隠された水元〈一〉


 ♢♢♢



「君が案内してくれないなら、僕が面白いものを君に見せてあげよう」



 霧船の上で小さくなる瑚春に暁は言った。



 暁の腕の中から一刻も早く抜け出したい瑚春だったが、勢いのありすぎる霧船の速度は、どこかに掴まっていないと落ちてしまうような速さで。



(こんな速さで飛ぶところ、珂月さまと似てる)



 などと思いながら、不本意でも、暁にその身を預けるしかない瑚春だった。



「震えているね。そんなに怖がらなくてもいいじゃないか」



「……寒いだけです」



 真冬の上空で、上着も羽織らず、草履も履くことなく無理やり霧船に乗せられたのだ。



「じゃあコレ、貸してあげる」



 暁は藤色の套衣を脱ぐと、ふわりと瑚春を包んだ。



「ぁ、りがとう………」



「言ったでしょ、僕はあいつより優しいって」



 套衣から爽やかな柑橘系の香りがした。



(珂月さまは、甘い山茶花の香りがしていた………)



 珂月のことを思うと、鼻の奥がツンとした。



 まだ郷長のお屋敷に居るのだろうか。



 夕方には帰ると言っていたけれど。



(帰って私が居なかったら。珂月さまはどうするだろう。───きっとまた、私のこと怒るかな)



 ………でも怒られてもいい。



 今すぐ屋敷に戻りたい瑚春だった。




「そろそろだ」



 暁が徐々に霧船を下降させていった。



(───この方角は。六つめの水元のあった場所から西方だ)



 七つめの水元がありそうだと感じていた方角だった。



 暁はなぜここを?



 霧船がそこに近付くにつれ、感じたことのない気配が瑚春に迫っていた。



「感じるかい? 」



 暗く山深いその場所を目指しながら、強張る顔の瑚春に気付いた暁が、細く笑みながら訊いた。




「感じるはずさ、水の乙女ならば。この先にある 悪しき霊気をね」




(なんだろう。この感じは………)



 それはとても嫌な感覚のまま、瑚春の心に残り続けた。



 そして森の中、霧船から下ろされた瑚春は暁に促されるまま進んだ。



 緩い坂道を登って行くうちに瑚春は妙な気配を感じ始めた。



 前方へ近付くにつれて、今まで感じたことのない禍々しい気配が強くなる。



 寒さとは違う冷たさを、瑚春は全身に感じていた。



 足袋のままだった足先が凍るように痛むけれど。



 痛みよりも今は漂ってくる霊気の方が気になる。



 この先に何かがあると瑚春は思った。



 ───やがて、木立の奥に現れたものを前にして、瑚春は息を呑んだ。



「これは………?」



 目の前は行き止まり。



 高く大きな岩壁が、何枚も重なるように遮っていた。



 岩には幾重にも注連縄しめなわ紙垂しで が巻かれ、そして封じの意味のある印が描かれた札紙が何枚も貼り付けられてあった。



「そんなに近付けるなんて、やはりその奥にある物は本物ということかい?」



 瑚春の後ろで暁の声がした。



 振り向くと暁は少し離れた場所に立ったままで、瑚春だけが岩壁のすぐ傍まで来ていた。



 なぜなのか、自然に足が向いていたことに、瑚春は不思議に思った。



「恐くないのかい?神力は弱いが、さすがは龍神の娘だね。僕はこれ以上近付けない。近寄ったら穢れを受けるからね。珂月は水の神力を持つせいか、わりと平気みたいだけど。僕には無いから」



(穢れを受ける?)



 確かに、ここから流れてくる霊気からは邪気を感じるが。



 それとは別に瑚春はこの岩壁の奥から、よく知っている気配を感じ取っていた。



(奥から水の気配がする)



 きっと湧清水だ。



 やはりここには水元が………でもなぜこんなに強くて禍々しい霊気が一緒なのだろう。



 そしてこれほど厳重に封じの結界を張るなんて。


 この水元は山護りによって探しだされた後ということ?


 見つかっていない水元は残り二つだと思っていたのに。本当は一つ見つかっていた?


 結界はまるで水元を隠すように張られている。


 山護りである珂月はこの場所を把握していたはずだろう。



 それなのに。なぜ見つかっていないなどと……。



 考え込む瑚春に暁が言った。



「でもね、たとえ水の力を持っていても長時間ここに居るのはやめた方がいいってサカキが言ってたよ」



(サカキって、確かこの八千穂大山を珂月さまに継がせたというお祖父様の名前だ)



「瑚春ちゃん、そろそろこっちへ戻った方がいいと思うよ。動けるなら、の話だけどね」



「え………?」



 そのときになって、瑚春は身体の異変に気付いた。



 足がなぜか動いてくれない。



 硬く凍ってしまったように。


 冷えすぎたせいだろうか。


 感覚があまり無い。



 動かそうとすると足元が沈み、瑚春は慌てた。



 地面がこんなにぬかるみに⁉



 さっきまでは堅い土だったはずなのに。



「あっ……!?」



 よく見ると、自分の足下だけが地面ではなく闇色で、まるで丸い穴が空いているようだと思った。



 そして、とても冷たい何かが、瑚春の身体を包み始め、やがては凍ってしまうのではないかという感覚が起こる。



(息をするのさえ苦しい………)



「どうやら瑚春ちゃんは気に入られたみたいだね。良い兆しだ。早かれ遅かれ君は僕等のために役立ってもらう身だからね。きっと禍神まがつかみもお悦びになるだろう」



(禍神?)



 足だけでなく腕までも、少しずつ動けなくなることを感じると同時に、笑みながら自分を見つめる暁を見て瑚春は恐怖した。



「───たっ……たすけてッ」



 このままでは、この先に待っているものは死だということくらい鈍い自分にでもわかる。



 瑚春はその場所から、なんとか必死に抜け出そうともがいた。



 力をこめて足を動かす。



 ──────ザクっ、と湿った音がして、なんとか足を闇のぬかるみから出すことができた。



 よろけながら瑚春は前へ進み動いた。



「……っぁ!」



 けれどすぐに瑚春の身体を強い力が捕らえた。


 引っ張られるようなその力に、足がもつれて転んだ。


 途端に、羽織っていた暁の套衣が脱げて風に舞う。


 思わず伸ばした手は空を掴むだけ………。


 瑚春は荒々しい力に引き寄せられ、再び岩壁の手前、暗闇の穴の淵へと引き摺り込まれそうになる。


 その衝撃に心臓が痛む。



 苦しくて。



 瑚春はもう動くことができなかった。


 闇のぬかるみから溢れ出す瘴気に身体の自由が奪われようとしている。


 けれどその瘴気とは別に、水の気配の存在を瑚春は微かに感じていた。


 別々の力がひしめき合っているようにも思えた。



 一つは瑚春を遠ざけようとする力。



 そしてもう一つは瑚春を闇の中へ取り込もうとする力だった。




 

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