猫とカーテン

腹音鳴らし

『猫とカーテン』

『お話』ってヤツはいつも、記憶の目覚めだとか、突然の事件だとか、運命の出会いだとかってシチュエーションから始めるのが定石だ。

 だけど平凡に過ぎる人生……もとい、猫生を送っているオレには、そんなものは何のご縁もないわけで、つまりこのお話はそんな定石に囚われたりしない、良く言えば斬新な、悪く言えば売れそうにない、そんなスタートを切る事になる。


 カーテンの揺れに苛つきながら、オレはうなり声を上げて二人に抗議していた。

 とにかく、今日の猫缶の味は最悪だったのだ。


 オレの飼い主であるOLの〈タマ〉は、最近出来たばかりの彼氏〈アキオ〉に夢中だ。

 アキオは週三回のペースで夕食をこの家に食べに来る。彼らの食費は割り勘なのかもしれないが、そんな事は知ったこっちゃない。問題なのは、二人分の食費を得る為にケチられた差分が、オレの猫缶代から削られているという現状だった。


 2LDKのありがちな間取り。それでも家賃は月十万円という、この春OLになったばかりのタマには多少背伸びしたマンション物件の一室がここ。

 彼女に夏のボーナスが出る頃には、今よりまだマシなメシが喰えるだろうか、なんて、図々しく考えてしまう。……だってオレ、猫だもの。


 無視を続ける飼い主と、その伴侶(の予定)の談笑は楽しげだった。

 オレはもう一鳴き。そしてまた無視される。

 そんなオレを嘲笑うように、窓際のカーテンはまだ揺れている。


 タマがアキオと付き合い始めてすぐに家にやってきたこのカーテンは、小さくて可愛らしい三毛の子猫がまばらにあしらわれた物だった。そいつが風で揺れるたび、オレはヤツの媚びたような、人間の保護欲を掻き立てるような、ペラペラした仕草が癇に障って仕方がなかった。


 ゆらゆらゆら。


 ああ、またやりやがった。


 ゆらゆらゆらゆら。


 裂いてやろうか?


 最近のタマは、このカーテンとアキオに夢中だ。

……先に彼女と暮らしていたのは、オレなのに。 


 

 オレがタマに拾われた時、タマはまだ四年生大学に通っていた。

 


◆     ◆     ◆

 


 出会いは雨の日だった。

 大学のキャンパスの一角、体育館の横にある自動販売機の下の方で、オレは捨てられていた。……これはあとから知った事だが、〈捨てられた猫〉という記号は、〈段ボール箱の中の毛布に包まれた猫〉という意味を内包しているらしい。

 まぁ、〈内包〉っていうのが、どういう意味なのかまではうまく説明できないんだけれど。オレは難しい言葉を使いたい年頃だった。


 とにかく、自動販売機の下でうずくまっていたオレは、捨て猫としてのオプションを備えていなかった。箱も毛布も、用意してはもらえなかったのだ。


 おまけにオレの外見は、一般的な基準からいっても〈可愛い〉とは言い難いものだった。

 灰色の毛並み、アーモンド型の目尻、でもその中で光る瞳は曖昧な赤だがオレンジだかでよく分からない。長くて自慢だった尻尾は、前の飼い主の不手際で骨ごと変な風に反れてしまい、無理に折り曲げた針金みたいになっていた。四本の足も、均等に短い。ダサい。


 ザーザー鳴ってた雨音に紛れて、たくさんの人間の足音がしていた。

 みんな、休み時間で喉が渇いていたんだと思う。自動販売機に金を入れるチャリチャリした音が良く聞こえていたから。

 たまに、うずくまってたオレに気付いたヤツらは、頭やら背中やらを撫で回すだけ撫で回して、結局授業に行ってしまったっけ。


 オレが飼い主に捨てられたのはその日の朝方だったから、まぁ大体十時間くらい、そこにいたと思う。

 

 雨はまだ降り続いていて、うんざりするほど人の足音が行き来していた。

……で、不意にその中のひとつが、近づいて来たわけだ。


「……ははぁ。キミはアレだね? 捨て猫ってヤツだね? なるほど、ボロボロで汚いね」


 噛み殺してやろうかと思った。


 初対面のオレに平然と極刑モノの暴言を吐いた、その失礼な女こそ、タマだった。

 その頃、彼女の髪はまだ赤色に染まっていて、長かった。それにブランドだがなんだか知らないが、変なパンツを穿いて派手なシャツを着ていた。


 彼女は唯一今と変わらない、大きくてまん丸な瞳でオレの事をギュンギュン見た。

 いや、ギャンギャンだったかもしれない。


 見た。見られた。見られまくった。


 小一時間ほども掛けて、タマはオレの事を持ち上げたり、投げてみたり、だっこしたりしながら観察していた。頭の中は、もうその時点で何もかもどうでもよくなってて、いっそ大型トラックが来るタイミングを見計らって、彼女がオレを道路に投げ込んでくれないものかと願ったりしていた。……まぁ、それが叶わなかったから、オレは彼女に飼われる羽目になったんだけれども。


 そのうち、タマはオレの事を弄ばなくなった。

 オレを撫でたり掴んだりしていた彼女の手が、オレの毛でもわもわになったぐらいで、雷が鳴り始めたからだ。


「あー、降ってきたなぁ」


 曇天を見上げた彼女は、別段気にした風もなさそうに、オレの毛だらけの手で自分の頭を掻いている。 

 雨なんて、元から降っていた。オレはタマを馬鹿な女だと決めつけた。

 そして、


「おし、帰るか」


 タマは! オレを! 持ち上げて! 言った!


 意識が曖昧だったその時のオレに、彼女に対する抵抗などできるはずもなかった。オレはあっさりと拉致された。


 自動販売機を去る途中、元の飼い主が体育館の脇でこちらを伺っているのが見えた。

 野郎、見張ってやがったのだ。一瞬だけそんな怒りが腹の底で渦を巻いたが、その腹が減ってそれどころじゃなかった。良かったな、今回は見逃してやる。だが次に会った時は覚悟しろ。……たぶん、そんな事を考えていた。

 


◆     ◆     ◆


 

 テレビには天気予報というものがある。

 その日の朝、家を出る時に傘を持って行くかどうか、各人が決める為の参考になるものなのだと、のちに学んだ。

 つまり彼女は、タマは、極上のアホウだったのだ。


 どうして雨が降るのが分かっていて、傘を大学に持ってこなかったのだろう? 

 どうして傘がないなら、雨が止むまで待てなかったのだろう? 

 どうしてどうして、そんな日に原付で大学に来ていたのだろう。


 未だに分からないタマの性分というヤツなのだろうが、その時オレは、雨に打たれる理不尽さと、びしょ濡れになりながらアクセルを引き絞る彼女のズレた鼻唄が耐え難くって、聞き難くって、ぎゅっと目を閉じていた。

 それから、もし次にこの目を開く事があれば、そこがきっと、マタタビの生え揃った楽園でありますように、と。

 しかし。よりによってオレの我慢は、そこから二時間も続いた。


 あんまりだった。

 大体、そんなに家が遠いなら電車使えよ、って、言ってやりたかった。

 

 さらに、彼女は鼻唄を歌い終わると、


「忘れてたけど……。ウチの親って、猫アレルギーなんだよね」


 なんて、粗い運転をしながらフザけた事実を告白した。


 じゃあオレは彼女の家まで連れて行かれて、その家の近所で『サヨウナラ』、『マタアイマショウ』なんて、歌謡曲のタイトルみたいな口上で捨てられるのだろうか。それこそあんまりな話だった。オレだって、どうせ捨てられるなら暖かい所がいい。

 だけど、この時オレはまだ、タマの事をナメて掛かっていたのだ。


 どぅるるんばお、どっぴんしゃん、と、喉に痰が詰まってしまった象みたいな音がして、原付は急停車した。


 タマ、びしょ濡れ。もちろんオレもびしょ濡れ。

 運転中、口の開いた彼女のバッグに入れられていたオレは、首根っこを掴まれてそこから無理矢理引き抜かれると、今度は彼女のシャツのお腹に隠された。


 ははん、なるほどね。

 とことん馬鹿だった。タマはそれで、玄関で待ちかまえているであろう彼女の親の目を、かいくぐるつもりなのだ。


 果たして彼女の親、(化粧をしていたからたぶんお母さん)は、玄関でタマを待っていた。


「お帰り。……ええと、そのお腹の中身は、なに?」

「ただいま、母さん。ちょっと妊娠したみたいだから、明日には治ると思うわ」

「あらそう。いいけど、二階に上がるならタオル持って行きなさい。風邪引くわよ」

「はーい」

「それ、中身は猫ね? そうでしょ?」

「残念。正解は象の赤ちゃん」

「ふぅん。じゃ、大きくなったら私にも見せてくれるのね?」

「もちろんよ」


 タマのお母さんはタマと仲が良さそうだった。

 そんなに広くない一軒家の二階に、彼女の部屋はあった。玄関の横にトイレがあって、その横にある階段はタマが踏むたびにギッシギッシと、とんがったカエルに似た声で泣いてた。きっとタマが重すぎるんだろう。そんな事を思ってたのが彼女にバレたら、きっとオレは三味線になってお店に並んでただろうけど。

 

 木製のドアの上の方にはネームプレートが貼られていて、オレの知らない漢字で何かが書かれていた。多分、あれがタマの本当の名前だったのだろう。


 タマの部屋は荒れていた。

 少なくとも、前の飼い主と比べてトントン、ぐらいには。


 机とベッドと本棚と小さな冷蔵庫がある。みんなシールが張られていたり、落書きされていた。漫画や小説があちこちに散らばっていて、その上には脱ぎ散らかした服、服、そして服。

 目覚まし時計が半分だけ分解された状態で、ベッドの上で工具に囲まれている。壊していたのか、直していたのか、そのどちらだとしても、いじっているうちにタマが飽きてしまったのは間違いない。


 そこまできて、ようやくオレは彼女の机の上の、ほんの少しだけ空いているスペースに下ろされた。


「そういえば自己紹介がまだだったね。私は〈タマ〉。タマでいいわ」


 捨て猫相手に、タマは律儀に言った。

 彼女は濡れた服を部屋のハンガーに掛けてしまい、オレがいるのに、さばさば着替えていった。ラフな部屋着姿になったタマは、タオルで赤い色の髪を拭く。その仕草が気持ちよさそうで、オレも濡れた体を拭いて欲しい気持ちに駆られた。ずうずうしいから、口には出さなかったけれど。


 外はまだ雨が降っている。タマは髪を拭いている。オレは震えている。

 どれが終われば、オレはまた捨てられるのだろう?

 彼女の長い髪が乾くまでには、まだしばらくの時間がかかりそうだった。


 オレが話を聞いているのかそうでないのか、判断できないはずなのに、タマはまるでそこに十年来の友人がいるように言葉を紡ぐ。


「今日はお互い災難だったね。君は捨てられるし、私は傘を忘れるし、課題も出た」


 どうして、タマはオレが捨てられたのだと知っているのだろうか?


「ああ。私、見てたんだ。朝方、君が捨てられるところをね。初めは拾うつもりなんてなかったんだけど」


 それがどうしてまた、オレを拾ったのだ?


「お茶に誘いたかったんだよ」


 まるでオレの意識を汲むように、タマは見事に会話を成立させていた。


 それから彼女は、自分だけがタオルを使っている事に気づいたようで、鞄の中から出したハンドタオルをオレに投げてよこした。


 毛だらけになってしまうのに、いいのかな? そんな躊躇いもあったと思う。あっただけで、遠慮なんて、しなかったけれど。

 それからそれから、タマは冷蔵庫から小さな牛乳パックを取り出して、彼女が飲んでいたらしいコーヒーの、カップとセットになっていたソーサーに中身を注いで、オレの前に置いた。四つ足にローラーの付いた椅子に腰を預けた彼女は、正面のオレをけん制するように手の平をみせる。


「まだ飲んじゃダメだよ? 私の分を入れてないからね」


 タマは楽しそうに、カップを牛乳で満たしながらそう言った。

 そしてオレの前のソーサーに、カチン、と、それを合わせて、


「乾杯」


 牛乳は、一気に彼女のお腹へ消えた。


◆     ◆     ◆

 

一時間ほど、オレはタマの話を聞いていた。


 彼女が大学で何を勉強しているのだとか、今の彼氏がどんな人なのだとか。聞けば聞くほど、彼女はオレの知る『人間』とはズレた、変で不思議な女だった。

 話をしている間ずっと、彼女は二杯目の牛乳をちびちびと飲んでいた。オレの為にソーサーに注がれた牛乳は、まだ一杯目でぬるくなっていた。


 BGMが似合わない部屋の中、外の単調な雨音と、時折思い出したように光る雷が、絶妙に話の間を取っていた。かと思えば、彼女は猫のオレから見ても猫みたいに、気まぐれにまかせて話を途切れさせてしまう。

 喋るだけ喋って、また時間をかけて話題を考えるのだ。その様子は、ベッドの上で分解されたままの目覚まし時計みたいに不器用だった。


 オレといえば、先ほどから窓際でせわしなく揺れているカーテンの動きが、気になって気になって仕方がない。

 気が狂ったような深紅のカーテンには、どのような意味が込められているのだろうか。それを知るのはタマだけだ。


 窓の隙間から部屋に入り込む風は、揺れるカーテンを介してオレの攻撃性を刺激する。これはトラウマだ。頭の中で、猫じゃらしであやされていた記憶が蘇った。ついでに、ハエ叩きでビンタされた記憶も浮上した。


 すっかり乾いてしまったオレの毛とタマの髪。

 だけど、彼女はまだしばらく、タオルで自分の頭をガシガシやっていた。


「ところで君は無口だね。 猫だからって、遠慮なんかしなくてもいいのに。もしかして、緊張してる?」


 ようやく頭を拭くのをやめ、最後に、彼女はツンとした臭いのする紙で化粧を拭き取っていく。その素顔は、瞬く間にあらわになった。


 結論から言うと、化粧をしない方がタマは美人だった。けれどそれを言葉にしてしまうと、どこか嘘っぽくなってしまいそうなのが怖くて、オレはそれ以上考えないようにした。


 代わりにオレは、彼女の質問に答えた。


「……硬派だから、


 あべこべな文章が、口を突いて出る。

 オレにとって言葉を発する事は、考える事よりもずっと難しくて、思い通りに表現できない。……本当は、誰でもそうなのだろうけど。


 タマは元々まん丸な瞳を、もっと丸くしてオレの方を見た。


「ずいぶん難しい言葉を知ってるんだね?」


 オレが喋った事には驚きもせず、首を傾げるのだった。


「ちなみに君さぁ、『硬派』って意味、分かってて使ってる?」


 タマはオレの知性を疑う目で質問してくる。

 だからオレは発音を考えた後、なんとか喋った。


「……高校野球、みたいなものだと、オレは、思うます」

「あははは! 当たらずも遠からず、ってヤツだね」


 タマは腹を抱えて笑った。

 笑いすぎて、椅子ごと後ろにひっくり返って、ベッドの角で頭をぶつけて、しばらく泣いてた。 


「オレは、はずれましたか?」

「あー、いやいやそんな事はないよ。自分の中で言葉のイメージが形になっている人なんて……失礼、猫なんて、そうそういないと私は思う」

「お前は、できてますか?」

「こらこら。〈お前〉じゃなくて〈タマ〉。名前があるんだから、そっちで呼んでくれないかなぁ」

「オレには呼べません」

「どうして?」

「それもお前には言えません。汚い言葉も、直りません」


 だって口が、アゴと舌と声帯の関係が、オレの中ではとてもデリケェトでセンチメンタルなんだもの。

 だけどそんな言い訳でさえ、口に出せない猫野郎なのだ。オレは。

 カーテンが相変わらずゆらゆらと揺れていて、馬鹿にされたような気がした。


「ふぅん。口には出せないワケがあるのか」


 彼女は手櫛で髪を掻き上げただけで、納得してしまった。

 しかも、半分くらいは正解だ。


「誰だって、自分の力じゃどうしようもない事ってあるよねぇ」


 たとえばタマが、オレを拉致してここに連れてきたみたいにね。


 オレが笑おうとすると、彼女は敏感にそれを察知して、先に睨みを利かせてくる。……オレは食べても美味しくないぞ、そう伝えてやりたかった。


「それで、何の話だったっけ? ……ああ。そうそう、言葉がイメージになっているかどうかね」

「そう。それ」

「私は自分の中の言葉や気分を、外の世界に吐き出しているの」

「……ゲロ?」

「それは少し、いや、かなり違うかな」


 ただの冗談なのに、タマはすごく嫌そうな顔をした。

 

 改めて説明されるまでもない、オレは彼女が言いたい事は理解できている。

 たとえば、一見雑然としているこの部屋の有様も、実は目には見えないルールの上に成立しているのだ。……タマの決めた、タマだけのルールで。


 繰り返すが、タマの部屋は雑然とし過ぎていて、ちっとも女の子らしくなんかない。

 だがそこにあるルールについては、オレは先ほど一時間ばかりも掛けて、彼女に説明を受けていた。


 彼女の〈体〉と〈心〉とこの〈部屋〉は、それはそれは絶妙なバランスと配線でリンクしていて、最近は彼氏が変わるたびに壁紙を貼り替えているらしい。当然、彼女の心が周囲に与える影響は、壁の一部たる、オレにとってはいけ好かないこの赤いカーテンにも及んでいるらしい。


 だが、変化はなにも、タマと付き合う彼氏だけがこの部屋にもたらすもの、というわけでもない。

 彼女の毛穴が開けば、同調して部屋のカーペットは荒むし、化粧のノリが良ければ、自然と部屋の風通しが良くなる。


 ただし、部屋そのものがタマに変化をもたらす事はない。影響による変化は、あくまで意志を持つ存在からしか外界へ発射されない信号なのだ。故に彼女は、体と心と部屋模様を、その三角関係の外から受けた刺激、あるいは己の内に沸き上がった理想に合わせて、常に変化させている。


 だからいつか、彼女の心から情緒かごっそり欠け落ちるような事件が起こったなら、きっとこの部屋は金属製になるのだろう。机もベッドもカーテンさえも、目が粗くて、鏡の代わりとしては特に役に立ちそうにもない鼠色のそれに変化するのだ。

 もちろん冷蔵庫の中の牛乳パックも鉄製になるだろうし、その中身は砂鉄に違いない。そしてその時、彼女が髪の色にチョイスされるのはおそらく灰色だ。


 静観の青ではなく、無機質の灰。

 彼女の体はきっとそれを選ぶ。

 ただ、今回に関しては、そんな心配はしなくても良さそうだった。


 タマは変な女だが、ほどほどに明るいし、人間基準でいえばスタイルもいい。モテるだろう。そして実際にモテているから彼女には彼氏がいるわけで、さっきからオレの神経を逆撫でするこのカーテンも、情熱の深紅をその身に宿しているというわけだ。


 つまりこの荒れ果てたように見える部屋は、それだけ今のタマが騒々しく、多忙でワンダフルな生活に身を置いている証拠なのである。

 このカーテンが赤色であるうちは、彼氏は安心して彼女と付き合えるだろうし、タマもそれを望んでいるのだろう。部屋にもたらされた変化が、タマを取り巻く現実の反映なのか、それとも、そう在りたいと願う彼女の願望の現れなのかまでは、オレには分からなかったけれど。

 

「お前は完成していますね」


 オレはタマに言った。

 褒め言葉のつもりだったけれど、言い方が悪くて皮肉に聞こえるかもしれない。


 タマは打ち付けた頭を片手でさすりながら、もう片方の手を顔の前で振る。


「いやぁ、そういうわけでもないんだな。これが」


 机の上に置いたカップを指先でチン、と鳴らして、タマは口を尖らせた。


 何をつまらなく思う必要があるのだろうか? 頭の中身が完全に整理されているのなら、問題解決の手段はおのずと浮上するわけで、体と心とこの部屋のバランスが完璧な彼女が、恐れるものなどこの世に何もないはずなのに。


 にもかかわらず、タマは椅子から立ち上がり、目覚まし時計が陣取っているベッドにダイブしてみせた。

 ネジや歯車、つまり目覚まし時計の肉と骨が四方に散らばったわけだが、部屋の変化としては、さほど大がかりなものではない。タマは足をじたばたさせて、わずかに残っていた時計の死骸をベッドから排斥した。


 やがて彼女はタオルケットを頭から被ると、オレには顔を見せないようにして呟いた。


「……虚無だよ。虚無」


 その言葉の意味は知っていた。

 確か、〈カオス〉のお隣さん、だったはず。

 

「ありがちな悩みだけどね」


 タマはタオルケットから顔を出して、寂しそうに笑う。

 寂しいなら、笑わなきゃいいのにと思った。


 彼女はこれだけの完全さを備えているというのに、体と心とこの赤いカーテンのバランスだけでは、やっていけないのだ。

 たとえばそれは、何段も積み重ねてみた半球のアイスクリームの中に、ふと、どうして黒はないんだろうとか、その他の原色が存在しないのだろうなんて、その程度の疑問が始まりだったのだ。けれどその疑問は、それ以外の問題が完璧に整理されていればいるほど色濃く頭に残り、早急に解決しないと、やがて夜も眠れないような不安に変化する。


 ベッドの上で分解された目覚まし時計でさえ、その機能が備えていた意味とリンクしていた。

 充実した毎日を送っていたタマの中に、ある日偶然生まれてしまった不安へのアラーム。危険信号だったというわけだ。


 このまま放っておけば、あの目覚まし時計を襲った〈分解〉という変化の波は、やがてこの部屋中を覆い尽くすだろう。


 ベッドは木材に、カーテンは糸屑にまで分解される。


 そうすると、オレも危ないのではないだろうか。

 オレは、何に分解される?

 血か? 骨か? 

 それとも、『ね』と『こ』だろうか?

 

「お前は、オレをどうします?」


 だいぶ慣れてきて、柔らかく話せた。

 タオルケットを頭から被ったタマは、お化けみたいに両手を広げて、


「食べていい?」


 なんて、ルール違反な事を堂々と言った。

 

「どう料理されたい?」

「唐揚げは、嫌です」

「じゃあ和風だね」

「刺身は、いいです。……食べるのは」

「あー、私も好き好き。マグロとか」

「アイツは、最高ですね」


 どうやら、話を逸らす事ができたようだった。

 けれど、そこからまたタマは黙り込んでしまった。


 雨が激しく窓をノックするのは、台風というヤツのせいらしい。なんでも台風には目があって、それを潰すと、そいつはひとまたまりもなくて、逃げていくのだそうだ。雨はよく涙に例えられるから、雷は台風の悲鳴なのだろう。


 しつけの悪い子供のようだとオレは思った。それとも、台風そのものが躾を受け付けないほど幼いのか。

だが、これだけの暴れぶりである。きっと、奴にはしかってくれる親がハナからいない。


 オレと同じだ。オレは弱いけれど。

 周りは強い生き物ばかり。オレだけが弱くて、浮いている。


 そこで、部屋の壁に掛かったカーテンの赤だけが、灰色を基盤としたこの部屋の中で、いまひとつ浮いた印象を受ける事に、オレはようやく意識を向けた。

 なんとなく、この違和感の根幹に、タマの不安の正体が潜んでいるかもしれないと、思ったからだ。


 彼女は彼氏という外の要素から影響を受けた。その証拠がカーテンの赤だ。

 けれど、タマが本気で恋に落ちているのなら、カーテンを染め上げた赤の侵略は、この部屋全体に及んでいなければならない。それがどうして、カーテン以外の壁や天井が無事なのだろう? オレの疑問は、そこに生じた。


 答えは、没頭するに足りない感情の量と、勢い。……では、ないだろうか。

 そのバランスの乱れが、タマの心に危うい虚無をもたらしたのだ。


 だが本来なら、そのバランスの揺れ幅こそが恋愛の焦点ではないのだろうか、とも思った。

 それを面倒だと思うあまり、大抵の人間や動物は互いのストレスを性交渉で塗り潰してしまう。目に見えない不安には、より肉感的でリアルな衝動で対処するのが一番手っ取り早いからだ。

 誰だって、苦痛よりは快楽を望む。


 そんな中、今オレの目の前にいるタマという女だけは、その限りではなかったというだけ。

 物事には例外というものがある。

 気持ちも、同じだ。


「お前は、淋しいですか?」

「そう見える?」

「ちょっと、だけ」


 満たすだけの材料があるだけでは、容器は満たされない。

 材料を容器に入れようとする、意思がなければ。

 友達。彼氏。お母さん。そして、カーテン。

 タマの周りはこんなにも幸せの材料で溢れているのに、それを受け入れる積極性が、彼女に足りない。受動的なのだ。


 外は雨。

 部屋の中は生き物が二匹もいるのに、室温も、湿度も低かった。


 オレがここへ来てから、どれだけの時間が経ったのだろう。彼女はまだお化けのような格好をしていて、その隙間から意地悪そうな目でオレを見ていた。


「君、名前は?」


 短い質問だった。


「言えません。オレの名前は、捨てられた時に、飼い主に返しました」


 名乗る事は許されていない。仮に許されていたとしても、あんな飼い主に付けられた名前など、名乗りたくもなかった。


 オレはゆるやかに机から立ち上がり、ベットの端へ飛び乗る。

 ほんの小さく、……トン、という音がした。


「もう一度、オレを捨ててください。オレはお前を癒せません」

「キツいコト言うね」

「すみません。頭が、悪いもので」

「いや、頭は良いと思うよ。少なくとも、私よりかは」


 タマは自分が被っているタオルケットの中に、オレを招き入れた。

 ベッドの上にあぐらをかいて座っている彼女を中心に、山のように張り巡らされたタオルケット製のテント。彼女がその中にオレを招待した、という事は、これから密談が始まるのだ。きっと。


 その証拠にタマの息遣いは小さくて、話す声も同じくらいに小さくて、オレ以外の誰にも、その内容を漏らしたくないようだった。

 もちろん、あのカーテンにさえも。


「……君、ウチにFAしないかい?」

「確かに、今はフリーでやってます」

「契約条件は破格だよ? 猫缶を生涯分と、健康保険も付けちゃうからね」

「それは魅力的ですね。とても」


 少しよだれが出てしまう。

 いけないな、とオレは思った。油断すると足元を見られる。

 そういう世界だ。


「……だから、さ。この部屋で私を見ててくれない? やる事は、それだけでいいんだよ」


 彼女は真剣な顔をしていた。

 真面目な空気、らしい。

 ふわふわした布団の地面を踏みながら、けれどオレは首を振った。


「できません。お前を幸せにする事も、この部屋と変わり続けるお前を見続ける事も、オレにはできません」


 きっとそれは、どれだけ強い台風にもできないだろう。

 変わり続けていくものに、干渉しないで傍観する事。それはけして生き物にはできない相談だ。

 目覚まし時計でさえ、その孤独に耐えきれずに分解してしまったのに。オレが耐えられるわけがない。仮にオレがここに残ったとしても、あのカーテンのように、彼女に染まってしまうのがオチだろう。


 人間の意志は強い。支配される。物も生き物も、みんな連動する。感情の波に飲み込まれてずぶ濡れになる。空気感染してしまう。

 喜び。怒り。哀しみ。楽しみ。

 絞り出した心の雫は揮発して、匂いのように世界へ充満していく。その過程を目で捉える事ができないから、生き物は、自分以外の生き物の心に理解が追いつかない。そこには距離感が生まれる。距離感は疎外感。

 ……疎外されると、生き物は淋しくなる。

 

 オレは、触れられないタマを見続ける苦しみに耐えるくらいなら、野良猫の方がマシだった。

 

「心は難しいです。オレもよく悩みます。オレには、たくさんの悩みがあって……でも、それを解決できるのは、オレだけです」


 オレの言葉を、タマは真剣に聞いていた。

 全てのものは連動している。

 見えない繋がりを共有しているからだ。


 タマの言う〈淋しさ〉が、他のどこかから流れてきたものなら、早く次のランナーにバトンタッチすべきだと思った。

 オレは猫だから、人間の淋しさを理解する事はできないけれど。たとえば彼女と繋がっているあのカーテンなら、上手く受け止めてくれるかもしれない。そうやって見せかけの解消をしていく事もできる。……それが結果として、新たな負の連鎖になってしまうとしても。


 どこかで泣いているヤツがいても、どこかでは笑っているヤツがいる。

 誰もが幸福の順番待ちをしているのだ。一つきりのリンゴを、みんなで円になって少しずつ囓っていくみたいに。


 だから、オレがここでタマに何かをしてやる事はない。してはいけない。

 するとしてもそれは最低限。

 たとえば、声を掛けてあげるぐらい、だ。


 与えられる事は嬉しくて、奪われる事は悲しくて、生き物の頭と心はそういう風にできている。オレがこの家に居続けて、タマに与えてやれるものはなんだろう?

 簡単に、問題からの逃げ方を教えてやるだけが、オレと彼女の正解だとは思えなかった。

『今』に悩むタマは、情報過多だが味気に欠けるこの部屋で、思考に埋没する毎日に浸食されていく。 


 オレはタオルケットを頭に被ったタマを見上げた。


「大事なのは、整理する事だと思うます」


 増えすぎた情報には整理が必要なのだ。

 この部屋も、タマの頭の中も、そう。


 変わらない雨。色々な物を叩いてまわる、水と音。

 雨が降って、雨どいから垂れ落ちる水滴の量や音にも、規則性がある。それを理解していれば、そこからリズムを汲み取る事もできるだろう。


 トタンに落ちてぽつぽつぽつ。

 ガラスに当たってぴんぴんぴん。

 車を叩いてテンテンテン。

 

「落ち着いて、耳を澄ましてください。そうずれば、お前の音が聞こえます」

「音? 音ってなに?」

「それは、お前にしか分かりません」


 彼女にも、自分のリズムを捉えることができるはずなのだ。

 他者の依存によらない、タマだけのリズムを。

 もし知らなかったのなら、タオルケットのように掴んで欲しかった。

 もし思い出したのなら、目覚まし時計のように捨てないで欲しい。

 もしまた忘れてしまったら、その時は、きっとまた取り戻して欲しいと思う。

 オレもカーテンも、応援するから。

 

 タマはベッドから降りて、窓を開けた。雨が、風が吹き込んできたが、彼女は気にしなかった。

 出て行っていい、という意味だろう。オレもベッドから降りた。床に散らばった彼女の服やCDや本を踏んで、タマの足元へ。


 彼女は言ってくれた。


「お前は可愛いね。可愛くて、優しいね」

 

 そう言って、抱き上げたオレをベランダの手すりに乗せた。

 別れはうるさい。台風のせいで。

 自分のリズムを理解できない天気の八つ当たりが、狂ったように街に降り注いでいた。


「君は可愛いよ」


 頭を撫でられた。冷たくなったタマの手には、やっぱりオレの毛がついている。

 オレは泣いた。

 鳴いたんじゃ、なくて、泣いた。


「……お前も、かわいいですね」


 畜生、と思った。

 言いたい事は山のようにあるのに、それが言葉に出てこない。

 だから言える言葉だけ、できるだけたくさん口にした。


「かわいいです。すっごくすごくかわいいです。……お前はとてもかわいくて……、そう、オレは素敵だと思っています。すごく素敵でかわいいです……」


 回転の低い自分の脳みそに吐き気がした。

 どうして伝わらない? 伝えたい事が伝わらない? 表現できない。

 悔しくて、どうにかなりそうだった。


「……かわいいですお前。すっごく素敵でもあるんです。かわいくて素敵で素敵でかわいくて。『本当』と『すごく』をどれだけ使っても足りないくらいで…………。でも、本当はそれだけじゃなくて、もっともっと、たくさんあるんだけれど、オレは、猫だから――、



――――、今はこれだけしか言えません。ごめんなさい」



 ベランダから飛び出した瞬間も、タマの顔は見なかった。

 いいかい? リズムだよ? 大事なものは。

 

 呟きは、雨音にかき消えて、 

 

 灰色の街に、灰色のオレも消えた。



◆     ◆     ◆



 再会は、あれから二ヶ月くらい経った、晴れの日だった。

 日向で寝ていたところを、タマにブーツで踏まれた。ミキ、という音。リズムは、なし。

 死ぬかと思った。……半分くらいは、死んだかもしれない。

 

「あ、ゴメン。……はー。やっと見つけた」


 返事ができなかった。

 なぜなら、オレはまだ眠たかったからだ。そして死にそうだった。

……ついでに、タマの鞄に体を突っ込まれて、拉致されたからだ。

 警察は動いてくれなかった。オレが、猫だったから。

 

 タマは家を出て、引っ越しする事になったのだそうだ。

 一人暮らし。前の彼氏とは、別れたみたいだった。

 淡々と、バイクに乗りながら説明を聞いていた。聞きながら、オレはタマの〈変化〉に驚いていた。

 化粧をしていない顔は太陽の光を浴びてまぶしくて、赤い髪が黒く短くなっていた。リズムを取り戻したタマは、前よりもずっと可愛くて、綺麗だった。

 

 かくしてタマとオレの、一人と一匹の暮らしは始まったのだ。



…………それが、二年前の話。


 今はマンションの一室で、オレは彼女と暮らしている。


 けしからん事に、カーテンはその間もタマのそばを離れていなかった。姿形を変え、ヤツはタマの元へ何度も舞い戻ってきたのだ。

 子猫を何十匹も抱えたカーテンは、オレの存在を否定するように、今は窓際でゆれている。


 オレの身分も、それ相応になっていた。

 リズムを取り戻したタマはオレを猫として扱うようになった。つまりオレはこの二年、彼女の友達ではあるが、同時にペットでもあったのだ。


 契約違反もたびたび横行した。初めの頃はトイレの場所を間違えるたびにデコピンを喰らっていたし、猫缶の品質が粗雑になることもままあった。

 今のタマは綺麗好きなので、オレが毛換わりの時期にソファーの上でごろごろしようものなら、えらい騒ぎだ。

 ガムテープで全身をびりびりされかねない。

 その時こそ、オレの命運が尽きる時だ。


 綺麗になったタマには、アキオという彼氏ができた。

 掃除の行き届いたマンションの一室は、玄関から風呂場まで、全てがタマと繋がっている。彼女が捉えたリズムに合わせて、毎日過ぎていく楽しさが、いつかの雨粒のように跳ねていた。


 会社帰りのタマが作る夕食の匂いが、優しい。

 ベッドの上に畳まれたタオルケットは、もうテントの材料になる事はなく、オレがたまに爪を引っ掻けて怒られる程度だ。


 そしてカーテン。一通りの変化を終え、今のヤツは安定している。ヤツがポジティブな姿をしている限り、タマも安心だ。しかし、敵か味方かライバルか、ヤツとの勝負はアキオの出現によって一時的な冷戦状態にあるものの、いつまた噴火するか分からない。

 虎視眈々こしたんたんとタマとの関係を狙い続けているオレ達。それでも今は、悪くない付き合いをしている。

 たまに……いや、しょっちゅうケンカもするけれど。

  

 季節は春。色彩の四季。

 桜の淡いピンクが街中を覆う。

 その円陣に組み込まれた幸福の予感は、確かにタマにも届いているだろう。

 

 アキオに料理を作るタマが笑う。すると、料理を作られたアキオも笑うのだ。

 

 タマと繋がりを共有したものが、彼女の幸せに連動していく。


 もちろん、 




 オレも、カーテンもだ。



   

                           次は、誰の番だろう?                                                                          

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猫とカーテン 腹音鳴らし @Yumewokakeru

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