八千穂の山護り
♢♢♢
「じゃあな、沙弥子。後は頼んだぞ」
「まあ、お見送りも無しですの?」
「するかよ。俺は忙しいんだ」
面倒臭気にこう言って、珂月はまたどこかへ行ってしまった。
「仕方のない人ですわねぇ、珂月様は。……さあ、どうぞ瑚春様。少しお話しましょう」
名乗ってもいないのに名を呼ばれ、瑚春は躊躇いながらも部屋へ入り、沙弥子へ向いて膝をついた。
「───あの、申し遅れました。瓊岐の郷より参りました、瑚春と申します」
深々と頭を下げた瑚春の挨拶に沙弥子はにっこりと微笑んだ。
「堅苦しい挨拶はそのくらいにして、顔をあげてくださいな。珂月様のお嫁さまにやっとお目にかかれたのですもの。もっとよくお顔を見せてくださいませ」
沙弥子は言いながらススっと瑚春との距離を詰めてきた。
瑚春は驚いたがこの際なので聞いてみようと思った。
「あの、私………ここへお嫁に来てもよかったのでしょうか」
「え?」
沙弥子はとても不思議そうな顔をしたが、瑚春はかまわず言葉を続けた。
「珂月さまに言われました。誓いの盃は交わしたけれど、私とはまだ夫婦になるつもりはないって。だからここではなく、麓の屋敷へ行くようにと。それで沙弥子さまが迎えにきたのですよね?」
「……ええ、まぁ」
沙弥子は少し困ったような顔をした。
「それに瓊岐の郷を出るときも急ぐからと屋敷で祝言もしなかったんです。何か理由があるのかと………。でも私、聞けなくて………」
話続けるうちに、抑えていた不安が溢れ、瑚春は泣きそうになった。
沙弥子はしばらく何かを考えている様子だったが、やがて静かに言った。
「そんなの、いいに決まってます。だって皆心配していたのですもの。この縁談が破談になるのではないかと」
「破談?あの、それどういうことですか?」
「珂月様の御一族と瑚春様の御一族との縁談話はずいぶん前からあったんです。とくに闇御津羽の方々は
沙弥子の話に瑚春は驚いた。
「私、そんなこと初めて知りました」
「ですからやっと龍神さまのお許しが得られたのだと、サカキ様も仰って喜んでいました」
「サカキ、さま?」
「はい。サカキ様は珂月様のお祖父様で、一年前までこの八千穂の山護りを務めていた方です。高齢なこともあって孫の珂月様に大山主を継がせ、今は隠居されて出雲にいらっしゃいます」
「そうでしたか」
「それにしても。瑚春様を不安にさせるなんて。困った人ですね、珂月様は」
沙弥子はため息をつきながら言葉を続けた。
「珂月様は昔から素直でないところがありますから」
「あの、沙弥子さまと珂月さまは………その、どういう関係なのですか?」
「私の母が珂月様の乳母をしていました。珂月様の母上様は難産の末、珂月様を出産してから亡くなられて……。私たちは兄妹のように育ちました。珂月様の性格はだいたい判りますから、なんでも聞いてくださいませね」
「私、この郷にいてもいいのですね?」
「もちろんです。本当は珂月様がきちんと言うべきことですのに。今は探すことに必死で、周りが見えてないのでしょう」
「探す? 何を探しているのですか?」
尋ねた瑚春に沙弥子は迷った様子を見せていたが話し始めた。
「言うなとも言われてませんので教えますけど。瑚春様はどこの山にも
「はい」
みなもとは水源。
山間の湧き水のことだ。
「真陽代の郷の大山〈八千穂〉には『
「水元が八つも」
山護りにとっては水元も護るべき大切な場所だ。
大山の主でもあったカナデも、山の水源を外の者に知られぬよう秘密にしていた。
真陽代の郷は広い。水元も四つでは足りないだろう。
「残り四つの水元探しはかなり昔から八千穂の山護りを務めてきた者たちに代々継がれているそうですが、未だに見つからず。サカキ様も高齢で、数年前に病を患ってからは山護りを続けることも難しくなり、一年前に孫である珂月様にこの大山を託されたのです」
「でもなぜ火技を持つ闇御津羽が水元を探し出すことができるのです?」
「それは昔、神世の時代に一度だけ水女神の力を継ぐ一族の娘が闇御津羽に嫁ぎ、一族同士の血が混ざったために、闇御津羽に産まれた者は水技も少し使えるのだと聞いたことがあります」
「そんなことが………」
瑚春にとっては初耳だった。
「
新年に行う『若水迎えの儀』も、なるべく新しく探し当てた湧清水で行いたい想いがあるようなのです。忙しそうにしているのはそういう理由があるからだと思います。今もきっと山へ探しに入っているのでしょう。これは憶測ですが、祝言は若水の儀式が無事に済んでからと思っているのかもしれません」
「………そうだったんですか」
「少し短気なところがありますけど、根はとても真面目なんですよ、珂月様は」
沙弥子は微笑んだ。
「珂月様に仕えている私たちが、何かもっとお手伝いできることがあればいいのですが。毎日夜更けまでお一人で探しているときがあるので、麓の屋敷でも心配している者も多くて」
「夜更けまで⁉ では珂月さまのお食事などは?」
「適当に食べているからいいとは言われますけど。本当にちゃんとご飯を食べているのか怪しいときもありますの。私もたまには来て用意するのですが、毎日は来れませんし。ですから瑚春様には珂月様の食事など、お世話をしてもらいたいのです。麓からの通いになってしまいますけど」
「それは構いませんけど。でも私、珂月さまがこの縁談を迷惑に思っているのではないかと思って」
瑚春の言葉に沙弥子は首を振った。
「そんなことはありません。瑚春様との婚姻はきっと意味のあることです」
「意味?」
「波八の水元を探す珂月様にとっても、とても心強いことと思います」
───何ができるだろう。
何かできることがあるだろうか、私に。
こんな私でも、与えてもらえる何かがあるのなら………。
この場所で。
頑張ろうと決めたのだ。
「沙弥子さま。私、珂月さまのお手伝いがしたいです。水元を探すお手伝いを。………私、雨を呼ぶことはあまり得意ではありませんが、水の気配を感じることには慣れていますから」
「まあ、良かった! でもやはり毎日のことですから、麓の屋敷から通うのは大変ですわねぇ」
「あの、そのことなんですけど。どうしても麓のお屋敷へ行かなくてはいけないのでしょうか。そもそもなぜ私だけ一人で違うお屋敷で暮らさないといけないんでしょう。 珂月さまは雪が積もるまでここで生活するみたいですけど。できれば私も………その頃までに水元の一つくらいは見つけてあげたいと思うのですが」
瑚春の話を黙って聞いていた沙弥子だったが、途中からうんうんと頷き、瑚春の話が終わると沙弥子は微笑んだ。
「そうですよねぇ。瑚春様だけが麓のお屋敷で暮らさなくてもいいはずです。まだ夫婦にはならないと言っても、誓いの盃は交わしているわけですし。一緒に暮らしてもおかしくはないのですから。私は賛成です。───そうだわ、瑚春様。これから一緒にお昼ご飯を作りませんか?」
「ご飯を?」
「お腹すいてません?」
そういえば朝食べたきり何も口にしていない。
ひどくお腹が空いていることに気付き、瑚春は正直に「はい」と答えた。
「後で屋敷の中を案内しますが、まずは竈へ行きましょう。そして珂月様の分の昼食も一緒に作ってびっくりさせてあげましょう」
「怒られませんか?」
「大丈夫ですよ。何かお手伝いしたいという瑚春様の気持ちが珂月様にちゃんと伝わればいいんです。それから美味しいご飯でがっちり胃袋をつかむのですよ!」
瑚春の両手を握り、意気揚々という様子の沙弥子に少し戸惑いながらも。
瑚春はこの屋敷に残る決心をし、沙弥子と一緒に炊事場へ移動した。
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