郷入り



 しばらくして、風の流れが弱まり、霧船が止まったのだと瑚春は感じた。



「おい、目を開けろ」



 珂月の声に慌てて瑚春は目を開けた。



「降りろ」



「は、はい」



 瑚春はゆっくりと霧船から地面に降り立った。



(ここは………林の中?)



 冷んやりとした山の空気を感じる。



 少し離れた場所に平屋造りの屋敷が見えた。



「ここは山麓ですか?」



ふもとよりも位置は少し上にあるが、ここは俺の屋敷だ。麓にも屋敷はあるが雪が積もる頃まで俺はほとんどこっちで生活している」



 山に立派な造りの屋敷を二つも構えているなんて。


 瑚春は瓊岐の山麓にあるカナデの屋敷を思い出した。


 麓より少し奥に入った場所にあるカナデの小さな屋敷に比べたら、山中だというのにこの屋敷はまるで御殿のように思えた。



「麓の屋敷に比べたら狭いがな、俺はこっちが気に入ってる」



(このお屋敷だってとても立派なのに!)


 麓のお屋敷はこれよりも大きいのだろうか。


 故郷の山や暮らしていた屋敷しか知らない瑚春にとって、それは想像もつかないことだった。



「では珂月様、我等は麓へ控えます」



「ああ。ご苦労だったな、志朗」



 瑚春が辺りを見回すと、霧船から降りたのは自分と珂月、そして志朗だけだった。


 空が暗いので、黒装束の従者たちはまだ空中で霧船に乗ったままなのだろうか。



「では後で沙弥子を向かわせます」



「ああ、そうしてくれ」



 志朗は一礼し、再び霧船で空へと昇った。



「ついて来い」



 足早に瑚春を追い抜き、珂月は屋敷に向かった。



「あの、皆さんは?」



 珂月の後を必死に追いながら、瑚春は尋ねた。



「皆さん? ───ああ、あいつらは麓の屋敷がある辺りで暮らしているからな。こっちには誰もいない。この山中の屋敷には俺一人だ」



(ここにひとりで?)



 こんな広い屋敷に一人で暮らしてるなんて。───でも。今日から私と………。



「あ、あのっ………よ、よろしくお願いします!」



 屋敷の玄関先で深々とお辞儀をする瑚春に、珂月は苦い顔になって言った。



「よろしくとか、ねぇから」



「は?」



「盃は交わしたが、おまえとはまだ夫婦になるつもりはない」



「………そう、ですか。でも………まだ、というのはいずれは………という意味だと思ってもいいのでしょうか」



「おまえ、俺の嫁になりたいのか?」



「え………⁉」



 瑚春は一瞬言葉に詰まり、返事ができなかった。



 普通、ここは「はい」と言っておくべきなのかもしれない。



 けれどなんだか違うように思えた。



「おまえ、ホントにマヌケだな。馬鹿正直というか。俺はその方が楽だが」



「ではなぜ私をここへ連れて来たのですか?」



(夫婦になるつもりがないのなら、なぜ?)



「おまえの荷物がこっちに届いてるからだ。必要なものまとめて、さっさと麓の屋敷へ行ってろ。……ほら入れ。部屋へ案内する」



 ぶっきらぼうに言いながら、珂月は屋敷に入り廊下を進んで行ってしまう。



(もう少し、ゆっくり歩いてくれたらいいのに)



 そう思いながら。



 瑚春は珂月の言葉の意味を考える余裕もなく、必死に後を追うのだった。



 ♢♢♢



 珂月に案内された日当たりの良い一室に、瑚春の嫁入りが決まってから霧船で運ばれた様々な荷物が置かれてあった。



「適当に着替えてから荷物をまとめとけ」



 それだけ言うと、珂月は部屋を出て行った。



 一人残された瑚春は溜息をついた。



 私はここで暮らすのではなくて麓の屋敷で暮らすことになるのかな。



 珂月さまとは離れて。



 あのひとはここで一人で………。



 山に雪が積もるまでと言っていたけれど。


 まだ夫婦になるつもりはないって、どういう意味だろう。


 どんな理由があるんだろう。



 誰かに聞きたくても、瑚春のそばには誰もいない。


 珂月本人に聞いてみるしかないのだが。



 なんだか怖い。



 私あの人、苦手だな。



 瑚春は着替えの入っている荷を解きながら考えた。


 でも、これで良かったのかも。



 珂月とはまだ出逢ったばかりだ。



 何も知らない。



 それなのにいきなりここで一緒に暮らすなんて、抵抗がある。



 夫婦の盃を交わしたとはいえ、自分は彼に気持ちが向かない。



 瑚春は羽織ったままだった珂月の套衣を脱ぎ、丁寧に畳んでじっと見つめた。


 そして、もしかしたらと瑚春は思った。


 もしかしたら珂月も自分と同じなのではないかと。


 突然、縁談が決まったのだから。


 彼も戸惑っているのではないだろうかと。


 そして瑚春には一つ疑問に思うことがあった。



 水杜一族は高天原に住む龍神である父神から神託があったが、闇御津羽の一族にこの縁談話はどのように伝えられたのだろう。


 やはり神託なのだろうか。



「───おい、荷物まとまったか?」



 いきなり現れた珂月に、瑚春はびくりと身を竦ませた。



「なんだ。まだ着替えてもいないのか」



「すみませんっ………あの、これ………どうもありがとう。とても温かくて助かりました」



 瑚春は珂月におずおずと黒い套衣を差し出した。



 珂月はそれを受け取りながら言った。



「大荷物でなくても数日分の着替えだけ持って行けばいいだろ。どうしても必要なものがあるようなら、また取りに戻ればいい」



 瑚春が頷くと、珂月は言葉を続けた。



「早くしろよ。もうすぐ迎えが来るから」



(……迎え)



 詳しく聞きたかったのだが、珂月はもう部屋を出た後だった。



 再び一人になると、次に不安が瑚春を襲った。


 先程までは、なるべく良い方向へ物事を考えてはいたが、もしもこの縁談が闇御津羽にとって望まないものだったら?


 どうしよう、と。


 早くここへ戻りたがっていた珂月の態度も疑問に思う。



 とはいえ、そんなことを教えてくれる者などここには誰もいないのだ。



 仕方なく、瑚春は着替えを取り出し部屋の奥へ移動した。



 婚礼衣装を脱ぎ、動きやすい衣服に着替える。寒くないよう、内衣の上に袍を重ね、腰から下は短いが厚手の裳と、更ににその下に足結いのある袴を履いた。


 そして飾りを外した髪は簡素に結い直した。


 刺繍が施された裳裾の美しい婚礼衣装は、すぐに畳んで仕舞うのがなんだか名残惜しく、後で片付けに来ようと思い、部屋の隅の衣桁へ掛けておくことにした。



 それから少し経ち、ようやく荷造りを終えた頃。



「済んだのか」



 こちらも先程とは違い、質素な衣装に着替えた珂月が顔を覗かせて言った。



「はい」



「じゃあ荷物を持ってついて来い。迎えが来たからな」



 瑚春は荷物を抱え、先を行く珂月を追った。



 珂月はしばらく歩いた先にある部屋の前で立ち止まり、声をかけた。



「入るぞ」



 襖を開けたその部屋には、一人の女性が座っていた。



 歳の頃は自分より二つ、三つ上だろうか。



 とても落ち着いた雰囲気のある美人だった。



「初めまして。沙弥子と申します」


 さやこと名乗ったその女性は丁寧に頭を下げ、そしてまた顔をあげると瑚春に向かって優しげな微笑みを向けた。



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