせてもいいのかしら?」

 もう一人の自分が翔子に語りかける。

「いいのよ。これは彼が望んだこと」

 と、答えた自分がいたが、これも本当の自分ではなかった。

――私っていったい、何人いるのかしら?

 もう一人、自分がいるのではないかということは、以前から感じていた。しかし、まさかもう一人存在しているのではないかと感じるなど思ってもみなかった。そう思うと、まだまだ自分がいるような気がして、その数は自分が表に出している正確の数だけいそうな気がした。

 自分では一人の性格のつもりでいたが、どうやらまわりには多重人格に見えているようで、翔子がまわりと接触したくないと思っている以上に、まわりも翔子のことを避けていた。

――きっと、まわりも私を見て、気持ち悪いと思っているのかも知れないわね――

 そういう意味でも、なぜ近藤が自分に寄ってきたのか分からない。

 中学時代までの親友だった彼女とも、もうほとんど連絡を取っていない。彼女と一緒にいる時はここまで自分が多重な性格だとは思っていなかったのに、高校生になって感じるようになったのは、彼女というタガが外れたからなのかも知れない。

――いや、彼女の方も、途中から私と関わりたくないと思い始めていたのかも知れないわ――

 と感じたが、その思いは彼女と別々の高校に進んだことで疎遠になったことが原因というよりも、夢の中に彼女が出てくるのを感じたからだった。

 ただ、夢というのは目が覚めると覚えていないものだ。彼女が夢に出てきたという意識はあるのだが、どんな夢だったのかは覚えていない。まるで幻でも見たかのような感覚は、つい最近だったはずの中学時代が、かなり昔のことだったかのように感じさせる魔術のようなものだった。

 そんな時に現れた近藤という男性。彼は忘れかけていた何かを翔子に思い出させる力を持っているような気がした。それが上から目線の自分なのか、自分以外にもう一人以上の自分が存在していることなのか、不思議な感覚だった。

 翔子は、中学時代の親友とは対等の立場だったように思う。

――いや、お互いに相手に対して優位性を持っていて、それぞれのタイミングでそれを表に出すことで、均衡を保っていたんだわ――

 と感じた。

 近藤は翔子に従順であったが、まったくすべてに従順だったというわけではない。彼の中でも結界を持っていて、

――これ以上自分の領域に入ってくると、許さない――

 という思いがあったようだ。

 だが、結界という意味では翔子の方にあり、その幅は翔子の方が大きかった。

 結界というのは、相手に自分の領域に入り込ませないというもので、相手に悟られないようにするものだと翔子は思っていた。その思いは無意識に持っているもので、翔子には自分が彼に対して結界を感じているとは感じていなかった。

 ただ、彼の方には結界という意識は明らかにあり、従順であるがゆえに、その結界を意識していなければ、従順さのために、彼女から離れられなくなると思ったのだ。

 近藤が翔子から離れられなくなると、近藤よりも翔子の方に重荷がのしかかることになる。それは近藤にも分かっていることで、重荷を一緒に背負うのであればそれでもいいのかも知れないが、お互いに違う重荷を背負ってしまうことになるのだが、その思いは近藤は意識できるが、翔子に果たしてその重荷を意識することができるかが疑問だった。

 重荷を意識することができないでいると、いつの間にか自分が疲れ果ててしまっても、その原因がどこにあるのか分からない。いつの間にか身体にガタが来てしまうのだろうが、意識していない場合、それは身体に来るだけではなく、精神的にもガタが来ることになるだろう。

――結界なんて、どうして存在するんだろう?

 自分で意識していて、張り巡らせているくせに、結界の存在を疎ましく思うのは、矛盾していると感じる近藤だった。

 翔子は近藤を見ていていろいろ考えているが、近藤は翔子が考えていることをまったく意識していない。それなのに、結界だけは翔子以上に意識している。二人の関係は、どちらかが意識していないことを相手が意識することで、お互いを補う関係にあり、二人で一人前という関係なのではないだろうか。

 だから、翔子は上から目線であっても、彼には自尊心を傷つけられたという意識がないのだ。結界を意識しない翔子がいるように、自尊心を傷つけられたという意識のない近藤が存在するのだ。

 翔子は以前のことを思い出していると、頭の中が走馬灯になっているのを感じ、現実に引き戻された気がした。

 目の前には先ほどの占いのおばさんがいて、

「どうですか? 今あなたは、今までの自分のことを顧みていたはずですよ。何が見えましたか?」

 という言葉に対し、

「結界……」

 と翔子は一言言った。

「そうね、結界ね。あなたは今までそれを意識していなかった。でも、そのことを意識するようになって、自分が前にも後ろにも進めなくなったのを感じたはずですよ。自分がいるのは真っ暗な世界。そして、足元がまったく見えないことで、前にも後ろにも進めないと思っているんですよね。それを分かっていて、それでも進まなければいけないと思う。ひょっとして、一思いに楽になりたいとでも思っているのかも知れないわね。でも、その気持ちは誰にでもあるものなの。だから、人と同じでは嫌だと思っているあなたには、それを認めることはできない。苦しい思いをしていることで、あなたは不安から抜け出すことができない」

 占いのおばさんは、そこまでいうと、言葉を切った。

――その通りだわ――

 さっきまで疑うことしか頭になかった翔子だったが、本当は藁にもすがる気持ちだったことを思い出した。

――やはり、私の中は矛盾だらけなんだわ――

 と思った。

 この場合の矛盾というのが何を指すのか分からないが、少なくとも「結界」という言葉が関わっているのは間違いないと思っている。

「あなたは、自分に対して従順な人を求めているのは間違いない。でも、それは過去に出会った人との再会を望んでいるとあなたは思っている。でも、そこには乗り越えなければいけない結界がある。どうすればいいんでしょうね?」

 と、占いのおばさんは、そう言って、翔子に問いかけた。

 翔子は、何も答えられなかった。

「まずは、あなたは自ぶなどうしたいのかを考える必要があるようですね」

 と、占い師は言うと、それ以上何も言わなかった。

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