嫁入り




 一年十二か月を締めくくる〈四季果ての月〉七日。



 その日、瑚春は純白の婚礼衣装に身を包んでいた。



 白い衣装の裳裾は花びらが幾重にも重ねられたような仕立てになっていて、動くたびに優しく揺れる。


 上に纏う紗には細かな金刺繍がほどこされ、光の加減で美しく煌めいた。



 いつもは垂らしている黒髪は高く結い上げ、真珠の垂れ飾りに沿って髪も一房肩へと流れていた。



 朝から美しく飾り立ててもらった姿は普段の幼顔とは違い大人びていて、鏡を見るたび自分ではないような気がして落ち着かない。



 昼前に東から来るという闇御津羽くらみつはの一行を瑚春は自室で待っていた。



 父や母やカナデたちは外で出迎え、到着したら屋敷で婚礼の儀を行い、夕刻までに真陽代まひしろの郷へ入る段取りだ。



 水杜家の女は皆、姫のような身分ではないので、側仕えなど従えず一人で嫁ぐことがしきたりだった。



 移動手段は霧船きりふね



 霧船は異能力を持つ者が造ることのできる乗り物だ。



 雲のような霧のような、白い真綿のようにも視える色と形で、宙に浮かせて乗り移動する。



 そんな霧船を造り乗るとき、瑚春は一族の異質さを感じる。



 この豊葦原の中つ国にはもう、霧船はもちろん特別な異能を持つ者たちは少ない。



 かつては皆、神の子だったかもしれない。



 けれど時が経ち血筋は薄れ、クニに住まう者たちは、そのほとんどが神技など持たない。



 特別な力などなくても、里の民たちは皆幸せそうに暮らしている。



 郷長である父は、我ら一族が護っているからこそと、言う。



 自分たちは神の力を今も受け継ぐ、特別な一族だからと言うけれど。



 ───たとえそうだったとしても。



 今はもう、高天原へ戻ることもできないのに。



 私たちは神でもなく、人とも遠く中途半端な生き物だ。



 そんな私たちはこれからも豊葦原に必要なのだろうかと、瑚春は思うときがあった。




 ♢♢♢



 そろそろ約束の時間になろうとしていた。



「………来たのかしら」



 なんだか外が騒がしい。



「瑚春さま!」



 カナデの使いが慌てた様子で顔を覗かせた。



「来たの?」



「そ、それが………。弥彦様が今すぐ外へ来るようにと。………でもあのっ、カナデ様は外へ出るなと………」



「え?どういうこと? 何かあったの? 」



「それが………。闇御津羽の一行が来られたのですが、婚儀をせずにすぐにでも瑚春さまを連れて東の郷へ戻りたいのだと申されて」



「屋敷で祝言をしないと言ってるの?」



「はい。婚礼の儀はまた改めてと言っていて。カナデ様はそのことにとてもお怒りになって。仕方ないから言う通りにと言っておられる弥彦様とも口論となっていて」



「父様とおばば様が喧嘩してるのね」



 言いながら、瑚春は部屋を出た。



(………なんだか変だわ)



 歩きながら瑚春は思った。



 外へ向かっているのに、屋敷の中がとても薄暗く感じる。



 いつもなら、窓から差し込む陽の光で、廊下はもっと明るいのに。



 それに今日は朝から晴天で初冬にしては暖かだったはず。



(曇ってしまったのかな……)



 肌寒く感じ、何か羽織ってくればよかったと瑚春は後悔した。



「瑚春さま、とりあえずこちらでお待ちを。弥彦様たちに知らせて参ります」



 庭へ出る直前で止められ、瑚春は頷いて従った。



 使いの者が外へ出るのを目で追いながら、瑚春はもっと見通しの良い通路へ移動し、柱の影から何気に空を見上げ、───驚愕する。



 ───あれは⁉


 なに………?



 天が闇に覆われている!



 瑚春にはそう見えた。



 とても異様な光景に身がすくむ。



 見上げた先には霧船に乗った黒装束姿の者たちが、天を覆い尽くすほどの集団で空から屋敷を見下ろしていた。


 彼等が羽織っている黒い套衣が風に揺れる様子は鳥の翼のように見えた。



(まるでカラスの大群みたい)



 あれが闇御津羽くらみつはの者たち。



 あの中に珂月という許婚がいるのだろうか。



 それとも今はもう庭に降りているのだろうか。



 一体、どんな話し合いが行われているのだろう。



 瑚春は気になって仕方がなかった。



 どうしても庭の様子を見たいという気持ちが強くなり、瑚春は皆にみつからないように注意しながら、庭が見える場所を探した。


 庭木の影に上手く身体が隠れそうな隙間を見つけ、瑚春はそっと近付いた。


 そしてそこから父や母、カナデの姿を垣間見る。



「───誓いもせずに娘を渡すことは出来ぬといっておる!」



 瑚春が皆の様子を覗くのと同時に、カナデの大きな声が響いた。



「誓いはいずれ。祝言は日を改めてと珂月様は申しているのです」



 カナデと向き合っているのは口髭のある男だった。



 歳は父と同じくらいだろうか。



「差し出せという言い方が気に入らぬ!そのうえ日を改めてとは納得できぬ!」



 カナデがまた大声で言った。



「お怒りになるのは当然ですが。どうか我らが主、珂月様を信じてもらいたい」



「信じてもらいたければ誠意を見せよ。姿も現さずによく言えたものだ。それで本当に尊き血筋のお方か?」



 カナデの言葉に、後ろで控えていた弥彦が慌てて言った。



「おばば様! そのような物言いはっ……。仕方ありませぬ、瑚春が部屋から出たそうです。ここへ呼びましょう」




「来てはならん!瑚春、隠れておれ!」



 先程よりも更に大きな声で、まるで瑚春の位置が判っているような口調で、カナデは叫んだ。




「此度の縁は高天原より授かりしもの。一族のおなご達は皆、龍神の娘じゃっ。天に座する父神の神託を受けし者が、この目で誓いを見届けずして大切な一族の娘を渡すわけにはいかぬ!」



「噂通り………。頑固なお方ですな」



 口髭の男は苦笑した。



「さて、どうしましょうか。我らが主も負けずに頑固なところがあるのですが」



 男は暫し思案する様子を見せたが、やがて諦めたというような表情で天を仰いだ。



 カナデは男の見上げた方角に視線を向け、そしてまた声高く叫んだ。



「なにをそんなに急ぐのだっ。山で大事でもあったのか、八千穂のヌシよ!」



 ───少し経ち、空に変化が起きた。



 黒装束の者たちを乗せた霧船が、まるで空に路をつくるように左右に動いた。



 彼等が動いたことで、薄暗くなっていた辺りが徐々に明るくなってゆき、光が庭を照らしだす。



 そして揺れるように降り注ぐ光の中から、霧船に乗った一人が、屋敷の庭へと降りてきた。



 物陰から様子を覗いていた瑚春は、おもわず息を呑んだ。



 その者は明らかに、他の黒装束の者たちとは異なる雰囲気があった。



 肩まで垂らした髪は珍しい茶色で、さらさらと風に揺れている。


 よく見ると身につけている装束も他の者たちのそれと違い、簡素ではなかった。



 風に靡く黒い套衣の下に見えた上衣は濃い赤紫だった。そこに翡翠の玉の装飾と金銀の刺繍が施され、灰色の下衣は足結あゆいのあるゆったりとした袴と足下には紺色の皮履かわぐつを履き、腰には刀剣を佩いていた。



 彼は霧船から降りると、カナデの前に進んだ。



 凛々しい面差しと上背のあるがっしりとした体格なのが遠目にも判る。



「瓊岐の大山主よ、無礼を許せ。訳あって試したのだ」



 落ち着いているが、どこか冷たい声音だと瑚春は思った。



「試しただと?」



「ああ。そちらが本物を俺に授けるかどうか知りたかったのでな」



「本物?」



「誠に龍神の娘かという意味だ。軽く従うようなら中身はたいしたことはないだろ。ハイどうぞと、こちらの言いなりで簡単に渡してくるものなど、俺は信用しないのでね」



「わしの前にこうして降り立つということは、授かる気になったという意味か」



「ああ、貰い受けよう。だが急ぐのだ。すぐに八千穂山へ戻りたい。誓いはここで今すぐにだ」



「何をそんなに急ぐ必要がある」



「俺は早く嫁を連れ帰りたいだけだ。誓いは立ったままでも終えられるだろ」



「八千穂大山の主がこれほど我儘な奴だとは。………まあよい、誰か盃をここへ!───それから瑚春、そこに居るね。こちらにおいで」



 まるで見えているかのように、カナデの声と視線が瑚春に向いた。




「はい………」



 隠れていた瑚春は、おずおずと歩みを進め庭へ出た。



「瑚春、この方が珂月かげつ様じゃ」



 瑚春は俯いたまま深く腰を折り、名乗った。



「瑚春と申します」



 そして目の前の青年を見上げるために、瑚春はゆっくりと顔をあげた。



(髪もそうだけど。瞳の色も変わってる………)


 よく見れば紺や藍のように、青みがある。


 郷では一般的だと思っていた黒髪黒眼とは違う珍しい色を持つ珂月に驚いて、瑚春はしばらく見入っていた。


 そんな瑚春を、珂月は冷ややかに見下ろしていた。


 鋭い眼差しはなんだかとても機嫌が悪そうに思えた。


 そして放たれる強い威圧感に、だんだんと恐ろしくなり、瑚春は慌てて俯いた。



 ────わ、私ったら!


 ろくに挨拶もせずにジロジロ見過ぎたせいで怒らせちゃったとか⁉


 でもなんかこのひと、雰囲気からして恐い!



 珂月は名乗ることも、瑚春に声をかけることもなかった。


 ♢♢♢



 婚礼の儀はお互いの盃を交わしただけで、賑やかす楽の音もなく祝詞も歌も詠み合うことのない、簡単で短時間で寂しげなものに終わった。


 珂月は瑚春に眼差しを向けようともしなかった。



「戻るぞ」



 じつに素っ気なく背を向けて、霧船に乗ろうとする珂月に、瑚春は慌てて声をかけた。



「ぁあのっ。父と母とおばば様にお別れさせてください!」



 これで別れてしまうのでは未練が多すぎる。


 珂月はわずかに振り向いただけで不機嫌に言った。



「昨日済ませなかったのか? 早くしろ」



「………はい」



 瑚春は父と母の傍へ向かった。


 珂月が言ったように本当は昨夜、簡単な挨拶を済ませてはいた。


 けれど本当はまだ、気持ちの整理が追いついていなかった。


「父様、母様………。今日まで大切に育ててくださったこと、感謝しています。

 ………おふたりとも仲良く………いつまでも、お元気で……お過ごしください………」



 言葉の途中で、鼻の奥がツンと痛くなり、最後まで言うのがやっと。


 語尾は涙で震えた。



「瑚春、しっかりな」



 弥彦の声は少し震えているように聞こえた。



「瑚春………。たまには文など書いてちょうだい。霧船に乗せて送ればいいのだからね」



 母の透子は涙で濡れた目を拭いながら言った。



 瑚春は頷いて、精一杯の笑顔を向けた。



 瑚春は次に少し離れた場所に立つカナデに向かった。



「おばば様、お別れです」



 このときはもう、これだけ言うのがやっとだった。



 ぽろぽろと、後から後から涙が頬を伝って、拭うことも間に合わない。



「───瑚春。そんなに泣くと雨を呼んでしまうぞ。そして天の父神様が心配なさる」



 カナデは瑚春の涙を拭いてやりながら小声で言った。



「瑚春………。どうしても耐えられなくなったら、そのときはこっそりとわしの屋敷へ戻ってもよいぞ………」



「おばば様………」



「おい、まだか?」



 こちらを探るように見つめる珂月の眼差しと苛立つ声に、カナデは苦笑した。



「やれやれ。珂月様は短気な性格のようじゃの。さあ、行っておいで、瑚春」



「───はい。行って参ります」



 何かを吹っ切るように、瑚春はしっかりとカナデに頷いてみせた。



「………あの!お待ちくださいませっ」



 母の透子が珂月に向かって言った。



「まさか薄絹の婚礼衣装だけで娘が旅立つとは思いませんでした。この格好で空を行くのでは風邪をひいてしまいます。せめて套衣だけでも羽織らせてくださいませ。すぐに持ってまいりますので、どうか今しばらくの時間を」



「いらぬ」



 珂月は不機嫌に叫ぶと足早に瑚春へ近寄った。そして次の瞬間───、




 ───バサッ!


 翼の広がるような音がしたかと思うと、瑚春は何かに包まれた。



「これで充分だ」



 瑚春の横で珂月が言った。



 気付けば黒い套衣が身体を包んでいた。



 珂月が脱いだものだった。



「行くぞ」



 珂月は瑚春の腕を掴むと霧船へ向かった。



「早く乗れ」



「は、はい」



 他人の霧船に乗ることはあまりない。



 緊張もあり、おっかなびっくり乗り込んだ瑚春だったが、霧船の上でぐらりとよろけそうになる。



 とっさに、後ろから乗り込んだ珂月が瑚春の身体を支えた。



「行くぞ!」



 珂月が背後に従えている者たちへ向けて言った。


 それが合図になり、次々と黒装束の者たちが乗った霧船が上昇していく。



(………父様! 母様!)



 小さく 小さく………。


 遠く………遠く。



 愛する者たちが、親しい者たちが。


 暮らした屋敷がどんどん遠くなっていった。



 親しんだ村里。


 田園、紅葉の美しい山並み。



 ────私の大好きな郷。



 愛おしい瓊岐の郷が遠くなっていく。



 さよならは………言いたくない。



 とても言えない………。



 瑚春は故郷の景色をその目にしっかりと焼き付けるために涙を拭った。




 こうして、純白の婚礼衣装の上に黒衣を纏うという奇妙な装いでの輿入れとなった花嫁は、愛する故郷を後にしたのだった。





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