胸の痛み
翌日からしばらく、年の瀬の月にしては珍しい小春日和に恵まれ、珂月は瑚春を連れて幾度か山へ入った。
残り三つとなった〈波八の湧清水〉の探索は瑚春が予想した北の方角で六つめとなる水元を見つけることができた。
♢♢♢
「ここも封じておくのですか?」
「ああ、そうだ」
「水元もあと二つですね。私、探すの頑張ります。これまではどれも北の方角に集中しているみたいでしたけど、残りの水元はたぶん………」
瑚春はここより幾らか遠く西方にそびえる峰へ視線を向けた。
「西の奥地に気配があるような気がします」
「そうか………。だが今年の水元探しはこれで終わりにする」
「えっ、なぜですか?」
「そろそろ雪が降るようになる。冬山は危険だ。残り二つは急がなくていい。───戻るぞ、今日の空は不安定だ」
珂月が隣りで空を見上げながら言った。
「こんなに晴れてるのに?」
「風が強くなってきただろ。山の天気は変わりやすいからな」
珂月の言った通り、だんだんと空に雲が集まり日差しを遮り始めた。
いつ降りだしてもおかしくない空模様になり、瑚春は「残念です」 と呟いた。
山へ入るのもようやく慣れてきたところだった。
目的は湧清水だったが、珂月と一緒に山を散策できることも楽しみのひとつになっていたのだ。
「では雪の季節が終わって、春になったらまた探すのですね?」
「………そう、だな………」
どことなく暗い表情の珂月が気になったが。
「春が待ち遠しいです」
瑚春は微笑んだ。
♢♢♢
邸に戻ると沙弥子が庭先で待っていた。
「お久しぶりです。お二人でお出かけでしたか」
「水元探しに山へ行ってました。さあ、家の中へどうぞ。寒い中待たせてしまいましたか?」
心配そうに言う瑚春に、沙弥子は首を振って笑った。
「今来たばかりです。こちらこそ急に伺ってすみません」
「なにかあったのか」
珂月の質問に沙弥子は小さく頷いて言った。
「今朝、麓の屋敷に郷長様からの使者が来ました。珂月様にそのことをお話しするよう兄に言われて参りました」
「志朗に?」
珂月は眉を寄せた。
(志朗、という人は確か口髭のある男の人で………)
珂月に仕えている者で、婚儀の日に見かけたことを瑚春は思い出した。
「沙弥子さまにはお兄様がいたのですか」
「はい。歳の離れた兄が一人います」
「どうせまた郷長の使者に嫌味でも言われたのだろ。相手にするなと志朗に伝えておけ」
「ですが珂月様、そろそろきちんと郷長様に報告を。このままいつまでも無視するつもりですか」
「放っておけ。気遣って訪ねるのはいつもこちらからだ」
「………ぁ、あの。お二人ともここではなんですから家の中へ」
いつまでも外で立ったまま、そのうえなんだか珂月の険しい表情を察し、瑚春は二人の会話に入った。
「今日は兄の意見だけでなくて、麓の屋敷で珂月様に仕えている者たちの意見も伝えるつもりでここへ来ました。どうか聞いてください」
「………わかった。聞くだけだぞ。部屋で待ってる」
渋々とだが家に上がった珂月に瑚春はホッとしながら言った。
「後でお茶をお持ちしますね」
「茶はいらない。込み入った話なんだ。沙弥子と二人だけで話をするからおまえは来るな」
「はい………。わかりました」
「年の瀬も近くなったからな。そろそろ麓の屋敷へ戻る予定だ。荷造りでも始めていろ」
瑚春の顔を見ることもなく珂月は屋敷の奥へ行ってしまった。
「どうやら私のせいで怒らせてしまったようですね」
沙弥子は困ったように瑚春を見た。
「あの、私には話してもらえないのでしょうか」
瑚春の言葉に沙弥子は申し訳なさそうに頷いた。
「珂月様のお許しがなければ、話せないこともありますから。………ごめんなさいね、瑚春さま」
沙弥子は頭を下げると珂月の部屋へ向かった。
瑚春は仕方なく自室で荷造りを始めようとしたのだが、気付けば手が止まりぼんやりしていた。
(珂月さまと沙弥子さま、何を話しているのだろう)
なぜか、そんなことばかり考えていた。
(珂月さま、最近は不機嫌な様子もなくなっていたのに)
どうしたのだろう。
郷長の屋敷からわざわざ使者が来るほどの話とはなんだろう。
もしかして私がまだご挨拶に行かないことに腹を立てているのだとしたら?
けれど珂月さまはなぜ郷長を拒むのだろう。
沙弥子さまは「私が怒らせてしまった」と言っていたけれど。
どうしてそうなるのか、瑚春にはさっぱり判らなかった。
そしてそれは、瑚春をたまらなく不安にさせた。
───溜息ばかりが出る。
そしてなぜか胸の辺りがチクチクと痛む。
(走ってもいないのに。どうしたんだろう、私)
疲れているのだろうか。
───しばらくして。
「お~い!沙弥子が帰るぞ」
珂月の声に驚くと同時にまた、ちくりと胸が痛む。
(そうか、名前だ)
沙弥子さまのことは名前で呼ぶのに。
自分はまだ一度も名前で呼ばれたことがない。
おい、とかおまえ。
そんな呼び方ばかりだ。
私のこと、なぜ名前で呼んでくれないのだろう。
どうして………。
(あれ………?私、なぜこんなこと考えちゃうんだろう)
ふと湧いた疑問に、なぜだか心がざわざわとして。
瑚春は落ち着かない気持ちに動揺しながら、部屋を出るのだった。
♢♢♢
庭先に出ると、珂月と沙弥子が楽しそうに笑いあっていた。
瑚春は胸がまた痛むのを感じた。
ついさっきまで不機嫌な顔と態度だったのに、今は随分と違う。
込み入った話だと言っていたのに。良い方向に解決したのだろうか。
目の前には柔らかく微笑み、いつもより優しい表情に見える珂月がいた。
ふたりはどんな会話をしているのだろう。
瑚春は二人を見ているのがなぜか辛くなり、この場所から逃げ出したくなった。
「瑚春さま」
沙弥子が瑚春に気付いて近寄り、そして言った。
「お二人が麓の屋敷へ戻る日を、皆でお待ちしておりますわ。じゃあ私はこれで戻りますね。では珂月さま、先程の件、よくお考えくださいませ」
「ああ、判った」
珂月の返事に沙弥子は微笑んで頷くと、霧船で帰って行った。
♢♢♢
その夜、瑚春はなかなか寝付けなかった。
目を閉じると懐かしい故郷、瓊岐の郷が思い浮かぶ。
父や母やカナデの笑顔が心に浮かんだ。
郷にはもう雪が舞っただろうか……。
その晩は寝返りをする度に、故郷で暮らす親しい者たちの声が聴きたくなり、会いたくなり。
じんわりと涙が溢れた。
それは瑚春が嫁いで初めて寂しいと感じる夜だった。
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