波八の湧清水
♢♢♢
「───なっ⁉ なんだおまえ!まだいたのか⁉」
───あれから。
沙弥子と昼食を作り終え、しばらく後。
屋敷に戻った珂月は囲炉裏のある部屋で瑚春を見るなり叫んだ。
「……お、おかえりなさいませ、珂月さま」
「沙弥子はどこだ」
「お帰りになりました」
「は? 帰った⁉ ───どういうことだッ。おまえはなんで一緒に帰らなかったんだ⁉」
「あのっ、お願いがあるんです!ここで一緒に住まわせてくださいッ」
瑚春は正座して頭を伏せた。
「なに言ってんだ………。俺は麓の屋敷へ行ってろと言ったはずだ」
「でもあのっ、私に波八の湧清水を探すお手伝いをさせてくださいッ」
「───沙弥子から聞いたのか。………断る!」
「なぜですか」
瑚春は顔を上げて珂月を見つめた。
「おまえに探せるわけがない。雨もろくに呼べないんだろ。そのくせ身体も弱いおまえなどに」
「私の身体のこと、知っていたんですか………」
「調べれば簡単に判ることだ」
珂月は瑚春から目をそらし、そして言った。
「俺が霧船で送る。すぐに支度して外へ出ろ」
「嫌です」
「なんだと⁉」
「知っていたなら、なぜこの縁談を受けたのです? あのときはっきり断らずになぜ?」
珂月は言ったのだ、あのときカナデに。
本物か試した───と。
要らないと思った存在なら、最初から断るはずだ。
迎えになど来ないはず。
それなのに、渋々とはいえ自分をここへ連れて来たということは………。
たとえ少しでも珂月が何か自分に期待してくれているのだとしたら。
思い上がりかもしれない。
自信なんてない。
だけど………。
「私、これでも水杜一族の娘です。それに………もう判りました、水元のある場所が。波八の湧清水の一つが」
瑚春は驚いたように目を見開いた珂月を真っ直ぐに見つめた。
雨を降らせるのは苦手だ。
でも私は水を感じることができる。
「ならば俺が今、目星をつけている水元の方角を言ってみろ」
珂月が言った。
「言い当てたら約束してくれますか?」
「考えてやってもいい」
「嫌です。ちゃんと約束してください。私にもいろいろ手伝わせてくれるって」
こちらを睨む珂月を見つめるのは、とても恐ろしかったけれど。
目を逸らしたら、せっかく出した勇気が萎えてしまいそうで。
瑚春は必死に我慢し、珂月の藍色の瞳から視線を外さぬように堪えた。
「マヌケかと思えば強情でもあったのかっ、おまえは!」
深く息を吐きながら、珂月はドサリと瑚春の前に座った。
「麓の屋敷でだって、いろいろやる事はあるだろ!」
珂月の大きな声や荒っぽい動作に怯えながらも、瑚春は一生懸命訴えた。
「で………でもッ。………もちろん、ご飯を作ったり、お掃除やお裁縫もやりますっ。でも私は………こんなでも水杜一族の娘なんです!───それに、一応嫁いだのだから………こ、この、郷の、ためにっ、わたしにもできることが、ぁあ………あれば、って───ふぇっ………」
「………なんで泣くんだよ」
喋りながらポロポロと涙を流す瑚春を前に、珂月は小さく息を吐いた。
そして次に聞こえたその声は意外と優しいものだった。
「方角を言ってみろ、信じてやる。とりあえず約束もしてやる。だから泣くな」
「ほんとに?」
濡れたままの瞳で、瑚春は訊いた。
「とりあえずだ。約束を叶えるのは俺がこの目でその場所を見てからだ」
再び不機嫌な口調に戻った珂月にビクビクしながらも瑚春は頷いた。
「このお屋敷から南へ真っ直ぐに。岩山を二つ越えた先辺りかと」
瑚春の言葉に珂月はしばらく黙り込み、何かを考えている様子だった。
「とにかく南です。違いますか?」
「違ってはいない。だがもしそこに水元が無かったら離縁だからな」
「り、離縁⁉」
(そんなのって! まだ夫婦になるつもりはないと言っておきながら、離縁だなんて変じゃない?)
瑚春は少し呆れた。
「判ったらさっさとその泣きっ面を拭いて、昼飯の支度でもしろ」
「あ!お昼ご飯は出来てます。沙弥子さんにいろいろと教えてもらって作ったんですよ」
「………そ、そうか。じゃあ飯が終わったら、おまえが感じる南の水元へ案内してもらうからな」
「……は、はいっ」
瑚春は慌てて涙を拭いて立ち上がると、食事の支度を始めるのだった。
♢♢♢
「遅い! もっと速く進めないのか、おまえの霧船はッ」
昼食後『波八の湧清水』があると思われる場所へ案内するために霧船で向かう瑚春の横で、自分の霧船に乗った珂月が苛立ちながら言った。
「すみません……。でも私にはこの速さが精一杯で………あ、もうすぐじゃないかな」
二つの岩山を越えた辺りで、瑚春は今まで以上に水の気配を強く感じた。
霧船をゆっくりと下降させ、再び山の中へ入る。
進むうちに少しずつ清らかな水の流れが近くなるのを感じた。
たくさんの巨木が枝を広げる周囲は鬱蒼としていて、陽の光もあまり届かないような場所だった。
霧船の移動も、左右の木々をうまくかわしながら進まなくてはならないので、徒歩で進んだ方が早いかもと思い、瑚春は霧船を止めて地面に降りることにした。
「ここか?」
「いえ、もう少し先ですけど歩いた方が行きやすいというか」
「乗っても降りてもお前の速度じゃ変わらんだろうが」
(───むむっ。そりゃ、確かにその通りかもしれないけど。そんな言い方しなくても)
自分を追い抜いてどんどん先へ行ってしまう珂月と距離が広がり、はぐれてしまいそうになり瑚春は慌てた。
「珂月さま、待って!」
おまけに進む方向は僅かに上り坂で。
瑚春は呼吸が苦しくなり、足を止めた。
もう少しゆっくり歩かなければ、心臓が痛むことになる。
それなのに、どんどん先を行ってしまう珂月との距離は、そのままお互いの心の距離のように思えた。
「───おい、何をしている。早く案内しろ」
珂月が振り返って言った。
瑚春は小さく頷いて足を進めた。
近付くにつれ、水の匂いが濃くなるのを瑚春は感じた。
(………もうすぐだ)
「近いな」
その気配を珂月も感じたのか、足が早まる。
「珂月さまも感じますか? だったら先に行ってください。きっともうすぐ着きます」
瑚春は立ち止まり、先を行く珂月の背に向かって言った。
足元の地面が湿っているのが判る。
湧清水は確かにこの先にあるだろう。
(ここまで来ればわたしの案内がなくても………)
「何言ってんだ。最後まで責任もってしっかり案内しろ」
珂月が振り返って言った。
「………でも」
「なんだ」
「そんなに早く歩けません」
「何故だ」
(なぜって………)
胸が痛むからだと、素直に言えない瑚春だった。
言えばまた珂月が怒ったり呆れたりするのではと思えて。
そんな珂月の顔を見るのが、なんだか嫌だった。
「おまえ……もしかして気分が悪いのか?」
言いながら珂月は早足で引き返し、俯く瑚春の顔を覗き込むように見つめた後で声をあげた。
「なぜ言わないんだ!」
(ううっ。ほらやっぱり怒るッ)
「ぃえ、あのっ」
ゆっくり歩けば大丈夫ですと言おうとしたのだが。
「気付かなくて悪かった。休むか?」
怒った顔から気まずげに、そして気遣うような表情になった珂月に驚きながら、瑚春は首を振った。
「じゃあこのまま進むぞ。おまえはゆっくりでいい。後からついて来い」
こう言って、珂月は黙り込んだままの瑚春に背を向け、再び歩き出した。
けれどその速度が幾分、遅くなっているように思えて、瑚春は驚いた。
気のせいではない。
(珂月さまがゆっくり歩いてくれてる)
「苦しかったら我慢しないでちゃんと言え」
背を向けたまま珂月が言った。
「はい……」
珂月の変化に戸惑いながらも、瑚春は呼吸を整えてからゆっくりと歩き始めた。
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