隠された水元〈二〉



(この場所はいったい………)



「ここは呪われた場所だ」



 まるで瑚春の心を読み取ったように、暁が口を開いた。



「波八の湧清水の中でも一番古い場所、つまり最初の水元でね。だが誰にも知られていなかったわけじゃない。真陽代の郷長や山護りたちには代々伝えられていた水元だ。もちろん、珂月にもね」



(そんな………。やっぱり珂月さまはここを知っていたの?)



「珂月には嘘をつく必要があったからな」



「な……ぜ………?」




「それは君が本当に水女神の力を継いでいるのかどうか試す必要があったからだ。見つかってなかった水元を探しだせるかどうか。君は試されていたんだよ。まぁ、珂月のやつが水を操ることはできても水元を探ることが苦手なのは本当だがね。そして火技の力も弱いときている。

 あいつは一族の中でも役立たずなのさ。正統な神の眷属である闇御津羽の者たちの神力がこの数年で徐々に弱まっているのは事実だが。………全てはみな大昔に執り行なわれた水女神一族の娘との婚姻のせいだ。この場所の呪いも全て………忌々しい………」



 呪いとはどういうことだろう。



「水杜の一族だってそうだろ?水技を使える者がどれくらい残っている?」



 答えることができない瑚春に、暁は苦々しげに言った。



「神の力があるからこそ、この貧弱な豊芦原の大地を潤してやることができるのだ。そして神の力がなければ、この真陽代の領地を広げていくことは難しい」



(領地を広げるなんて。真陽代は今でも充分大きな郷なのに)



「だがその前に、今一度ここを鎮めなければ。戦の計画も立てられやしない。

 ………瑚春ちゃん、君はね、珂月とは夫婦にはなれないよ。あいつと君は永遠に結ばれないんだ」



「どう……して………?」



「君の本当の役目はね、あいつの嫁さんになることじゃないからさ。君は贄なんだよ、瑚春ちゃん。生贄としてこの岩戸の向こうに封じられた禍神への捧げものになるんだ。闇御津羽の者以外、誰も知らないことだけど。我らは最初からそれが目当で水杜一族の娘を所望していたのさ」



「そ、んなッ………。そんなのウソ………」



「嘘じゃないよ。珂月が君を本気で好きになるはずないだろ。それに君は生贄になる条件をまだ満たしているはずだ。だって君はまだ珂月と夫婦の契りを結んでいないでしょ? 生娘であることも贄の条件のひとつだからね」



 こう言った後、暁はふと空を仰いだ。


 そして残念そうに肩をすくめた。



「───なんだ、面白くないな。これからがいいとこなのに。禍神がどんなふうに君を穢していくのか興味があったのになぁ」



「どうして………。どうして私が………」



 暁はクスリと笑って言った。



「聞いてごらんよ、珂月に。でもあいつは嘘つきだから、君に本当のことを話すかどうかはわからないけどね。……さて、そろそろかな」



(そろそろって?なにがだろう………)



 瑚春は動かなくなった自分の身体が、足元から少しずつ闇色に染まるのをぼんやりと見ていた。



 聞かされた暁の話に、心も身体も憔悴していく。



 このまま、身体が闇の穴へ沈んでしまうのだろうか。



 このまま………。何も考えずに意識を手放してしまってもいいだろうか。



 苦しくて辛くて。


 切なくて。


 こんな想いから楽になりたいと思ってしまう。



(───なんだろう、この気持ちは。私を苦しめる暗闇の霊気からも同じように流れてくるこれは……)



 これはまるで誰かの。



 誰かの………想い、のような。




 ──────ア イ タ イ。




(誰?────あいたいって……?)




 今、確かに瑚春は声を聴いた。




 ────「アイタイ」




(うん。………会いたい。私も。私も同じ………)




 珂月さまに………。



 珂月さまの顔がみたい。



 怒られてもいいから、せめてもう一度。



 闇に囚われてしまう前に。



(珂月さまにあいたい………)




「あーあ。せっかく瑚春ちゃんの苦しそうな顔を堪能しようと思ってたのに。意外と早かったな、珂月の奴め」




 瑚春に暁の声はもう聴こえなかった。



 冷たい闇に包まれて、徐々に凍っていくような感覚だけが身体を、そして瑚春を支配しようとしていた。



 音も匂いも光も。


 自分から手放しかけた───そのときだった。



 瑚春は声を聴いた。


 珂月の声を。


 こはる……と。自分の名を呼ぶ声を────。



 確かに聴こえたと瑚春が感じた次の瞬間、大きくて鮮やかな緋色の輝きに、瑚春は包まれた。



 途端に、身体が浮き上がる感覚がして、流れる風と傍に人の気配を感じた。



(耳鳴りがする)



 そして目の前が炎のような光に染まった。



 でもそれは少しも熱くない光だった。



 その輝きに目が眩む。


 足元の暗闇は光に祓われたように消滅していた。


 目を閉じても尚、瞳の裏に赤い色が残った。



 けれどそれは一瞬で。次の瞬間、それは色を変えた。



 目を閉じているはずなのに、瑚春は色の変化を感じていた。



 緋色から紫、そして青。それから浅葱色へと。



(この色は!)



 瑚春の脳裏に浮かんだのは風にはためく浅葱色の套衣だった。



 今朝、珂月が出かけて行くとき纏っていたものだ。



 いつも着ているカラスの翼のような黒い套衣よりもずっと似合うと、そんなふうに思いながら、郷長の屋敷へ向かう珂月を見送ったのだ。


 つい今朝のことなのに、なんだかもうずっと昔のように感じた。


♢♢♢



「─────い!おいっ、瑚春!」



 自分の名を呼ぶ声。



 懐かしく感じてしまう声は、確かに珂月のもの。



(いつものように私を叱る声だ)



「この馬鹿ッ、目を覚ませ!」




(………ほら、やっぱり私、怒られた。でもこれ、夢じゃない………?

 私、まだ生きてる。………だって、目の前にいるのは珂月さまだから………)




 なにがどうなったのか、瑚春には判らなかった。



 目を開けると、珂月の顔が近くにあって。



 その肩越しに、少し離れた位置に、あの岩壁の風景が見えた。



 まるであの場所から一瞬で移動したかのようだ。



(助かったんだ。珂月さまが来て私を助けてくれたんだ)



 じんわりと、瞼の奥が熱くなる。



 身体は動きそうもないのに涙は出るなんて。



(泣いたらきっと怒られるのに)



 それでも瑚春は嬉しかった。



 嬉しくて、身体の感覚はまだ戻っていないけれど、瑚春は必死に手を動かそうとした。



(やっぱりこの色、珂月さまによく似合う)



 瑚春は震える手で触れることのできた浅葱色の套衣を、ぎゅっと掴みながら口を動かした。



「───か、げつ、さま……」



 凍ってしまったような唇で、しっかり伝えられるか、声が出るのか判らなかったけれど。



「……ご………め、ん…なさ……ぃ」



 掠れた声が唇から漏れた。



 呼吸さえも苦しくて。



 そして珂月の怒ったような顔は、やはりあまり見ていたくなくて。



 瑚春はまた目を閉じた。



 途端に、温かなものが頬を伝うのがわかった。



 ────ああ、泣いてしまった。



 瑚春は思う。



(珂月さまは、涙とか、嫌いな人なのに)



 けれど次の瞬間、瑚春の鼻先や頬に何かが触れた。



(これは布 ?この匂いは山茶花。珂月さまの匂い………)



 再び瞳を開けたとき、瑚春の視界は暗くなっていた。



 どうやら珂月は自分のことをしっかりと腕の中に抱いているらしい。



 黙ったままじっと、珂月は瑚春を抱きしめていた。




「暁」



 瑚春を抱いたまま、低く漏れる珂月の声には怒りがこめられていた。



「なんだい?」



 それを平然と、寧ろ愉しげな様子で暁は返事をした。



「俺の妻になにをした」



「妻だって?」



 暁は「ふはは」と笑った。



「そんなことよりさ、珂月。ダメじゃないか、瑚春ちゃんに本当のことを話さないと。本当のことを話してやるのも優しさの一つだと僕は思うけどねぇ」



 珂月は鋭い眼差しで暁を睨んだ。



「おっと。今は僕を叱るより彼女をしっかり抱いてないとまた攫われちゃうよ。あれは随分と御執心のようだったから」



「なぜここへ連れてきた」



「確認とかいろいろ。でもよく判ったよ、禍神は彼女を欲してるってね。僕は見ていてそう感じた。だからその女、早くあれに差し出すがいい。でなければいつまでも波八の水元は揃わない。そして穢れはもっと深く広範囲になるだろう」



「暁!」



 叫んだ珂月の顔がなんだかとても苦しそうで。



 そんな表情は怒った顔より見ているのが辛いと瑚春は思った。



「おや、返事がないんだねぇ、珂月。まさか嫌だなんて言わないだろうね?あれを鎮めることも封じ直すこともおまえには出来ない。我等にはできないんだよ。山護りであるおまえが護るべきものをよく考えることだ、珂月。───じゃあね、瑚春ちゃん。今日はとっても愉しませてもらったよ」



 笑みながらこう言って、暁は珂月に背を向けると、霧船であっという間に空へと昇り、見えなくなった。




「か、げつさ……ぅっ………!」



 喋ろうと、そして身体を動かそうとした瑚春だったが、激しく咳き込んだ。



 息苦しさと激しい胸の痛みに襲われ、身体の震えが瑚春の意識を遠のかせる。



(苦しい………)



 そして身体中が痛くて辛い。



「ひどい熱だな」



 瑚春の額に手を当てた珂月が言った。



 ぼんやりする頭で、瑚春は必死に考えようとした。



 聞かなくてはと思った。



 珂月にこの場所のことを。



 あの岩壁の向こうにあるモノのことを。



(それから………)



 それから。



 暁が言っていたことが本当なのかどうか。



「珂月さ、ま。………わ、たし……」



「喋るな。黙ってろ」



 珂月は套衣を脱ぐと、それで瑚春の身体を包んだ。



 そしてもう一度しっかり抱き直してから、珂月は霧船を用意した。



 そのあとすぐに、流れる風を感じて、瑚春は霧船の上にいるのだと解った。



 風に混ざって白い雪が舞っていた。



 身体の震えは止まらないけれど。



 自分を抱く珂月の腕の強さに、瑚春の心は落ち着いていった。



 そしてホッとした途端に、瑚春の瞼は重くなった。



 ────もっと珂月さまの顔を見ていたいのに。



 声を聴きたいのに。




 眠りの中へ吸い込まれようとしている意識を、瑚春は止めることができなかった。





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