暁〈一〉




 沙弥子が訪ねて来てから二日後の朝、八千穂の山にうっすらと初雪が降りた。



「ようやく降ったな」



 朝食の後、庭を見ながら珂月が言った。



「そろそろ麓の屋敷へ移るから準備を始めておけよ」



「はい。だいたいは整ってます」



「そうか。今日はこれから郷長くにおさの屋敷へ行ってくる。───なんだ、その顔は。そんなに驚くことか?」



「……ぃ、いえ。行き先を言ってくれるなんて珍しいと思って」



「言わないと沙弥子がうるさいからな。おまえも余計なこと言うなよな、沙弥子に」



「余計なことなんて………」



 なによ! 沙弥子さまの言うことなら素直に聞くくせに。



 瑚春はムッとしながら珂月に言った。



「郷長様のところなら私も行きたいです。まだご挨拶もしてませんから」



「おまえは次の機会でいい。呼ばれているのは俺だけだ」



「呼ばれているって………。じゃあこのまえ沙弥子さまが来て話していた件で?」



「まあな。本当は行きたくないが」



 郷長は珂月の兄だと聞いている。



(お兄様に会いたくないのかしら)



「あそこへ呼ばれるといつも待たされて時間がかかる。昼には帰れないかもな。今日は昼飯もいらないぞ」



「夕方まで帰って来れないのですか?」



「ああ」



 今までは朝出かけて行っても必ず昼には一度、戻っていた珂月だった。



「俺るまで荷造りと屋敷の掃除でも済ませておけ。いいな、俺の留守に勝手に山の奥へは入るなよ」



「………はい」




 郷長のところへ行くのがよほど嫌なのか、不機嫌な顔のまま冷たい眼差しを向ける珂月に、瑚春は小さく頷くしかなかった。



 珂月が出かけて行ってから、昼には荷造りも終わり、瑚春は一人で昼食を済ませた。



 午後は屋敷の掃除をはじめよう。



 手始めに自室からと考えたが、奥の間で衣桁に掛けたままだった花嫁衣装を見つめると溜め息がでた。



(いい加減、もう仕舞わないとね)



 眺めながら、しばらくぼんやりしていると。




「美しい仕立てだな」



(珂月さま ⁉)



 その声音に驚いて瑚春は振り返った。




「裳裾の刺繍がとても綺麗だ」



(───だ、誰 ⁉)



 瑚春の背後に立っていたのは珂月ではなかった。



 けれどその風貌は珂月にとてもよく似ている。



 歳もあまり変わらないように思えた。



「へぇ、君が?」



 その声もまるで同じだ。



「水杜一族の娘?龍神とやらが渋った挙句にようやく手放した水の乙女か」



 こう言って、その青年は薄く笑んだ。



「……あ、の……あなたは?」



 面差しは珂月にとてもよく似ているけれど。



 珂月のように珍しい茶色の髪ではなく黒髪で。



 そして瞳は珂月の藍色よりも薄い水色だ。



(珂月さまより、ほんの少し笑顔が柔らかいような気はするけど。なんだか………)



「可愛いね。君、なんて名前?」



 青年が一歩前に出たので、瑚春は反射的に一歩、後ろに下がった。



 彼はそんな瑚春を面白そうに眺め、また笑った。



 笑顔だけれど。


 笑顔、なのに。



 瑚春は不思議な感覚を味わった。



 似ていても、珂月とは違う何かを、瑚春はその青年から感じた。



 珂月だったら怒っても叱られても、逃げ出したくなる怖さまでは感じない。



 けれどこの青年は違った。



 目の前で微笑む男から、瑚春はなぜか早く離れたかった。



(早くここから………この人から離れたい)



 落ち着いて考えてみたら、屋敷へ勝手に入って来たのだ。



(怪しすぎる!)



 ゾクリとする嫌な感覚がして、瑚春は怖くなった。



「───どちら様ですか?なんの御用でしょう」



「僕は暁」



『あかつき』と名乗った青年は顎に手を当て、しばらく何かを考えている様子だったが。



「御用は………そうだなぁ、嫌がらせ、かな」



「は?」



 暁はくすくすと笑いながら続けた。



「この屋敷の主に会いたくてね」



「珂月さまは朝から郷長のお屋敷へ出かけています」



「だよね。さて、どうしようかな」



 暁はじっと瑚春を見つめた。



「お待ちになるのなら別の部屋へご案内します。お茶の用意もしますから」



「この部屋じゃダメなの?」



 言いながら暁は瑚春に近寄った。



「この部屋で君とまったりしながら珂月を待つのも面白い」



 近寄る暁から離れようと、瑚春は後退りながら部屋の出入口に目を向けるのだが。



 そこへ移動するには暁の後ろへ回らなければならない。



 部屋の隅へ追いやられるような今の状態で、瑚春が部屋を出ることは不可能だった。



「ほーら、もう後がないよ。君は逃げられない」



 壁際に追いやられ、縮まる瑚春を愉しげに見つめながら、暁の手が伸びた。



 瑚春の後ろの壁に片手を置き、もう片方の手で、暁は瑚春の肩に流れる髪に触れた。



 さらさらと、暁の手の中で 瑚春の髪が流れ落ちる。



「ふふ、そんなに怖がらなくても。僕はあいつより君に優しくしてあげられるよ。それとも、まさかあいつは君に優しい?」



(あいつって、珂月さまのことを言っているの?)



「どうなんだい? あいつは君に優しくしてる?」



 暁は下を向いた瑚春の顔を覗き込むように訊いた。



 その視線の近さに瑚春は困惑し、言葉も出せずに身を縮ませるばかりだった。



「返事がないってことは、あいつ優しくないんだろ?」



「そんな、ことありません………」



 やっとの思いで声を出した瑚春だった。



 優しいとか、優しくないとか。



 なぜこの人はそんなことを聞くのだろう。



「そんなことはない? へぇー、本当? 僕が思うにあいつの女の好みはね、もっと凛々しくて覇気のある娘だと思ってたんだけどなぁ。目を潤ませて怯える仔ウサギじゃなくてね、元気で勇ましい女が好みじゃないかって。……まあ、これは僕の想像だけど。あ、僕は君みたいなウサギちゃん、好きだけどね」



 元気で凛々しく勇ましい。



 自分は決して当てはまらないだろう。



 暁の言う「あいつ」がまだ珂月だと決まったわけではないけれど。



 でも。



(たとえば………そう、沙弥子さまのような………)



 こんなことは、自分の勝手な考えでしかないけれど。


 沙弥子なら、自分より珂月に相応しいように思えた。




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