掌編小説・『桜桃忌』

夢美瑠瑠

掌編小説・『桜桃忌』




 「…恥の多い人生を送ってきました。…」

 という、「あの小説」の冒頭の一句がふと浮かんだ。

 「『人間失格』か…ああいう古色蒼然たる読み物が今でも読まれているのか…青春は…いや人生も?やはり誰にとっても悩ましいものらしいな」

 今時珍しいオーソドックスな純文学作家の古木寒巌こぼく・かんがん氏は、テレビのニュースで今日、6月19日が例の「桜桃忌」だと知ったのだった。

 彼の筆名については、言わずもがなかもしれないが?漱石の「猫」に由来がある。

 「主人は”古木寒巌”のような顔をしているが、そのくせ女性とかも決して嫌いではなくて…」というくだりが「猫」にあって、いかにも古めかしくて由緒正しい感じがするし、多少の面白味もあるので、一種の韜晦として?諧謔として?名乗っていたのである。

「「桜桃」は、言うまでもなく、「家庭の幸福は諸悪の元」というあれだな。あの人は家庭の幸福とかと全然無縁だったような印象があるが、ああいう自虐や道化はあの人のスタイルで、サービス精神から来る演技でもあって、実際にはそんなにずっと「火宅」とかそんなでもなかったんだろうな。実際に「恥」という短編があって、その中だと普段とは違う自画像を描いている。こっちの方が真実に近いんだろうよ」

 窓外にはしとしとと小雨が降っている。

 梅雨空は鉛色で、鬱陶しい天候だが、古木氏は雨自体がそんなに嫌いではなかった。

 夏に庭に水を撒くと何か生き返ったような心地がするように、夕立とかスコールとか、天然のシャワーともいうようにすべて「恵みの雨」といいたくなる。

 田舎育ちの彼は、自然は好きだが、人間一般が寧ろ嫌いというか、根強い違和感があり、結局そこはもうどうしようもない運命だと達観していた。分裂気質の産物?とか若い頃から様々に悩んではきたが、答えは結局梅雨空のようにグレーゾーンのままだった。

 そうしてもう人生も黄昏時の、内田百閒の絶筆のタイトルの、「日没閉門」が近かった。

 純文学作家にもいろいろあって、不倫の顛末ばかり書いているのもあるが?古木氏は尾崎一雄や徳富蘇峰のような”自然観照派”を自称していた。いずれライフワークとすべき”乾坤一擲”、”畢生”の名作をものしてやろうという密かな計画、目論見はあって、これは大長編になる予定だが、例えばルソーの「懺悔録」とか、埴谷雄高の「死霊」のような視座の雄大な、そうして「反人間」で「人生否定」をテーマにしようと考えていた。

 彼自身は反社会的な人格ではなく、従来のニヒリズムという思想にも違和感があった。

 だが、人間性や資本主義に根差す、本質的な蹉跌というものがもはや人類の滅亡を導きつつある宿痾であることが明瞭になって、この国や人類の未来も危殆に瀕している…そういう不都合な現実の危機に警鐘を鳴らす、警世の書、憂国の書、そういうものを残して死ぬのがこの時代の同時代人としての正しい在り方だと考えていて、松陰の「言志録」のような?「遺書」を残して死にたいと思っているのだ。



 「生まれてすみません」という有名な、かの人物の本質を如実に表現しているセリフを残して早逝した太宰治とは、つまり誰であったのか?…古木氏は「ピカレスク」という猪瀬直樹氏の評伝をめくりながら考えていた。

 もちろん作家という人種にもたくさん種類や作風が様々なのがいて、どの人もユニークさにかけては引けを取らない。個性的だから名を成したという人が多いのだろう。

 では太宰治の突出した特徴とは何か?

 「弱さ」ではないか?古木氏はふとそう思った。「弱い」ということはふつう忌み嫌われる特徴で、誰しもが強くなろうとする。負け犬はみじめで、淘汰され排除されて、ふつうは一顧だにされない。

 山田風太郎は「人間臨終図巻」で、「この気弱なエゴイストは、文学の衣装をまとうことによって毎年「桜桃忌」に墓前がたくさんのファンでにぎわうという”魔力”を発揮した」と書いた。

 例えば”キリスト”というのも共通のアイドルではあるが、大文字の神、God、絶対神というよりも、罪びとを赦せ、隣人を愛せ、犠牲こそ尊い、そういう風にむしろ「弱さこそがよきもの」と逆説を説く存在とは言えないだろうか?

 人間社会には「悪」がある。

 そうして弱いものを食い物にするそうした悪辣なる人間性に根差す有害物は癌細胞のように決して絶滅しない。

 戦争も、貧困も、犯罪も、虐待やいじめも、けっしてなくならない。それが人間社会だからだ。

 人間は人間に絶望している。


 だからこそ太宰を庇ってあげなければならないのだ。

 読み継がなくてはならないのだ。ヒロシマを忘れてはならないのと同じように…

 「社会」は善なるものではない。古木氏はそう結論付けている。太宰は社会へのアンチテーゼなのだ。

 「家庭の幸福は諸悪の元」、社会を肯定することになるから、家庭までもがないほうがいいものとなるのだ…まわりくどいが、要するにこれは太宰治による完全な社会の否定、人生の否定、人間の否定の言葉なのだ。


…陰々滅々と雨音は続く。が、雨降りは自然の摂理で、そこには再生の希望がある。

「人類に希望はありうるのだろうか?」古木氏は明日をも知れない自分の命運を棚に上げて、老婆心?老爺心?を発揮するのであった。



<了>




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