暁〈二〉
「ねぇ。そろそろ名前、教えてくれない? うさぎちゃんって呼ばれてもいいならそう呼ぶけど」
「……瑚春です」
「こはるちゃんかぁ。じゃあ瑚春ちゃん、お願いがあるんだ。今から水元へ案内してもらえる?
「波八の?」
「そう。最近ようやく見つけたという二つの水元、僕も見てみたくてね。あいつに交渉しても見せてくれないからさ」
「でもあの、水元はそう簡単に教えてよい場所ではありませんから」
「そうだね。でもさ、僕には知る権利がある。真陽代 《まひしろ》を治める者として知っておかなければならない。あいつだってそれくらい判ってるはずなのにねぇ」
真陽代を治める者。
もしやと思ってはいたが。
(この方は………)
「あなたは珂月さまのお兄さま?」
「ああ。順番でいくとそうなるかな」
───ということは郷長さま!
「あ、あの! ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした!」
瑚春は慌てて跪いた。
「でも……。珂月さまは今日、郷長さまのお屋敷へ行くと言って出かけましたけど」
それなのになぜ、郷長である暁がここへ来ているのか。
「知ってるよ。呼んだの僕だし。でもあいつは今頃、屋敷で待ちぼうけさ」
「どうして。なぜそんなことを……?」
「可愛い弟が近頃さっぱり顔を見せてくれないんでね。聞けば妻を娶ったというじゃないか。なのに全然紹介もしてくれないからさぁ。じゃあこちらから見に行ってやろうと思ったわけ。でもきっとあいつは嫌がるだろうから、屋敷で足止めさせてあるんだ。ついでに水元を君に案内させるのも面白そうだと思ってね」
(面白そうだなんて)
「さあ、案内してくれるね、瑚春ちゃん」
「……できません。珂月さまの留守に勝手に山奥へ入ることはできません」
「だって君、お嫁さんだろ?」
「でも入るなって言われてますから」
「あいつに怒られる?」
頷く瑚春に暁は優しく言った。
「大丈夫だよ。僕が一緒なんだから、あいつは怒らないよ。だからほら、立って僕を案内して」
瑚春は立ち上がり、暁へ視線を向けた。
珂月とよく似たその顔は優しげだった。
(珂月さまも、こんなふうにたくさん笑ってくれたらいいのに。私の前でも………)
「郷長の僕が一緒なら、あいつは怒ったりしないから」
(本当だろうか)
一瞬迷ったが、瑚春は首を振った。
「やっぱりできません。波八の湧清水は私が勝手に教えていい場所ではないので。瓊岐の郷でもそうでした。たとえ郷長でも山護りの許しがなければ水元に近付くことはできなかったから」
「あ、そう。僕がこんなに頼んでいるのに?」
「はい。申し訳ありません」
「面白くないなァ。じゃあ、これでもダメかな?」
暁は右手の中に緋色の光を浮かべ、それを瑚春に近付けた。
(熱い……)
「僕はあいつと違って火技も得意でね」
ゆらゆらと揺れながら、その火の玉は暁の手のひらの上で緋色から紅、赤紫色に変化を繰り返す。
普段見ている煮炊き用に使う火種と違い、なぜかその色はとても妖しく、そして禍々しい色に思えた。
「拒むなら、想い出のある大切なこの花嫁衣装を燃やすことになるけど?」
その言葉に瑚春は暁の表情を優しげだと思ったことを後悔した。
優しそうに見えるのは外見だけで、本当は違うのだ。
「部屋を燃やさずに、この衣装だけを灰にしてみせてあげるよ。それが嫌なら水元へ案内するんだ」
暁の手にある火の玉が、瑚春の目の前で揺らめきながら熱を発し、部屋の中の空気を淀ませていく。
「………どうぞ灰にしてください。花嫁衣装は一度きりのもの。わたしがこれに袖を通すことはもうありませんから」
暁が怖かった。
でもそれ以上に、なんだかせつなかった。
自分はまだ妻ではない。
本当の夫婦にはなっていない。
弟子扱いだ。
でも───それでも。
ここへ置いてもらっている限り、この屋敷の主は珂月で。
(珂月さまは私のご主人様だもの)
「たとえ燃やされても、わたしは案内しません」
「面白くないなぁ」
珂月とよく似た声で 暁は言った。
「───も、申し訳ありませんが……」
こちらを見下ろす眼差しが刺すように鋭いが、瑚春は震えながらも声を振り絞る。
「ど、どうかもう、お帰りくださ………っ⁉」
暁の手が瑚春の腕を掴んだ。
「来い」
そのまま強く引っ張られ、瑚春は部屋を出た。
考える余裕もないまま、瑚春は暁に手を引かれ、外に出された。
「乗れ」
暁と瑚春の足下に霧船が浮かんだ。
「ぃ、嫌ですっ」
「見た目と違って強情なんだね、ウサギちゃんは」
暁は瑚春に顔を近付け、愉し気に笑った。
「離して!」
涙目で訴える瑚春を抱え上げ、暁は霧船に乗ると瞬く間に上昇を始めた。
瑚春は必死で暁の腕から逃れようと身を捩るのだが、なんの効果もなく無意味な抵抗で終わった。
(どうしよう!)
眼下で小さくなっていく屋敷を見つめながら、瑚春の目に涙が溢れた。
♢♢♢
その頃、真陽代の郷長の屋敷では兄でもある暁を待つ珂月の姿があった。
(今日は随分と振る舞う気だな)
目の前に並べられた料理や酒を見て珂月は思った。
これまでにも、屋敷に呼ばれてはこんなふうに、一人で待ちぼうけを受けることが何度もあった。
朝に来ても、暁が姿を現すのはいつも昼過ぎ。
夕刻になったこともある。
特に何かあるわけでもなく、気まぐれに人を呼び、放っておく事が多い。
気が向けば顔を出し、一向に姿を現さないときもある。
あの兄はいつも自分をからかって楽しんでいるのだ。
今日も予感通り、昼を過ぎてもまだ暁は姿を現さない。
しかし今日は日暮れまで待つつもりはなかった。
(早く帰りたい)
瑚春が待つ家に。
そして早ければ明日か明後日にでも瑚春を連れて麓の屋敷へ行くのだ。
麓で仕えている者たちも瑚春に会うのを楽しみにしているからと沙弥子は言っていた。
連れて行けばささやかだが宴の席を予定しているとも聞いている。
(麓の屋敷で少しは楽しんでもらえるだろうか、あいつに。……喜んでもらえるだろうか)
瑚春の笑った顔がみたい。
最近はよくそんなことを思う。
珂月は席を立った。
そして帰ることを使用人に告げ、屋敷を後にした。
♢♢♢
「帰ったぞ。掃除は済んだのか?」
山の屋敷に戻り、瑚春の部屋を珂月は覗いた。
だが、そこに瑚春の姿はなかった。
大きな荷物が一つ、置かれているだけだった。
衣桁にはあの花嫁衣装がかけられたままだ。
「おい……」
不思議に思い別の部屋を探したが、屋敷のどこを探しても瑚春は居なかった。
荷物は置いたまま。
いつも履いている草履も残されたままだ。
そういえば帰ったとき、玄関の戸口が開けられたままだった。
珂月の胸になぜだか嫌な感覚が広がる。
(まさか………)
確認の仕様がない。
けれど予感がする。
悪い予感。
嫌な予感だ。
そしてその中に見え隠れする一人の影。
(まさかあいつに………)
兄に。───暁に。
自分が屋敷へ呼ばれることも、待ちぼうけをくらうことも。
………そう、いつも嫌がらせで。
ならば今日も嫌がらせがまだ続いているとしたら。
暁がここへ………来たのだとしたら?
珂月は今までに感じたことのない不安に襲われた。
自分だけならまだいい。
退屈しのぎにからかうのが自分に向けられるだけなら我慢もできる。
しかし誰かを巻き込むのはやめてほしい。
「───瑚春っ」
珂月は慌てて外へ出ると、霧船で空へ昇り二人の気配を探った。
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