真陽代
(なんて速さだろう)
瑚春は霧船を速く移動させたことがない。
しかも立ったまま乗る行為は初めてだった。
病弱だったこともあり、瑚春の霧船移動はいつもゆっくり。
そしてきちんと座って飛ぶ。
なので立ったままのこの速さでは、いつか絶対落ちる!という恐怖心がどんどん膨らみ、瑚春は震えはじめた。
「寒いのか?」
背後から珂月が訊いた。
「ぃぇ……」
寒くはない。
珂月の套衣のおかげだ。
「じゃあなんで震える」
「 ぁ、 あのっ………す、座って乗ってもいいですかっ?」
やっとの思いで声を出す。
「立ったままでは怖くて」
体当たりしてくる風に目が回りそうだった。
(霧船に酔うなんて)
「なぜ怖いのだ。変な奴だな」
(へ、へんなって………)
そりゃ、丈夫で元気な人にはわからないでしょうけど!
瑚春は悲しくなりながら訴える。
「こんな速さで、しかも立って移動したことがないから。………お、落ちそうで怖くて。なんだか頭が………」
くらくらする。
とにかく座りたい。
(気持ち悪い………)
瑚春はだんだんと身体が傾くのが判ったが、踏ん張ろうとする足の力はもう出せそうもない。
───ぐらりと、瑚春は前に倒れそうになった。
「───おいっ⁉ 掴まってろと言ったろうが!」
グイッと強い力で引き寄せられるのを感じて、気付けば珂月の腕の中へ抱き寄せられていた。
「ぇ、ぇえと………?」
(一体どこに掴まれと⁉)
「マヌケな奴だな、おまえは」
(ま、まぬけ………)
父や母にも、そこまでは言われたことなどなく。
瑚春はかなり傷付いた。
「ほら、掴まってろ。しっかりと!」
向き合ったまま両腕を掴まれ、そのまま珂月の腰に回された。
「お上品に座って飛んでたら日が暮れる。判ったらさっさと俺にしがみつけ」
「ハッ───はっ、はい!」
瑚春は珂月が怖かった。
けれど霧船から落ちるのはもっと怖い。
なので仕方なく瑚春は珂月にしがみついた。
「目閉じてろ」
言われるままに、瑚春は目を閉じた。
そうすると、不思議と恐怖心が和らいだ。
触れる珂月の衣服から、ほんのりと優しい山茶花の香りがしていた。
耳に届くのは風の音だけ。
目を閉じていると移動感が無く、ただ風に吹かれているだけのような感覚がしばらく続いた。
「そろそろ着くぞ。
珂月の声に瑚春は恐る恐る目をあけ顔を上げ、進んでいる方角に視線を向けた。
あれが真陽代の郷。なんて広い大地だろう。
これほどに平らな大地の続く場所を見たのは初めてだった。
集落の多さもそうだが、山の斜面を利用していた瓊岐の郷の田畑とは違い、平野を利用している田園は、瑚春の目にとても大きく映った。
刈り入れを済ませてはいるが、この広い田園にはつい最近まで豊かな実りのあったことが伺える。
「珂月さま」
突然、横から声がした。
見ると霧船を並ばせて飛ぶ一人の男がいた。
それは瓊岐の郷の屋敷で瑚春が庭を覗き見ていたとき、カナデと対峙していた口髭の男だった。
「どうします?
「寄らん。このまま山へ向かう」
「よろしいのですか」
男は珂月の顔を見つめながら言った。
「何をしに行くと言うのだ、志朗」
しろう、と呼ばれた男は答えずに苦笑するだけだった。
「用があれば向こうから来るだろ。わざわざ行く気がしない。おまけにこれが一緒だ。こんなものを連れて行ってみろ」
珂月の視線が下に向いて、見上げていた瑚春の瞳と重なった。───が、それはすぐに外された。
おまけ。
これ。
こんなもの……とは。
私のことなんだろうか。
「とにかく山へ戻る!」
不機嫌に言い放つ珂月に、志朗は軽く頭を下げた。
そしてほんの少し、瑚春に視線を向け微笑むと、霧船を後方へ移動させていった。
珂月の腕に掴まったまま瑚春はその姿を目で追い、後ろを見た瞬間、目を見張る。
黒装束の集団が列を成して珂月の後に続いていた。
帯のように長く。
(カラスの大群かと思えば、今は黒い大蛇みたい)
瑚春がぼんやりと考えていると。
「ほら、見えたぞ。あれが郷の大山〈八千穂〉だ」
見ると前方に悠々と連なる山脈が現れた。
「あの山全部ですか?」
「ああ、八つの峰が見えるだろ。あれが目印にもなるな。俺が護る大事な山脈だ」
霧船が少しずつ下降していくのを感じた。
「あの、郷長様への御挨拶は?」
どこの郷でも立ち入る前にはそれなりの順序がある。
他所の郷から来た者であれば尚更、まずは郷長に拝謁をしなければならないのだが。
「おまえはさっきの話を聞いてなかったのか? あいつのところへ行く必要はない。また後で嫌でも会うことになるだろうからな」
(あいつ?)
「でも山へ入る前にはまず長の許しを得るようにと、私は父から言われました」
「許し? あれは俺の山だぞ。俺が俺の山に入って何が悪い」
「でも私は他所の郷から来たわけですし、きちんとご挨拶とか」
「今は必要ない」
「でもその………怒られたりとか、しませんか?」
「あいつは怒らねぇよ。面白がるだけで」
(面白がる?)
「あの、あいつって?」
「真陽代の郷長は俺の兄だ。またいずれ紹介する。ほら、船を速めるぞ。もっと強く掴まっとけ。ここで落ちても拾ってやらんからな!」
───ぐうんっ!と、霧船の速度が勢いを上げて速まった。
瑚春はその速さにまた怖くなり、身を縮めながら珂月の腕にしがみつくのだった。
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