第4話 理美にとっての真実

 幸一は、この三年間、理美のことを忘れたことはなかったが、さすがに三年ともなると、記憶も薄れてきた。幸一のことを元気づけようとしてくれる人もいなくはなかったが、どうしても一人になりたい。一人になりたいというよりも、人といるのが嫌なのだ。それでも三年という月日は、そんな幸一に余裕を与えてくれた。

 これまでの三年間が夏だとすれば、やっと最近、秋風を感じるようになった。虫の声もセミの声しかしなかったはずなのに、今は聞こえてくるのは鈴虫の声だけだった。

 鈴虫の声が、涼しい風を運んでくれる。風が身体に当たるだけで、ゾクッとした感覚が、汗を掻いているわけでもないのに、濡れているシャツを感じさせ、体温が次第に下がっていくのを感じた。

――一人でいるのが心地よかったはずなのに――

 秋という季節は、そういう季節だった。

 一人でいると余計にシャツに纏わりついた汗を心地よく感じられる季節で、耳の奥から音楽が流れてくるのを感じた。

 静寂が似合うと思っているくせに、音楽が勝手に耳から流れてくる。本能的なものなのだろう。

 秋は、明と暗、静と動、正反対の感情と本能を持つことのできる唯一の季節だ。幸一は、この季節になると、自分が躁鬱症であることを再認識する。最近でこそ、躁鬱の状況が表に出てくることはないが、秋になると必ず躁鬱を意識してしまう。そのくせ心地よさが残っている。それだけ明と暗がハッキリした季節だった。

 あれは、まだ八月のことだった。盆も終わり、それでも秋の気配が程遠い時期である頃、夕方ちかくになると、いつも頭痛に悩まされていた。

 頭痛は、シャツに汗を纏わりつかせ、汗が体温を奪う頃になると、指先に痺れを伴わせた。

「秋が近づくといつものことだよな」

 と、感じていると、時期的には夏バテではないかと思わせた。

 仕事が終わり、駅まで行くと、一気に汗が吹き出してくるのを感じた。案の定汗が吹き出してくると、指先の痺れを感じ、頭痛を緩和させようと、睡魔が襲ってくるのを感じていた。

 指先の痺れが収まってくると、自然と頭痛もしなくなる。そんな時、気が付けばそのまま駅のベンチで寝ていたこともあったが、その日の頭痛も、そのまままともには家に帰れないほどの疲れが、最後には襲ってくるのを感じさせた。

 やはりその日も想像通り、気を失っていたようだ。気絶まではしていなかったようだが、目の前に誰かいるのを感じながら、相手が誰なのか、すぐには分からなかった。ただ、甘い香りがしてきたことだけは意識していたが、夢の中で嗅いだ香りであれば、すぐに忘れてしまいそうなのに、その時の香りは、絶対に忘れることがないような意識を、頭痛から収まってくるのを幸一はおぼろげながら感じていた。

 その甘い香りは以前にも感じたことがあるような気がしていた。それがいつどこでだったのかということは、もし頭痛さえなければ、すぐに思い出せた気がした。ただ、それが理美ではないことだけは、ハッキリとしていた。

 だが、理美のことをどうしても思い出させる相手だということに違いはない。幸一は消え入りそうな意識の中で、シルエットに浮かぶ女性の顔を思い浮かべていた。

 もし、相手が理美であれば、シルエットまでイメージが浮かんでいても、すぐに想像できるとは思えない。白い煙幕が足元に広がる中、建物も山も海も何もない、ただ空と雲が広がっているだけの世界の中で、じっくりと顔が浮かんでくるに違いない。

――他の女の子の顔が浮かんできそうになるのを妨げるため――

 つまりは、間違って違う子を思い浮かべてしまいそうな気がしているからで、それが誰かということも分かっていた。

 彼女が何を思って幸一に近づいてきたのか、幸一には心当たりがない。

 理美がいなくなってそろそろ三年が経とうとしていたにも関わらず、彼女はまったく幸一に対して近寄ってくる素振りはなかった。

 理美の親友として、幸一の頭の中にずっといた存在感は、未来以外の誰でもなかった。理美には、風が吹き抜ける高原をイメージさせる雰囲気があるが、未来には、足元からドライアイスの煙が立ち込め、顔はシルエットで見えない雰囲気の場所を彷彿させるという、やはり両極端な世界を二人それぞれに幸一に与えてくれる。

 両極端な二人の存在は、二人を比較することで、それぞれに大きなものに拡大させるという効力があった。

 幸一が未来に女を感じたことがなかったかといえばウソになる。特に理美が消えてから三年が経つ。その間、未来のイメージが強まってくることを、幸一は抑えることができない。抑えることを考えることもなかった。

 コンサートの夜、理美が消えてしまい、さらに理美のことを知っている人がいなくなっていた。親友だと思っていた未来も理美のことを知らないという。

「そんなバカな」

 確かに知り合ってからさほど時間が経っているわけではなかった。それだけにこの憔悴は自分でもビックリしていた。

 今までに数人の女性と付き合ったことがあったが、そのほとんどは長く続いたことはなかった。長くて半年、短い時は、一、二度のデートをしただけで、別れを迎えてこともあった。

 幸一は自分から別れを切り出したことはない。すべて向こうから別れを言われるか、自然消滅かであった。理美の場合も、ある意味自然消滅と言っていいかも知れない。

 自然消滅は、最初はショックが残るが、すぐに切り替えることができた。それなのに、理美に対してだけは。ショックの尾を引いたまま、毎日の生活が淡々としたものになり、何が楽しいのか分からなくなっていた。

 それまでの幸一は、ショックを受けている時以外は、毎日の中に、何か楽しみを見つけることができていた。

 理美がいなくなったことでのショックは、一週間経っても引くことはなかった。気が付けば一か月が経っていて、毎日の生活が淡々とした惰性の時期に入っていたにも関わらず、ショックが引いてくることはなかった。

――一体いつまで続くのだろう?

 今まで、ショックから立ち直るには、きっかけが必要だった。きっかけというのは、自然と訪れるわけではなく、ショックを受けている中にでも、まわりの人の気を遣ってくれることが分かってくると、そこに生まれる暖かさが何かを産むと思っていた。それが小さなきっかけとなり、気が付けば、いい方に向かっていることに気付く。そこまで来ると、

「もう大丈夫だ」

 と思うようになり。次第に、

――何をやってもうまく行く時期に差し掛かったのではないか――

 と、思うようになる。それが理美がいなくなったことから立ち直るきっかけで、形になって現れたのが、未来が幸一を訪ねてきたことだった。

「どうしたんですか?」

 急に訪ねてきた未来に幸一は驚きを隠せないまま、何とか平静を装っていた。

「あなたに謝らないといけないと思って」

 未来はあくまでも恐縮している。

「何をですか?」

「あなたが、理美のことを知らないのかって来た時、私は知らないと答えましたが、本当は知っていたんです。知っていてウソをつきました」

「どうしてですか?」

「理美は、あの時、誰にも会いたくないということで、この私にもメール一本よこしただけで、私の前からも消えてしまったんです。私もハッキリとした理由は分からないので、私もビックリしていますが、そんな時にあなたが訪ねてきた。私も自分が混乱しているということもあって、あなたに対して、突き詰められると、きっと邪険にしたと思います。私は人を邪険にしたくなかったので、苦し紛れでしたが、知らないと答えたんです」

「そうだったんですか」

 他の人はともかく、未来が理美のことを知らないということはありえないと思っていただけに、未来の話を聞いて、目からうろこが落ちたような気持ちになった。

 しかも、これだけ時間が経っているので、黙っていれば、自然に忘れ去るのを待つことができるのに、それをわざわざ言いに来るというのは、律儀という言葉だけで片づけられるものではないだろう。

 そう思うと、幸一は未来という女性に大いに興味を持った。

 二人が急接近するまでに時間は掛からなかった。冷静に考えれば、

――なるべくしてなった関係――

 と思えるはずなのに、幸一は、

――唐突に訪れた幸運――

 だと思った。

 自分で引き寄せたにしても、本当に運命のように、見えない何かの力が働いたことによって得られた幸福であったにしても、それは、幸一にとって最高の幸せであるに違いなかった。

 未来が幸一を誘惑したのだという発想は、幸一の中にはなかった。だが、その発想が幸一になかったことで、未来の中にあった計画はスムーズに進むことになった。

 未来は、理美に比べて積極的だった。目的に向かって、まるで無駄な動きをしない。だが、そう感じさせたのは、未来があくまでも冷静だったからだ。

 幸一には、冷静な未来が見えていた。頭の中から理美のことは消えていたが、それも冷静沈着な未来がそばにいることで、理美の記憶がなくなってしまったのだということは分かった。

 未来を抱いたのは、未来が最初に幸一を訪ねてきてから、ちょうど三か月が経った頃だった。

 幸一は女性経験がないわけではなかったが、女性と交わってしまうと、何となく付き合いがぎこちなくなってしまい、抱いてしまったことがターニングポイントになり、別れに向かってまっしぐらということが、今までのパターンだった。

 理美とは、身体を重ねるところまで行かずに別れてしまったが、その親友である未来とは、身体を重ねることになった。幸一の中で少なからずの罪悪感があったのは仕方のないことなのかも知れない。

 したがって、今まで付き合った女性と、二度目の性交渉はほとんどなかった。どちらからともなく、二人きりになることを避けるようになっていたのである。そんな息苦しい関係が、そんなに長く続くわけもない。

 だが、未来との付き合いにそんな心配はなかった。

「ここから先が、私たちにとっての『未来』なのよ」

 という未来の言葉に、幸一は黙って頷いていた。

 最初に身体を重ねた時、主導権は未来にあった。

 初体験の時は別として、それ以外の時の主導権は必ず幸一だった。幸一が好きになって付き合うようになる女性は、控えめの女性が多く、主導権は必ず幸一が握ることになる相手ばかりだったのである。

 それなのに、未来の場合は、身体を重ねた時だけではなく、一緒にいる時、そのほとんどの主導権は、未来にあった。今までの幸一なら、プライドが許さない感覚に襲われていたのだが、

――僕は何てくだらないプライドに縛られていたんだ――

 と思えるほど、未来と一緒にいることで、それまでの自分を未来によって否定されたにも関わらず、気分はスッキリとしたものだった。

 未来とのセックスは、それまでの女性とは違っていた。乱暴なところがあると思うと、肝心なところで甘えてくる。一旦落としておいて引き上げてくるタイミングが絶妙なのだから、相手に主導権を握られたとしても、それをくだらないプライドが邪魔をすることはなかった。

――未来は、Sなのだろうか?

 と思ったが、それ以上に、女性というよりも、男性的なところのある女であることを、今さらながら気が付いた。

 そして、自分は今まで決してMではないと思っていたはずなのに、その思いが覆される日がやってきたのだと感じた。

――未来の前であれば、Mであっても構わない――

 それは、自分を曝け出したいという気持ちの表れであるということだろう。

 幸一はその時、未来のことしか見えていなかった。だが、最初に身体を重ねた時、幸一には、それまでに感じたことのない違和感があった。それは、快楽に蝕まれる自分の身体を意識したことだった。

 だが、それは一瞬だけのことで、すぐに未来の身体に、頭は支配された。

 違和感を与えたとすれば、それは理美以外に考えられないが、自分の前から姿を得した理美が、今さらどう自分に影響を与えようというのか、幸一には分からなかった。

 未来への印象が急に変わったことに気が付いた。

 最初の数か月は、確かに自分の知っている未来だったが、途中から、顔や身体は未来なのに、途中から、急に違う女になった。どこが違うのかと聞かれても、

「インスピレーションが違うと言っている」

 としか答えようがないが、未来の中に、血が通っていないかのように思えたのだ。

「ねえ、セックスって、子供を作るためだけのものだっていう考え方は、おかしいのかしら?」

 未来が急にそんなことを言い出した。しかも、さっきまで幸一の腕の中で乱れていた余韻を残した状態でである。

「それじゃあ、あまりにも寂しいんじゃないかな?」

「じゃあ、寂しいってどういうこと? 人って、一人で生まれてきて、一人で死んでいくものじゃないの?」

「人に限らず、生あるものは皆君の言う通り、一人で生まれて一人で死んでいくものだけど、でも、少なくとも生まれる時は、母親のお腹の中からでしょう?」

「そうね、でも、私は寂しいという感情が時々分からなくなるの。寂しいのと孤独ってどう違うのかしら?」

「寂しいから孤独だとは限らないし、孤独だから寂しいとも限らない。僕はそう思う。人によっては、孤独だから寂しいと思っている人がいるようだけど、僕はそうは思わない。孤独と、寂しさというのは、別物だと思うんだ」

「私は同じ意味だって思ってた」

「それは危険な発想なんじゃないかな? 一人でいることが寂しいんだったら、自分の時間を持つことなんてできなくなってしまう。人と協調することを考える人間ばかりが増えてしまったら、個性なんてなくなってしまう。そんなことになってら、世の中は、一人の独裁者が現れるのを待つだけになってしまうんじゃないかな? もっとも、独裁者が出てくるのは、何もそれだけの要因ではないと思うけどね」

 未来は、それを聞くと、身体を幸一から離し、天井を見つめていた。見つめているその先には天井しかないはずなのに、その横顔からは、未来がさらにその先を見ているように思えてならなかった。

 それにしても、その日の幸一は変だった。「寂しい」、「孤独」というキーワードから、なぜにいきなり「独裁者」という発想が生まれるのだろう。確かに幸一は自分の中で、奇抜な発想が時々生まれることを感じていた。

 あの日から、少しずつ幸一の中の歯車が狂い始めた。

――あの日――

 それは、理美と出会った日である。出会い自体は、何の変哲のないものだったが、今になって思うと、あの日から自分の見えていた道ではない方へと進んでいっているように思う。

 しかし、今から考えても、幸一の目指す先に何があったのか、覚えていない。確かに先が見えていたはずだ。それが、無難な人生の道だったのか、いばらが少しでも見えていたのか分からないが、今よりも希望に満ちていたのは間違いないことだった。

 理美と出会って、それからの自分がどうなるのか、ハッキリと見えた。今まで漠然としてしか見えていなかった将来が、映像となって見えてきた。しかし、

――これって妄想ではないのか?

 という、当然ともいうべき思いが、見えてきた映像の信憑性を疑わせた。

 理美が急に消えてから、また幸一の歯車が狂いはじめた。元々狂っていたのだから、この時に、元に戻す機会もあったのかも知れない。しかし、それはできなかった。それをするだけの勇気がなかったからだ。

――元に戻すことが果たしていいことなのだろうか?

 と、余計なことを考えてしまった。

 元に戻そうとして、本当に元に戻るのかという危険性を考えると、狂ったままの流れにうまく乗ることを考えた方がいいのかも知れない。戻そうとしても、一度狂ってしまったことで戻るべき場所も、若干の変化がないとは限らない。戻るべき場所だと思って見ている場所も、最初とまったく違った形になっていることも少なくはない。

 幸一は、次第に後悔しはじめた。自分の気持ちが未来に流れたのは、理美が消えてしまったことで、自分の不安定な気持ちにすかさず入りこんできた未来に、さっさと身体を許してしまったことをである。未来を好きになったからではなく、自分の寂しさを紛らわすつもりだったというだけに過ぎないということだ。考えてみれば、寂しさと孤独について、講釈をぶちまける資格など、自分にはないのだ。そのことを感じていると、自己嫌悪に陥らずにはいられなかった。

 ただ、そのことに気付いたのも、最近の未来が、自分の知っている未来なのかという疑問を抱くようになってからである。

 その一番の違和感が、最初の時にあったはずの「男性の雰囲気」がなくなっていることだった。

――未来という女性は、相手によって、男性にもなれるんだ――

 と、思った時、未来が同性愛者ではないかと思ったことだ。その思いはすぐに打ち消されたが、

――相手が理美ではなかったか?

 という思いが、残ってしまった。

 この思いは、結構長く頭の中にあった。未来が同性愛者だという思いはすぐに打ち消せたのに、そこに理美が絡んでくると思うと、そう簡単に打ち消すことができなくなっていた。

――僕は理美のことが忘れられないんだ――

 という思いを強く抱くようになったのは、この時からだった。

 理美を忘れたくて心が傾いた未来だったはずなのに、未来と身体を重ねることによって、自分の本当の気持ちに気付かされるというのも皮肉なことだ。

 未来が幸一の前から姿を消したのは、それから半月ほどしてからだった。未来の場合も理美の時と同じで忽然と姿を消した。そして、未来の存在も同時に、他の人の記憶から消えていた。

 今度は未来を探そうという気力はなかった。

――探して、もし見つかったとしたら、僕はその時、どのようなリアクションをとるのだろう?

 すでに他人事である。

――どのようなリアクションをとればいいのだろう?

 というのであれば、自分の意志が働いているということなのだが、遠くから見ている傍観者のようで、傍観者であれば、どういう行動を取るのか、分かるというのだろうか?

 ただ、心の奥にすきま風のようなモノが吹いていた。それは、寂しさから来るものだということは分かっていた。

――孤独なのかな?

 と思ったが、同じ寂しさでも孤独とは少し違うものだった。しいていえば、「孤独」というよりも、「孤立」と言った方がいいだろう。幸一は、心の中でそう感じていた。

「孤独」と「孤立」、似ているようだが、ニュアンス的にはまったく違うものだ。

 まわりに放浪されながら、辿り着いた先、一人になっていれば、それは「孤独」であるが、まわりに翻弄されるわけではなく、自分の意志を持っての行動であったり、疑いを持たずに行動したことが災いして、結果的に一人になった場合を「孤立」というのではないだろうか。

 一人になりたいという意識があって一人になる場合も「孤立」と言えるだろうか?

 それは孤立ではない。一番近い分かりやすい言葉とすれば、「独立」ではないだろうか。「独立」は完全に自分は他の人と違う一人の人間として存在することを、自ら意識して暮らしていくということである。人とは違うという意識を無意識にであっても持っていないと、独立は達成できないに違いない。

 幸一が自分に独立を意識しはじめるまでに、三年という月日が掛かった。三年を長いと感じるか、短いと感じるかは、その人の持つ気概の違いではないだろうか。

 その頃には、未来への意識はなかった。未来が消えて一人になって、孤立を感じたことで、しばらく女性不信にも陥った。

 だが、それも冷めてくると、今度は、孤立だけが残った自分をしばし冷静に見ていたのだ。

 孤立についていろいろと考えてみた。

――未来に対して変な錯覚を起こしてしまったことがいけなかったのだろうか?

 未来は、勘のいい女性だった。付き合っている男性が、少しでも精神的に変化があれば、すぐに分かるだろう。そして、自分のこともよく分かっていた。自分が相手を追いつめていることも分かっていたはずだ。追いつめられる方は、未来に追いつめられると、ヘビに睨まれたカエルになってしまい、足元を見ることができなくなってしまう。

――一歩でも動けば、谷底に真っ逆さま――

 そんな状態の時に容赦なく風も吹いてくる。

――このまま、身体の力を抜いて楽になろう――

 と、すぐに考えてしまった幸一は、孤立というものが、命がけの覚悟がなければ、成立しないと感じたのだ。

 だが、冷静に考えると、最初のきっかけは、必ず相手の女性から始まっていた、自分から始めたきっかけは、すぐに相手に拒否される。あっという間のできごとだ。理美や未来との間のことに比べれば、結末が決まっているだけに、下がることはあっても、上がることはない。自然に意識させる分にはいいのだが、自分からアタックして、相手の意識に入いろうなどと考えれば、相手から毛嫌いされて終わってしまう。

 幸一は自分の中に、「寂しさ」、「孤独」、「孤立」と、それぞれ持っていることを自覚した。この三つがどのような絡みで自分に影響を及ぼすのかということまでは分からなかった。

 三年経って戻ってきた理美は、以前の理美と変わっていなかった。

 そう思うと、幸一は急に別のことを思い出した。

――あれは夢だったんだろうか?

「私行くところがないの」

 と、まるで捨てられた子犬のような顔をしていた理美が瞼の裏にいた。

 理美が自分の部屋にいて、そして、独立して、そして、また戻ってきて……。

――これって、僕の記憶?

 夢にしてはリアルな感じがした。おぼろげであるが、一旦思い出してしまうと、忘れてしまうことはないような気がする。

――あれはいつだったんだろう? 真っ暗な空を見上げながら、雪が舞うのを想像していた気がする――

 いつも一人で迎えていたクリスマス。今年こそは……、と思っていたところに、三年ぶりに返ってきてくれた理美だ。

 理美のことを考えていると、未来のことは記憶からまったく消えていた。

――あれは本当に未来だったんだろうか?

 理美が帰ってきてから、街でバッタリ出会った未来、彼女には幸一に対しての意識は一切なかった、

「友達の彼氏」

 としての意識しかなかった。

 さらに幸一の方も、未来を見て、三年前に身体を重ねた女性だという意識はまったくなかった、ただ顔が似ているだけの別人としての思いしかなかったのだ。

 幸一は、何気に「パラレルワールド」を意識していた。三年ぶりに現れた理美と二人きりで過ごしたクリスマス。あれはパラレルワールドの一つなのではないか。しかもその一つが一番自分が望んでいることであり、心地よい感覚が頭にも身体にも残っている。

 想像している世界では、理美が何を考えていたかということまで分かる気がしていた。お互いに探り合いの気持ちがあるはずなのに、その意識を感じさせないということはそれだけ近い考えでいることを示していた。

 しかし、それでも相手の気持ちは分からない。それが結界というものになるのではないだろうか。近ければ近いほど、それ以上近づくことはできない。そのことを幸一は理解していた。

 幸一は、クリスマスの夜、理美と二人だけの時間を、限りなく長く持ちたいと思っていた。やっと希望していた理想の世界に近づくことができた。クリスマスというこの日を自分にとっての記念日にしようと思っていた。

 理美には、その気持ちが痛いほど分かった。

 幸一が抱いている妄想が、現実に近づいていて、そのおかげで、理美が考えていることの一部を見ることができていることも分かっていた。ただ、それは一部であって全体ではない。表面が見えているだけだった。

 その時、理美の携帯に、電話が入った。それは時空を超えた携帯電話で、掛けてくるとすれば、晃司しかいない。

「ちょっと、ごめんなさい」

 そう言って、理美は中座して、表で電話を受けた。

「もしもし」

 電話に出た理美の耳に飛び込んできたのは、意外なことに女性の声だった。

「えっ、あなたは誰?」

 この電話は時空を超えることのできる電話で、連絡してこれるのは、晃司だけのはずだった。

「私の声を忘れたの?」

 確かに電話の声になると声が変わって聞こえるので、想像もしていない相手からの電話に戸惑っている理美には相手が誰か分からない。『忘れたの?』と言われても分かるはずはなかった」

「どうやら、相当パニくっているようね。私よ、未来よ」

「未来? どうして、あなたがこの電話を掛けることができるの?」

 すると、電話の向こうから、今度は聞き覚えのある男性の声が聞こえた。それはまさしく晃司だったのだ。

「君に黙っていたわけではないんだ。過去に戻って君が幸一さんと再会したことで、過去が変わったんだ」

「えっ? どういうこと? 私が何かしてはいけないことをしたというの?」

「そういうわけじゃないんだ。今君がしていることが悪いことなのかどうかなんて、誰にも分からない。ただ、一つ言えるのは、過去に戻って歴史を変えると、世界が崩壊するなどという都市伝説は、真っ赤なウソだったということだ。僕が、君のところにタイムマシンを運んで過去に行くようにお願いしている間に、未来は変わっていたんだよ」

「それは違うわ」

 これは未来の声だった。未来は続ける。

「未来が変わったんじゃなくって、あなたが帰る場所が違ったということなのよ」

「どういうことなの?」

 理美にも分かるように説明してほしかった。

「あなたは、戻るべき世界は、本当はここではなく違う場所だった。でも、未来が変わってしまったことで、元々の世界には、変わってしまった世界を生きてきたあなたがいたの。だから、タイムマシンはあなたが帰るべき場所、つまりあなたがいない世界を計算して、今のこの場所に帰ってきたということなの。これだけ精巧なマシンを作るだけの文明は、やっぱりこの時代まで来ないと作ることはできないでしょうね」

 理美と晃司と未来。この三人の中で一番事情を把握しているのは、未来のようだった。

「理美、私たちの時代に主流だった『ダミー人間』、つまりサイボーグは、この時代にはいないのよ。皆自分たちで生活している。そう、ちょうど今あなたがいる時代のような感じね」

「どうしてサイボーグがいなくなったの?」

「本当はいたのよ。でも歴史が変わったことでいなくなったのね」

「よく分からない」

「私は、あなたと一緒に、幸一さんのいる時代に行ったでしょう? 幸一さんの時代では、あなたと私は、『光と影』なのよ。私が存在している時は、あなたは存在できない」

「えっ、でも。合コンの時とか、一緒にいることもあったでしょう?」

「だから、その時の私は、『ダミー人間』だったのよ。どうしても、幸一さんの時代には私たちにはできない『結界』と呼ばれる限界があったの。今、幸一さんはそのことを感じているはずよ」

「……」

「でも、あなたはどうしてコンサートの夜に姿を消したの?」

「それは、あなたの今横にいる人に聞いてほしいわ。その人の指示だったのよ」

「そういうことね。この人が幸一さんを試したのかも知れないわね」

「どういうこと?」

「あなたにいきなり姿を消させて、私を近づくのを待っている。そして、私が彼の予想通り近づいて、身体の関係になる。でも、私はすぐに幸一さんから身を引く、そのこともこの人の計算にあったんでしょうね。そこで、私のことをインプットした『ダミー人間』を私ソックリに作って、幸一さんに近づける。私は、本当に好きにならないと、一度は寝ても、二回目はないのよ。理美だけは別だったけどね……。でも、彼の誤算は、幸一さんがその画策によって、『ダミー人間』の存在を知ってしまったということ。彼には、未来のことを予測できるようになっていたのかも知れないわね。彼にはそれだけ、過去の人間に対して、自分が優位に立っているという偏見があったのよ。それが一番の誤算。もし、私はそのことを教えてあげなければ、彼は頭でっかちのまま、もっと、状況を悪化させていたかも知れないわ」

「ところで、彼って一体何者なの?」

「彼は、私のひ孫に当たるのよ。あなたには、あなたのひ孫と言っていたかも知れないけど、実はそれも間違いではなかった。歴史が違えたことで、彼は私のひ孫になったのよ」

 理美の頭の中はまだ混乱していた。

――一体、何をどうすればいいのか?

「理美、あなたは今いる時代を生きる必要がある。なぜなら、あなたが帰る場所はもうないの。それは、元々いた時代に、もう一人のあなたが存在しているのよ。それは私にも言えることで、私もあの時代には帰れない。あの時代には、もう一人の私がいる……。そして、『ダミー人間』というのは、存在していないのよ」

「じゃあ、私は幸一さんと一緒にいてもいいの?」

「ええ、あなたは、幸一さんにとって三年後に再会した理美なのよ。あなたは、相当きつい思いをして、今そこに戻ってきたわけでしょう? 私には分かっているつもりよ」

 未来の声が涙声に変わっていた。

「ちなみに、私はここでは、『ミック』って呼ばれているの。この時代は名前をカタカナにする必要があるからね」

「私は何になるのかしらね?」

「あなたは、『リミット』よ。それは、今のあなたに限界があることを示しているわ。ただ、その限界も、あなたが限界という意識を持つことで克服できる。だから私はあなたに言いたいの。意識した限界から先を、あなたの力で切り開きなさいってね」

 理美は、自分が幸一のことを好きだということを意識していた。だが、自分が彼の子供ではないかという意識から、一歩踏み出すことができなかった。だが、今はそんなことは関係ない。親子であったらどうだというのだ?

「自分と幸一さんの子供が自分になるということになる」

 ということだが、それも、この世界の理美も、子供として生まれてきた理美も、存在している世界には、その人しか存在していない。だから、パラドックスが存在しても、あってはいけないことだとは思えない。

――そのための『ダミー人間』だったのかも知れないわ――

 パラドックスを正当化させるために、理美の時代に存在した『ダミー人間』、それを否定できるのは、その時代に、もう一人の自分が存在しているか存在していないかということの方が重要なのだ。それが科学では解明できない部分のパラドックスを解明させるカギになることを、理美は知った。

 電話を切った理美は、急いで幸一のいる場所に戻った。

「幸一さんが手を広げて待っていてくれる」

 そう感じただけで、胸にこみ上げてくるものがある。

「これが恋なんだわ」

 と思い、目の前にいる幸一に飛びついた理美。目を瞑り唇を重ね、幸一に身を委ねる。

 気が付けば二人は、すすきの穂が揺れる風が吹き抜ける高原にいた。

――これが時間の歪みなのかしら?

 漠然と感じた理美は、そのまま身体の力が抜けていくのを感じた。

 すると、その奥に大きな門が見えた。門の前には一人の門番がいる。理美と幸一に気付いているようだが、目はあくまでも、こちらを見ようとしない。

 理美の顔を見ている幸一が微笑んだ。理美は身体が宙に浮いている感覚から、指先の痺れを思い出させた。そして次の瞬間、目の前にいて、抱きしめてくれていた幸一が忽然と消えた。

「幸一さん、どこ?」

 理美は、身体の力が抜けてくるのを感じ、同時に気だるさが襲ってきた。まるでボロ雑巾になったような惨めな気分にさせられ、しばし、空間を彷徨っているのを感じた。

 だが、それも長く続くことはなく、気が付けば、どこかの部屋の前に放り出されていた。

 見覚えのあるところだった。理美は思い出そうとしたが、部屋のこと以外でも、いろいろな記憶が欠落しているのを感じた。

――どうしたのかしら?

 そう思っていると、目の前に、一人の男性が立っていた。

 彼は。

「信じられない」

 と言わんばかりに目をカッと見開いていたが、次の瞬間には、涙目になっていた。それは懐かしい人を見つけたかのようだった。理美も嬉しくなって、何とか憔悴した身体で微笑むことができた。

 そして、何とか声を出せるような気がして、声を出そうとしたのだが、第一声は、なかなか出てこない。

 そして、やっと声が出せるようになったかと思うと、出てきたのは、

「私、行くところがないの」

 という言葉を絞り出すのがやっとだった……。


                  (  完  )

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リミット 森本 晃次 @kakku

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